第十七章 それは突然に
月曜日は二人一緒に休むことにしていた。日曜日の夜遅く、東京へ到着するようにバスと電車を乗り継ぎ帰ることにしていた。この日は天気が崩れ、昼から雨模様に変わった。
乗鞍を後にして夕方前の路線バスに乗りこみ松本に向かう。日曜日だったこともあり、空席は少なくはなかった。バスはどれくらい走っただろうか、俺も彼女も疲れきって車内ですぐに眠っていた。
しばらくして突然にバスが大きく揺れ始めた。その瞬間、俺は完全に目が覚めた。運転手が急ブレーキをかけバスは停車したのだ。
車内では乗客全員が前のめりになる。俺も彼女も、前席の椅子に体を打ちつけた。車内から大きな悲鳴が次々と上がる。バスが横転することはなかったが状況がわからない。ただ、周囲が暗かったことでトンネル内を走行中だったことはすぐにわかった。
そして、大きなフロントガラスから見えたものは、トンネル内で崩落が起こっている光景だった。それと、押し潰された車両が数台見える。バスはかろうじて崩落した位置の手前で停車して潰されることはなかった。彼女に怪我はなく無事だった。俺も前の席に右肩を打ちつけたが、それほど痛みはない。乗客の中に、幸いにも重症者はいなかった。
バスの後続車には、同じように何台かの車両が数珠繋ぎのように衝突して玉突き事故を起こしていたが、速度が出ていなかったことの怪我の功名か、大事故には至っていなかったようだ。
どうも地震と大雨によって、トンネル出口付近で崩落が起こったようだ。前方は岩や土によって道路が塞がれていたが、後方からなら歩いていけばトンネルから抜けることはできそうだった。
トンネル内の照明は部分的に切れていたが、何台かの車両のライトによってトンネル内が照らされていた。バス内の照明も付いている。
彼女に話した。
「みんなと一緒に歩いて避難しろ」
「こうさんは、どうするの?」
俺は前の車に生存者がいないか確かめに行くことにした。そして彼女には、壁伝いに歩いて先にトンネルの外に避難して待っていてくれと伝えた。俺は、他の乗客にも声をかけた。
まさか俺が主導権を握るような行動に出ているとは、俺自身も信じられなかった。何も意識してなかった。ただ、彼女を守りたい一心だけのはずなのに、彼女と避難すればよいはずなのに、変な勇気が何かに導かれるように、他の人たちまで守ろうとする行動に変わっていた。
彼女は一緒にいると駄々をこねたが、「必ず戻るから」と俺は強く彼女を突き放した。
車内では悲鳴も挙がっていたが、誰もが大災害に巻き込まれたらパニックになるだろう。俺だって恐怖に押し潰されそうだ。災害が起こっているトンネルの中、灯りが途絶えかかっている世界にいるのだから。
俺は変な正義感からか、乗客の中の若い男性たちに、みんなを誘導して避難してくれと伝えた。
誰もがいくら手探りでと言ったところで、安全にトンネルの外まで辿り着ける保証はない。いつまた余震で、これ以上の崩落があるかもわからない。崩落でトンネル内は空気の流れも悪くなっている。このトンネルはかなり長かった。人間の心理では、早く安心できる場所に移動したい気持ちが強くなり、トンネルの中にいるだけで人は平常心ではいられないだろう。
突然の災害では勝手な行動をとる人間ばかりになることが多いと聞いたことがある。まともな精神力で判断できる能力が無くなり、とんでもないことをする人間もいる。しかし、救助する行動より避難する行動は、自分が助かりたい気持ちが優先するからか、乗客に歩いて避難するように伝えると、俺の話をすんなりと聞き入れてくれた。このような時、リーダー的な人の声に追従する習性があるのか、誰か一人の声に従おうとするのか。避難という安全性を選べば、それを疑わずついていくのが人間だということなのだろう。だが、思い出が駆け巡るのとは違い、この場所がどんなに危険なのか次々に想像できた。
バスの乗客は三十名程度。後ろの車に何人くらいの人がいるのだろうか。
また、彼女に伝えた。
最悪の場合、透明人間になる薬をみんなに渡すこと。知られたくはないが、どうしてもという時、透明人間になれば物をすり抜けることができる。だから、そういう場面ではみんなに飲ませるように。
俺の分と彼女の分を合わせれば、ここにいる人たちが飲むには十分だった。俺は瓶の中から適当と思うだけの薬を取り、残りは彼女に渡した。
