第十五章 初めてのキス
花火大会の日が来るのは早かった。俺は、いつも定時に仕事を終えていたので、待ち合わせの時間には余裕で間に合うはずだった。今まで仕事でトラブルがあることはほとんどなかった。あったとしても機械が古くて動かなくなったくらいで、すぐに修理をして対応ができていたが、零細企業の工場は注文された品物を遅れずに納品しなければ、信用問題に大きく関わる。
工場には多くの受注が入るようになっていた。それだけ職人の腕が認められたという喜ばしいことでもある。
そんな矢先、今日までに納品しなければならない部品が遅れていた。あと少しなのに、古い機械が故障で停止して修理を余儀なくされた。機械はなんとか動き出したが、時間は午後四時を回っていた。急いでも定時の五時は過ぎる。
残業をしなければ相手方の会社に迷惑をかけてしまう状況だった。今までの俺なら今回のようなトラブルを恨むことはなかったが、今日は違う。もちろん作業員全員が、きっと俺と同じ気持ちだったに違いない。家族がある者も今夜の花火を楽しみにしていたはずだ。もちろん社長も好きで残業をさせたいとは思っていない。こんな日だから申し訳ないと謝ってくるほど、社長夫婦には心があった。俺は、この社長夫婦のお陰でこうして仕事をさせてもらえている。
彼女との待ち合わせに間に合わないのはわかっていたが、一所懸命に残りの部品を作った。
今までは、仕事が休みの日に逢っていたので、彼女との待ち合わせに遅れたり逢えなかったことはなかった。彼女に連絡を取る手段がない俺は、ひたすら今の仕事を終わらせることだけを考えた。そして、すべての部品を作り終わったのは午後七時半を回っていた。
俺は、透明人間になることを忘れ、一目散に急いで駅に向かって走った。駅に到着した頃には花火が打ち上がっていた。もちろん駅に彼女の姿はない。駅のここでと待ち合わせした場所に彼女はいない。そりゃそうだろう、温厚な彼女もさすがに何かあったと思って一人で夜店に行くだろうから。
俺は、待ち合わせ場所の椅子に座り込んだ。駅には花火見物以外の人の姿もあったが、誰もが皆、花火を見に行く訳ではなかったので、駅は殺伐とはしていなかった。しかし、俺は人目も関係なく、ぼんやりとしたままベンチに座っていたようだ。そして、独り言を言った。「ああ……ごめん」と。
その瞬間に、俺の右手の甲からパチンと音がする。なんなんだ?
誰かに手を叩かれたような感じがした。俺の思い込みか。そうしたら、また、右手の甲から何度もパチン、パチンと音がする。
「謝ったらしっぺですよ」
彼女の声がした。あれ?
そうだ、俺は急いでいたので、薬を飲んでいなかった。透明人間でなかったから彼女の姿は見えないのだ。
「ここにいるの?」
「はい、いますよ。ずっと待っていました」
「こんな時間まで?」
「はい、こんな時間まで」
彼女の笑い声がする。
俺は、遅れた理由を彼女に告げた。
「ちゃんと約束したでしょ。二人で出店に行くって。それに、こうさんからのプレゼントの浴衣。ちゃんと見てもらわないと」
俺は、顔も洗わずに走ってきていたので、油が顔に付いていたことにも気づかなかった。そんな汚れた頬に涙が垂れていた。
「出店にはまだ間に合いますよ。こうさん、早く薬を飲んで来て」
俺は嬉しかった。待ち合わせ時間を二時間近く過ぎている。それなのに、ずっとこの場所を離れずに待ってくれていた。
駅のトイレに入り、薬を飲んで彼女の元に戻った。彼女の姿が見える。俺がプレゼントをした浴衣が似合っていて、とても、古風な女性に見えた。
この浴衣は、彼女が着ることでこんなにも華やかになるのかと感動した。ある意味、「誰も安価な浴衣なんて思わないだろう」とか思ったが、透明人間になっているのだから誰にも見えない。
「凄く綺麗だ」
「私の方こそありがとうございます。この浴衣、凄く気に入ってます。今日が待ち遠しかったの」
俺たちは、駅から手を繋ぎ出店が並ぶ街へ向かった。彼女の手はほんのりと温かかった。そして、せっけんのほのかな香りがした。俺が待たすことをしなかったら、いくら夏場でも、彼女からはもっと風呂上がりの良い香りがしたかもしれない。
出店が見えてきた。オレンジ色がかった電球が、出店と道を照らしている。花火は夜空に上がり、道の両端に並ぶ店の上方に花火が見える。大輪の花を咲かせる花火やこぢんまりとした花火が、バランスよく打ち上がった。
俺は、彼女の手をしっかりと握り、ゆっくりと歩く。電球の色で、浴衣の黒い生地に描かれた星空が綺麗に浮かび上がる。
