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第七章  寂しさと男の父親

 俺の心に彼女の分身が棲むようになった。職場でも自然と彼女の存在が気になる時があった。仕事に行き、作業着に着替えて旋盤の業務に就く。業務中は機械相手なので彼女のことを考えないようにしたが、昼休みは自分でにぎった大きなおにぎりを食べながら、彼女のことばかり考えるようになっていた。俺のにぎったおにぎりは不細工で、海苔も巻いてないただの白飯。情けねぇ。人に見られたら恥ずかしい食事だ。だから、職場が男ばかりでも隠れるように食べている。こんなおにぎりと比較して、彼女のサンドイッチは美味しかった。

 そして、いつものように昼寝をする。汗くさいタオルを顔に掛け、目を閉じた。芝生に寝転んだ時のことが浮ぶ。寝転び、彼女と話をしたこと。彼女も沢山話をしてくれたこと。 

 しかし、彼女にすれば俺はただの話し相手に過ぎないのか? やっぱり俺は彼女にとって、時間潰しの話し相手なのか? 自分を肯定したり否定したり、そして彼女のことを疑うような気持ちになったり、心の中で様々な気持ちか葛藤し続けた。

 突如、俺の心の中に一つの気持ちが生まれた。彼女の仕事を聞いていたので、こっそりと彼女の姿を見たくなったのだ。俺の仕事は定時の五時過ぎに終わる。彼女は八時頃まで仕事と言っていた。それなら彼女の働いている姿を見られるのではないかと考えたのだ。

 俺はシャワーを浴び終えて着替えると、彼女が働く街に向かった。いくら地域を聞いていたとしても店の名前までは知らない。俺は、薬を飲んで透明人間になり街を歩く。そして、外からいくつかの店内を覗いたり店に入ったりして彼女を探し回った。もちろん簡単には見つからない。これが当たり前だろうが、それでもできる限りの店の中を覗いて彼女を探した。結局、彼女を見つけることはできなかった。俺は、透明人間のまま街を歩き駅に向かった。

 そうだよな、いくらこんなことをしても簡単に見つけ出せるはずはない。彼女に店の名前を聞くのはどうなのか。聞いたらどうしてって聞き返されそうだ。俺だって職場のことは聞かれたくないから、彼女もきっと嫌なはずだ。

 ぐるぐると頭の中で想像した。もし、彼女が同じように俺の職場に来たら。汚い作業着を着て、手の油汚れが落ちないほどになっている姿とか、昼休みに質素な食事をしている姿とか、汗くさいタオルを顔に掛けて昼寝をする姿とか見られたくない。いやいや、俺のことに彼女は興味がないだろうけど。

 そして、いつの間にか俺は駅に着いていた。電車に乗り込み、最寄りの駅に到着して、いつもの帰り道。そういえば、ここで占い師に会った。彼女も占い師に会い、薬をもらったと言ったが、彼女はどこで占い師に会ったのだろう。

 アパートに帰り部屋の小さな豆電球だけの灯りを付け、ふぅっと体の力が抜けるように畳の上にそのまま寝転ぶ。鞄の中から元に戻る薬を取り出し、透明人間から戻った。俺は大の字でまた考える。俺はどうしたいのだろう。自分がわからなくなっていく。

 すでに季節は四月。窓を開けると手の届きそうなところに河川に沿って植えられている桜の木の枝がある。しかし、まだ蕾が目立ち花は咲いていない。少し肌寒い日もある。

 窓から空を眺めると、そこには少しだけ欠けた月が昇っていた。俺は、月を眺められる位置に寝転び、そのままぼおっとした。独身のままで来た男は、もう五十歳を過ぎようとしている。

 日本には四季があり、その時々に行事があるが、そんなことにも俺は縁遠い。

 正月を迎えても餅を食べることはない。

 節分だからと豆をまくことはない。

 花見だからと宴会をすることはない。

 ゴールデンウィークは、職場もたまには休みになるが、出掛けることはない。

 七夕だからといって、出逢いを求めるように願うことはない。

 夏場に海に行くことはない。

 秋は紅葉を見に出掛けることはない。

 世間がクリスマスで、ケーキやクリスマスプレゼントだといっていても、俺にはまったく関係ない。

 年末になり大掃除をすることはない。唯一、大晦日にインスタントカップのそばを食べるくらいだ。 

 何も無いなんて逆に凄い。世間から遠ざかる生活をしてきた俺は、むしろ世の中の流れが自身に影響するものになっていなかったということだ。こんな男が今になって、一人の女性を気にするとは。そう言いながらも俺の支えになっているものがもう一つあった。もちろん、どんな人にも自然は平等だがこの世の中にまだ平等なものがある。歌も、人には平等だ。俺は、坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」が好きだった。


 見上げてごらん夜の星を 小さな星の 小さな光が ささやかな幸せをうたってる

 見上げてごらん夜の星を ボクらのように名もない星が ささやかな幸せを祈ってる

 手をつなごうボクと おいかけよう夢を 二人なら苦しくなんかないさ

 見上げてごらん夜の星を 小さな星の 小さな光が ささやかな幸せをうたってる

 見上げてごらん夜の星を ボクらのように名もない星が ささやかな幸せを祈ってる


 何時からだろう、俺はこの歌詞を口ずさみ、勝手に涙を流していた。「二人なら苦しくなんかないさ」だが、「一人でも苦しくなんかないさ」と自分に言い聞かせていた。空を見上げ、星を眺め、月を眺め、小さな星の光が、丸い月の光が、部屋に差し込む。多くの名もない星たちは俺と同じだ。でも、光を発している。それが俺の支えだ。