「ちゃんと私のところに戻ってきてよ! もう独りになるのは嫌だよ!」
彼女の大きな声がトンネル内に響いた。
彼女は抱きついてきた。ほんのひと時の抱擁だった。乗用車のヘッドライトの明かりの前で彼女を抱きしめ、何も言わず俺は微笑んだ。彼女を安心させるため、俺がとった行動は笑顔でこの場から彼女を安心させて避難させることだった。
俺は、このような状況下だったが嬉しかった。今まで人に頼られることがなかった男を彼女のような優しい女性が帰りを待ってくれている。初めてキスをして年甲斐もなく赤面することもあった。俺の淡春は、今、彼女と一つの物語を完成させようとしていた。
俺は、自分一人が格好をつけたかった訳ではないし英雄になってやろうとかそんな気持ちは微塵もなかった。ただ、この行動に説明ができる理由は何もないのだが、唯一、秘密裏に透明人間になれることから、大勢いては逆に困る状況にしたくなかった。一人で助ける選択肢を選んだことは事実だ。
彼女たちが避難するようになった後、俺は土砂に埋もれ潰れた車の中にも向かって大きな声で呼び掛けた。
「おおーい、誰かいるか! いたら返事をしてくれ!」
何度も呼びかける。そして、埋もれかかった車の中を覗き込んだ。男性運転手の姿がかすかに見える。この車は運転手だけのようだ。俺と同じくらいの年齢か、暗くてはっきりしない。
「おおーい、大丈夫かぁ!」
呼んでも返事がない。
もう一台、並ぶようにして埋もれ、潰れている車の中にも向かって叫んだ。
「生きているか!」
この車は男女二人の姿が見える。潰れ方はひどくない。ボンネットからフロントガラス付近が押し潰されていたが、運転席や助手席はひどく潰れていなかった。もう一台の潰れた車に追突するような形で崩落に巻き込まれたようで、追突した瞬間に、横ずれしたような格好で車が停車している。
はっきりとした返事があった。
「助けてくれ……」
少しだけ、弱々しくなっているがしっかりと助けを求めてくる。奥さんだろうか、声もした。二人は足が挟まっているだけのようだ。しかし、俺一人で助けられるほどの力は持ち合わせていない。どうやって二人をこの車から助けてトンネルの外まで運び出すかだ。
想定していた通り、透明人間になる薬を飲むしかないか。薬のことは誰にも話さず秘密でなければならない。冷静な判断ができない状況に陥っていることくらい自分でもわかる。こうやって考えている時間さえもったいない。一刻も早く助け出すしかない。
当然のこと、救出する道具がある訳ではなかった。こんな光景を目の当たりにして、誰でも、どうやって助け出すのだと言うだろう。目の前にあるのはこの薬だけ。
もう一度、もう一台の車の方へ行き呼びかけた。
「声が聞こえているなら、返事をしてくれ!」
小さな虫の鳴き声のような息絶えそうな声さえもない。やはり、この男は駄目なのか?
俺は、また二人が乗っている車に戻り伝えた。
今から言うことを冷静に聞いてくれと。
恐怖からか不安な声で二人が助けを求めてくる。
「ここにいるのは俺だけだ。でも、なんとかして二人を助けたい」
「あんた、一人だけなのか?」
男性の声だ。俺に語りかけてきた。
俺は、今から言うことは信じられない話になること。しかし、そうすることしか助ける方法がないこと。助かるには透明人間になってもらうしかないことを伝えた。
「透明人間?」
疑うのが当然だろう。しかし、生きようとする返事だ。
透明人間になれば物質を通り抜けることができる。今から俺が透明人間になって薬を持って行く。薬を飲めば、潰れた車から抜け出すことができると伝えたが、「こんな状況なのに馬鹿なことを言わないでくれ、そんなこと信じられる訳がないだろ!」と言い返してきた。
男は俺の言葉を信用しようとしない。
信用なんてしなくていい。とにかく言う通りにしろとしか言えなかった。
男は沈黙をする。
そして、嘘でもいい、言うことを聞くから頼むと言ってきた。
死を待つ状況にあれば嘘でも信じたいはずだ。それは俺だって同じ気持ちになる。彼の訴えはひしひしと俺の心に伝わってきた。
「今から俺が薬を飲むから」
そう伝え、俺は透明人間になった。
「薬を飲んだぞ、今から車の中に入っていくから」
俺は、すんなりと車内に入ることができた。