彼女が歩く瞬間に、下駄の音が、「カラ~ン……カラ~ン……」と鳴り響く。この音は、周囲の人に聞こえるだろうか。いや、にぎやかな音にかき消され、この音は俺にしか聞こえていないと思う。
たこ焼きや焼きそば、イカ焼きなどもある。今の時代にもお面があるのか。出店にも時代の流れがあるようだが、昔から変わらぬものもある。
俺と彼女は透明人間でいるから、大勢が歩く中を堂々と手を繋いで歩いた。露店の灯りに照らされる彼女の姿の美しさを自慢したいほど、俺は彼女に陶酔していた。彼女と手を繋ぎ歩ける幸せ。そして、両側に並ぶ屋台から香り立つ食べ物の匂いなどが、俺たちの時間を演出してくれているようだった。
俺は、出店が並ぶ道をいつ歩いただろう。昔、俺も親に連れられ、地元に並んだ出店に行ったことがあったが、もうかなり昔のことで鮮明な記憶はない。ただ、薄らとした記憶の中の食べ物の匂いやおもちゃが売られていたことなど、それが今になって懐かしく感じられるのは、自分の脳裏に焼き付けられた記憶の奥底にあったからだと気付いた。
彼女も懐かしいと語る。今の俺は、彼女の父親代わりかもしれないが、それでも彼女が喜びを感じられるなら、俺は恋人でなく一人の役者でもいいと思った。
「私、明日も仕事が休みなんです。こうさんが良かったら、今夜、こうさんの部屋でお話をさせてもらえませんか?」
歩きながら、彼女が言ってくる。
突然のことで俺は戸惑った。本音は凄く嬉しかったが、古びたアパートで、さすがに私生活まではまだ見られたくない気持ちがあったからだ。
どのように伝えれば遠慮してもらえるか、しどろもどろだ。外で逢うから俺も心がオープンにできたが、彼女が部屋に来たいというから、逆に見られたくない部分もあった。しかし、今日の残業で迷惑をかけたことと、彼女の過去を知っていることもあって受け入れることにした。
「アパートに来ても驚かないでね。部屋には何もないし」
彼女の住んでいた父の建てた家も、人様が見たらびっくりしたと言う。でも、それが自慢の家で、雨をしのぎ、風をしのぎ、彼女を育ててくれた家だったと。
彼女は、俺がいつも話す星空を見たいと続けて言った。
彼女の言葉から、自分の脳裏に仕舞い込んでいた彼女への気持ちを引き出しから出すかの如く、思い出した。年甲斐もなく、俺は彼女を守りたいと、変にメルヘンチックなことを思っていたことを。
「じゃ、今夜は一緒にあの星たちを見ましょう」
俺たちは、透明人間のまま出店を後にしてアパートに帰った。窓を閉め切った部屋は夜でも暑い。すぐに窓を開け、外からの涼しい風を部屋の中に取り入れた。俺一人なら、少しの暑さにも耐えられるが、壊れそうな扇風機を取り出して回した。羽根が回るとわずかにだが、「カラカラカラカラカラ……」と音がする。もの静かな部屋には、この音があった方が落ち着く感じもした。
「本当、窓からは綺麗な夜空が見えますね」
「そうですね。ちょうど、この時期は天の川がよく見えます」
こんな会話をした。
「はい、みんな七夕の日が天の川が見える頃だと思われるでしょうけど、この八月はとても綺麗に見えるんです」
「ほんと、凄く綺麗です」
会話をしながら、俺は冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出して、一つを彼女に渡した。
「すみません、このようなものしかなくて」
照れながら話す。でも、今夜は一本飲める気がした。
「ありがとうございます。私にはちょうど手頃な量ですよ。朝まで持ちそうです」
彼女は笑って言う。
俺は、七夕の夜に思ったことなどを話した。七夕の経緯なんて、自分にははっきりと覚えていることがないので、自分勝手に作った話をした。自分が作り上げた話も、男女の葛藤を想像させるようなものになるのなら、こんな俺の作り話に、ある意味感動してもらえるのではないかと思った。
彼女は、笑って聞いてくれる。
目の前の彼女の長い髪は、織姫が羽衣を纏っているかのようだった。彼女の黒髪が、昔ながらの子女を想像させ、大和撫子のようだと感じさせるところがある。確か七夕伝説は、織姫と彦星が、年に一度だけ再会が許される日。天の川は、二人にとっては渡れない川だが、その天の川が空に現れ、流れることに人々は感動する。
俺の話はこうだ。
