04
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「──……エレーヌ?」
エレーヌが運ばれたという王都の修道院へ駆けつけると、ヨアンは彼女の姿に息を呑んだ。
頭から首元にかけて白い包帯が巻かれ、顔は赤く腫れあがり、頬や唇は切れた部分から出血して固まった血が張り付いていた。
覚えのある桃色の瞳を見なければ、それが元妻だとは分からなかったほどだ。
「一体、何が……」
「申し訳ありません、旦那様。買い物へ出かけたのですが、私の不注意で階段から落ちてしまって……。ですから、護衛の方は何も悪くありません」
「その怪我が、階段から落ちたと? いや、それより君は一人ではなかったのか……?」
契約結婚している間は、エレーヌに何かあればと思って侯爵家の騎士を護衛につけていた。しかし、離婚をした後は彼女の自由を尊重するために、護衛や監視は命じなかった。
なのに、ボタンを掛け違えたような違和感を覚えて訊ねたが、エレーヌは急に頭を押さえてうずくまった。
「痛……っ!」
「どうした、エレーヌ!? おい、誰か! 彼女を診てくれる者はいないか!」
ヨアンは頭を抱えて苦しみだすエレーヌを支えながら、周囲に視線を走らせた。彼の鋭い声が飛ぶと、異変に気づいた修道士とシスターがすぐにやってきた。
修道院の救護室は広い部屋にベッドがいくつも置かれ、医学や薬学に精通した修道士が怪我人や病人の治療にあたっていた。修道士が「痛みを和らげる薬です」と言って、頭を押さえるエレーヌに薬を飲ませ、安静するように言い聞かせていた。
それを少し離れたところで見守っていると、一人のシスターが近づいてきた。
「ゼルゲ侯爵閣下でいらっしゃいますか? その……治安部隊の方がお会いしたいと、廊下でお待ちです」
「……治安部隊だと?」
彼らは街の治安を守っている兵士だ。王国騎士団から早期引退した騎士や、騎士を目指すもなれなかった者たちが入隊している。
ただ、王都の治安部隊は訓練も規律も厳しく、平民から王族まで安心して暮らせているのは彼らのおかげだと言っても過言ではない。そんな彼らも自分たちの仕事に誇りを持っており、戦時には敵国の刺客による襲撃から王都を守り抜いてくれた。
シスターに言われて廊下へ出ると、治安部隊の兵士だと分かる黒い隊服を纏った兵士が二人、ヨアンを待っていた。
「ゼルゲ侯爵閣下にご挨拶申し上げます」
「閣下にお会いできて光栄です」
二人はヨアンの容姿を見るや否や目を輝かせ、右手を左胸にあてて挨拶してきた。
彼らの隊服に黒色が取り入れられるようになったのは、先々代ゼルゲ侯爵の功績からだ。強さの象徴になった今、治安部隊の兵士が闊歩する場所で犯罪が起こることはほぼない。
それでも彼らが現れたということは、エレーヌの件だろう。
ヨアンとエレーヌの結婚に国中が沸いたのだから、当然離婚した時も広まるのは早かった。まだひと月と経っていないというのに、離婚に関する噂を嫌というほど耳にしてきた。
その大半は身分の違いによる価値観の違いから、不仲になって別れたというものだ。だが、エレーヌと一緒にいて窮屈さを感じたことはない。むしろ、結婚前と変わりない生活を送れていた。
他には、エレーヌに子供ができないことや、ヨアンには彼女以外に慕う相手がいただとか、どれもうんざりするほどいい加減な噂が流れていた。
自分が悪く言われるのは耐えられたが、エレーヌが侮辱されるのは許せなかった。もう会うこともないと分かっていても、彼女は自分が選んだ妻なのだから。
しかし、今回のことで流れている噂は瞬く間に上書きされるだろう。
治安部隊の兵士がヨアンに対して敬意を示すのと同時に、意外な表情を浮かべたのは、離婚した妻の元へ駆けつけるとは思っていなかったようだ。
エレーヌの怪我に驚愕し、苦しむ彼女の姿に取り乱せば、不仲で別れたわけではないことが分かる。否、別れたくて別れたわけではないと思わせるほど、周囲から見たヨアンの姿は愛する妻を心配する夫のそれだった。
