03
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いくつもの戦場を駆け抜けてきたヨアンにとって、エレーヌといる日常は心から安らげた。
緩やかに流れていく時間は命の危険を感じることなく、平和そのものだった。
朝になると自然と目が覚め、支度が終わるとエレーヌが迎えにやってきた。扉を開けば、以前より朗らかに笑うようになった彼女に「おはようございます」と挨拶をされ、食事をする前から満ち足りた気分になる。
手を差し出すと気恥ずかしそうにするエレーヌと食堂へ向かい、朝食を共にする。
最初は長いテーブルの端と端に座っていたが、彼女の声が聞こえず、斜め横の席に移動してもらった。おかげで視野が狭まり、食事をする彼女しか見えなくなった。
そこで交わされる会話は他愛ないものだったが、国王と話すより有意義だった。
日中は執務室にこもって当主の仕事をしていることもあれば、騎士団の訓練に参加して剣術を磨くこともある。他には、国王に呼ばれて愚痴を聞かされるか、王太子からの嫌味を聞かされるか、貴族同士の交流に足を運ぶこともあった。そのどれもが退屈だった。
夜になれば再びエレーヌと夕食をとり、長いようで短い時間を一緒に過ごす。
彼女を部屋へ送り届けると、決まって「おやすみなさい、旦那様」と言ってくれる。それだけで、戦場で苦しめられてきた悪夢で魘されることはなくなり、良く眠れるようになった。
──いけないと分かっていても、変わらず続いてほしいと願ってしまう日々。
しかし、穏やかな日常は終わりを迎えようとしていた。
隣国との同盟が正式に結ばれ、王太子の末娘である王女が隣国の王子の元へ嫁ぐことが決まった。相手は王女より十歳も年上だったが、政略結婚ではよくあることだ。
これでヨアンが王女と結婚する心配はなくなり、契約結婚を解除する条件をすべて満たしたことで、いつでも関係を終えることができるようになった。
「……屋敷を出たら、どうするんだ? 行く当てはあるのか?」
隣国との同盟が結ばれ、戦争の心配がなくなったと国中が浮かれているとき、ヨアンは夕食の後エレーヌを夜の散歩に誘った。肌寒さは感じなかったが、それでも着ていた上着を彼女の肩にかけた。
「そう、ですね。まずはお世話になった孤児院に行く予定です。それからは、まだ考えていません」
本当に考えていないのか。それとも教えたくないだけか。
変わらない表情からは何も読み取れなかった。もっと前から訊ねておけば、エレーヌも警戒を抱くことはなかったかもしれない。
──だが、もう遅い。
彼女の準備が整えばヨアンと離婚して、侯爵家から出ていく。満天の星々に目を輝かせる横顔に、掛ける言葉は見つからなかった。
その代わり、ヨアンは握手を求めた。「ありがとう、君のおかげで助かった」と、友人や仲間にするような感謝を伝えると、エレーヌは手を握り返して嬉しそうに笑った。
惜しくなるほど、愛らしい笑顔だった。
離婚が決まってエレーヌが屋敷から去ると、使用人たちの落胆は火を見るより明らかだった。彼らにとって一番の相談相手であり、最強の味方を失ったようなものだ。中には、ショックのあまり数日寝込んでいる者もいた。
ただ落ち込んでいたのは、侯爵家の者だけではなかった。
離婚の知らせを受けてヨアンを呼び出した王太子もまた、いつもより静かだった。
「確かに王女が嫁ぐまでとは言ったけど、君たちはうまくいっていたんじゃないのか? 少なくとも君は……。私は、初めてヨアンが羨ましいと思ったんだ。家柄や身分に関係なく、心から慕う相手と一緒になれることは、私の立場では無理だからね」
なぜ今になって、そんなことを言うのか。
それならば絶対に離縁するなと命じてくれればよかったではないか。これまで散々牽制してきたくせに、どうして肝心なところは手を出さず傍観していたのか。
冗談にしては真剣な眼差しが、余計に胸を締め付けた。
