第五章 出逢い
占い師と出会ってから数日が経ち、大晦日になった。俺の孤独感は世間の慌ただしさとは反比例していた。
自宅での食事も、大安売りの野菜や豆腐やこんにゃくといった、贅沢とは言えない正直質素なものばかりだ。そして、スーパーで売れ残りの弁当やサラダ。
大晦日でも、また正月だからといって特別な食事をすることはなかったが、いつの頃からか、大晦日にはインスタントのカップにお湯を注げばできあがるそばを食べていた。
石油ストーブにやかんを載せ、沸いたお湯をカップに注ぎ、年越し前に食べ始める。余ったお湯は湯たんぽに入れ、万年床のような感じの布団にしのばせ暖をとる。そして、空になったやかんにまた水を入れ、石油ストーブの上に載せておくのだ。
カップの紙を剥いで食べようとする頃、除夜の鐘の音が聞こえてくる。そして、そばを食べ終わった頃には年が変わり、やかんの蓋が「カッカッカッ……」と小さな音を立てている。気がつけば、このようなことが恒例となっていた。一人暮らしの俺の大晦日は、惨めな生活だった。
しかし今年の大晦日は、透明人間になれることで、少しだけ気持ちに変化があった。俺は、透明人間になった姿を想像しながら、年越しそばを食べた。
そういえば、日付が変わる頃から初詣に出掛ける家族やカップルもいるが、元々俺に、願掛けをする気持ちはないので、初詣は無縁の行事だった。もし、自分が透明人間になって初詣に出掛けたらどうなるか。神様や仏様の前で、手を合わせて願掛けをするだろうか。こんな歳になって、つまらない想像をする自分が恥ずかしい。
やがて、季節は春を迎えようとする二月。だんだんと日が延びて、三月は草木の芽生えの時期。帰宅時間、この頃の太陽はまだ低く傾いた位置にあったが、俺の顔を照らしてくれた。いつもなら、俺を包み込もうとする風は、氷のように冷たかったのに、帰り道に吹く風には、ほんのりとした暖かみが感じられた。
占い師から薬をもらってから、透明人間になったのは一度だけだったので、工場が休みの日曜日、朝から外出することにした。通勤以外に早い時間から出掛けることがなかった俺だが、薬を飲んで出掛けた。
誰も俺の存在を知らないから、人の視線は気にならなかった。いつもと変わらぬ風景は、今日は違って見えた。ビルなどの建造物に変化がなくても、すれ違う人の表情に目を向けると、こんなに違うのかと感じた。
俺の心中にモヤモヤした感情や、人に見下されるように感じる視線は無かった。真昼の空の太陽から、この俺に、今日は暑いくらい陽が差している。
俺は、公園やショッピング街を散歩してみた。今、大勢の人混みの中を気楽に歩いている。しかし、姿が見えたら俺はその瞬間からまた人目が気になる人間に戻ることだろう。この先、俺はこの薬に頼ることになるかもしれないと考えたらすっきりとはしなかったものの、アパートの部屋に戻り、畳の上に寝転んだ瞬間、透明人間として過ごせたことが心地良かった。
この日、俺は、また透明人間のままで床に就いていた。俺は感じた。薬に依存したい気持ちが強くなっていることを。
次の休みにも、俺は透明人間になり街に出かけた。今日は薄明りの天気だが人通りは多い。今日も視線を感じず、俺は気楽に散歩している。多くのカップルや家族連れもデートや買い物をしている。俺は、そんな人たちとは対照的で、ただ街を歩いて人混みの雰囲気を味わってみるだけだった。
誰も俺に気付かないから、この薬は本当に楽な気持ちにさせてくれた。公園の周りの木々や噴水に目を向け、また、空気の味を確かめるように、芝生の上に寝転ぶ。そして、ウトウトと眠りに入ろうとしていた。目の前にある噴水に見とれ、堂々と寝転がることは今までなく、気持ち良いと実感していた。
少し肌寒かったが、薄明りの天気から晴れ間が見える天気に変わり、目を閉じた瞼の表面を太陽が赤色に染め、瞼を通じて眼球にまで暖かさを感じた。少し強めの風が、俺の頬をなでるように過ぎ去る。透明人間の俺には、自然の恵みがありがたく感じられた。そして、俺はこの場で熟睡していたようだ。
時間が経ち目を覚ました俺の目の中に、一人の女性の姿が入ってきた。年齢でいえば三十代前半か。周囲には大勢の人がいるが、何故か俺は、その女性に惹き寄せられるものがあり、体を起こし、彼女を目で追った。身長は、低くもなく高くもなく、ほっそりとした長い黒髪の女性。ちょっと昭和風で派手さもない。大和撫子という雰囲気が漂っていた。大人しめの洋服を着ているし、俺のタイプだった。