「それで、夫人……ええっと、あの女性のことでお話があります。実は階段から落ちる前に、暴力を振るわれている姿が目撃されており、逃げ出した拍子に階段から落ちたのではないかと見て調査を行っているところです」
「……なんだと、一体誰が彼女を!?」
戦場にいれば嫌というほど多くの死体と、負傷した人間を見てきた。おかげで、怪我や病気に関する知識は自然と身についた。だから、エレーヌの怪我が階段から落ちてできた怪我でないことは、すぐに分かった。あれは誰かに暴力を振るわれてできた傷跡であることも。
だが、彼女は嘘をついた。それも不自然なほど、自然に。まるで、本当に階段から落ちて怪我をしたと、エレーヌ自身が信じているようだった。
怒りに震えるヨアンに、兵士たちから「落ち着いてください」と宥められたが、込みあがる感情が抑えられなかった。
「目撃情報から、彼女に暴力を振るっていたのは紫色の髪をした女性だったということです。また金銭が盗まれていたことから物取りの犯行も考えたのですが、それにしては暴行が一方的だったと……」
「それでご家族や交友関係から起きた怨恨も視野に、閣下のほうでも心当たりがないか伺った次第です」
治安部隊の兵士がこれほど細かく調査するのは、王都を守る者としてのプライドもあるだろう。ただ、生活と治安が安定した王都で、物取りの犯罪は非常に珍しい。貧困に喘ぐ民が少ないからだ。
被害に遭った女性が世間を騒がせている元ゼルゲ侯爵夫人であれば尚更、兵士たちが必死に事件を追っているのも頷ける。
しかし、ヨアンは首を横に振った。
「いいえ、私の妻は人から恨みを買うような人間ではありませんから」
「そう、ですか。分かりました。……夫人からも何か聞けましたら、我々にご連絡ください」
彼らは念を押すように「宜しくお願いします」と言って引き上げて行ったが、連絡することはないだろう。犯人の目星はすでについている。
「マルシャン男爵家の者たちは、没落だけでは満足しないようだな。命まで奪う真似はしたくなかったんだが」
仮にもエレーヌの家族であった彼らの命まで奪ってしまえば、彼女が悲しむと思って手を出さずにいた。だが、その優しさがエレーヌをこのような目に遭わせてしまったのだ。
ヨアンは拳を握りしめた。
青い瞳の奥には、報復を決意する意志が強く表れていた。
治安部隊を見送った後エレーヌの元へ戻ろうとしたが、シスターに呼ばれて修道士のいる個室に案内された。
そこでエレーヌを治療してくれたという修道士は、彼女の状態について教えてくれた。
「彼女の外傷は数週間もすれば治るでしょう。ただ、階段から落ちた時に頭を打ったのか、つい最近の記憶が曖昧になっていて、一部失っている可能性があります」
「記憶が……。それは治るのか?」
「それは何とも言えません。ちょっとしたきっかけで思い出すこともありますし、二度と思い出さないかもしれません」
最近の記憶を失っているのであれば、エレーヌが自分をゼルゲ侯爵夫人だと名乗った理由も頷ける。彼女の中では、まだヨアンの妻なのだ。
もしそれが演技だとしても、喜んで騙されただろう。エレーヌがまた戻ってきてくれるというなら。
嬉しさで僅かに震えた指先を握ると、修道士が続けて口を開いた。
「それから、兵士の方からお聞きになったかと思いますが、彼女の怪我の多くは第三者の暴行によるものです。ただひとつ気になったのは、加害者に抵抗した時にできる防御痕がありませんでした」
「それはつまり、一方的に暴力を振るわれたということか」
「……というよりは、甘んじて受けていたとも考えられます」
「馬鹿な。それなら逃げ出して階段から落ちたりしないはずだ」
ヨアンは咄嗟に否定したが、エレーヌと初めて出会った時の光景を思い出して舌打ちした。彼女は血の繋がりのない兄姉から酷い暴行を受けても、無抵抗のままひたすら謝っていた。
虐げられているにも関わらず悪いのは自分の方で、加害者である兄姉のほうが被害者であるかのように。
「言い難いですが、長らく虐待を受けていた人は自分の身を守るために「諦める」ことを覚えます。誰も助けてくれない状況が続けば、次第に抵抗することも止めて痛みにも鈍くなります」