「俺は横まで来たぞ」
「本当に透明人間になったのか?」
「ああ、そうだ。今から薬を渡すから飲むんだ」
「本当だ、姿が見えないのに貴方の手がわかる」
「さあ、この薬を飲んで」
本当に透明人間になるなんて。信じられないという。
二人は薬を飲み透明人間になったはずだ。
「俺の姿が見えるか?」
「大丈夫、はっきりと見えます」
二人に透明人間になった時の要領を説明した。
「ああ、本当! 体がすり抜ける。嘘じゃない、こんなことがあるなんて」
俺は、隣の潰れた車内に入ってみること。返事がないが、もしかしたらまだ生きているかもしれないこと。奥さんには、車外に出たらバスの前で待つように伝えた。
「隣の車の人を助ける?」
声をかけて返答はなかったが透明人間になれば潰れた車の中に入って行くことができる。生きているか直接確認ができることを伝えた。
「あなたに一緒に来て欲しい」
「もちろん、協力するよ」
俺は男性と一緒に潰れた車の中に入った。
男に声をかける。
「おい、大丈夫か。声が聞こえるなら返事をしてくれ」
俺は、男の首に指を当てる。動脈が動いているか確かめた。奇跡か脈がある。まだ心臓も動いている。しかし返事はない。こんな暗闇の中では、心臓が動いていることくらいしかわからない。
「意識が戻ってくれるなら、薬を飲ませて透明人間にさせることができるのに」
そう言いながら、男の頬を軽く叩いた。
しばらくすると、男は息が漏れるようにかすかに言葉を発した。
「ううぅぅぅぅ、誰かいるのか」
かなり弱々しい声だが、男が意識を取り戻す。
良かった、返事をしてくれた。
この男を助け出すのに薬を飲ませなければならない。今の状況下で、俺たちが透明人間になっていることを説明しても意味不明だ。おまけに、この暗闇なら透明人間になっていることさえわかってないはずだ。
「口を開けることはできるか?」
幸いにも男は崩落によって意識を失って、あとは右足の骨折を負っていただけだった。口に手を当てると、なんとか開けられる。俺は手に持っていた薬を口の中に放り込むように入れた。
「いいか、この薬を飲み込んでくれ。無理でもいいから絶対に飲み込め!」
私は強引に言い切った。
「絶対に飲め!」と。
「の・ん・だ」
男が言った。
これで車中から助け出せる。透明人間になった男性と一瞬だが喜んだ。
男を車外に出しバスの前まで運び、寝かせた。バスのヘッドライトを照明にして、男の症状を確認する。やはり右足の骨折があるようだ。軽い出血もある。いくら透明人間になっていても、出血だけはどうしようもない。骨折だけなら透明人間のまま俺たちの力で運ぶことはできるが、残念ながら透明人間のままでは出血の手当ができない。一度、この男を元の姿に戻さないといけなかった。
先に助けた二人が元の姿に戻ったら、もう透明人間になる薬はない。それにトンネルから抜け出すまでにまた何が起こるかわからない。残っている薬は一粒だけ。ほかにあるのは元の姿に戻るための薬だけだ。負傷をしている男に元の姿に戻る薬を飲ませるしかない。そして、手当をしてからもう一度、男に飲ませることにする。
二人に話した。
元に戻る薬のこと。飲むのはトンネルを抜けた時にすること。そして、このことは絶対に口外しないことを。
俺は、この男性の手当をするために一度元の姿に戻り、そして、この男も一度元の姿に戻すと。ここであったことは絶対に秘密にして欲しいと念押しした。
二人が顔を見合わせ俺に言ってきた。
俺たちも透明人間がいたとは思ってなかったけど、今はこうして自分たちが透明人間になっている。このことは誰にも言わない、もちろん秘密だと言ってくれた。
女性も、こんな凄い事故に遭遇して、私たちが生きていられるのはあなたのお陰だと感謝してくれた。
「これから、どうしたらいいか言ってくれ」
「まずは止血をしたい」
俺は止血と搬送に必要な道具集めを二人に頼んだ。男は骨折と出血で痛みが増していて、意識も薄れかかっている。
俺は指示をした後に考えていた。乗鞍に来る時、このトンネルは四キロ程の長さだったことを記憶していた。ここがトンネルの出口なら、透明人間のままで土砂の中を通り抜ければ良い。それに、バスの後続車両の人たちも乗客たちも無事に避難できただろうか。この長いトンネルを歩いて出るにはかなりの時間がかかることだろうと。
