01
【登場人物】
●エレーヌ・マルシャン(エラ)(24)
男爵家から出たくヨアンと契約結婚する。元孤児。マルシャン男爵家の養女となる。
●ヨアン・ド・ゼルゲ(26)
ゼルゲ侯爵家の当主。国王の孫娘と結婚させられそうになってエレーヌと一年の契約結婚に至る。
●ルーベン(25)
鍛冶師。エレーヌと同じ孤児院で育った。将来を誓い合った仲。
★ ★
──違和感は、すぐに訪れた。
机の上に置かれていた花瓶が、いつの間にか片付けられていた。花を摘んでくる者がいなくなったからだ。
使用人たちから活気がなくなった。身分や立場に捉われることなく言葉を交わし、気にかけてくれる者がいなくなったからだ。
ダイニングテーブルが広く感じるようになった。一緒に食事をする者がいなくなったからだ。
夜、以前に増して寝つきが悪くなった。「おやすみなさい」と言ってくれる者がいなくなったからだ。
朝を迎えるたび、寂しさが日に日に増していく。──毎朝「おはようございます」と、笑顔で挨拶してくれた彼女が、この屋敷から去ってしまったからだ。
彼女は、妻だった。
お互い合意の上で結婚し、そして別れた。
共に過ごしたのは、それほど長くはなかった。
なのに、隣にいた存在がなくなると、これまで気にならなかったことが目につくようになった。
誰もいない部屋で、思い出にするにはまだ早い記憶が蘇り、彼女がそこで過ごしていたという事実が、残像として現れた。
声をかければ、いつでも会話できる場所に。
手を伸ばせば、いつでも届く距離に。
触れようと思えば、いくらでも触れられたのに、夫婦でありながら何もなかった。
何も、だ。
終わりのある関係だったからだ。彼女とは契約結婚だった。どちらも望むものがあり、一年という期限つきの婚姻を交わした。
当然、そこに愛はなかった。ただ、他の女性より好ましく思っていたのは確かだ。契約が終わって別れるのが惜しいと感じるぐらいには。
しかし、いつの間にかそれ以上の感情を抱いていたのだ。
なぜ離れてから、それに気づかされたのか。
もっと早く分かっていたら。もっと早く認めていたら。彼女を引き留めていたはずだ。
彼女は屋敷を出ていくと実家には戻らず、どこかへ行ってしまった。何も告げず、何も教えてくれず、契約は終わったとばかりに、妻だった女性は離婚が成立した瞬間から、赤の他人になってしまった。
しばらく何も手につかず、言い様のない寂寥感と空虚感に襲われていた。あの時こうしていれば、ああしていればと、後悔だけが押し寄せてくる。
そんな時、思いがけない奇跡が起きた。
屋敷に火急の知らせが届き、報告を受けた執事が執務室に飛び込んできた。
「当主様、大変でございます!」
齢五十を過ぎた初老の執事が、息を切らしながら目の前まで来ると、口早に伝えてきた。
「今しがた王都の修道院から連絡があり、エレーヌ様が事故に遭われて運ばれてきたと!」
「なん、だと……?」
彼女が事故に。刹那、彼女と一緒に過ごした日々が、走馬灯のように流れてきた。彼女と交わした言葉や、共に過ごした時間。
短くはあったが、今ならそのすべてが、かけがえのないものだと気づかされる。
彼女は無事なのか、なぜ事故に遭ったのか。それより離婚した今、どうしてここに連絡をよこしたのか。
すると、執事は顔色を窺うようにして、さらに報告を続けた。
「そ、それで……旦那様を、呼んでほしいと。自分はヨアン・ド・ゼルゲの妻で、ゼルゲ侯爵夫人だからと、そのように仰っていたようです」
「彼女は、身分を偽るような人ではない。……何かあったのかもしれない。分かった、すぐに出かける準備を」
彼女自ら、ヨアン・ド・ゼルゲの妻だと名乗ったということは、離婚した今でも夫として想っていてくれるということだろうか。
逸る気持ちを抑えて、出掛ける準備をしたヨアンは、期待に胸を膨らませていた。
そして、妻だった彼女の元へ。
果たしてそれが正しいことだったのか。
この先の結末を知っていたら同じ行動をしただろうか、今ではもう分からない……。
ゼルゲ侯爵家の当主、ヨアン・ド・ゼルゲは早くに両親を亡くし、唯一の跡取りとして爵位を継承していた。成人を迎えると貴族院の議席にも出席し、社交界でも彼の名が知れ渡るようになった。