「昔むかし織姫と彦星は、恋愛に夢中になって仕事をすることをおろそかにしてしまった。それを見かねた神様が、二人を引き離すことにした。その方法が天に川を作ることだった。ただ、神様にも情はあった。二人が逢えないかわりに、その川は星で作り、川を覗き込めば相手の様子がわかるようになっていた。川に手を入れると、光らない星をすくい上げることができた。そして、その星は手紙として想いを書き込むことができ、それが輝くようになった。
二人は、その天の川の星を毎日一つだけすくい上げて、互いに想いを綴り、また川に流した。しかし、その星は互いの場所に届くことはなかった。
だが、相手を想う二人の気持ちが、いつしか天の川に輝きをもたらすことになった。それが天下の人々の夜の灯りとなり、空を見上げると、綺麗な川が流れて見えるようになったのだ。
二人が想い、いつか逢える日が来ることを祈りながら、願いや想いを書き込んだ星が無数の数となって、今の天の川が形成されたのだ。
そして、神様に二人の想いが通じた。
天下の人々が道に迷うことなく、この天の川の輝きを幻想として支えに生きていくことができるようになったことに、一年に一度だけ、神は二人に再会できる日を与えることにした。
その日、星で出来た船が二人の住む港に、突如現れる。そして、織姫と彦星はそれぞれの船に乗り、天の川の中心で星舟が一つの大きな船となり、一夜だけ一緒に過ごせるのだ。神様が認めたその日が七月七日だった」
年甲斐もなく勝手な話を作ったが、でも心の中に、彦星のように恋愛に夢中になってしまう気持ちがあったら、きっと俺も彼女と逢えなくなるのかと、そんな想像をしつつ彼女に語っていた。
意外とメルヘンチックでそんな発想ができるなんてと驚かれた。織姫と彦星はそういう関係だったのかもしれない。天の川ができた理由にも、凄い夢がある。それの方がとても感動するかもしれないと彼女は楽しそうに話してくれた。
「私なら、どうかなぁ。ううん、私も話を作っちゃおう」
そう言って彼女は外を眺め、しばらく無言になった。数分の時間が経ち、彼女が言った。
「ここに寝転んで夜空を見ているのですか?」
俺は、夜空を見るのには寝転ぶと気持ちがいいし良く見えると教えた。
「私も寝転んでいいですか」
彼女はそう言うと、先に寝転んでしまった。
俺は、彼女の横に立て膝で座っていた。
「こうさんも、一緒に寝転びましょう。ほら、ここに」
トントン……。
彼女は寝転んだ場所の床を左手で軽く叩く。俺は、彼女の横に並ぶように寝転んだ。
彼女は自分で作った七夕の話を語り始めた。
「こうさん、私は二人が離されたところからね」
「はい」
俺は、静かに夜空を見ながら聞いた。
「織姫も彦星も、川の中から星をすくい上げました。それに想いを書き込みました。でも、それはお互いに想いを告げるものだけではありませんでした。
私たちのように恋した者が同じことをしないように、自分たちだけが不幸だとは思わないように、そして、周りのことも考えてあげることを天下の人たちに教えなければと思ったのです。
天下の人たちは、綺麗な川が流れていることに感動しました。でも、天下の人たちに努力をしなければならないことも教えたかったのです。
星をすくって想いを書き込み、想いが書かれたその星の一部は、天の川から天下に向かって流れ落ちました。天下の人たちは、それを織姫と彦星の涙だと言いました。
そして、その星が消えるまでに二人の想いを叶えてあげて欲しいと祈りました。
いつからか、その涙は流れ星と言われるようになりました。二人の涙は、天下の人たちの願いを叶えるものになっていたのです。
そして流される涙はいつしか、願いが叶う流れ星ということだけが皆の心に残りました。
二人が天下の人に教えようとした本当の理由は、いつの間にか、美談に変わっていました。それでも流れ星を見て感動して、年に一度だけの出逢いを許された二人を自分たちに置き換える人たちがいることで、織姫も彦星も願いが叶ったと思いました。
二人も、天下の人々も、流れ星によって願いが叶う伝説を後世に残したのです。
流れ星に願いって、恋愛のお願いだけに限らず、いろんな願いを人はするでしょ。そう思ったら、天の川からの流れ星に限らず、この夜空には沢山の流れ星を見ることができるので、なんか凄いなって思っちゃいました」
織姫と彦星の涙、彼女の話もメルヘンチックだった。話は実話でなければ、こんなに自分の気持ちを込めて作れるものなのかと、彼女も思ったらしい。
その瞬間に、
「ほらぁ……流れ星! もう、お願いができませんでした」
