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第十一章  彼女を守る

 彼女の生き様を聞き、独り身で生きてきたことを知り、彼女への想いが更に膨らんだ。一時、俺が透明人間だから彼女は良かったのだと思い、彼女への好意を打ち消そうとしたが、いい加減な気持ちで逢うことはできないと思うようになっていた。昔からつまらないことを考える癖が俺にはあると実感していたが、心に大きな変化があったことは間違いないと思う。

 明確な楽しみが一つできて、俺は、待ち合わせが気になるようになっていた。人は、生き甲斐があるとこれほどにも楽しくなるのか。俺の弁当は質素なままで変わらないが、昼休みになり、おにぎりを手に取り彼女を思い、今頃はどうしているだろうと気にしながら食べるようになっていた。

 通勤でも周囲の空気は気にならなかったが、この都会で俺が恋をしていることを誰も知らない。

 季節はもう六月。そして、彼女との待ち合わせの日。

 梅雨の時季でもあり今朝は雨が降っていなかったが、突然シトシトとした雨が降り始めた。いつもの公園の芝生の上だと雨に濡れる。透明人間なら雨にも濡れないと思っていたら、それはなかった。俺は傘を持っていなかったので、公園の芝生近くに植えられた少し大きめの木の下で待った。

 そうしているうちに彼女がやって来た。

「こんにちは」

 早足でこちらに駆けてくる。今日の彼女はジーンズにTシャツ姿、黒色主体の模様の傘を差している。その姿に彼女の魅力を感じた。

「大丈夫ですか、雨に濡れていますよ」

 彼女が気遣ってくれる。

 恥じらいがあったが彼女の傘に入れてもらった。だが俺は、彼女の体が濡れないように俺の体が傘からはみ出るようにしていた。相合傘が余裕でできる男なら苦労はしない。精一杯の行動だった。

「こうさん、肩が濡れていますよ」

 また気配りされる。

「いえ、大丈夫です」

 恥ずかしかった。いい大人がこんな経験をすることがなかったので、戸惑いながら傘に入るしかなかった。

「あの建物の軒下に行きましょう」

 意外と雨は落ちてこない。彼女は傘をたたみ、パタパタして傘に付いた雨を払う。

 彼女を見ると長い髪は雨に濡れ、いつもはふんわりとしている髪の毛が肌に付いて固まる感じになっていた。そこに両手の指を櫛のように髪の毛に通す。

「ああ、私も濡れちゃいました」

 微笑んで語るところは可愛らしい仕草だ。

 こんな女の子が、何故、職場で嫌みを言われるのだろう。気遣いができるし、むしろ、あそこにいた他の店員よりも愛想が良い。俺は、そのことがずっと気がかりだった。空を見上げ、考えながら俺も顔に付いた雨を軽く振り払う。

「はい」

 彼女が俺の顔にハンカチを当てて、拭いてくれる。

「あっ、すみません。ありがとうございます」

 突然のことにドキッとした。

 彼女自らの手で俺の顔をハンカチで拭いてくれていることに、ただ呆然と立っているだけだった。相変わらず要領が悪い。

「すみません、私がちゃんと傘の中に入れてあげていたらこうさんも濡れなかったのに」

 俺は、彼女のハンカチを持っている手にしっぺをした。

「あいたっ」

 軽くしたのだが、彼女が声に出す。

「すみませんと言ったらしっぺですよ」

 俺は笑って彼女に言った。俺も少し大胆になっていた。

「あは、そうですね。すみませんって言ったらしっぺでしたね」 

 共に、にっこりだ。

 いくら六月といえども雨は冷たい。

「私たち透明人間だから、このままじゃ温かいコーヒーも飲めませんね」

彼女が唐突に言う。 

「喫茶店に入るなら透明人間じゃだめってことですよ。私たち、透明人間でいる必要もないですね」

彼女はそう言うが、俺には姿を現して彼女と一緒に喫茶店に入る勇気はなかった。それより彼女は人前で、こんなおじさんの俺と一緒にいて気にならないのかと思う。

「俺みたいな男と一緒で良いの?」

「私は全然平気ですけど、何か問題ありました?」

 笑われてしまう。

 いくら彼女がいいと言っても、正直に言えば人前で話すことに今でも抵抗はあった。世の中から消えているから堂々と彼女と会話していられたのだ。だが、まだ人前で、特に彼女といる姿を見られてどう思われるか? 些細なことが、彼女を思う気持ちより勝っていた。 

 二人だけの世界でいたかった。周りの目が気になることは、まだ変わっていなかった。この都会で、気にしないといけないようなことなのかと言われそうなことを真剣に考えて、幼稚な葛藤だ。

「月子さんが良いなら、行きましょうか。でも、すみません。俺はお洒落な店も知らないです」

 独りぼっちでいた男の哀れな一部分、どうしようもない現実だった。ちょっとした店も知らない、適当なところを探して入る勇気もない男の思いは、きっと理解してもらえないようなことだろう。