とくに彼は、この国では珍しい黒い髪をしていた。
昔から黒は不吉な色だと言われてきたが、ゼルゲ侯爵家の先々代当主、ヨアンの祖父が黒い髪を靡かせ、十年以上続いていた戦争を勝利に導いたことで、黒は国を守る強者の象徴になった。
ヨアンもまた己の肉体を鍛え、祖父の名に恥じない騎士として成長していた。
青い瞳と精悍な顔立ち、服の上からでも分かる逞しい肉体は人目を惹き、妙齢の令嬢がいる家門からの求婚が後を絶たなかった。
社交シーズンになって交流の場に出れば、未婚女性から囲まれ、何とか繋がりを持とうと顔色を窺いにやってくる連中も多い。
最も厄介なのは、父親代わりに後ろ盾となって支えてくれた国王が、十歳になったばかりの孫娘と婚姻させようとしていたことだ。まるで、サラブレッドを作るための種馬になった気分だった。
隣国と小競り合いがあって数年ほど戦場に駆り出されていたが、命の危険がない社交界のほうが苦痛に感じた。
「これならまだ剣を振り回しているほうがマシだ」
王宮で催された夜会に出席していたヨアンは、一通り挨拶を済ませたところで、誰も伴わず中庭に出た。
窮屈な首元の襟を緩めて外の空気を吸い込めば、幾分か気分も晴れる。
このまま帰ってしまおうかとも考えたが、国王に呼ばれていたことを思い出して舌打ちした。
どうせ「いつまで独り身でいるつもりだ」「いい加減、結婚しろ」「相手がいないなら、うちの孫娘でどうだ」という流れになるのは、容易に想像できる。
剣を交えれば言葉などいらない騎士たちと違い、社交界では腹の探り合いが繰り広げられる。所作はもちろんのこと、表情一つ一つ見られており、常に気を張り巡らせておかなければならない。
所属している騎士団では、上下関係はあるものの多少の言葉遣いや態度の悪さは許されている。
戦場に出れば細かいことなど気にしていられない、というのが理由だろう。一瞬の隙が命取りになる場所で、身分や立場に囚われて危険に晒されたくはない。
ただ貴族にとって、社交の場もまた一種の戦場と言えるだろう。
話術を武器に、相手の本性を見抜き、本音を引っ張り出すことに成功すれば、多くの利益を生むことができる。場合によっては相手を陥れることも。
だが、いつまでも慣れない心理戦を強いられて、気が滅入ってくる。
ヨアンは夜に溶け込むような黒髪をかき回し、頭上に浮かんだ半月を眺めた。ひんやりと冷たい夜風が、熱気にさらされた体温を下げてくれた。
心地良い──と、瞼と閉じた瞬間、遠くから女性の短い悲鳴が聞こえて、弾かれたように目を開いた。
声がした方へ振り返ったが、視界に映ったのは庭園の花壇と噴水だけだ。しかし、戦場で鍛えられた直感が、聞き間違いでないと訴えていた。
すると、再び女性のか細い悲鳴が聞こえて、ヨアンは駆け出していた。人気のない夜の庭園とはいえ、ここは王族が住まう王宮だ。場違いにも程がある。
「──の、バカ女が! 王宮のパーティーに、そんなみすぼらしい格好で来やがって! 我がマルシャン家が恥を掻いたじゃないか!」
「私の友達なんて皆笑っていたわ。恥ずかしいったらないわ」
人目を避けたのか、王宮の明かりが辛うじて届く樹林に向かうと、そこには仁王立ちになった男女と、彼らの足元に倒れ込んだ女性がいた。
立っている男女はどちらも派手な装いでセンスの欠片もない。反対に、地面に這いつくばった女性は質素なドレス姿で、華やかな王宮のパーティーには不釣り合いな姿だった。
「くそっ! この女が来てから、ろくなことがない! 俺の妹がこんな陰気な女になるものか!」
酒でも飲んでいるのか、とても素面とは思えない暴言を吐いた男は、倒れた女の髪を鷲掴みすると、左右に振り回した。
「その通りだわ。私たち家族のように紫色の髪だから連れてきたのに、日に日に濁った水のような色になって!」
女もまた苛立った様子で、男にいたぶられた女性の頬を叩いた。
暴力を振るわれた女性は無抵抗のまま「……な、さい……申し訳、ありませんでした……」と、謝り続けていた。
彼女の無気力な目は、生きることすら諦めてしまったように見えた。
ヨアンは拳を握りしめ、女性の髪を掴む男の顔に殴りかかった。
「がっ……!」
