02
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ヨアンにとって、エレーヌとの結婚は実に奇妙だった。
元孤児の女性を妻にしたことで、プライドの高い貴族から嘲笑われ、見下される覚悟はできていた。
しかし、それらは自分が受けるものであり、妻となってくれたエレーヌには及ばないように守らなければいけないと考えた。
そこでヨアンは使用人の再教育や、彼女に合いそうな使用人を雇用するなど対策を取った。
──だが、それでも問題は起きた。
ひとつ、部屋は侯爵夫人の部屋を与えたが、広すぎて落ち着かないと、メイドが使う部屋に逃げ込んでしまった。仕方なく使用人の一室を改装し、第二の部屋とすることにした。
ふたつ、初夜は夫婦の部屋で眠ることにしたが、床で寝ようとするエレーヌを全力で止めた。いくら慣れていると言われても、妻を床で眠らせる夫がどこにいるというのか。結局、エレーヌはソファーで眠ることになり、ベッドはヨアンが使った。
みっつ、翌日の朝食で使用人が青ざめた顔で、ヨアンが来るのを待っていた。様子がおかしいことに気づいて異変の元を辿っていくと、使用人たちが並ぶ列の端っこに、エレーヌが直立していた。
「おはようございます、旦那様」
「……使用人たちに交じって、何をしているんだ」
額を押さえながら訊ねると、彼女は自分のどこが間違っているのか、他の使用人たちを見渡す。見られた使用人は額に大量の冷や汗をにじませ、かわいそうに今にも卒倒しそうだ。
なのに、エレーヌは何を勘違いしたのか、その場で膝をついて「申し訳ありません……っ」と謝罪する始末だ。
仮にも侯爵家の女主人が平伏する姿に、誰もがひゅっと息を吸い込んだ。ヨアンですら驚いて言葉が宙を舞ったほどだ。
「あー……ごほん、エレーヌ……これからは使用人たちと一緒に待つ必要はない」
「ですが、旦那様より先に席に着いているわけにはいきませんから」
エレーヌの事情を知らない者たちは疑問に思っただろうが、ヨアンだけは今すぐ彼女の実家に乗り込んで暴れたい気分になった。
これまでどんな仕打ちを受けてきたのか、嫌でも思い知らされる。訓練された騎士などではなく、暴力でしつけられてきた奴隷と同じだった。
ヨアンは怒りを堪え、エレーヌを床から立たせた。
「それなら食事をとる時は、君が私を迎えにきてくれないか?」
「迎え、ですか?」
「ああ。私は忙しいと食事を抜く癖があって、そのたびに執事の小言がうるさくて敵わない。君が迎えにきてくれたら、私も一緒に食事をとろう」
食堂で使用人たちと待たれるよりずっと良いはずだ。案の定、生きた心地がしなかった使用人たちは、全力で頷いていた。
一方、エレーヌは悩んでいる様子だったが、偶然にも目が合った執事が「旦那様には困ったものです」とばかりに肩をすくめたことで、彼女は頷いた。
「分かりました。今度は迎えに行くようにいたします」
エレーヌが承諾すると、至るところで安堵の息が洩れる。だが、この調子では次の問題が起こるのもすぐだろう。
食事が終わった後、執務室に向かったヨアンは執事に命じた。
「──マルシャン男爵家を調べろ。どんな些細な情報でもいい。情報屋やギルドで人を雇ってでも徹底的に調査して、私の元に報告書を持ってこい」
食事の席では、運ばれてくる料理を前に「誰かの食べ残しではない食事は久しぶりです」と、嬉しそうにするエレーヌに、いつも完璧な執事が動揺を見せた。
一体どんな暮らしを強いられたら、そのような言葉が出てくるのか。
ヨアンは口元を手で覆い、奥歯を噛みしめた。
執事は異議を唱えることなく「畏まりました」と頭を下げて、執務室を出て行った。
それからわずか数分後、長年侯爵家を支えてきたメイド長がノックもせず飛び込んできた。そんなことは初めてだった。
「だ、だ、旦那様……っ! どうか奥様を、お止めになってください!」
パニックになったメイド長の話を聞き取るのは苦労したが、どうやらメイドの仕事である洗濯や掃除をやり始めたエレーヌを止めてほしいという要請だった。
予想外だらけの結婚生活に一抹の不安を抱くも、ヨアンはエレーヌの元に向かって駆け出していた。
「結婚なんて面倒臭いだけだ」と言っていた友人が、可愛らしい村娘を娶ると「結婚って良いものだな」と惚気るまで、時間はそうかからなかった。
