第十六章 初旅行
十月下旬、俺たちは土曜日の早朝、長野の松本へ到着するようにJRで旅行に出かけた。俺と彼女は土日を含めて四日間の休みを取った。ちょうど満月の日に合わせ、乗鞍岳の紅葉と月夜を見ることにしていた。
標高三,OOOmを超える山々が連なる北アルプスから眺める夜空は、それは絶景だ。その場所で月や星を彼女に見せたかった。
この頃は、高山では紅葉も進んでいるが、それだけ寒さも増している。そして、空気が澄み、星が手に取るように見える。
俺たちは松本に到着して、そこからバスで岐阜県の高山に向かう路線バスに乗り途中下車。更に、シャトルバスで乗鞍岳に向った。
時間はたっぷりとあった。天候が崩れる心配はなく、この日は格好の観光日和だった。シャトルバスは乗鞍スカイラインを走り、終着地点を目指す。バスの窓から目に入ってくる景色は次第にパノラマ化し、突然に視界が広がる。紅葉真っ只中だ。都会の造られた景色とは違い、自然が作り上げた風景は、何かと比較する訳ではないが、無造作であってむしろそれが良い。ここは、人の手が加えられていない。唯一、道路だけが人の手によって造られている。
やがて、バスは乗鞍バスターミナルに到着、下界と違ってひんやりしている。確かに下界とは違うといっても同じ日本だが、住む世界が違うという感じがする。日本の山といえば富士山だが、また別の意味での世界観がある。彼女もこの絶景に驚いていた。
俺たちが到着した頃は昼を回っていた。すぐに食事を摂ることにした。特別な料理を所望するつもりもない、手頃なおでんにした。ここで食べるおでんは格別だろう。人には、その場所の雰囲気を一緒に味わうという感性があるのか。ただの食事でも場所が異なればそれだけ味も変わる。しかし俺には、場所が変わっただけの美味しさを感じ取ったのではないと思えた。彼女が一緒にいて、彼女に恋をしていて、その彼女の無垢な人柄に俺の心が癒しを感じていたからだ。
この一時は、俺の人生が一冊の本ならば、何度も読み返したくなるような場面だったと思う。山あり谷ありの人生で、ドキドキする場面が一番の味わいの箇所だと人は言うと思うが、俺にはこの当たり前にある場面が本当の幸せなのだと感じた。
二人で一つの器にたまごを二つ、こんにゃくも二つ。俺は大根とちくわ。彼女ははんぺんとごぼう巻き。たまごは俺も彼女も好物で、出汁が染みていて美味しそうだ。
店近くの椅子に座り、向かい合って食べる。彼女は温かなおでんを「ふぅふぅ」しながら食べている。湯気が俺たちの間に立ち上るが、ふわりふわりする感じの湯気だ。気温が下がっていたせいかよく目立った。
目と目が合い、笑ってしまう。彼女の笑顔もまたご馳走だ。彼女が大根を食べようとした時、その大根は俺が頼んだのにという気持ちから、俺が「えっ?」と戸惑った表情をした一瞬を彼女は見逃さなかった。
「あれ、大根食べたかったんじゃないの?」
からかうように笑う彼女。
わざと食べようとしていたのか。天然なのか、まっ、いいかと思った。
「はい、半分くださいな」
こんな場面も今までの俺にはあり得ないことだ。彼女の人生本の中に俺のことが書き込まれるようだった。いや、すでに書かれていて彼女の中で、俺の存在を面白いようにされている感じだ。このことに嫌な気持ちはなく、むしろ、こういう毎日があれば良いなと思った。
何気ない食事も彼女といたらときめきがあり、ワクワクさせられる。大人気ない男女二人のやり取りは、周りにはおのろけに見えたかもしれないが、そんなことを思われているだろうと想像することの方が不自然だし無意味だろう。それより俺たちには新鮮な男女の関わり合いで、今までの人生になかった出来事であり、人にわかって欲しいとも思わない、それだけ自然な関係ということだ。
俺たちは乗鞍にある安い宿を予約していた。食事を済ませ、そのペンションまではかなり距離があったが、山道を散策しながらペンションに向かった。途中、彼女が作ったクッキーを頬張りながら散策を楽しんだ。彼女は、口に含んだクッキーをキスしてきた瞬間、口移ししてきた。突然の行為に俺は驚いたが、彼女の微笑ましい姿にまたドキドキさせられる。この絶景と雰囲気は、最高の物語の一ページになっていたことだろう。
時間が午後三時を過ぎた頃、ペンションに到着。古い建物だが、他に宿泊客はいないような隠れ宿のようなペンションだった。俺たちには居心地の良い宿で、経営者は老夫婦だった。