考察している時間は長く感じられた。災害に巻き込まれたパニックで、時間の感覚が乱れていたのかもしれない。こんな災害を経験する人はまずいない。きっと、時間を気にする余裕すらないのが当たり前だと俺は感じていた。
今、強く脳裏に浮かびあがるのは彼女のことだった。この瞬間、彼女と出逢った時のことから今までのことが走馬燈のように頭の中を駆け巡った。彼女には、絶対に無事でいて欲しかった。俺は、彼女を守りたいと思うようになってから、当然のことだが、こんなことに巻き込まれてしまうとは思ってもいなかった。
あの頃、人と接することが嫌いで、陰に隠れるような生活を送っていた俺の前に現れた女性占い師。透明人間になる薬をもらい、半信半疑で飲んで透明人間になった。そして、街に出て公園で休んでいたところに、透明人間として現れた女性。まさか、同じように薬をもらって透明人間になっている人がいたとは思わなかった。彼女と話をして、また逢う約束をした。次第に彼女に惹かれ、彼女に内緒で彼女の職場を探したこと。同じように、彼女も透明人間となって俺の職場へ来ていたこと。
彼女が高校を卒業する年に、阪神淡路大震災に遭い、両親を亡くし独りぼっちになっていたこと。
定期的に逢うようになり、遊びに行くようになったこと。花火を一緒に見ようと約束をして、機械のトラブルから仕事が長引き、彼女と逢えないと思ったとき、透明人間になっていた彼女がずっと駅で待ってくれていたこと。出店に行って、その後、俺のアパートで一緒に光環を見たこと。その夜、彼女は俺の家に泊まり、初めて彼女とキスをしたこと。そして、二人で旅行に来て露天風呂に入ったこと。
彼女を守るからと約束したばかりだったのに。こんな状況下で俺はぼんやりとしていたようだ。
やがて二人がバスの中から出てきた。
「言われたものはなんとかあった。俺たちは、カーテンを結んで担架を作るよ」
「ありがとう、お願いするよ」
「貴方の名前は? 命の恩人の名前も知らないなんて失礼だよね」
「俺の名前は、遠野虹一」
彼らも名前を教えてくれた。男性が、自分たちは新婚で三十歳を過ぎて結婚、ちょっとした旅行からの帰り道だったという。担架を作りながら、俺たちは再崩落しそうな中、互いに紹介し合った。一瞬だが安堵した瞬間だった。
そうして男に薬を飲ませ、その後、俺が元の姿に戻る薬を飲んだ。夫婦二人の姿が見えなくなった。
俺は、男の手当で出血している右足下腿部の止血と固定をする。止血と両足の固定はできた。この人を運ばないといけない。担架ができたか確認した。こんな感じだと、カーテンで作られた担架だけが見える。
そして、脱出方法を二人に説明した。この男性にもう一度透明人間になる薬を飲ませ、あとは手作りの担架に男性を載せ、この土砂の中を通り抜けていく。
「遠野さんはどうするんだ。もう薬はないだろ?」
俺はもう透明人間にはなれない。だけど、あなたたち二人の力があれば、この男性を崩落した向こう側まで連れて行くことができる。俺は、反対の方向に向かって避難する。幸いにも避難道があるようだから。ここからはなんとか二人でと頼んだ。
「この人を私たちで助けられるかな」
奥さんは自信がないようだったが、俺たちの力でこの人を救うぞと、男性が力強く言ってくれた。
「うん、わかった。頑張ってみる」
申し訳ないと、俺も再度頼んだ。
貴方がいたからこうして生きていられる。本当感謝している。トンネルを抜けたら、また会おう。外で待っているからと言ってくれた。
「そうだな、また会えるように」
今は見えない二人と会話をしていた。
「約束通り、このことは秘密に。トンネルから出られたら、この人にも薬をすぐに飲ませてくれ」
「わかっている。ちゃんと約束するよ」
俺は、男性にまた薬を飲ませた。
「じゃあ、この人をお願いするよ」
「わかった、任せてくれ」
そして三人は、ヘッドライトで照らされている崩落した土砂の方へ向かって行った。透明人間なら、歩いて土砂をすり抜けられる。俺は、力が抜けて安堵した。
この崩落から時間はどれくらい経つのか。腕時計を見たらすでに深夜を回っている。
俺は、先に避難させた彼女が気がかりだった。彼女たちは、透明人間になる薬を飲まないで無事に避難できたのか?