「……そんな、ことが」
「最も危険なのは、酷い目に遭う自分を受け入れてしまう点です。一方的な暴力であってもその暴力を正当化してしまい、自分は殴られても当たり前の人間だと思ってしまうことです」
自分が暴力を受けるに値する人間だと思い込んでしまえば、諦めと無抵抗が生まれる。
第三者は間違いに気づけるが、当事者である彼女にはそれができなかったのだ。何年もかけて精神と肉体に刻まれてきた恐怖というのは、簡単に切り離せるものではない。
ヨアンは口元を押さえ、話してくれた修道士にお礼を伝える代わりに頭を下げた。
男爵家から出て自由になることが、エレーヌの望みだった。だから、離婚に応じて契約を終わらせることが、彼女の願いを叶える唯一の方法だと思っていた。
──誰より近くにいて、誰よりエレーヌの状況を知っていたくせに。
なぜもっと彼女に寄り添わなかったのか。もっと踏み込んだ話をしていれば、本当の意味で彼女を自由にできたかもしれないのに。
「くそ……っ」
個室を出たヨアンは、自分の不甲斐なさに苛立ちを抑えきれず、近くの柱を殴っていた。拳に鈍い痛みが走ったが、エレーヌが受けた痛みはこんなものではない。
自分の手で防げたかもしれない事実が、重く圧し掛かる。
ヨアンはしばらく天井を仰いだ後、エレーヌの元へ戻った。
薬草の独特的な香りが充満した救護室に戻ると、彼女は落ち着いた様子で眠っていた。安堵の息をつくと、ヨアンに気づいたシスターが近づいてきた。
「こちらエレーヌさんが運ばれてきたときに握りしめていた手紙なのですが、本人に渡そうにも覚えがないようで……。差し支えなければ、閣下にお渡ししてもよろしいでしょうか?」
「エレーヌが手紙を……。分かった、彼女が思い出したら私から渡すとしよう」
シスターが渡してきたのは血のついた手紙だった。
階段から落ちても手放さず、握りしめていたのだろう。四つに折りたたまれた手紙は、くしゃくしゃになっていた。気になって血が張り付いた手紙を開いていくと、そこに思いがけないメッセージが書かれていた。
「エレーヌには、将来を誓い合った男がいたのか……」
汚れた手紙には、無骨な文字で子供の頃に交わした約束を果たす内容が書かれていた。自由になったら一緒になろうと誓い合ったこと。ヨアンと離婚して、エレーヌが独り身になったこと。鍛冶職人として独立したこと。
そして、ルーベンという男は彼女と再会するために、落ち合う場所と日時を書いていた。
だが、彼らの約束が果たされることはなかった。
なぜならエレーヌは今、自分の目の前にいるからだ。ヨアンは手紙を握りしめ、ズボンのポケットに突っ込んだ。
「……旦那様?」
エレーヌが眠るベッドに近づくと、彼女が目を覚ました。怪我のせいで熱が出てしまったのか、火照った顔と虚ろな眼を向けてきた。
「エレーヌ、怪我が良くなったら屋敷に帰ろう。……君に伝えたいことがあるんだ」
「……分かりました」
ヨアンは手を伸ばしてエレーヌの頬に触れた。指が冷たくて気持ちよかったのか、彼女は目を細めて頬を摺り寄せてきた。
──自分は彼女の何を見ていたのだろう。
この瞬間でも自分のものにしたくなるほど激しい欲に駆られているのに、夫婦であった一年は一体どこに気持ちを向けていたのか。
──これほど愛しい人を、よく手放せたものだ。
夫婦の関係は終わっていたが、エレーヌが最近の記憶を失ってくれていたことが幸いした。
できることなら、このまま何も思い出さないでほしい。
そうすれば今度こそ本当の夫婦として、もう一度始めることができる──。
エレーヌへの気持ちを自覚すると、ヨアンは人が変わったようだった。
どれだけ忙しくても毎日修道院へ通い、エレーヌを見舞った。──だけでなく、自ら彼女の世話を申し出た。
ただ、超のつく過保護で介抱してくるヨアンに、周囲からの視線に耐え切れなくなったエレーヌが「旦那様、もうやめてください!」と言わせたほどだ。これまで必要以上に優しくされたことのない彼女には、慣れないものだったのだろう。
「私たちは夫婦なのだから、今度からは名前で呼ぶように」