突然の衝撃に、男は成す術もなく無様に吹き飛んだ。男が殴り飛ばされると、隣にいた女は悲鳴を上げた。
「きゃああっ、お兄様! なんてことを……っ」
「それはこちらの台詞だ。神聖な王宮の庭園で何をしている」
女はすぐに転がった男に駆け寄った。確かに、彼らはそっくりな顔立ちをした兄妹だった。
一方、目の前の出来事を呆然とした様子で見つめていた女性は、彼らと似ても似つかなかった。
「ああ、痛い……っ! 何をするんだ、貴様ぁ! いきなり人を殴りやがって! お前のような野蛮な奴こそ、この王宮に相応しくないっ! 殺されたくなかったら、名を名乗れっ!」
「お前のような輩に名乗る名などない。近衛兵に引き渡されたくなかったら、さっさと立ち去るんだな」
「なんだと……っ」
「お兄様、あの黒髪はゼルゲ侯爵では……」
怒りの収まらない男と違って、妹の方はまだ冷静だった。兄をなだめ、ここは一旦引き下がるように助言すると、男は舌打ちした。
「クソ! 帰るぞ、バカ女っ!」
男が地面に座り込んだ女性に怒声を浴びせると、彼女はびくんと肩を震わせるものの、傷ついた体でゆっくり立ち上がった。召使や奴隷のような扱いだ。
「──もう一発殴られたくなかったら、彼女は置いていけ」
「あんたには関係ない! さっさと来い、エレーヌ!」
エレーヌと呼ばれた女性は無表情のまま、ヨアンに頭を下げると彼らの元へ歩いて行こうとした。その瞳には、希望も何もない。そんなことを抱くことすら許されない立場なのか。
ヨアンは咄嗟に、通り過ぎていく彼女の腕を掴んでいた。
「彼女は怪我をしている。医者に診せたら私が送り届けよう」
彼らと一緒に帰らせたら、より酷い目に遭うことは目に見えている。それを分かっていて見て見ぬふりはできなかった。
掴んだ腕はあまりに細く、力を込めたら折れてしまうのではないかと心配になったほどだ。
「──まあ、そういうことでしたら、私が付き添いますわ! 侯爵様のお手を煩わせるわけにはいきませんもの!」
真っ先にヨアンの正体に気づいた女が、態度をがらりと変えて近づいてきた。離れていれば耐えられたが、鼻が曲がりそうなほど強烈な香水の匂いがした。
「その必要はない。王宮の規律を乱す不届き者として拘束されたくなかったら、さっさと失せろ」
「な……っ、なんて無粋な方なのかしら! お兄様、行きましょう!」
鋭い目に見下ろされて恐れをなした女は、兄である男を連れてその場を立ち去った。厄介者を追い払うことができたヨアンは、安堵の息をついた。
「……助けてくださって、感謝いたします」
「感謝、か。君の顔にはいい迷惑だと書いてあるが」
「…………」
図星だったのか、彼女は唇を固く結んで何も答えなかった。ヨアンは嘆息し、掴んだままでいた彼女の腕を放した。まさか、逃げ出すことはないだろう。
「ひとまず、中に戻って治療しよう」
そう言って傷だらけの彼女に手を差し出したが、反応はなかった。エスコートされることに慣れていないのか、それとも知らないのか。
「……私についてきてくれ」
仕方なく、彼女の先を歩いていく案内することにした。それ以外、方法が浮かばなかったのだ。
ヨアンが歩き出すと、彼女も後ろからついてきた。建物の下まで来ると、窓から漏れた明かりが二人を照らした。
軽く後ろを振り返ると彼女の姿が確認できた。
エレーヌと呼ばれた彼女は、病的なほど青白い肌に細い体、薄水色の髪と桃色の瞳をしていた。ドレスは飾り気がなく、華やかな社交界にはそぐわない身なりだ。表情は乏しく、口数も少ない。
これまで女性に囲まれることが多かったヨアンは、こちらに見向きもしない彼女が新鮮だった。
一時の庇護欲だろうか。
普段なら、厄介事には首を突っ込まない性格なのに、自ら巻き込まれにいったようなものだ。
ただ、あの状況で無視できるわけもなく、ここまできたら面倒を見る責任がある。彼女が特別なわけではない。
それでも他の貴族たちと鉢合わないように気遣いながら、彼女を休憩室に連れて行った。
「医者を呼んできてくれ。国王陛下には私から伝えておく」
ちょうど巡回していた近衛兵と、通りかかったメイドを呼んで医者を連れていくように頼んだ。
本来なら王族の許可なしに王宮医の治療は受けられないが、国王の保護を受け、頻繁に王城に出入りしているヨアンにはそれだけの権力があった。