俺たちは、年齢的にどうなのだろう。青春といわれる年齢はとっくに過ぎているが、こんな年齢は、どんな青春だろう。暗い春ではないし、色を付けるなら、淡い春で淡春とでも言おうか。「たんしゅん」という言葉は聞いたことがないが、大人ならではの、儚い恋なら淡い恋で淡春でもいいか。
いつまでも続くことがあるかわからない恋にときめく一時は、色々な経験をしてきた大人でないとわからないことがあるはず。俺のような恋愛経験がない者にも、社会の中で生きてきた経験がある。そんな経験が無ければ味わうことのできない恋というものもある。
かけおちや禁断の恋は、もっと深いところの恋だろうが、歳を積み重ねてきた男女だけができる恋愛こそ、むしろそんな淡春の部類なのかもしれない。これがそうだと説明しづらいが、まさに、今こうしている俺と彼女のような関係が、俺自身にはそうだと言える。
彼女は俺に対して尊敬の念なのか、恋愛が成り立つ関係ではないが、一方通行の俺の恋だからこそ、淡春で逆に悲しいが、叶うことがない破局を前提とした大人の恋なのかもしれない。
「今夜は満月だし良かったです」
缶ビールは、少しずつだが中身が減っていった。彼女の缶ビールも少しずつ。部屋には扇風機の「カラカラカラカラ……」という音が弱々しく響いている。
「私、今日お邪魔させてもらって良かったです。一人だと、空を見上げても感動はしなかったかもしれない」
彼女が言う。
「月子さん、見て」
俺は、満月の方を指で差して話した。
今夜は月のリングが出来ていた。正式には光環というもので、満月や満月に近い状態の月によく見られるようで、薄雲が通過した時に現れるらしい。雲の中の水滴や氷の粒によって光が干渉して、屈折した光がリング状になるみたいだと説明した。
「うわぁ、凄く綺麗! あんなに大きく見られるなんて」
「本当、良かったです」
彼女の周りに俺がいるみたいだと彼女は言う。
何故、彼女の周りに俺がいるのか聞くと、月の周りに虹が出来ていて、彼女の周りに虹があるから守ってくれているみたいだかららしい。
彼女は急にはしゃぐ。
確かに、そう言われたらそうだ。俺は、彼女の周りで保護するようにいる状態か。彼女がそんなに思ってくれることは、俺には正直驚きだ。でも、そう言われてそんな気持ちになって見たら、何か心地良くなっていた。
さっきの流れ星に、彼女は何を祈ろうとしたんだ。彼女の作り話は、色々な願いを叶えてくれるものになったということ。まっ、願いは人に話さず秘めておくものだ。彼女の願いが叶って欲しいと思って、留めておくことを俺はするべきだろう。
「月子さんは、どんな歌が好きなのですか?」
俺は唐突に聞いた。
「えっ、私ですか。強いて言うなら……父がよく歌っていた歌なんです。だから、昔の歌です」
彼女が突然に、静かに低い声で歌い始めた。
「見上げてごらん、夜の星を」だった。
「私の好きな歌、もう古いですね」
『見上げてごらん夜の星を』。まさか俺と同じだったとは思ってなかった。彼女に、俺もこの歌が大好きだと伝えた。
「本当ですか、嘘!」
この歌は、歌っていると悲しくなるのが本音で、でも、自分のことを言われているみたいで、だから惹かれると話した。
彼女も、何か悲しくなることもある。本当は幸せになる歌だとは思うのに、確かに悲しくなることが多いという。
昔の体験を思い出させてしまうのだろう。彼女は両親を大震災で亡くしているから、尚更なのかもしれない。でも、それは彼女の大切なお父さんからのプレゼントだったと思うと伝えた。
「そうですね、私のお父さんの思い出です」
そして、俺に歌って欲しいと彼女が言ってきた。
俺は、人前で歌えるほどうまい訳ではない。もちろん、今まで人前で歌ったことはない。だが、そんなことはどうでもいい。彼女と二人でいて、恥じらいなど必要なかった。彼女の思い出の曲になっているなら、下手な歌声でもいいと思った。
そして、何も言わずに歌った。
俺と彼女は、二人床に並んで横になっていた。ふと横を見ると、彼女はいつしか泣いていた。彼女は突然に俺の左手を握ってきて、それと同時に彼女は体を俺に預けてきた。突然の出来事で俺は驚いた。彼女は目を閉じて俺の方に顔を向けてくる。
この瞬間、俺は彼女に何の言葉もかけず、ただ、彼女の唇にキスをした。そして、彼女はそのまま俺のキスを受け入れた。これが、俺の人生初めてのキスだった。
今宵、俺たちは月と光環に見守られ、そして、部屋の中では扇風機の「カラカラカラ……」という音だけが静かにずっと響き渡っていた。