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第十二章  彼女の過去

 俺はトイレで薬を飲み元の姿に戻った。だが、人の視線がある場所で、コーヒーを飲むくらいのことさえも俺にはまだ抵抗があった。馬鹿みたいなことにこだわっていると自分でもわかる。むしろ俺は、変なプライドを持っていたかもしれない。俺が若くて、如何にもかっこいいと見られるなら特別なことはない。けれどまるで援助交際をしているかのように見られるのではないか、そんな想像さえしてしまった。

 そう思いながらも、今更そんな心配をしたところで、所詮は都会の雑踏の中では小さな石ころのようなものだろうと気にしないようにした。

 喫茶店に入ると彼女は階段を上がった二階の端にある席に座っていた。テーブルに両肘を付き、両手に顎を載せ窓ガラス越しに外を眺めていた。彼女の表情が寂しげに見える。俺は、彼女の前に行って良いのか躊躇させられる表情をしていることに戸惑ったが、すぐに入ってきた振りをして彼女の前に立った。

「すみません、お待たせしました」

「はい、大丈夫ですよ」

 座りながら彼女に問いかける。

「月子さん、何か物思いにふけているような表情をされていたので、どうしたのかと思いました」

「えっ、そうですか」

 常に笑顔だ。 

「実は、こんな風にして彼氏を待ってみたかったので。物思いにふけて待っている女性を演出しちゃいました」

 彼女は、こんな感じで待ったら新鮮な気持ちになれるかと思ったらしい。大切な彼氏を待つ女、待ち合わせ時間に早く来て彼氏を待つけど、彼氏は時間に遅れている。まさか今日のデートを忘れているのかみたいにと。

 少し沈黙する。

 俺はまったく女性との付き合いがないから、そんな想像すらすることがなかった。

 ドラマだと、そういう男女の恋愛観を描くようなものだから、恋する人の気持ちもわかるような気がすると彼女は語った。

 可愛らしい笑顔で話す彼女。

 俺たちはレモンティーを二つ注文した。 

 俺の表情は彼女の言葉で和らいでいたと思う。彼女といたら俺は周りにどう見られてもいい気持ちになっていた。こんな女性が俺の相手をしてくれている。今まで異性から、俺を男として見られることもなかった。だが今は、彼女といるこの時間は堂々と向かい合っていた。

 いつしか外は雨が上がり、雲の切れ間から斜めに延びる太陽の光のカーテンができていた。ちょうどレモンティーが来る。

「砂糖はおいくつですかぁ?」

 彼女が可愛らしく言う。

「じゃあ、一つだけ」

「はい、一つですね。私は二つ」

 そして、カップの中にレモンの切れ端を入れた。

 甘いような酸っぱいような、こんなことにときめく気持ちが生まれるとは、これが恋愛なのか。仕事中は、男の世界にこんな感情が沸々としてくることなんてない。時間に追われて仕事をしているから時間がスローになることもない。もちろん時間は正確に秒を刻むから時間が遅くなり得ることはないが、今の俺の心の中はスローモーションだった。そういえば昔のことだが子どもの頃、今のように時間がゆっくりだと感じたことが確かあった。

 俺が幼少の頃に育った地域は本当の田舎だった。家の前に川が流れていて、ちょうどこの時季にはほたるが飛び、川の形がわかるようにほたるが光の流れを作っていた。ほたるが川に沿って飛び、ここが川だとわかるほど沢山のほたるが飛んでいた。あの頃のことをレモンティーを口にして、ふと思い出していた。

 俺は、無意識のうちに無言になっていた。

「こうさん、どうしたの、口を閉じちゃって」

 彼女の言葉に、我に戻った気がした。

「あっ、すみません。ちょっと昔を思い出しちゃって」

「どんなこと?」

 彼女が聞きたいと言う。

 時間がスローモーションだと思うことがあって、田舎でのことを少し彼女に話した。

 そう俺は昔見たほたるたちが舞う様子から、彼女はその中の一匹のほたるのようで、俺を導いてくれたように感じていた。

 俺は田舎に住んでいて、そこには綺麗な川が流れていた。ちょうど今の時季、ほたるが舞い始める。日が暮れて太陽が沈み、交代して月が天に向かって昇り始める頃から、ポツン、ポツンと川の中に小さな明かりが灯されたこと。