しばらく待っていると医者が現れ、ヨアンは治療が終わるまで廊下で待機していた。
彼女の怪我は医者に任せれば問題ない。だが、問題はこれからだ。──彼女をこのまま家に帰しても良いのだろうか。
家に送り届けるとは言ったが、あのような輩がいる場所に帰せば、最悪の事態だってあり得る。そうなれば今日助けたことを後悔するだろう。
だからこそ、助けられた彼女も迷惑そうにしていたのだ。
余計なお世話だ、と。
「おやおや、随分深いため息だね。怪我をしたご令嬢を連れてきたと聞いたのだけれど」
腕を組み、壁に寄りかかりながらため息をこぼすと、護衛の騎士を引き連れた男が現れた。
赤い髪に金色の瞳をした男は、ひと際煌びやかな服装を身に纏い、その存在だけで薄暗い廊下を華やかにした。
「……王太子殿下にご挨拶申し上げます」
「それで、君が助けたというお嬢さんは中かな。……ああ、お前たちは下がっていてくれ」
美しい顔立ちは、同じ男でも見惚れてしまうほど。その顔で微笑まれると、大抵の人間は簡単に落とされてしまう。
しかし、長い付き合いであるヨアンは、王太子の性格を熟知しているせいか、表情を緩めることはできなかった。
八歳ほど年上の王太子は、誰より生き馬の目を抜く人だ。国王に保護されたヨアンは、幾度となく彼に牽制されてきた。ただ、利害が一致したときだけは、彼ほど心強い味方はいない。
護衛の騎士を下がらせた王太子は、ヨアンに近づいてきた。金色の瞳が、獲物を狙う獣のそれに思えてならない。
「ヨアンにもそういう相手が見つかったのかなと思って来てみたんだけど」
「庭園で怪我されていたのを偶然見かけただけです」
「ふーん、面倒くさがりの君が? そういうことには首を突っ込まないじゃないか。助けた彼女が、放っておけないほど美人だったのかな? それとも憐れんだのかな」
鋭いところを突かれ、ヨアンは言葉を噤んだ。質問の答えを肯定することになっても、余計なことを口走るよりは安全だと考えたのだ。
すると、王太子は口の端を持ち上げ、ヨアンのだらしなく緩んだ首元の服装を直しながら、口を開いた。
「少しでも気に入ったら話してみるといい。良い関係が築けるかもしれないだろ?」
「今日会ったばかりのご令嬢で……」
「私は可愛い末娘を、臣下にくれてやるのは勿体ないと思っているんだよ。もうすぐ隣国と和平交渉に入るし、同盟を結ぶことになったら、今の王室から嫁げるのはあの子だけだからね」
王太子には現在、二人の息子と一人の娘がいる。
国王は可愛がっている孫娘をヨアンに嫁がせようとしていたが、王太子は自分の娘を政略の道具としか考えていなかった。
「だからね、君にはすぐに身を固めてほしいと思っているんだよ。たった一年でも……そのためなら、私も協力を惜しまないよ」
「──王太子殿下のお気遣いに、感謝いたします」
よく言ったものだ。ヨアンが未だ結婚どころか婚約者もいないのは、いくつかの縁談を彼に潰されてきたからだ。軍事力や財力のある家門の令嬢が相手だったときは容赦なく。
襟元を戻されただけなのに、首を絞めつけられている気分だ。それは王太子が去った後も、不快感が拭えなかった。
「結婚、か……」
王太子の言葉は提案などではなく、ほぼ脅迫に近かった。
国王の権力が大きく働いているだけに表立った攻撃はないが、わざと国王と王太子を両天秤にかけて選択を迫ってくることがある。
額を押さえて小さく唸ると、目の前の扉が開いてメイドが出てきた。
「ご令嬢の治療が終わりました。もう中にお入りいただいて大丈夫です」
ヨアンは中に入り、文句も言わず治療してくれた王宮医とその助手に感謝を伝え、ソファーに座る彼女に近づいた。
「……具合はどうだ? 痛いところはないか?」
「いいえ、問題ありません」
彼女の返答は事務的で、感情がこもっていなかった。まるで何十回、何百回と繰り返された言葉のように感じて眉根を寄せる。
だが、左頬、右手、右足首……と、白い包帯が巻かれた彼女の姿を見て、やるせない気持ちにさせられた。
ヨアンは彼女の斜め前にあったソファーに腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。