「そうではなく……きゃっ! 旦那様、足は自分で拭きますから!」
濡れたタオルを持ってエレーヌの片足を持ち上げると、彼女は顔を真っ赤にして涙目で訴えてきた。ほっそりとした足首に心臓が高鳴るも、ヨアンは看病に徹した。
そして、エレーヌが回復するまで甲斐甲斐しく世話をするヨアンの話は噂になり、修道院には記者が押し寄せ、大勢の野次馬が集まってしまった。
エレーヌの治療を施してくれた修道院には、多額の寄付を渡したおかげで嫌みを言われることはなかったが、彼女も落ち着いて過ごすことができなくなった。
ヨアンは彼女が歩けるまで回復したのを確認し、屋敷へ連れ帰ることにした。怪我の治療は侯爵家の担当医でも十分だ。それに、いつまでも離れて暮らすのはヨアンのほうが我慢できなかったのである。
もし、エレーヌが記憶を取り戻して手紙の男の元へ行ってしまったら……と考えたら、深夜だろうが修道院に駆けつけたくなった。離れているからこそ、余計なことばかり浮かんで眠れなかった。
一方、ふらふらになりながら元妻のところへ通うヨアンの姿に、世間はゼルゲ侯爵家の当主が真実の愛に目覚めたと騒ぎ立てた。自分のことが書かれている新聞を読むたびに恥ずかしくなったが、それこそ事実なのだから仕方ない。
ようやくエレーヌを連れて侯爵家に戻ると、玄関ホール前には執事を筆頭に多くの使用人たちが彼女の帰りを心待ちにしていた。
「お帰りなさいませ、奥様!」
「皆さん……っ」
正確には離婚が成立してしまい、彼女とは正式な夫婦ではなかったが、それも時間の問題だ。
修道院に通う傍ら、離婚の撤回を求めて国王に直訴していた。もちろん王太子への根回しも済んでいる。
また世間に出回っている噂のおかげで、ヨアンがいかにエレーヌを愛しているか大勢の民が知っていた。おかげで、離婚の取り消しが認められ、あとはエレーヌから同意を得られればすべてが元通りだ。
「この部屋は、君が出て行ったままだ」
「……ありがとうございます」
まだ怪我が治りきっていないエレーヌを、群がる使用人たちから取り上げて部屋に連れていった。
使用人が使う部屋は、必要最低限の家具しか置かれていなかった。それでも侯爵夫人だったエレーヌが過ごしやすいようにカーペットを敷いて、壊れていた窓も直した。エレーヌが出ていった後は、彼女のいた痕跡ごと片付けられていたが、最も使われていた使用人部屋だけは残されていた。
元より、綺麗に整っていた部屋は片付ける必要がなかったのである。
「記憶を失っていると聞かされたときは不安でしたが、ここは記憶のままです」
「エレーヌ……」
修道院から邸宅へ戻る馬車の中で、ヨアンはエレーヌにこれまでのことを話した。
彼女の記憶が曖昧になっていたのは、離婚する二ヶ月前から階段を落ちる瞬間までだった。怪我を負わせた相手の顔は覚えておらず、また直前までいた場所も覚えていなかった。……手紙のことも。
実はすでに契約が終了して離婚が成立していると聞かされて、エレーヌは複雑な表情を浮かべた。それでも笑顔で取り繕うとする彼女に、ヨアンは正反対に喜びに似た感情がこみ上げてきた。
──期待、してもいいんだろうか。
ただ、どちらへ転がろうが、自分の気持ちははっきりしている。隠しきれない想いが溢れて、どうしようもなくなるのだ。
今なら妻に夢中になった仲間の気持ちが、心の奥底から理解できる。
目の前にいる女性のいない人生が考えられないほどに。
「──エレーヌ」
ヨアンが部屋の中央に佇むエレーヌに声をかけると、彼女はかすかに肩を震わせた。何に怯えていたのか分からないが、彼女の不安をすべて取り除いてやりたい。
そして、二度と離れていかないように繋ぎ留めておきたい。
エレーヌが振り返ったと同時に、ヨアンは彼女前で片膝をついた。
「だ、旦那様!? 何をなさって……!」
「君に話があると言ったはずだ。……これからの私たちについてだが」
「……はい」
ヨアンは今にも泣きだしそうなエレーヌの手をとり、真剣な眼差しで見つめた。心臓の鼓動が速くなって、頭の中が真っ白になりそうだ。