早く逢いたかった。彼女に逢って抱きしめたかった。こんな俺が彼女に出逢わなかったら、平凡な人生で一生が終わっていたことだろう。今も平凡だが、他人には理解できない気持ちが芽生えることはなかったと思う。
五十歳を過ぎて、初めての恋。世間では見向きもされないおっさんが、彼女に恋をして、彼女に惹かれて離れたくなくなっていた。
彼女を想いながら、この長いトンネルをまた戻るかのようにゆっくりと歩き始めた。彼女もこの道をトンネルの出口を目指して未だに歩んでいるのかもしれない。
途中には、追突した車両が放置されているが人はいない。きっと彼女たちが、この先は土砂の崩落で出られないことを告げたのだろう。そして反対車線に車がないことから、この先は問題なく車が出られる状況だと確信して、必死に出口を目指して歩いた。だが、出口は遠い。走ったり歩いたりの繰り返しだが、トンネルの中にいる恐怖が時間を長く感じさせた。
俺は、キーが付いたまま放置されている一台の車両を見つけた。特別な車両ではない。俺が歩いてきた方向に向かって走っていた車だが、衝突もなく道路端の路側帯に停車した車両だ。この車に乗って行けばすぐ脱出ができる。おまけに、出口まで約二キロの表示がある。俺はついていると思った。あと少しでこの恐怖ともおさらばできるし、この災害から無事に帰還できると、本当に安堵した瞬間だ。彼女に早く会いたい激しい欲求から、当然のように車での脱出を選んだ。
トンネルの中は地震の影響はないだろうし、あの場所のような崩落はないだろうと余裕に考えられるくらい、心に圧し掛かっていた重圧を、トンネル内をかすかに走ってくる風が吹き飛ばすかの如く、すぅっと消え去った。
そんな時間を迎え、そして、すぐに車に乗りこみ反転させて車を走らせる。完全に脱出できたと微笑みさえあった。
出口が近いと思った時だ。また地震か、大きく車が揺れる。
だが、出口がもうそこだという時、俺は運がないのか、衝突でトンネル内に放置されていた車が燃えていた。ガソリンが漏れていたのか、何台かの車両が一気に燃えている。その中には大型トラックが含まれ、トンネルからの脱出は不可能だった。
炎が確認できた瞬間、一瞬の出来事で爆発が起こった。俺が乗る車は、爆風で揺れるくらいでは済まなかった。爆風の勢いは恐ろしく、車はトンネル内の壁体に叩きつけられるように横倒しにされ、今度は俺が負傷をした。
その時に気づいた。出口まであと一OOmの表示があった。トンネルの出入口まで来ていたのだ。目の前に開けた空間があるのに、あと少しなのにと、怒りを覚えたような感覚だ。
爆風で横倒しにされた車から脱出したが、ドアのガラスに頭を打ち、右足をひねってしまっていた。爆風で炎が片方の出入口に向かうかのように、トンネルの上方に黒煙が溜まり、熱気までもが俺の周りを取り囲む。
俺はここで終わりなのか?
何か悪いことをしてきたか、どうしてこういうことに巻き込まれなければならないのだ。考える余地さえないほどに、不安と恐怖とすべての悪が一度に圧し掛かる。俺は体が震えていた。そして、あきらめの気持ちが強くなった。もうどうしようもないと。ついに、ここで終わりか。
五十余年の俺の人生は、今まで人の視線が気になって避けるようにしていた人生だった。目立たないようにすることで、自分が楽な気持ちでいられた。まさしく今、この崩落と火災の板挟みのトンネル内で、独りぼっちで誰にも気づかれることがないまま死んでいくのか。変な意味で、神様は俺の願いを叶えようとしたのか。
トンネル内は意外と静かだ。真っ赤な炎の中の一つのヘッドライトの明かりだけが、唯一癒してくれているようだった。今まで誰も足を踏み入れたことのない洞窟を探検するように、一人俺は、このような緊急事態が起こっているトンネルの中で静寂を感じとり、絶望感を味わっていた。
自分の呼吸音が聞こえ、その呼吸はため息に変わるように、時折、「ふぅ」とだらしないものに変わることが自分自身でも感じられた。行き場を失った鼠のように、細長い空間の中を行き来して、死を待つしかないのか。それが現実なのだと諦めさせられるようだ。袋の鼠ということわざは、今の俺の状態を言うのだろう。逃げようがないところに、これでもかと追い打ちをかけるように命を仕留められるようだ。
空気が薄くなってきたことも、誰に言われるでもなく感じた。もちろん俺しかいないから、そんなことを言って周囲がパニックになることはないが、独りでもパニックにはなるものなのだと実感する。トンネル内は煙が充満して酸素が薄くなっていき、長い筒状の中で俺は行き場を失う。このままなら死んでしまう。