つい目で追ったが、彼女に俺が見えるはずはなく、一瞬のときめきで終わると思った。そして、また空を向いて目を閉じ、芝生の上でぼおっとする。しかし、何故か彼女が俺の方を見始めている。俺の後ろに誰かいるのか、何かあるのか? 後ろを振り返っても誰もいないし何もない。俺は透明人間になっている。彼女に俺の姿が見えているはずがない。きっと俺の勘違いだろうと、芝生の上にまた寝転んだ。それでも、彼女は俺の方に向かって歩き始める。そして、俺の前で立ち止まった。
「えっ……」
彼女には、俺の姿が見えているようだ。まさか、薬の効力が消えたのか? いくら考えても俺に確かめる術はない。
「もしかして、あなたも透明人間なのですか?」
彼女が話しかけてくる。
あなたも? 俺がそのことを理解するのに時間はかからなかった。「あなたも……」ということは、彼女も透明人間だということだ。どうも透明人間同士には姿が見えるらしい。それって当たり前か。
「少し、話をさせてもらっていいですか」
彼女が言う。
「……かまいませんが。」
俺は緊張気味で短答。
そして彼女も芝生の上に座り込んだ。見た目、彼女は美形で、悩みがあるようには見えない。異性からも十分もてる容姿をしている。むしろ、そんな女性に面等向かって話されている俺は小っ恥ずかしくなっていた。いくら相手が同じ透明人間でも、女性と話すことに抵抗がある。俺みたいな男が、こんな美女と話すことなどありえない。俺は、赤面しながらも下を向き、彼女の問いかけに答えるだけだった。
「あなたが透明人間ということは、誰かから薬をもらったのですね?」
俺は女性占い師にもらったと答えた。
「あなたも透明人間になっているということは、同じように?」
彼女も女性占い師に薬をもらったようだ。
俺は彼女に、女性占い師と出会った日のことを話した。そして聞いた。
「あなたは何故、透明人間に? あなたは美しいし、俺とは違って容姿も悪くないのに。俺は、人の視線が怖いから」
「人の視線が怖い?」
彼女が語る。
彼女は小さなブティックの店員。仕事に没頭していると息苦しくなり、一人だと寂しい自分がいて。かといって、誰かと一緒にいるようなひと時も作れない。自分の存在は何処にあるのか? この世から消えたらどうなるのだろう。そう思って夜の街を歩いていたら、占い師と出会ったのだと言う。
「あなたも、占い師に心の中を読まれたのですね」
何故か、彼女には遠慮なく話せている。
彼女は純粋だった。透明人間になって、すごく安心していられると彼女は言う。
「もし良かったら名前を教えていただけませんか」
この時間はなんだろう。薬の効力は、ただ消えているだけでなく自分を素直にさせるのか。
「俺は遠野です。遠野虹一です。こうは虹って漢字です」
「私の名前は、星野、星野月子です。星とか月とか、星座みたいでしょ」
一瞬の微笑みが可愛らしい。
俺たちは、夕暮れ前まで話し込んだ。俺自身、こんなにも流暢に話をしていることに驚いた。
そして、別れの時間が来た。
今日のことは偶然の出逢いだと俺は思ったが、わずかなプレゼントを神様からもらったと感謝して、一時のものだと割り切った。
「また逢いませんか?」
彼女が言う。
どう接していいのかわからなかった。
「また逢って話をしてください」
俺は唐突なことに戸惑ったが、また会う約束をした。
「透明人間になってまた逢いましょう」
連絡先は交換しなかった。二週間後の時間と場所だけ。昔ながらの男女のデートという感じだ。今時の携帯電話などのように、簡単に連絡が取れて、居場所がわかるような付き合いをする関係ではない。俺たちは透明人間、神様の力に任せた。
こうして、俺たちは公園を去った。
俺の心の中には、彼女の微笑みが残っていた。過去に見たことがあっただろうか、女性が俺に微笑んでくれた表情を。畳に寝転び、俺は夜空を見上げた。
頭の中で呟いた。
「彼女の名前は、月子さんか……」
春を迎えた空に、まだ満月に満たない月が浮かんでいる。この月は上弦の月といえばいいか、そして、表面にはかすかなデコボコが見える。見られたくないものをかすかに隠した上弦の月の如く、彼女も多少は思いを隠しつつ、素直に話してくれたのか。彼女との出逢いを予感していたのかと思うほど、月は微笑んでいるように見えた。
しかし、今日の出来事は俺にとって何だったのかと冷静に考える時間があったのも事実だ。それは、彼女は同じ透明人間だから話をしたかっただけなのだと俺は思おうとしていた。葛藤して、彼女のことを気にする気持ちが呼び起こされたのだが、いつかは忘れ物のように、どこかに置いてこなければならないという気持ちがわずかに膨らんでいたのも嘘ではなかった。だから、彼女は透明人間相手に会話を求めているだけなのだと、自分に何度も言い聞かせた。