ここまで何かに緊張したのは、生まれて初めてだった。
「私は王女との結婚を避けるため、君は男爵家から出て自由になるため。それが達成したことで契約は終了し、私たちは離婚した」
「…………」
「夫婦でなくなった今、記憶を失った君には都合良く聞こえるかもしれないが……エレーヌ、君を愛している。君が去ってから自分の気持ちに気づくなんてダメな男だが、君が好きなんだ。だから、もう一度私と結婚してほしい」
一字一句丁寧に言葉を紡いで告白したヨアンは、小刻みに震えだすエレーヌの手を握りしめた。嫌がられて突き放されるかもしれない。それでも、彼女が口を開くまで静かに待った。
刹那、ぽたぽたと冷たい雫が降ってきた。出所を辿れば、エレーヌが顔をくしゃくしゃにして泣き出していた。
今までもそうしてきたように、必死に声を押し殺して泣いていた。
──何を我慢する必要があるのだろう。
ヨアンは堪らず、立ち上がってエレーヌの体を抱き寄せていた。
「私の告白は、そんなに嫌だったのか……」
「……っ、いいえ……そうでは、なくて……っ」
エレーヌの背中に手を回すと、なんて細くて小さな女性なのだろうと思った。力を込めるのを躊躇ってしまうほど、華奢な彼女を腕に閉じこめてヨアンは「理由が知りたい」と伝えた。
と、エレーヌがヨアンの胸元を掴んできた。
「……私は、孤児です。旦那様とは違って、高貴な血筋の生まれではないです」
「私たちの結婚は国王に認められ、王太子が後ろ盾となってくれた。言っておくが、お二人は契約のことを知らなかった。離婚したときは、王太子にひどく嫌みを言われたぞ。君を手放すべきではなかったと」
「ですが、……旦那様は引き留めなかったではありませんか」
エレーヌにその記憶はなくても、離婚が成立しているということはヨアンも一度は同意したということだ。
痛いところを突かれ、ヨアンは言葉を探したがどれも言い訳ばかり浮かんできて口を噤んだ。
「君の自由を邪魔したくなかった」と言えば、エレーヌのせいにしてしまっている気がするし、「契約で結ばれたくなかった」と言うのも嘘っぽく聞こえる。
「私には、引き留めるだけの魅力がないからだと……」
「そんなわけないっ! エレーヌ、君は自分自身のことをそう思っていたのか」
そして、エレーヌにそう思わせて、彼女の自信を奪ったのは夫である自分だった。
ヨアンは体を離して、エレーヌの両手を取った。
「引き留めて良かったのか? 君は自由になることを望んでいたから、離婚することが最善だと考えてしまった。でも、そうではないなら……」
「最初はそうでした。……ですが、ここで過ごしているうちに、旦那様や侯爵家の皆さんが良くしてくださり、私を必要としてくださり、自由を手放してでも残りたいと思うようになったのです」
「……それじゃ君は、嬉しくて泣いているのか?」
桃色の綺麗な瞳から落ちてくる涙を指先で拭ってやると、今度はエレーヌの顔が薄く色づいた。
──ああ、どうして離婚する前に告白できなかったのか。
願いが叶ったからと真面目に契約を守った自分が腹立たしい。離婚などせず夫婦を続けていたら、エレーヌが怪我をすることはなかった。あのような手紙を受け取ることもなかった。
今と同じように伝えていたらエレーヌを悲しませ、失望を抱かせることはなかったはずだ。
「伝えるのが遅くなって、すまなかった。私は君がここに残って、私の妻でいてくれたら嬉しい」
「……はい、旦那様……はいっ……!」
また涙を流して何度も頷くエレーヌに、ヨアンは彼女を強く抱きしめた。
なぜ、もっと早くこうしていなかったのか。
ゴールは見えていたのに、しなくてもよい遠回りをしてしまった。
ヨアンはエレーヌに繰り返し謝罪と、愛の言葉を伝えた。エレーヌがもう十分だと言うまで。
──しかし、すでに分岐点の選択肢を誤った時点で、歩むべき道から外れてしまっていたのだ。ヨアンは、人生が一度きりしかないことを思い知らされることになる。
彼女は記憶を失っただけで、お互い過去へ戻ってきたわけではない。
忘れ去られた日々も、間違いなく時間は流れていた。
今この瞬間も、平等に。