「メルヘンチックですね。ポツン……、ポツン……とですか」

 ほたるは誰ともなくお尻を光らせ始め、最初はそんなに気にならないが、やがて川が天の川のようになり全体に光り始めるのだと。

「凄いですね。ほたるが天の川を作るなんて凄いです」

 一匹のほたるではあまり見向きもしようとしないのに、遠く離れた場所から見るとそこに光の川ができている。その光景を見ていると、時間が止まったようだったと。

 緩やかな時間の流れには、人の早足を止められるような力があるのかもしれない。

「レモンティー、冷めないうちに飲まないと」

「本当、素敵ですね。私もそんな景色を見たいなぁ」

 いつしか俺は、人前に姿を現すことに抵抗があったことを忘れていた。周りの目を気にしていたのは自分だけだった。彼女は、俺と一緒にいることに抵抗がないのだろうと会話の中から伝わってきて、俺は不安が薄れていた。

 一つだけ、彼女に聞いた。

「月子さんは、俺のような男と一緒にいて恥ずかしくないですか?」

 どうしてそんな質問をするのかと、少し彼女が機嫌を悪くしたのか問いかけてきた。俺は彼女に悪いことを言ってしまったのか、自分では何も悪いことを言ったつもりはなかった。俺も正直に話した。

 俺は年も離れているし、こうして姿を見せていると、周りから見たらバランスの悪いカップルに見られるのではないか。俺がお金を払ってデートをしてもらっているように見られるのではないかと思ったことを告げた。

「こうさんは、私が恥ずかしいと思っていると受けとったの?」

 小さな声になり、うつむきながら、「はぃ……」としか言えなかった。

「もしかして、こうさんは私たちが透明人間だったから私がこうさんとって思ったのですか?」

 俺は家と工場の往復で、次第に歳をとり顔にはしわが増え、頭は白髪になり、都会に似合う洒落た男でもない。特に女性の目が怖かったと告白した。告白することは正直辛かった。自分の知られたくない心にある本音を自ら話した。黙っていれば心の奥底に仕舞い込んで、誰にも知られずに一生を全うできるのに、話せる秘密と話したくない秘密。言いたくない秘密と言ってもいい秘密。俺は、言いたくない秘密を話すしかない気がした。仮に携帯電話を持ったとしても、連絡する相手さえいないまま来たのに。だから、持っている意味もない。昼ご飯はみすぼらしい弁当。こんな生活をしている男だと、彼女に話してしまった。恥ずかしくて下を向いてゆっくりと、一つひとつの事実を彼女に話していた。

 彼女が作ってきてくれたサンドイッチ、とても美味しかった。しかし俺の指は油で汚れていて、爪と皮膚の間の黒い汚れは落ちない。だから、サンドイッチをもらった時、恥ずかしかったことも。

 彼女は、しばらく無言だった。下を向いて何も言葉を口にしない。やがて彼女はレモンティーを一口飲んで、ため息をついた。

「はぁ……」

 すぅっと、彼女の口から息が抜けていく。そして、彼女はこう言った。

 全然、俺の姿がおかしいとか、格好の悪い感じがするとか全く思ってもいない。人って歳をとるものだし、それで見た目がどうとか関係ない。それよりも、生き様でどのように生きてきたかが大切だと思っていると。そして、俺の仕事をしている姿を実は知っていると言うのだ。

「えっ?」

 どういうことなのか、俺は頭が真っ白になった。頭の中に疑問の文字ばかりが占めた。

 彼女は、休みの日に透明人間になって俺の工場を探したらしい。近所をぶらり散歩して、その時、急に俺の工場に行ってみようと思う気持ちが膨らんで、どんな感じで仕事をしているのかと思ったらしいのだ。

 彼女は俺と同じことをしていた。まさか同じ時期に。俺も彼女に言うべきか迷ったが、そのまま彼女の話を聞いた。

 俺の仕事が昼休み時間の時、ちょうど見つけたとのこと。

 俺は、彼女を責めることはできないし、それが悪いことだと言えない。それより、益々自分が同じことをしていたと言えなくなった。あの時、彼女が謝罪していた姿を見たこと、そして同僚たちが彼女のことを悪く言っていたことを知っての俺の態度や気持ちを教えたくなかった。

「そうでしたか、工場に」

 今の俺は、そんな姿を見られていたことに赤面していた。

 彼女は俺の姿を見て、正直に言うと、ほっとしたという。見た目は確かに暗い雰囲気がしたが、その姿に隠されているものが感じられた。無口で自分を見せない姿に、彼女の父親の姿が重なったのだということらしいのだ。

