第六章 初デート
待ち合わせの日が来た。俺は、予定の時間より少しだけ早く着いた。また芝生の上に座り、彼女を待つ。そして、彼女は時間通りにやって来た。ジーンズ姿で細く伸びる足が綺麗で、長い髪は束ねられたポニーテールだ。小走りで駆け寄ってくる彼女は微笑んでいる。
「こんにちは……」
「こんにちは、先日はどうも」
たわいもない始まりの挨拶。それでも俺には精一杯のことだった。すごく緊張してどのように接したらいいのか、不安になる気持ちが強かった。
先日は突然のことながら緊張しながらもなんとか会話になっていたが、今日はどんなことを話せばいいか俺は困惑状態だ。
「遠野さん、緊張していませんか?」
彼女は微笑み、意外と落ち着いている。
「緊張ですか、はい。何を話せば良いかわからなくて。正直、緊張しています」
「はーい」
彼女が返事をする。
「私は大丈夫ですよ。遠野さん、裏表もなくて、先日、話をして安心しました。なんとなくですが、お兄さんって感じです」
俺はお兄さんという感じなのだろうか、歳は一回りくらい離れているように見えるのだが。
「お兄さんですか? もう、おじさんですよ」
彼女は三十半ばらしい。
「歳を言ってなかったですね。それより遠野さんは、食事をしましたか?」
俺は、簡単なもので済ませていた。贅沢をする人間ではないというのは自分で言うとおかしいが、裕福な生活が送れるほど収入はない。ただ、使う術を知らない俺は、自然とお金が貯まっていた。
「遠野さん、これ」
彼女は小さなかごを開けた。中身はサンドイッチだった。
「はい、おひとつどうぞ」
一つ、手に取って差し出してくれた。
おそるおそる手を出し、彼女からもらう。
「すみません、いただきます」
俺は、顔を横に向け一口食べた。美味しかった。でも、恥ずかしいこともあった。俺の爪や指先は油で黒くなっている。いくら洗っても綺麗には落ちないからだ。それを隠すように指先を丸めてサンドイッチを食べた。食べたらすぐに自分の両膝の間に両手を隠した。
「美味しいですね。ありがとうございます」
「よかった。はい、もう一つどうぞ」
逆に、彼女の指先はとても綺麗だ。俺は、右手の親指と人差し指だけを出し少しでも見えないように、残りの三本の指は手のひらに丸め隠してサンドイッチをもらった。
「遠野さん、コーヒーもありますけど、お好きですか」
「はい、大丈夫です」
「じゃぁ、はい。甘いですよ。私の愛情も入れてますから」
笑って彼女が言う。
「えっ、愛情まで!」
俺は、びっくりした表情をしていたようだ。それは冗談だと理解できたが、まさか、こんなことを彼女が言うなんて。俺みたいな人間は、真剣に受け取ってしまう。だから怖い。
「周りの人たちには私たちの姿って見えてないのですね。透明人間だなんて誰も信じないでしょうね」
確かに。逆に自分が透明人間に見られていると思ったら怖いことだ。
いつの間にか、彼女との距離が近くなっていた。まだ今日で二回目ですごく緊張していたが、彼女が素直だから俺はまた流暢になっていた。
時間は小一時間経っただろうか。俺は、サンドイッチとコーヒーをもらって眠くなった。
彼女も眠くなっていたようだ。
「私、昨日遅くまで仕事があったので今日は眠くて」
「はい、俺も」
不器用な男は、面白味のある言葉で返せない。ちょっとくらい、気の利いた気障なことを言ってみろよと、心の中で自分自身に語っていた。
まともに彼女の顔も見られないまま、「少し、芝生に寝転びますか?」
そう話しかけていた。
「そうですね。思い切って大の字で寝ちゃいましょう」
彼女は大きく両手両脚を伸ばす。
「ああ、気持ちいい。綺麗な青空ですね。こんなにリラックスできるなんて、驚いています。一人じゃ、こんなことができなかったかも」
「そうなんですか?」
俺は上を向いたまま問いかけていた。
透明人間になって、正直彼女は、ほっとしたことを俺に告げてきた。
この世に彼女だけが透明人間でいるとしたら、誰も彼女には気付いてくれない。そして、このまま消えて元に戻れなくなったら、本当の透明人間になってしまうからだと。
確かにそうだ。俺も、戻れなくなったら透明人間のままだ。全然考えてもみなかった。だが、俺なんか最初から存在しないようなものだ。ふとそう考え、横目で彼女の方を見た。彼女は目を閉じたままでいる。しかし、かすかに微笑んでいるように見えた。そんな彼女に対して、ただの透明人間仲間なのに、これ以上、先のことを想像したらいけないと思った。
「遠野さん、私たちって、名前も似ているような感じがしますね」
「えっ?」
透明人間になる薬をもらって、ばったり出逢って話をして。彼女は星野で俺が遠野。星は遠くに見えるし、二人一緒にいたら遠くの星で。それに、俺は虹で彼女は月子。空に出てくるものだと彼女が言った。
確かに。俺は、星や月が好きだから夜空に見えるものは好きだ。暗闇を照らすから、昼のものより好きなのだと彼女に俺も告げた。
「そうなのですね」
「月子さんは、月のように綺麗だし。名前の通りですね」
あっ、言ってしまった。
