第二章 男の素性
男は、ある町に住んでいた。一見、あまり目立たない男。いや、目立ちたくない男と言った方がいいだろう。彼は坊主頭で無精髭を生やし、不潔とは言わないまでも、決して異性にもてそうなタイプではなかった。年齢は五十歳、紳士という言葉さえ、男には無縁だった。
男は、社会の片隅で、隠れるように生きることを望んでいた。まるで空気のように、存在を隠すことを望んでいた。しかし、そんなことを気にする必要はない。男の存在が目立つことはないからだ。
俺は、いつも人気のない殺風景な路地を歩き家路を急いだ。都会では街灯りが眩し過ぎて、夜空の月が鮮明に見えることはほとんどない。大抵の人は、都会のイルミネーションが造りあげる幻想的な空間に酔いしれることだろう。俺はそんな灯りが苦手だった。できれば俺の姿さえ見えないような場所で、ひっそりと暮らしたい。俺を照らすのは、造られた世界の灯りの中に浮かぶ月の光だけでいい。
俺は、賑やかな繁華街へ赴き、お金を落とすことはない。造られた栄華な街の中を黙然と歩いていれば、どこの誰ともわからない、空気のように扱われるだろう。俺が周囲を気にしても、周りは俺を気にもしないし、気にも留めることもないだろう。昨日も今日も、俺は何も変わらない。きっと明日も、大きな変化はないだろう。人の目に留まるようなことになれば、いつも無精髭を生やしている痩せ男の俺は、陰気な人間に見られ、場合によっては都会から排除されるだろう。
俺の一日は、六時に起きるところから始まる。箱詰め状態の通勤電車で出勤し、機械の部品を製造する工場で、特段難しくはない仕事をしている。作業時間が終われば退社する。あとは電車に乗り、電車に揺られ、最寄り駅で下車して自宅に帰るだけだ。
ただ、俺には変な一面もある。帰りの電車は、駅に着いてもわざと一便だけ遅らせて、次の電車に乗る。この行動に特別な意味はないのだが、できる限りゆっくりしたいという気持ちがそうさせているのかもしれない。駅で電車を待ちながら、人混みの流れを眺め、早足で進む人たちの姿をぼおっとして見ることが日課になっていた。電車に乗ったあとは、窓際にもたれ掛かって外を流れる景色を見ながら、最寄り駅に到着するまでのわずかな時間を潰す。電車の窓から見える景色は、高層ビルが立ち並ぶ大都会の風景。やがて大きな河川を通り越し、すぐに俺が住む街の駅に着く。
駅から俺の住むアパートまで、道にはほとんど外灯がない。この道を歩いていても、ほとんど人とすれ違うことはない。線路沿いを歩いて細い路地を抜け、大きな道を跨ぐように交差する歩道橋を渡った後、しばらくはちょっとした人ごみの中を通る。そこからまた路地に入り、着いた場所が俺の住むアパートだ。
小さな二階建てのアパートには、八世帯が居住している。建築されてから、ゆうに五十余年近くは経過している。リフォームされることなく、壁や屋根は色が褪せている。俺の部屋は二階の角部屋になるが、ほんの少し強い風が吹いただけでギシギシとうねりをあげる。古く錆びた鉄製の屋外階段は、音を消そうとしてもカツン……カツン……と、重くきしむ音がする。決してリズミカルではない。それどころか、ぎこちない中途半端な音だ。自分の消極的な心とよく似ている。
俺は、死神でも憑いているのかと思うほど陰気だし、独り身で家族はいない。いつどこで倒れても、誰も気づく事はないだろう。「いつ壊れてもいいよ」とリフォームさえされていないこのアパートと、とてもよく似ている。
このアパートに暮らし始めて、二十年が過ぎた。それなのに、このアパートに暮らしている住人と顔を合わすことがほとんどない。俺と似たような人生を送っている人間ばかりなのだろうか。壁一つ隔てた向こうの人間のことなどまったく知らない。もちろん、このアパートの住人も、俺がどんな人間なのかを知らないだろう。きっと、そんなことはどうでもいいと思っているに違いない。なぜなら、俺がそう思うのだから。
部屋では、小さな豆電球一つの灯りで生活している。最近は、それが心地良い。六畳の部屋に暖色系のオレンジ球一つで十分対応できるのだ。窓を開けて空を見上げたら、きれいな月が見える。木の枝が、ちょうどアパートの屋根の高さより少し低いところまで伸びているので、俺の部屋の中は外から隠れて見えないし、窓枠に腰掛けて夜空を見上げることができる。
いつも、部屋に差し込む月明かりの下で、時間を止めるようにひっそりと暮らしている。外から聞こえてくる音は、アパートの傍を流れる川の水音。俺は瞬きもせず、耳を澄ませて川の流れる音を聞く。自然は俺を差別しない。光も音も、平等に接してくれる。
ここは、都会から少し離れていて、少し田舎の香りがする場所だ。夏でも、川から涼しい風が流れ込んでくる。俺にとっての贅沢は、この月夜と自然の風だ。冬場は窓を開けたままにはできないが、春から秋にかけては、この贅沢を味わう時間が長くなる。俺の存在を認めてくれるのは、唯一この情景だけだ。
俺は、今は機械の部品を製造する仕事だが、その前は、土方をしていた。トンネル工事などの建設業だった。工業高校を卒業していたこともあって、知識だけはあった。しかし、重労働で体を壊し、転職したのだ。
職場の昼休み時間は一時間。工場の建物から出たところにちょっとした休憩場所があって、いつもそこの手作りの椅子に座って食事を摂る。自分で握った大きめのおにぎり二つとたまご焼き、あとは漬け物。それと、工場に置いてあるポットで沸いたお湯をお椀に注いだインスタントのみそ汁。町工場で働いていれば、みんな似たり寄ったりの生活だ。一流企業に比べればたいした給料はもらってないが、なんとか生活はやっていける。ただ、独り者の俺と世帯のある者とは、弁当の中身が違った。奥さんの手料理弁当は、栄養バランスが考えられていて、野菜もいい具合に入っていて彩りも良い。だから、ゆっくりと味わっている者が多い。
一時間の休憩時間は俺には長いくらいだった。貧素な弁当は、食べるのに十分もかからない。俺は、食事を済ませると、そのままその場に寝転がり昼寝をする。男ばかりの職場に色気も何もない。仕事中にかいた汗を拭いたタオルを首に掛けているが、それを顔に被せてしばしの間だけ眠る。そして午後の仕事が始まり、決まった仕事をする。定時になればチャイムが鳴り、簡易的に造られた風呂場で簡単にシャワーを浴びて帰宅の徒につく。俺の一年は、このような毎日の繰り返しなのだ。