 彼女の父親の姿。確か、彼女が高校を卒業する頃に事故で亡くなったという。そういえば事故というだけで詳しいことは聞いていない。

「月子さんの父親ですか?」

「こうさん、話が長くなりそうですけど、聞いてもらえますか」

 俺はただ一言、「はい」とだけ返事した。彼女の心に不安に感じるものがあるのなら、ずっと抱えてきたものがあるのなら、こんな俺でも聞いてあげることで彼女の役に立てるならと思った。

「こうさん、レモンティー、おかわりしましょうか」

 そして彼女の話を聞いた。

「私は、こちらにくる前は神戸に住んでいました。

そして、私が高校三年生で年が明けた一月十七日に阪神淡路大震災がありました。この日は、私の十八歳の誕生日でした。

 私の家は、震災で倒壊して焼けて無くなりました。家はね、小さなマッチ箱のような家。それでも父が必死に働いて建てた家でした。

 私は二階の部屋に寝ていて、両親は一階で。

 一瞬でした。家が揺れ部屋の中はものが飛ぶように、私の体の上にも物が落ちてきました。壁も崩れました。

 私はしばらく身動きがとれず、両脚がタンスの下敷きになっていました。

 それでもなんとか自力で両脚を引き抜くことができて、両親の安否を確認に行きました。

 階段は無くなっていましたが、降りることはできました。

 一階は存在してないくらいに潰れて、二階が一階のようになっていました。 

 私は、暗い家の中を這いずるようにして両親を捜しました。

 でも、両親の部屋は潰れてしまっていて。

 父さん! 母さん! って、大声で呼びました。大丈夫? 生きてるの? 返事をして! 返事をしてよ! って、叫びました。

でも、返事は返ってこなかったの」

 俺は黙って彼女が体験したことを聞くことしかできなかった。そして、目には涙が自然と溜まっていた。

「外からは炎が見えて、火災が起こっているとわかりました。一気に、どこもかしこも火の海になる勢いでした。

 その時、かすかに声が聞こえたんです。父の声でした。

 月子、大丈夫かって私に声をかけてきました。

 私は、大丈夫。怪我もしてないからと伝えました。

 そして、父さんと母さんは大丈夫なのか聞き返しました。

 そうしたら父さんが、天井が体の上まで来ていて体が動かない。母さんは意識が薄れているようだ。自分たちは怪我もしているし、どうも出血が止まらないようだ、と言うのです。

 待って、父さん。助けを呼んでくる! 私はそう叫んでいました。

 だけど周りは火災が起こっていて、誰も助けに来てくれる状況じゃないこともわかっていました。

でも、それでも、私はお父さんお母さんを助けたかった」

 彼女はうつむき涙を流しながら話す。あの大惨事を俺は映像で見た。一瞬にして大都市が大火の海になっていた。大きな街全体から何本もの火柱が、そして、無数の煙の柱が天まで上り詰めていた。あの街に彼女は住んでいた。あの大震災の中に彼女はいた。彼女の話、あの映像が現実の恐怖を俺に味合わせる。

「父さん! 火災が起こっている! 隣の家だけじゃない、街全体が火災になっている!

 私は父さんに伝えました。

 そうしたら父さんが、私たちはいいから早く逃げなさい。私も母さんも、もう助からない。月子、お前だけでも無事でいてくれ、一人になってもちゃんと生きていってくれよ!

 最後の力を振り絞るように、私に言ったんです。

 声がする方に目を向けると、わずかに父さんの手が見えて。手首から先だけが崩れ落ちた天井の隙間から見えて、私は必死に手を伸ばして父さんの手を握ったんです。

 掘り起こそうとしても父さんの体が出てくることはなかった。それに、母さんの声はまったくしなかった。

 父さんは私の手をぎゅっと握って、母さんを一人にはできないから月子は早く行け! って、もう虫のような弱々しい声になって、行け、行けって。

 それと、月子。今日は十八歳の誕生日だったね。おめでとうって。こんな状況なのに。

 そして父さんは、握っていた手を開けて離したの。

 私は、どうすることもできなかった。

 もう、私の家も火の海になろうとしていて。

 私は、父さんと母さんの顔を見ることもなく、父さんの最後の声と手の温もりだけを私の心に残して、家から逃げ出すことしかできなかった。

 外には私と同じように、なんとか逃げ出した人がいました。でも、その人たちも、家族を家の中に残して逃げるしかなかった。あっという間に、私を覆うくらいに火の勢いが凄くて。