外界からの救助には時間がかかるだろう。地震があってトンネルの出口が崩落するくらいだから、広範囲で災害が起こっているに違いない。ここの救助が優先的に行われるとは思えない。
こんな男一人がこの世から消えても、誰かの目に止まるほどの男ではなかったと、俺は、情けない人生だったと振り返っていた。恐怖心に自分の精神が破壊されそうだ。その中で、ここから脱出できたであろう大勢の人たちがいたこと。その中に愛した女性がいたこと。俺の人生が、もしかしたら終わりになろうとする年に、初めて人のためになる行いができたのか。
無事に彼女の元に戻るからと、彼女をこれから守るからと、彼女にはっきりと伝えたばかりなのに。また悲しい惨劇によって、彼女の心に一つの傷を残してしまうことになるのか。
情けない、こんなことでいいのか。いや違う。俺の願いは彼女と一緒にいること。彼女の元に戻ることではないか。災害の中の静かな空間にいる俺に、冷静な判断をしなさいと、神様はわざと俺が一人になるように仕向けたのか。俺は思いはせた。悔し涙か、自分の口元にしょっぱさを感じる。大量の涙が、口尻まで流れ出していたのは、生きて彼女の元に戻りたい気持ちからなのかもしれない。
俺は、神様や仏様に祈ることがなかった人間だ。今、助けてくれるなら、何にでも祈る気持ちになっていた。どうしても彼女に逢いたい、その一心だ。
ああ、ひと目だけでも彼女に逢えるのなら、後はどうなってもいい。これが神頼みか、一つの願いが叶うなら、あとは何も要らない心理になること。これだけの体験をさせられ神様にでも何にでも祈る気持ちなのに、今は神様や仏様を恨みたくもなっている。情けない、この世から姿が見えなくても良いと思ったことがあったのに、今は生きたい、誰か助けてくれと言いたい。涙が流れると同時に、複雑な思いが脳裏を埋めていった。
こんな俺は、死を覚悟して車外の道路に低く寝そべり、色々と考えている間に気付いたものがあった。傍に消火栓がある、水が出せるはずだ。そして、思い出した。避難道がトンネルに沿って取りつけられていたことを。ここから二〇〇m程戻れば避難道への入り口がある。
いきなりだが勇気が湧いた。まだ神は俺を見捨ててはいない。目の前に生きるチャンスがあると教えてくれた。
すぐに消火栓のスイッチを押してバルブをひねった。水が出た。煙と熱気で喉に痛みがあったが、周りの熱さを少しは和らげてくれた。口に消火栓からの水をかけ、しばらくこの場に寝たままで水を出し続ける。
次は、この場所から避難道への入り口まで移動する方法だ。単純に走って行くしかないが、黒煙が充満しているトンネルの中を闇雲に走って行けばすぐに倒れてしまう。俺はすでに軽い眩暈を起こしかけていた。そして、意識も少しだが薄れていく感じがしていた。
このホースを持ち行けるところまで行って、そこからは一気に避難道に入りこむか? いや、消火栓から消火栓に渡り歩くか。そうすれば水を出しながら避難道まで行ける。冷静に考えられる余裕はなかったが、そうしよう、いや、そうすべきだ。
黒煙で前は見えない。水を自分の顔にかけながら這っていくように前へ進んだ。やがて次の消火栓が薄らとだが視野に入る。その消火栓でまた放水をしながら前へと進む。
進む左手に緑色の光る表示が見えた。避難道の入り口だ。やった、やっと着いた。
俺の体を水浸しにして、避難道の周囲めがけて放水を続け、煙の隙間ができた一瞬に避難道の扉を開けて入りこむ。
良かった。避難道には黒煙はない。一本筋が違うと、これこそが本当の静寂だと感じられるほど平穏だと思える空間が広がり、出口方向の案内が見られる。細い通路なのに癒しの空間がここにあった。
額から出血があるが、右足を引きずりながら俺はゆっくりと出口に向かった。もうこれで安全だと思うと、途中、通路に寝るようにして休んでいた。
「もういいよな、もう何も怖い思いをしなくてもいいよな……」
ほっとすると同時に、思い切り泣いた。大の字で上を向き、通路を照らしている照明に向かい、話しかけていた。
月夜のように、照明が今の自分を癒してくれる。もう力が入らない、体が動かない、重くて動かない。目を閉じて俺は眠るようになった。これは、俺にとっての戦いだったのか、よくわからないがどうでも良くなっていた。それからも、頭の奥深くにある引き出しを開けて、彼女の存在を確認するしかできなくなっていた。
俺の脳は正常だったのだろうか。考察することは曖昧で、記憶がめちゃくちゃなような感じさえする。気付かなかった、右足から出血している。
意識が遠のく感じがしたのは出血の影響だったのか。人の手当てをして助けようとした俺は、逆に出血でこの世を去るのか?
