4 足音
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「やはり、まるでルール無用の存在というわけでもないのね。まあ、攻略不能の完全無敵の霊体だなんて、話にしても何にも面白くないものね。ヒトの想像から生まれる怪異は、魅力的な弱点がないと長生きできない……そう思わない?」
朸込は金属ラックから離れた指先を眺め、少しだけ興奮したように笑みを浮かべた。
「……そうかもしれない、です。でも、最初から、完全に弱点が割れているなんて、少し複雑な気分。」
私は答えながら、微かな不安を覚える。目の前の彼女は、今まで何度も姿も見えない私を撃退してきた。姿が見える今、完全に祓われてしまうかもしれない。
命を握られている感覚は、少し、怖い。
ふと、机に設置された北窪のパソコンモニタの画面に目がいった。ブラウザが開きっぱなしになっていて、ニュースサイトの記事が表示されている。
「駅で飛び込み自殺。目撃者によると、自殺した男性は、女性と話した後、安らかな表情で、そのまま線路に……」
私は無意識に画面の文面を読み上げていた。それに気づいた朸込が、私の視線を追いかけて画面を覗き込む。
「ふーん、またか。最近、こんなニュースが多いわね。いい加減、ホームドアでもなんでも設置したほうがいい気がするけど。」
彼女の声は軽く、特に気にしている様子はなかった。しかし、私はなぜかその文面にざわりとした感覚を覚えた。
「こんなニュースが、日常的にあるっていうのも、悲しい世の中よね……」
朸込がつぶやきながら画面を閉じた。それから、私を見て、首をかしげる。
「どうしたの? 何か……気になることでもあった?」
「……私、少しだけ思うことがあります。」
私は息を整え、静かに口を開いた。朸込がこちらを見て、小さく首を傾げる。
「なぜ、ヒトは自殺するのでしょうか……誰だって、死にたくないものだと、思っていたんですけど……」
その問いに、朸込はわずかに驚いたようだったが、すぐに唇を曲げて笑みを浮かべた。
「そうね……まあ、これは想像でしかないんだけど、きっと、死ぬよりも恐ろしいことっていうのが、世の中にはあるのよ。それだって、本来なら、死への恐怖が自殺を拒否するものだと思うんだけど、追い詰められたヒトは、その恐怖すら麻痺するんでしょうね。」
「恐怖が、自殺を拒否する……?」
その言葉に私は深く考え込む。
「あ、そこに引っかかるんだ。面白い子ね。」
そのとき、廊下をかけるような足音が響いて、扉が開き、北窪が顔を覗かせた。
「朸込さん、あの、怪奇現象は、何とかなりまし……」
彼の視線が私に向かい、一瞬で固まる。
「えっと……どなたですか?」
朸込が間髪入れずに答えた。
「椎木麻乃華さん。私の友人で……さっきばったり会ったから、お話がてら、ちょっと研究室見学もしてたってわけ。」
突然の名前に私は驚いたが、朸込は微笑んで、そのまま話し続ける。
「ただ……北窪君も知ってると思うけど、研究室に部外者を入れるのは規則違反なの。だから、今日のことは内緒にしてもらえる?」
北窪は戸惑った様子で頷きかけたが、すぐに言葉を詰まらせた。
「えっと……それは……」
朸込が北窪の前に立ち、お辞儀するように前かがみになる。
「お願い、北窪君。あとでちゃんとお礼もするから……ね?」
さらに、私もそれに倣うようにして、彼の目を見て静かに言った。
「わ、私からも、お願いします……」
北窪の顔が真っ赤になり、しどろもどろに頷く。
「わ、分かりました! このことは誰にも言いません!」
朸込が満足そうに微笑み、私に目配せをした。
「さて、そろそろ時間ね……そうだ、北窪君。私、椎木さんを駅まで送って……今日はそのまま帰るから、戸締りお願いしていい?」
「え? あ、もちろんです! 任せてください!」
北窪は少し名残惜しそうな顔をしながらも、真剣な表情で頷いた。
「ありがとう。それじゃあ、お先に失礼。また明日。」
朸込が軽く手を振りながら、私を促して研究室を後にした。
研究室を出てしばらく、静かなキャンパス内を歩いていた。夜のキャンパスは暗い。街灯も少なく、構内もほとんど消灯されている。
朸込がふいに口を開いた。
「ねえ、彼はあなたの正体に気づくべきじゃないの。だから、ああやって、ちょっと話をそらしたのよ。」
「……正体?」
私は足を止めて彼女を見た。
「ヒトじゃないってこと。」
朸込が小さくため息をつきながら言った。
「あなたがただの人間じゃないことを彼が知ったら……好奇心を抑えきれずに余計なことをしでかす可能性があるわ。それに、彼を守るためにも黙っていた方がいいの。」
私はその言葉に答えられず、視線を下げた。
彼女の言うことは、多分、正しい。でも、正しいだけに少しだけ胸が痛んだ。
「それにしても、〈隙間の怪〉のアナグラムで椎木麻乃華といえたのは、なかなかファインプレーだったんじゃない?」
「あ、どんな名前かと思ったら、アナグラムだったんですね……」
私は感心して目を見開いた。
「いいでしょ? 麻乃華ちゃん。ふふ。」
キャンパス内のバス停に着いた頃、私の足が重くなり始めた。
「……朸込さん、なんだか……変です。」
ふらつく足をなんとか動かしながら、私は近くのベンチに腰を下ろす。
「どうしたの?」
朸込が心配そうに私の顔を覗き込む。
「多分、電気がなくて……力が出ないんだと思います。」
私は肩を落としながら答えた。
「そんな……電気がなくて元気が出ないってこと?」
朸込は、そう呟いてから、すぐに「どうしたものでしょうね。」と眉をひそめて考え込んだ。
「朸込さん、提案があります。」
私は朸込の手に握られたスマートフォンを指差した。
「そのスマホに、私を憑りつかせてください。」
「……え?」
朸込が目を見開く。
「そんなこと、できるの?」
「多分、大丈夫です。以前、体を電気信号に変えて、スピーカから音を出したことがあります。同じようにやれば、スピーカ部分には干渉できるので、コミュニケーションはとれると思いますし、バッテリーもあるので、少しは楽になれるかな、と。」
「本気で言ってるのね……わかったわ。」
朸込はため息をつきつつも、バス停近くの校舎にあるトイレまで手を引き、スマートフォンを差し出した。
「ほら、やってみなさい。」
私は意識を集中させ、体の輪郭をほどいていくイメージを頭に描いた。朸込の手の中のスマートフォンに意識が吸い込まれるような感覚があり、次の瞬間、私は確かにその中にいた。
「うまくいったのかしら……?」
朸込がスマートフォンを覗き込むと、スピーカから私の声が聞こえた。
「ちゃんと聞こえますか?」
スピーカを鳴らしながら、私は通話をしているように声を発した。
「ええ、はっきりと聞こえるわ。でも、こんなに簡単にハッキングできちゃうんじゃ、私も油断できないわね。」
朸込がくすりと笑う。
「細かい仕組みはわかりませんけど……でも、応急処置にはなったみたいです。少なくとも、さっきみたいに気分が悪い感じはないです。」
私はほっと息をついた。
朸込はスマートフォンをポケットにしまいながら言った。
「じゃあ、電気で元気出たところで、帰りましょうか」
私は、先ほどの朸込のセリフが洒落だったことに気が付き、少しだけ気が楽になった。