 履物もなく、私は、ただ呆然とするしかなかった。家も火災に巻き込まれ、目の前で焼けて、いつになれば消えるのかと思うほど消えることはなかったの。そして私は、目の前で生きている両親を失った。

 私がそこに座り込むように動けなくなっていたのを近所の人が、近くの安全そうな場所まで引っ張って連れて行ってくれました。何時、空に太陽が昇るのかと思うくらい朝焼けの色は無く、見えるのは真っ黒な煙と真っ赤な火柱ばかり。

 そして、そんな修羅場でみんなが自然と集まり、避難場所の体育館まで歩いて行きました。

 何もない体育館に、みんながただ呆然と座り込んで何があったのか、どうしてこんなことが起こったのか、でも、そんなことさえ考える気力は無くなっていました。

 何時からか、救援隊の人たちが入って来てくれていて、毛布や食料品を配ってもらい、でも、私は食べられなかった。

 外は、未だに止まないサイレン。救急車の音も聞こえました。

 また日が経ち、体育館の裏に仮設のテントが建てられて、全国から、大勢の消防士や自衛隊の人たちの姿が見られるようになりました。

 仮設のトイレに行く途中に見えたものがあって、それは、たくさんの棺でした。体育館の裏の一角で、生存者が避難している場所と同じ場所で、たくさんの棺が組み立てられました。

 運ばれてくるのは生存者だけじゃない。目を開けることのない遺体ばかり。

 私の父さんと母さんは。その時、私の心の中から二人の姿が無くなったの。あの組まれている棺に、せめて、私の両親もと思ったけど。あの光景が今でも頭の中から消えることはありません。

 父さんの最後の言葉、月子、お前だけでも無事でいてくれ、一人になってもちゃんと生きていってくれよ! って、言ってくれた言葉が、私の支えになっていました。

 そのあと、私は就職が決まっていた東京に出てきました。両親はいない、誰も身内はいません。

 ちょうど私の両親は、今のこうさんくらいの歳でした。

 私の父さんも、こうさんと同じように工場で働いて、手は油で汚れていました。知っていますよ、爪の間に入り込んだ油の汚れが落ちにくいことを。そんな手で父さんは、私の頭をなでてくれていました。

 はい、お土産って。近所の店で買ってきたたこ焼きひとつを三人で食べていたんです。

 母さんも、父さんのそんな姿を馬鹿にすることなんてありませんでした。いつも汚れた作業着を嬉しそうに洗っていました。

 父さんがこうやって一生懸命働いてくれるから毎日楽しく暮らせるねって、私に言っていました。

 私も、贅沢なんかできる環境で育っていません。父さんが工場で働いて汗で汚れたタオルも作業着も私の自慢。

 月子、帰ったぞ。ほら、空を見てごらん、月子のようにまんまるのお月様が出ているぞって、父が言って。私が小さい頃は、よく三人で月を眺めていました。

 そんな父さんに、こうさんは似ていると私は思ったんです。私が透明人間になって、こうさんの工場に行った時、こうさんが汗で汚れたタオルを顔に載せて横になっていた姿を見ました。私は、父さんの姿を思い出しました。無口で、ただ、仕事を全うしている姿を。

 だから、恥ずかしいなんて言わないでください。工場の仕事で油まみれになる人が悲観しないでください。私は、そんな仕事をしている人のことを格好悪いという人がいるなら、その人の心の寂しさが可哀想だと思います」

 俺は、彼女の素顔がはっきりと見えた。彼女の経験は、簡単にそうだったのかとは言えないレベルだ。どんな言葉を返したとしても、彼女にはとうてい情けの言葉にしかならないように思えた。

 それ以前に、俺は言葉がでなかった。どうやっても涙が止まらない、涙を止める方法がわからなかった。俺は、人の目を気にすることなく涙を流し続けていた。

 彼女の人生にどれだけ辛いことがあったのだろう。そして、あの悲惨で世界を震撼させた震災の中で、十八歳の誕生日を迎え、独りぼっちになり、どれだけの苦しみや悲しみ、孤独と戦ってきたのだろう。そんな思いが俺の頭の中を巡り続け、彼女のすばらしさを称える気持ちが強くなっていた。

 父親のことを堂々と自慢する、まっすぐに育てられていた彼女の姿。これらのことを思うと、彼女を否定する者がこの世にいて良いのか。俺は、そう強く感じるようになっていた。

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