最後はこんなことでこの通路に一人倒れ、息をしなくなったまま救助の手が入ってきた瞬間に、やっと気付いてもらえるのだろうか。
ついに終わったな……。
その時だった。
「こうさん! こうさん!」
俺を呼ぶ声がする。彼女の声だ。
必死に脱出しようとした俺の耳元で、呼ぶ声がした。
「薬だよ、薬!」
「えっ、月ちゃんか?」
「そうだよ、私だよ、わたし! 早く、薬を飲んで!」
彼女が透明人間となり、助けに来た。みんなが無事に脱出して、俺の帰りを待ちくたびれたのか。いや、そんな裕著な気持ちでいられるはずはないはず。激しい泣き声で、「早く!」と言ってくる。
ここに彼女がいる。やっと彼女の傍に戻れたと思う気持ちが、俺の心に芽生えた。生死の境にいて心の重荷が瞬間的に吹っ飛ぶ。
「月ちゃん、ありがと。薬を飲んだよ」
俺の体はその瞬間から軽くなった。そして、彼女の手を握りしめて外を目指した。
やがて、外の景色が見えた。そこには先に避難をしていた人たちが集まっている姿があった。誰かが携帯で電話をしていたのだろう、次々と、遠くからサイレンの音がする。救助の手が入っていた。
トンネルの手前で事故を免れた車がライトを灯してトンネルを照らしている。避難した人たちは、毛布で体をくるんでいる。雨は上がり、朝日が昇ろうとする時間帯になっていた。
俺は、透明人間から元に戻る薬を彼女からもらい、一緒に飲んで元の姿に戻った。
「良かった、みんな無事で」
俺は、彼女の体をぎゅっと抱きしめた。力いっぱいに抱きしめた。しかし目がかすんでいき、段々と意識が薄れていく感じがした。出血がひどくなっていたことを忘れていた。
足を引きずりながら両手で体を引くように地面を這った。そして、そのまま横たわった。
「こうさん、良かった、こうさん、良かったよ」
彼女は涙が頬を伝うくらい、大泣きしている。
「もう、私を一人にしないでよ!」
彼女の声が次第に薄れていった。出血のせいなのか意識が薄れていく。
「月ちゃん、ごめんな。一人にさせて、寂しい思いをさせて。みんな薬は飲まずに避難することができたんだね。最悪の事態は避けられたんだ、良かった」
「もういいよ。何も言わないで」
「ごめん」
パチン、軽く手のひらを叩かれた。
「謝ったらしっぺでしょ!」
少し涙顔の中に微笑んだ月ちゃんの表情が見えた。
「あっ、足から出血が!」
俺は、火災の爆風で車ごと吹っ飛ばされて足を切ったようだ。でも、彼女が来てくれなかったら、こうやって逢うことができなかったかもしれない。
「早く言ってよ、なんでよ。早く止血しないと!」
彼女が俺の足の止血をしようとする。
「もう、ばかぁ!」
また激しく泣き出す彼女。
「ごめんな。俺が守ると言いながら、約束が守れそうもなくて」
「いいよ、私を守ってくれたよ。ほら、こうやって私を守ってくれたよ」
俺は、道路に仰向けになり空を見上げた。
「ほら、あそこにまん丸の月が見えているよ。もう夜明けが近い」
東の空はまだかすかに朝日が覗こうとして、西の空には丸い月が浮かんでいた。
「月ちゃん、見てみなよ。凄い、虹が出来ているよ」
彼女は言葉を失う。泣き顔ながらも感動した表情に変わった。
まさか、月虹?
あの向こうの山に虹が架かっていた。月がその虹の半円の中にあった。
「神様からのプレゼントか。良かったね、月虹だよ」
「うん、月虹だ」
その光景に目を奪われる中、突然、俺の足先が段々と薄くなっていった。
「なんで? 足が消えていく! なんで、なんでよ。嫌だ、いやだよ。こうさん、なんで! 消えないで! 私を守るって約束したのに、一人にしないって言ったのに!」
俺は、まるでこれから肉に解体されるブロイラーや豚か牛のように、身動きがとれないトラックの荷台に載せられている家畜のようだった。やがて死を迎えるだけの家畜たちは、自分の死を悟っているかの如く、目に涙を溜めているように見える。トラックの荷台で揺られ、屠殺場に送られることを家畜たちは知らないが、自然と殺されることに気付くのだろうか。今の俺は、そんな家畜のようになっていたのかもしれない。
拒否したくてもできない、諦めるしかない状況で、俺は逆らうことなど完全にできないと悟った。
俺の両足の先は完全に消えた。徐々にだが、下半身もゆっくりと消え始めようとしていた。きっとこれが占い師の言っていたことかもしれない。罪でも犯そうとすれば、何かが起こると言われたこと。俺は罪を犯していないけど、きっと、透明人間になる薬を他の人に飲ませ、透明人間の存在を知らせてしまったからかもしれない。
「こうさんはその人たちを助けるために透明人間のことを話しただけでしょ。なんで、悪いことなんかしてない。逆でしょ、良いことしたのに。なんで!」
俺は、最後の言葉を絞り出した。