「私はヨアン、ヨアン・ド・ゼルゲだ。君の名を教えてもらえないだろうか」
「……マルシャン男爵家の、エレーヌ・マルシャンです」
彼女──エレーヌは、戸惑いながらも名乗ってくれた。本当は教えたくなかったのが、ありありと伝わってくる。
「それで、君に怪我を負わせたあの二人とはどういう関係だ?」
マルシャン男爵家という家門に記憶はない。侯爵家と繋がりがなかったことに安堵しつつ、下級貴族が王宮内で問題を起こしていたことに呆れる。
「彼らは、私の兄と、姉です……」
「似てはいないな」
「……血の繋がりはありません。私は孤児院から引き取られて、男爵家の養女になりました」
かなり踏み込んだことを訊いてしまったようだ。だが、これで彼らが彼女に吐いていた暴言の意味が理解できた。
男爵家は自分たちと同じ髪色を持つエレーヌを引き取ったが、成長するにつれ髪色が変化し、異質な存在になってしまったのだろう。
「このことは、君を引き取った男爵夫妻も知っているな?」
「あ、あの……最初は皆さんとても優しくて、良くしてくれて……ですから、彼らは悪く、なくて」
「では、自分が傷つけられているのは、自分のせいだと思っているのか。彼らがまた昔のような優しさを取り戻してくれると、期待しているわけではないだろ?」
「それは……」
口ごもるエレーヌの反応から、少なからず小さな希望ぐらいは持っていたのかもしれない。けれど、あの二人の様子から見るに、関係が修復されるとは到底思えなかった。
ヨアンは深く息をついて、目にかかる前髪をかき上げた。
──やはり余計なことに首を突っ込むのではなかった。
戦場を駆け回っていれば、彼女より悲惨な状況に置かれた孤児を何人も見てきた。その子たちを安全な場所に移すことはできても、それ以上の手助けはしてやれなかった。
……キリがないからだ。中には、たった一日しか命を延ばしてやれない子もいた。
ただ、その時と違って今ここは戦場ではない。
手を差し伸べる先にいるのは、彼女ただ一人。それなら助け出すことは簡単だ。見返りを要求すれば、追い詰められているこちらの状況から救ってくれるかもしれない。
幸いにも孤児だった彼女には、何の後ろ盾もない。それならヨアンの立場を良く思っていない王太子は、喜んで協力してくれるだろう。
ヨアンは咳払いをひとつすると、改まったように居住まいを正してエレーヌに向き合った。
「こんなことを提案するのは気が進まないが、私と結婚する気はないだろうか?」
「……結婚、ですか?」
何の前触れもなく結婚の話をされたエレーヌは、目を丸くしてヨアンを見つめてきた。桃色の瞳が、気は確かかと言っているように見えた。
「私はある縁談を回避するために、今すぐ結婚しなければならない。だが、そこに政略的な繋がりがあってはいけないんだ」
侯爵家に大きな利益をもたらすような家門は、絶対に避けなければいけない。自分の立場を強めれば、また牽制されてしまうからだ。
「結婚期間は最低でも一年。私の望みが叶えば、君を自由にする。それから、できる限りの援助はすると約束しよう」
「自由──……」
急な申し出に困惑していたエレーヌだが、ヨアンの口から「自由」という言葉が出た瞬間、目の色が変わった。
「ああ、君を引き取った男爵家から自由になりたいというなら、その望みを叶えることもできる」
ヨアンは手を差し出し「他にも……」と、いつの間にか必死で彼女を説得している自分がいた。
実のところ、彼女でなくてもよかった。探そうと思えば、エレーヌと似た境遇の女性はいたはずだ。けれど、ヨアンの目にはすでに彼女しか映っていなかったのだ。
他にもいくつか魅力的な報酬をエレーヌに伝えたが、どういうわけか彼女は首を小さく振った。
「私の希望は、今の家から自由になることです。……もし、あの家から解放されるなら、どんなことでも受け入れます」
「……そうか」
先ほどまでとは違い、強い眼差しで見つめてくるエレーヌに、ヨアンは胸が高鳴った。自由という希望を持った彼女は、まるで別人だった。
「それじゃ、エレーヌ。よろしく頼む」
「はい、よろしくお願いします」
こうしてヨアンとエレーヌの契約が成立し、彼らは程なくして結婚した。
期限付きの、偽りの夫婦となったのだ──。