……本当は、知っていた。
早くに両親を亡くしたヨアンにとって国王が父親代わりなら、王太子は年の離れた兄のような存在だった。下手な権力を持って貴族同士の争いに巻き込まれないために、憎まれながらも守っていてくれた。戦地に追いやられたのも、功績を得られるようにするためだ。若い当主でも馬鹿にされないために。
それなのに反発して、背中を向けてきた。利だけを求める人だと勝手に決めつけて。
一度でも相談していれば、素直に腹を割って話し合っていれば、別な結末が迎えられたかもしれない。
王太子はこの一年、隣国へ嫁ぐ王女と時間を共にしていた。自ら隣国の成り立ちから教え、いざというときのための護身術も教えていると聞いた。そして、可能な限り家族と一緒に過ごしていた。
国の平和のために自分の娘を犠牲にしなければいけないのだ。いずれ王となる者として、彼は非情にならなければならなかった。
幼い王女には酷だが、家族と過ごした時間はいつまでもかけがえのない記憶として残るだろう。それから、王太子が娘を大切にしていると噂が広まれば、隣国も扱いを気を付けるはずだ。
それでも何かあれば戻ってくるように伝えているかもしれない。命を粗末にすることなく、生き延びることを優先するように、と。
少しやつれたように見える王太子に頭を下げ、ヨアンは屋敷に戻った。
そこに出迎えてくれる妻の姿は、もうない。
「エレーヌと離婚した今、義理は果たした。今すぐマルシャン男爵家への供給を絶つように」
「畏まりました」
エレーヌが侯爵家から離れた時点で、侯爵家と男爵家の繋がりはなくなった。
報告では、男爵家の者たちは侯爵家からの贈り物を大層喜び、周囲に対して随分羽振りが良くなったという。孤児院から引き取った娘が侯爵夫人となり、自分たちの地位も上がったと思い込んだのか。
彼らがエレーヌに対して少しの罪悪感でもあれば、侯爵家からの贈り物とはいえ、手をつけることを躊躇っただろう。
しかし、彼らは当然とばかりに贈り物を使い込み、エレーヌの両親は貴族同士の繋がりを増やそうと毎日のようにパーティーへ出かけ、彼女の兄はギャンブルにつぎ込み、姉はドレスや装飾品を買って浪費していた。
虐げる者がいなくなった彼らにとって、それが慰めとでもいうように。
胸糞悪い話だが、おかげで贈り物だけでは賄いきれない出費を抱えてくれたおかげで、供給を絶ってしまえば男爵家の転落は時間の問題だ。
できることなら、男爵家の末路をエレーヌに見せてやりたかった。それだけが心残りだと言い聞かせることで、自分の気持ちは分厚い扉で閉じ込めた。
だが、ひと月も経たずして、エレーヌが事故に遇ったという知らせが飛び込んできた。
思いがけない再会──二度と会うことはないと思っていただけに、ヨアンは無我夢中で彼女の元へ走っていた。
──その時が幸せであればあるほど、突き落とされた時の苦しみは絶望に等しい。
エレーヌにとって、ゼルゲ侯爵家で過ごした日々は苦痛でしかなかった。
……幸せすぎて。
それは養女として迎えてくれた男爵夫妻から、用済み扱いされた時より。血の繋がりはなくとも仲の良かった兄姉から、急に冷たくされた時より。ある日を境に男爵家の使用人から、存在しない子として無視された時より。これまで受けてきた暴言や暴力の数々より。
侯爵家は居心地が良すぎて怖くて、怖くて堪らなかった。
皆が挨拶をしてくれた。何かあれば心配して、気遣ってくれた。女主人として、頼りにされたこともある。
初めて自分の存在を認められた気がして、嬉しく思う反面恐ろしくなった。いずれは出て行かなければいけなかったから。
皆から優しくされればされるほど、侯爵家から離れられなくなりそうで気持ちが揺れた。
このままヨアンの妻として、侯爵家に残ることができたら……。
契約で結ばれた関係でしかないのに、図々しくもそんなことを考えるようになってしまった。けれど、一定の距離を保って接する彼に、幾度となく現実に引き戻された。