十月下旬の山頂の夜はとにかく寒く、夕方から気温は一気に下がっていったが、空に雲はなく秋晴れで、太陽はアルプスの山に隠れるようにゆっくりと沈んでいく。空は一変して赤みから紫色の空となり、紫色に染まる空の量は、都会では考えられない世界だ。大空というキャンパス一面を紫色に染めたようだ。そして、そのキャンパスに少しずつ星が描かれていく。
彼女が感動していることは、表情を見ただけで俺に十分に伝わってきた。これらの星たちは、いつも見ていた星たちと変わりはない。星たちは別の物体のように、初めて出逢った物体のように、彼女にそう感じさせたようだ。
この感動が脳裏から消えないうちに、ペンションの夕食をいただく。山菜がメインで温かなお汁もあり、俺たちにはご馳走だった。
部屋はとりあえず一つ。夫婦でもないがカップルでもない。でも老夫婦には、俺たちが夫婦に見えていたようだ。宿泊したペンションに、他に客がいなかった。正直、乗鞍にはお洒落なホテルやペンションがあるが、このペンションはそこまでお洒落だとは言えないのが事実だったと思う。だが、そうだからこそ風情があって、人の年齢と同じように年老いたペンションが、逆に落ち着いていたのもまた事実だ。今日は俺たちだけだが、多分、このペンションの良さを知っている人たちは、きっとリピーターのように宿泊していることだろう。
「露天風呂があるから二人で入るといい。今夜は綺麗な月夜だし、夜空を眺めながら風呂に入ればいいよ」
宿のご主人から勧められた。
確かに露天風呂に入って星空を眺められるのは格別のご褒美だ。だが、さすがに一緒に入るのは彼女が嫌がるだろう。
「露天風呂があるので入ると良いと言われたけど、月ちゃん一人で入ってくる?」
あの夜の出来事があってから、俺は彼女のことを月ちゃんと呼ぶようになっていた。
「露天風呂でしょ、一緒に入りましょう」
彼女の口からそんな言葉が出るとは思わなかったが、せっかくこんな絶景を見られる機会はなかったので、二人で露天風呂に入ることにした。
露天風呂はペンションから歩いてすぐの場所にあった。温泉が沸いている訳ではなかったが、此処のご夫婦がお客のためにと、ペンションの敷地の一角に露天風呂を造り、そこに沸かしたお湯がペンションから引かれていた。大きな石々を集めて造られ、大きさは大人五人が入れるくらい。風呂の周りは竹垣で覆われている。
俺が先に入り彼女は後から入ってきた。湯温もちょうど良い。
標高三,OOOm級もの山では吐く息も真っ白になるが、露天風呂の湯気でその寒さは打ち消されている。
「こんな凄い星空を見られるなんて、天の川じゃないけど、なんか、この夜空は砂糖が振り撒かれたように真っ白くなってる」
空気が澄んでいるから本当に一つ一つの星が輝いている。それが彼女の言うように、白い模様を描くかの如く、藍色の星空と表現すればいいのだろうか、藍色のキャンパスに、白いスプレーを吹き付けたように描かれて見える。
彼女はこんな星空を見られてとても幸せ、都会では本当に模倣の美しさしかない。人はこんな自然の造形に感動することを忘れてしまったみたいだと語った。
今の俺たちに言葉は必要なかった。これだけ贅沢をさせてもらっていることに感謝だ。真上を見ている彼女を横から見て俺は思った。贅沢をするためにお金を使っている訳でもない。自然は人に平等なのだ。
露天風呂に入り人のおもてなしをいただき、特に彼女は、心に秘めていた人間関係の傷が癒されることだろう。しばし俺は彼女が同じ露天風呂に入っていることを忘れ、彼女と同じように満天の星に酔いしれていた。
彼女が口を開き語り始めた。俺から月や星のこと、そして、月虹のこととか、沢山自然の話を聞かせてもらい、凄くほっとした。職場でのミスのこと。周りから邪魔者扱いされている、嘘をついていたと告白してきた。
正直、そのことを知っていたと言えなかった。透明人間になって、彼女の職場を探したということは秘密にしたままだ。
あの震災から独りぼっちになって、東京に出てきて、誰の支えも無く甘えることもできなかった。十八歳で最初はデパートに就職。そこの生鮮売り場とか野菜とかの陳列のような仕事だった。無我夢中で仕事を覚えて、毎日毎日、お客様に迷惑がかからないように気をつけていた。でもどうしてか一人でいると暗い女の子に見られていたみたいで、十五年ちょっとはそのデパートで働いて、そこでリストラ。悲しかった。それで、一年前くらいから今のブティックに就職。それなのに彼女の行くところでは、いつも邪魔者みたいな感じだったという。
彼女の目に薄らと涙が浮かんでいる。
俺は彼女にかけてあげられる言葉が何もなかった。慰めの言葉を思いつくこともできないが、それより本当に慰めることが良いのか。そう思うと中途半端な言葉で納得させることの方が、彼女に失礼だと思った。