戦場では大剣を振り回す大男で、鬼神の如き強さで敵の騎士をなぎ倒していく光景は、敵味方関係なく戦慄したものだ。
その男が鼻の下を伸ばして新妻の自慢をする姿に、同じようにはなるまいと思ったことがある。
幸いなことに貴族は結婚相手より血統や家門の繋がりを優先するため、余程のことがない限り妻に傾倒することはない。──はずだった。
「おはようございます、旦那様」
「……ああ、おはよう」
結婚してから三ヶ月が過ぎたころ、妻のエレーヌが毎朝決まった時間に迎えに来てくれた。
最初は一週間に二、三度だった。遠慮しているのかと思えば、ヨアンが仕事や貴族同士の集まりで帰りが遅くなった翌朝は、起こさないように配慮してくれていた。
だが、ヨアンを迎えに来なかった日は、エレーヌもまた朝食をとっていないことが分かった。
「旦那様がお食べにならないのに、私が食べるわけにはいきません」
いくら忠実な部下でも、エレーヌほどではないはずだ。
ただ、彼女の場合は体に沁みついた教育というより、失敗したことによって受ける罰を恐れているように思えた。人の話し声や物音に敏感で、人間に怯える小動物を見ている気分だった。
それ以来ヨアンは仕事を早めに切り上げて帰宅し、朝食は毎日とるようになり、自分でも驚くほど健康的な日々を過ごしていた。
「旦那様、今日も花壇に綺麗な花が咲いていたので摘んできました。花瓶の花を替えますね」
「ああ、わかった……」
執務室にこもって仕事を片付けていると、エレーヌが侯爵家の中庭にある花壇から花を摘んできて届けにやって来た。執事からの報告によれば、それはヨアンがいない日も毎日だという。
おかげで殺風景だった執務室には、花の絵柄が入った白い陶器に金の宝飾がされた花瓶が置かれ、新しい花が飾られるようになった。
明らかにメイドの仕事だが、ヨアンはあえて何も言わなかった。……言えなかった。
結婚したばかりのころ、男爵家で使用人の扱いを受けてきたエレーヌは、侯爵家に嫁いできてからも同じ行動をした。
誰かに命じられたわけではない。過去の記憶や体に染みついた習慣というのは、そう簡単に消せるものではない。
この花を摘んで花瓶に生ける行動も、話を聞けば男爵家に引き取られてきた当初、男爵夫妻に好かれるために始めたことだったという。
最初は喜ばれ、褒めてもらっていたが、彼らの態度が変わっていくと花瓶の花は彼女の仕事になったようだ。
ヨアンは「ここでは無理にやる必要はない」と伝えたが、エレーヌは首を振った。
彼女の望みは男爵家から自由になることだ。それは、ヨアンと結婚したことでほぼ叶ったようなものだ。
──では、その後は。
契約結婚の期限は一年。孤児だったエレーヌには、帰る場所がなかった。
もし、身分を捨てて平民として生きていくというなら、家事はできるようにしておいたほうがいいのだろう。別の男と結婚することになれば尚更だ。
そう思って、結局使用人たちと一緒に働いていても止めることができなかった。
もちろん、彼女には一生働かなくても生活していけるだけの慰謝料は支払うつもりだ。けれど、何が起こるか分からないのがこの世だ。
離婚後どうするのか尋ねれば心配事も減るのだろうが、自由を求めている彼女に訊くのは契約違反な気がして、喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
「できました、旦那様」
侯爵家に来てから三食しっかり食べるようになったおかげで顔色も良くなり、健康的になったエレーヌが、少しだけ口元を緩めて知らせてくれた。
「……綺麗だな」
自分は妻に夢中になるような男にはならないと思っていたのに。どういうわけか生けられたばかりの花より、彼女のほうが輝いて見えた。
思わず目を細めてしまうほどに。
「……収穫はなし、か」
届いたばかりの報告書に目を通しながら、ヨアンはため息をついた。
横で見守っていた執事が「追加で調査しましょうか?」と尋ねてきたが、片手を持ち上げて制した。
「これだけ調べて何もないとは、意外だったな」
界隈でも有名な諜報専門のギルドまで雇って調査を依頼したが、マルシャン男爵家の悪事はひとつも出てこなかった。エレーヌに対する仕打ちから、ろくな行いはしていないだろうと勝手に思い込んでしまっていたようだ。
だとすれば、男爵家で被害に遭っていたのは彼女だけということになる。彼女だけが、彼らの捌け口になっていたのだ。
報告によれば男爵夫妻には長男と長女の他に、次女になる娘がいたようだ。