 これまでは、俺が独りぼっちでいることを、俺の否定されるような人生を、小さな味方が支えてくれるように、メロディーとして耳に入ってきていた。私たちは、「あなたを見ていますよ」と、自然が話しかけてくれるようだった。そして俺は意識もせずに涙を流して、一人薄暗い部屋で悲しみを味わっていたのに。この歌が最近、俺の心に刺さるように感じ始めた。

 彼女に出逢い俺の悲しみは別の意味での悲しみとなり、今はそのことが心を刺激する強い曲になっていた。「ささやかな幸せ、手をつなぐこと、おいかける夢」、俺にもささやかな幸せはあるのだろうか、彼女と手をつなげられるのだろうか。俺も夢は、二人ならと言いたい。

 彼女が現れて、彼女に対する深い想いが俺自身を苦しめ始める。人を愛することがこんなにも苦しいなんて、俺には今まで知る良しもなかったのに。小さな部屋の片隅で苦しむ俺の姿は、滑稽なものになっていたことだろう。

 俺は、このような生活が続き何かしら寂しさを感じる時間ができていた。仕事をしていればまだ気が紛れていたが、つい寂しくなってしまうような時が往々にあった。今日は、いつもとは違う感情になっていた。

 実は母が亡くなり、父と二人暮らしになってからのことだが、その時に父が話してくれたことがある。父は酒が好きな人間ではなかった。夕食の際に晩酌をしないとやっていけないという人がいるようだが、それなら父は、アルコールよりもお茶だった。うちは、贅沢するお金がないこともあったが、父曰く、たまに好きでもないビールを飲みたいと思う時があったという。とは言うものの、父は小瓶のビールを二分の一も飲めば良い方だった。本当、希なのだが、わずかなビールをちょびちょびと飲む姿を見たことがあった。 

 今日、俺も、物があまり入っていない小さな冷蔵庫から、蓋が開いた飲み残しの缶ビールを取り出し、空を眺めながら飲んだ。部屋は小さな豆電球一つの灯りだけで、薄らとしたオレンジ色の状態になっている。部屋の中にあるテレビや物がぼやけてなんとか見えるような、そんな雰囲気の中で飲むのが俺は好きだった。

 かなり昔のことだが、父から父子家庭で育った女性の父親の話を聞いたことがあった。

 その女性は父より十歳近く年上の方で、北海道で生まれ育ち、幼い時に母親を亡くし父親に育てられたという。女性のお父さんが、当時のビールなら瓶ビールだと思うが、薄暗い明かりの下でビールを飲んでいる姿を、女性は子どもながらに見ていたらしい。

 女性には、お父さんの姿が何かしら寂しげに見えたという。北海道という地域から、寒いというイメージが父にはあったらしい。戸が風に揺られカタカタと鳴っている、昔だからテーブルというより茶ぶ台といった方が似合いそうな、そういう物が置いてある部屋で、一人ビールを飲まれていただろうと、想像したという。まさしく、俺が今住んでいる部屋のようだ。

 しかし、本当はそんな殺風景な雰囲気の部屋ではなく、八畳ほどの部屋で薪がパチパチと燃える中、子ども二人が寝転ぶ前で飲んでいたらしい。そして、そこに飼っている猫が来て、ペロペロと邪魔をするような一コマもあったらしい。部屋の明るさは父が想像していた通り、薄らとしていて、薪が燃える炎で部屋はオレンジ色に染まっていたとのこと。

 そういうことを聞いた父がその光景から、一人の男性がビールを手酌で飲んでいる姿を父自身と重ねたということだった。晩酌という一日の疲れをとるビールと暗闇に近い部屋で飲むビールとは、人の心の奥底にある気持ちの違いから同じ味にはならないと思う。父の場合は、ビールを味わうよりも寂しさを味わう気持ちが強く、寂しさを紛らわすよりも逆に寂しさを味わっていたようだ。

 今の俺が実はそうだ。こんな姿を見たら人からはおかしいと言われそうだが、今ここにいる自分は、どうしてこんなに侘びしいのだろうと自分で自分を落ち込ませ、この瞬間の自分が可哀想な存在だと言って欲しいと自らが求めている感じなのだ。俺にも、他人には理解出来ないような、そんな心理になることがある。よく自分を追いつめたりしないでと言う人がいるが、意外と人間にはどん底まで落ちれば後は這い上がるだけで、逆に気持ちがすっきりとすることがあると思う。

 俺のこの時間は、時計の針が止まりそうなくらいスローモーションになっていた。どう説明すれば良いか、ただただ、侘びしさに酔いたいとしか言えない。母が亡くなり、当時は父も、母を偲ぶ気持ちが強くなっていたのだと感じていた。

 俺は、父と同じように酒が好きな人間ではない。わずかなビールを飲むことに、父の心に秘められていた心情や、父の知り合いの話に出てきた女性の父親の心境を、今の俺には理解することができていた。

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