「大丈夫ですよ、私も行きつけのような店もありませんし、どこでもかまわないです」

 彼女は俺の気持ちを察して言ってくれたのか。

「あそこの公衆トイレで薬を飲んできましょうか」 

 まだ明るい時間だった。透明人間から元の人間に戻ることに、凄くスリリングな気持ちになった。

 彼女はドキドキすると言う。

 それは彼女も同じだったようだ。薬をもらってから半年が経っている。透明人間になることに慣れてはいた。しかし、元に戻る時は一人家で薬を飲んでいたので特別な感情もなかったが、確かに公の場所で姿を現すから何かしら変な緊張にも包まれた。

「そうですね、確かに」

「そうだ、こうさん。面白いこと考えちゃいました。こうさんはしばらくこのまま透明人間でいてくれますか?」

 突然に、その本意は何なのだ。

 かすかに微笑む彼女。

 彼女の傍に透明人間の俺がいたら、どんな感じがするのかと思ったらしい。

 彼女は建物の軒下で、少し両脚でつま先立ちをして背筋が伸びるようにして、両手を後ろで組んで遠くを見つめている。しかし、彼女の表情に微笑みがあるものの、何故か目からは寂しさを感じた。

「じゃあ、そうしてみましょうか」

 俺は、彼女がしたいことをしてあげようと思った。

「はい、お願いします」

 そう言って、彼女は近くにあるトイレに入り、薬を飲んで戻って来た。

 俺は、彼女の傍に立っている。

「傍にいます?」

 彼女に俺の姿は見えていない。

「いますよ、ちゃんと傍に」

「あっ、本当だ。声が聞こえる」

 可愛らしい笑顔の彼女。

「じゃあ、一緒に歩きましょうか。私の右横にいてくださいね。私、手を繋ぐなら右手が好きなので。だから、こうさんは左手」

 手を握るなんて。見えなくても、そんなことができるほど心に余裕はない。恥ずかしいが、女性と手を繋いだ経験があるわけない。こういう経験のない男が此処にいる。世の中の女の子というのは、こんな演出を楽しむのか。それよりも、よくこんなことを思いつくものだと感心した。

 俺は、左手を一度自分のズボンで汚れを拭き取るようにして、ゆっくりと手を出し彼女の手を握った。上から握ればいいのか、下から握ればいいのか、すんなりと握れないのが不細工な男だと証明したようだ。

「あっ、手を握ってますね。手の温もりがあります」

「そうですか。俺が透明人間でも感触はあるのですね」

 だけど俺の体を人がすり抜けることもあったから、意識次第だ。透明人間の俺が持っている物も透明にするなら、彼女も透明人間になったのか? だが今、初めてわかった。人と人ではならないと。そんなことを考えているうちに彼女はゆっくりと歩を進めた。俺も彼女に合わせてゆっくりと歩んだ。

 雨のせいか人通りは少ない。彼女とすれ違う人は彼女を避けて歩く。

 傘は彼女が差している。彼女は俺が濡れないように左手で傘を持ち、右側半分を開けてくれていた。

 俺の手は震えていた。罰ゲームのようでもあり、そう思いながらも本当は嬉しいのに照れくさくてしょうがない。俺は冷や汗をかいていたようだ。

「こうさん、ちゃんと私の傍にいてくださいよ。手も離さないでね」

「いやいや、手を離しても傍にいるから、俺が囁けばわかりますよ」

「いいえ、だめです。ちゃんと握っていてください」

 からかわれているような気がした。彼女のような美人に、なぜ彼氏がいないのかがわからなかった。いや、そういえば彼氏がいるのかいないのかなんて聞いていない。そんな想像は野暮なこと、考えるだけ無意味だった。それより緊張で唇が乾いていて、自分の舌先で上唇に下唇にと舐めて潤わせた。俺の滑稽な仕草は誰にも見えていない。それが救いだ。

「すみません、なんか緊張しちゃって」

「なんです?」

 いきなりぎゅっと握られた。

「こうさん、手がしっとりしていますよ」

笑われてしまう。

 このわずかな時間、俺は彼女の手を握っていることだけに、ときめきと緊張を繰り返していた。

「今こうしているだけで凄く緊張しています」

「緊張と私のことは関係しています?」 

「すみません」

 俺は、瞬間的に手を離した。なんか下心があるように見られるのが嫌で、つい手を離してしまった。

「こうさん、離しちゃだめって言ったのに、ちゃんと私の手を握っていて」

 そう言って、また右手を横に差し出してきた。

 彼女は、過去のことは話したくないのだろう。まだ俺たちはまだそこまで親しくなってない。それが当たり前なのかもしれないのだが。

「こうさん、あそこの喫茶店に入りましょうか」

「お任せします」

「じゃあ、私が先に入って席を取っておきますからね。少し時間を遅くしてね。私は、こうさんをお待ちしています」 

 そうして満面の微笑みで彼女は店に入って行った。

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