しかし、産まれて間もなく亡くなってしまい、男爵夫人はショックのあまり心の病にかかってしまった。そんな夫人のために、男爵は孤児院から自分たちと同じ髪色を持つ女の子を引き取ってきた。「エラ」という名の少女を。
夫人は喜び、娘に与えるはずだった「エレーヌ」という名を少女に与えた。
だが、幸せな時間は長く続かず、最初こそ望んで家族に迎え入れたのに、成長するにつれ求めていた娘とは違う姿になっていくエレーヌに我慢できなくなったのだろう。
些細なことから小さな亀裂を生み、今では戻れないほど大きな溝を作って、彼女に対する虐待から抜け出せなくなっていたのだ。
そして、周囲もそれに感化され、たった一人の少女を屋敷に囲って虐げてきた。
気分の悪くなる話だ。
「男爵家はこのまま放っておきますか?」
「──いや。何もないのなら、自らそういう状況に手を出す手段を与えればいいだけのこと。エレーヌがいなくなって、さぞ寂しい思いをしているだろうからな」
見たくもない相手を見ないで済むと、エレーヌがいなくなった直後は清々しているはずだ。だが、これまで十年近く虐げてきた相手がいなくなれば、不思議と空虚感に襲われるものだ。
エレーヌを散々痛めつけておきながら、寂しく思うなど馬鹿げた話だが。
「侯爵家の名で、彼らに贈り物をたんまり送ってやれ。エレーヌを育ててくれた感謝の印だとでも言ってな。彼女が侯爵夫人でいる限り、そのような贅沢ができると思わせるんだ」
これまで見たこともない富を手に入れたとき、多くの者は後先考えず贅沢に酔いしれて傲慢になり、身の程を知らず勝手に破滅していく。
彼らもまたエレーヌという供給源を手にしたと勘違いしてくれれば、一瞬の夢を味わった後は奈落の底へ落ちていってくれるだろう。
ヨアンがすべてを語らずとも察してくれた執事は「承知しました」と頭を下げて、早速贈り物の準備のため部屋から出て行った。
ふと手元に視線を戻せば、エレーヌが摘んできた色鮮やかな花が花瓶に生けられていた。
執務室での仕事を終えて、敷地内にある騎士団の演練場へ向かう途中──「ねぇ、私たちの奥様って……」と聞こえてきて、思わず足を止めてしまった。本来なら主人の陰口など言語道断だ。それ以前に、そんな使用人を採用した覚えはない。
しかし、人間に感情と口がついている限り、完全に防ぐのは難しいのだろう。ヨアンは帯剣に手をかけた。
「嫁いでくる前は身分こそ低かったけど、苦労なさった分、私たちのこと分かってくださるわよね」
「ええ、奥様自ら掃除や洗濯をし始めた時は驚いたけど、手が荒れてしまったときは薬を支給してくださったし、メイド服も動きやすいものに替えてくださって、それから使用人部屋の寒さも改善してくださって!」
てっきり侯爵夫人に対する不満を聞かされるのかと思えば、メイドの二人は洗濯物を干しながら感謝の言葉を口にしていた。
エレーヌが女主人として振る舞う姿を直接見たことはなかったが、彼女は彼女なりに使用人たちと良好な関係を築いているようだ。それも、彼女しかできない方法で。
「別の屋敷で仕えていた時の奥様は、粗相をすると鞭でぶつような方だったけど、今の奥様は優しくて伸び伸び仕事ができているわ」
「時々お菓子も分けてくださって、皆に隠れて食べているときは子供に戻った気分よ」
メイドたちの奥様自慢は留まることを知らず、永遠に続きそうな予感がしてヨアンはその場を離れた。
エレーヌの評判が良かったことは正直嬉しい。──反面、いずれ契約が終わって彼女と離婚した時、先ほどのメイドたちをがっかりさせてしまう気がして、居た堪れなくなった。
その事実を知っているのは自分と限られた人物だけで、屋敷にいる者の大半は知らない。
「……彼女がいなくなったら、私の甲斐性がなかったせいだと非難を受けることになりそうだな」
実際、ヨアンとエレーヌの触れ合いが最小限のため使用人はやきもきしているはずだ。
夫婦の仲がうまくいけば、それだけエレーヌの地位は強固なものとなり、跡継ぎとなる子でも産まれれば侯爵夫人の立場は確かなものになる。
だが、それらは望むだけ無駄だ。
エレーヌが「自由」を求める限り、ヨアンにできることは彼女の障害を取り除くこと、彼女の願いを叶えること、彼女に未練を抱かないこと。
必要以上に近寄らず、余計な接触もせず、夫婦最後の日は彼女が安心して出ていけるようにするだけだ──。