「ありがとうございます。私も虹は好きですよ。雨上がりに橋を架けられるのですから。それも七色で、素敵です」
俺は、そんな綺麗な話のような人間じゃない。本当、名前のように見ている人を感動させられるような人間ならいいのだろうけど。残念、俺は見られるより消えていたい方だ。
「私のこと、月子でいいですよ。名字は堅苦しいから。私も、虹一さんだから、こうさんくらいにしちゃおうかな」
少し沈黙。
「月、子さんですか」
「ええ、月子で」
夜の空にも虹は見られる時があることを彼女に教えた。
「『月虹』っていうんです」
「月虹ですか、なんか綺麗そうですね」
「ええ、それが見られたら。月虹には人を幸せにしてくれるという言い伝えがあります」
「凄い、本当ですか?」
しかし、簡単に見られる訳ではない。一生に一度でも見られたら凄いことだ。俺は書籍を読むことがあって、月虹のことを知ったのだと彼女に話した。
「ちょっと、じゃあ、私とこうさんで月虹じゃ、ないですか」
彼女は大はしゃぎだ。笑って話す彼女。
彼女は素直だ。何故、こんな彼女が透明人間でいなければならないのか。不思議と俺は、彼女に吸い寄せられていた。
「月虹か。本当、一緒に見られたら凄いなぁ」
彼女との時間が短く感じるほど、知らないうちに話に花が咲いていた。今日もあっという間に時間が経った。彼女は、いつもはしゃいでいるのか。仕事では、忙しいようなことを言っていたが。
「つき・こっ さん」
「はい?」
仕事は遅い時間までしているのか、聞いた。
朝はゆっくりだが、その分、夜は遅くて、八時くらいまでらしい。
職場は都内なのかも聞いた。都内でも中心街から外れていて、少し静かな場所だと。
「えっ、本当に?」
俺の職場と近かった。利用している駅も同じだった。
「私もその駅を利用していますよ」
話をすればするほど、彼女を身近に感じた。
やがて太陽は西の空に移動し、まもなく沈もうとしている。
「月子さん、もうそろそろ」
「もうこんな時間ですね。いい話も聞かせていただいて」
「こうさん、携帯はお持ちですか?」
俺は、このようなご時世だが、必要になることがないので携帯は持っていなかった。
「連絡が取れたら良かったです」
俺、沈黙後、
「すみません」
孤独生活を送っている俺は、便利な携帯を持ってまで生活する必要がなかった。それに興味もなかった。というよりそれ以上に、連絡を取る相手がいないのだから、俺には無用の長物なのだ。
「また、宜しかったらお逢いしませんか」
彼女から言われる。
「えっ、そうですね、機会があれば」
俺は、彼女への恋心が芽生えそうだった。いや、もう芽生えていたのかもしれない。暖かな風によって、俺の心に植えられた「月子さん」という種から、芽が出ようとしていたようだ。
だが、俺は躊躇もした。所詮は透明人間の関係だけ。たまたま、俺たちは透明人間として出会っただけだと。急に、心が痛くなり始めていた。どうして、こんな試練を天は与えるのだろう。今更、こんな男に恋愛なんてありえないだろう。
俺は、彼女の声が耳に入ってこなかった。何かを話しているだろうという感じで、俺は、それに頷いているだけだ。
俺たちは駅に到着。帰る方向は違っていた。小さな駅構内で向かい合い、それぞれのホームに俺たちは立っている。彼女は手を挙げ、俺に振ってくれる。俺の乗る電車はまだ来なかった。俺も恥ずかしげに、片手を少しだけ胸の辺りまで挙げて軽く振り返す。
彼女が先に電車に乗り込んだ。一分もしないうちに発車する。俺も電車に乗り込んだ。今日の電車は満員電車ではなかった。でも、俺は席に座らなかった。
ぼぉっとして体を電車の側柱に預けるようにした。顔が窓ガラスに付いて、少し冷たさが伝わってくる。でも、やがて、その冷たさは温かく感じられるようになった。
気付けば電車は大きな河川を通り過ぎ、田畑の見える場所まで走ってきている。俺は、いつもの最寄り駅で降りずにそのまま電車に乗っていた。このまましばらく、彼女との一時の雰囲気を思い出すようにしたかったからだ。
空に太陽はなかった。その代わり丸い月がすでに空に出て輝いていた。と同時に、多くの星も輝いていた。俺が見上げる夜空の星は、自分の位置を動かずに輝いている。
俺は目を閉じ想像した。多くの星が天空を輝かせていて、仮にその中の一つが欠けても、それは気付かれない存在なのかもしれない。もしもそれぞれの星が一つ、一つ、また一つと、私はもういいと消えて行ったら、この満天の星は存在しないはずだ。
人も同じで、陰に隠れたい時もあるだろう。息を抜きたい時もあるだろう。きっと星たちもそうかもしれない。今日は休みたいと輝かずに休憩したいのかもしれない。そんな星たちを見ている人もいる。それに気付かないだけで、傍で、あるいは離れた場所から見てくれている人がいる。満天の星は、彼らが輝きを保っているから存在している。一つや二つの星だけが輝いたのでは、満天の星にはならない。
彼女のことも、きっとどこかで見ている人がいるかもしれない。でも、それは。できるなら、俺がその存在になりたい。空に登った月を見て、俺は気持ちを固めた。彼女と一緒にいたい。