「俺が消えても、ちゃんと月ちゃんを見守るよ。ほら、あの虹が俺だよ。あそこの丸い月が月ちゃんだ。月ちゃん、悲しまないでくれ。俺は月ちゃんの中で生きる。俺は、月ちゃんに出逢って出逢えて感謝している。俺みたいな影の薄い男の前に現れて、俺に人を愛する気持ちを教えてくれた。人生で、たった一人の女性を愛することができた」
彼女が消えていこうとする俺の体をぎゅっと抱きしめる。下半身がゆっくりと消え、次に両手の先から消え始めようとしていた。月明かりによってできた俺の体の影のように、俺自身の体が薄暗くなるように透けていった。徐々に、俺の願った恋愛のようにスローな時間が過ぎていくようだった。
また神の嫌がらせか、それとも神の思いやりか。最後の別れの時間は、誰も邪魔をしないから、二人でしっかりと気持ちを分かち合えとでも言っているように、ざわついている周囲の声さえも聞こえなかった。
ただ、二人が作りあげる静寂の中に、月明かりだけが俺たちの元まで伸びてきていた。
「私、こうさんのことを愛していたよ。私の人生の中でこうさんは、とても大切な人、私が愛した人だよ。だから消えないでよ。こうさん、いやだぁ!」
彼女は俺にキスをしてきた。彼女の涙が俺の頬に垂れた。
「ああ、いやだぁ」
「月ちゃん、ありがとな。ありがとな」
俺は、彼女とキスをしたまま最後の時間を迎えようとしていた。消えようとする両手で、彼女の頬の涙をぬぐう。両手に彼女の温かな涙が沢山残った。そして、俺の体はすべてが消えてしまった。また、拭った彼女の涙は、俺の消えた体と声と一緒に消えた。
俺には彼女の涙が残り、彼女には俺の腕時計が残った。左手首の父親からのプレゼントだった腕時計が彼女の手に残った。腕時計の針は止まり動かなかった。俺の人生の終わりを告げるように、短針も長針も、そして秒針まで、すべての針が止まった。
彼女の手に残った腕時計。それが唯一、形として残った彼女への形見となった。その時計の短針のように、俺はゆっくりと彼女との愛を育てたかったのに、儚い想いを作ってしまったのか。
今、俺は彼女の元に戻ることができた? 守ることができた? 必死に生きようとして彼女の元に戻りたくて、危険と戦ったはずなのに。彼女もまた危険を顧みず、透明人間となって俺を助けに来てくれたのに。だが、俺の悔しい気持ちも切ない気持ちも、俺の体から消えてなくなっていくようだった。
俺は、消えた体から精神だけが抜け、あの虹に向かっていた。座り込んだ彼女の姿が見える。彼女は天に向かって叫んだ。
「ばかぁ、こうさんのばかぁ! 私を一人にしないって言ったのにー!」
俺は、天から彼女に声をかけた。
「月ちゃん、聞こえるかい。俺だよ、月ちゃん」
彼女は天を見上げた。
「月ちゃん、聞こえるね。俺は今、虹に向かっている。俺は、本物の虹になるみたいだ。そして、月ちゃんの傍で、いつも輝いていられるようになるみたいだ。俺はいつも月ちゃんを見守ることができる。満月の夜には俺が月ちゃんの周りで輝くよ。だからもう泣くなよ。俺が、いつも月ちゃんの周りにいられるから」
彼女はゆっくりと立ち上がった。天に向かい、そして、虹の方向を見た。しばらく無言のままの彼女の姿がある。
彼女が小声で訴えてきた。
「なんで、なんでよ、こうさん。どうして一緒に連れて行ってくれないの。私を一人にしないって言ったのに」
彼女が納得できるはずがないことくらい、俺にもわかった。でも、俺に課せられた宿命が、あの占い師から透明人間になる薬をもらった瞬間から変わっていたことを今こうして理解できた。
もしかしたら、俺は幸せだったのかもしれない。彼女と過ごしたわずかな時間は短針のように、ほたるのともしびのように、他人には理解しがたい空間の一コマだったはずだ。それに何十年も彼女と一緒に時間を操り、二人だけの空間を作り、生活していたような時間に感じられたのだから。
俺は、そのことを彼女に告げた。
彼女は容易に気持ちを切り替えらるずはないだろう。それでも、
「わかった。わたしとこうさんとの時間は何十年もの時間になっていたんだよね。わたし、わたし、こうさんに守ってもらう。うん、こうさんが私の周りにいつもいるんだね。わかった」
涙を流しながら、彼女は答えた。
女性占い師が言った、わかることがあるというのは、もしかすると彼女と出逢い彼女を守る男になるということだったのかもしれない。その為に俺は透明人間になる薬をもらい、彼女を想い、彼女の心に潜む気持ちを理解し彼女を救う役目を俺が担ったということ。本当は、俺の心にある気持ちを楽にする為ではなく、彼女を救う救世主になる為だったと。
この世には信じがたい出来事があるが、それは、経験したり自分の目で見なければ信じられないことだ。しかし、こうやって、俺には月子を守る使命を与えられ虹になった。悲しむ月子を見て俺自身も悲しみを抑えることができなかったが、今、自分が月子の前で真の男になる時が来た。やがて俺の心も落ち着き、心の中で彼女の名前を呼んで歌った。「見上げてごらん……」