俺は、夜空を見上げ、「見上げてごらん 夜の星を」を口ずさんだ。そして独り言のように語った。
この満天の星の一つひとつの星には命があって、たとえその一つが消えても命を失い光を届けられなくなったと、誰も気付かないだろう。そして、気付いて欲しいと伝えようとしても、きっと見つけてくれる人は数少ないと思う。もちろん一番星のように目立つ人生の人もいる。この世の中には、恵まれている人間もいれば他人を利用して自分を輝かせている人間もいる。だけど、そんな人任せの力で輝いても誰も実力があるとも思わない。その時の人生を職場の人間が知っているはずもない。それなら、どれだけの苦労をしてきたのか、判断ができない人間の言うことに耳を傾ける必要はない。
彼女だけのために語ったことではないが、ただ、素直に人の心の寂しさを思い、彼女の周りの人たちは、仕事以外の生き様にも上下関係を作っているようで、それが悲しいと。俺の考えを言うより彼女自身が、俺に過去を語ってくれたように、その想いをお返しした。
彼女は何も言わず頷いた。自然は時には人に厳しく接してくる。しかし、今は俺たちを温かく見守ってくれている。風は肌をなでるように吹き、星は何も言わずに輝き、露天風呂の湯が俺たちの距離を更に縮めてくれた。俺は、今なら言えると思い、天に向かって語り続けた。
この世の中、何があるかわからない。都会でも危険にさらされ、そこで生きていく力のある人間がいるのか? 震災なんて恐怖で、温室育ちの都会人がいるなら、その者たちには地獄だ。そんな中で、自然の良さがわかってくれている女性もいることが嬉しく思える。
俺はテレビでドラマを観て思うなら、結局は作られた恋愛とはわかっているが、ついついその主人公やヒロインをあこがれの念で見てしまう。こんな恋愛、自分には出来る訳ないと。ここでこういうことが出来るのか? とか、その主人公を自分に置きかえて考えても、虚しくて。
都会に住んでいると、造られた都会の雰囲気が一つのファッションのような感じがする。俺にはそういうのが苦手だが、そこが逆に悲しいと思ってしまう。
その生活空間は個人の所有物ではないのに、まるで自慢のように、この都会の雰囲気は私たちが演出しているのだと言わんばかりのように思えてしまう。それがまた貧富の差のようにも感じてしまう。そして差別のように人を見下す人が現れてくるのか。そう、俺の大切な女性を批判するような人がいるように。ただそれだけのことだが、自分がそういう場所にいると迷子になって自分を見失いそうだ。
大切な女性に知って欲しいのは、こんな自然からの恵みがあることだけ。正直、俺だってみんなにはわかってもらえないコンプレックスがある。俺も、なんでも受け入れられるほど立派ではない。本当は寂しがり屋で、俺を受け入れてくれる女性が欲しい。
だから大切な女性に出逢えて、すがりついているのが現実かもしれないし、大切な女性に捨てられたくないのが本音で、大切な女性と別れたくない気持ちでいっぱいだ。
俺は、大切な女性の綺麗な言葉、そして純な声に惹かれた。庭に咲く花は朝早くから光を浴び、爽やかな風に揺られ、今日も一日健康でいられるようにたっぷりと栄養をもらい輝いている。だけど俺は野に咲くみすぼらしい花。どこにでも咲いている、目に止めてもらえない雑草の花。そして、上を見て羨ましいと呟いているみすぼらしい花。でも、そんな雑草にも名前はあるし、同じように光を浴び、爽やかな風に揺れている。目には止めてもらえない花だが、自然の中でひっそりと暮らしている。もしかしたら、高嶺の花といわれる大切な女性と俺は不釣り合いなのかもしれないと考えたこともあった。
同じ光を浴び、同じ風に揺られることで、陰から大切な女性を見ているだけで幸せだと思えばいいと考えたこともあった。俺が惚れた彼女の姿、陰からそっと見ていますからって。何かあった時は、俺が根から吸い上げた栄養をあなたにあげます。それで枯れても俺は幸せだったと言える。そんな気持ちを抱いていた。初めて出逢った頃から大切な女性のこと、俺は凄く気になっていた。
俺は恥じらいもなく彼女に独り言を言うように語った。その後、俺は何も言えず彼女に背中を向け、ただただ頭を下げているだけだった。
しばらくの沈黙が続いた。
そして、彼女も何も言わず俺の背中に寄り添うように両手を回してきて、そっと後ろから抱きついてきた。
「ありがとう……」
俺たちには言葉も何も必要なくなっていた。深夜の露天風呂は、体だけでなく心も温かくしてくれた。