エスコートするために差し出された手はいつも優しかったが、それだけだった。それ以上の触れ合いはなく、他愛ない会話はするも、踏み込んだ話はしなかった。
引き留めたくなるほどの女ではない──そう言われた気がして、エレーヌもまた契約以上の関係を望まないように努めた。
それでも今の暮らしに未練が生まれそうになった時は、記憶の片隅にしまい込んだ言葉を思い出した。
『エラ、もし大人になって自由になったら、オレと一緒にならないか。いつまでも待ってるから』
孤児院で一緒だった少年。男爵家で「エレーヌ」の名前をもらうまで「エラ」だった彼女にとって、彼は唯一の友人だった。
ルーベンと名乗った少年は、エレーヌが一人で花の世話をしていると、いつも手伝ってくれた。どちらも戦争によって家族や友人を亡くし、暮らしていた村も焼かれて帰る故郷すら失った二人は共通点が多く、自然と仲良くなっていた。
お互いに心の拠り所が欲しかったのかもしれない。
ルーベンは同年代の男の子より一回り大きく、褐色の肌に茶色の瞳と灰色の髪をした、良くも悪くも目立つ存在だった。
そのせいで、丸々と太った五十過ぎの院長は、機嫌が悪くなるとルーベンに当たり散らした。彼は何をされても弱音を吐かなかったから。
けれど、殴られて痛みを感じない人間はない。理不尽な暴力に悲しみや怒りを感じない人間はいない。彼が隠れて泣いているのを何度も見てきた。そのたびにエレーヌはルーベンに寄り添い、彼の涙が止まるまで一緒に過ごした。
お互いが、お互いに依存していた。
必要としていた。
恋などより、もっと深い繋がりを求めていた。
ルーベンが体格の良さを見込まれ、鍛冶職人に引き取られることが決まった時、二人は孤児院の片隅で将来を誓い合った。
口約束でしかない子供同士の、小さな誓い。
明日のことすら分からないのに、ルーベンと交わした誓いはエレーヌにとってどんな言葉より力になった。
エレーヌもすぐに男爵家へ引き取られることが決まり、それぞれ孤児院を出ることになったが、離れていても繋がっているような錯覚を覚えた。
大人になるにつれ子供の頃の記憶は薄れていき、男爵家で受けた仕打ちが思い出をかき消してしまったが、「自由」にさえなれば幸せになれるという思いだけは強く残り続けた。
何もかも失ってしまったエレーヌには、ルーベンと交わした誓いだけしかなかったのだ。他に、すがりつくものがなかった。
「屋敷を出たら、どうするんだ?」
夫婦最後の日、ヨアンと夜の散歩をしながら訊ねられてエレーヌは震えた。
その時、淡い期待を抱いてしまったのだ。緊張してうまく言葉が出ない中、お世話になった孤児院へ行くことだけは辛うじて伝えることができた。
しかし、彼はそれ以上何も言ってはくれなかった。
代わりに差し出されたのは、感謝を示す握手だった。
エレーヌは込みあがる感情を抑え、必死で笑顔を作った。あれほど求めていた自由を手放しても、侯爵家に残ってヨアンの傍にいたいと告白することができたなら。
でも、所詮自分は孤児院から引き取られた男爵家の養女で、本来なら肩を並べることすら叶わない人だ。手を伸ばしても届かない高貴な人で、契約でもなければ結婚などできなかった。
ヨアンは最後の最後まで紳士的で、一人の女性として接してくれた。それだけで十分だ。
「ありがとうございました、旦那様」
侯爵家から出れば二度と会うことはできないだろう。
幸い、侯爵家から多すぎる契約金と慰謝料を貰うことができた。本当に欲しかったものは手にはいらなかったが、新しい人生を歩むには申し分ない。
エレーヌはヨアンに挨拶した後、ひっそりと侯爵家を後にした。
夢のようなひと時は終わり、現実という荒波に呑み込まれそうで恐ろしかったが、エレーヌは足を止めず歩き続けた。
まさか、背を向けた侯爵家に再び戻ってくることになろうとは、この時はまだ知る由もなかった……。