16 S駅の死神
16 S駅の死神
雨が降り続いていた。
屋根の隙間から滴る雨粒が、コンクリートに淡い円を描いては消える。
電車が到着し、数人の乗客が降りる。
彼らは雨から逃げるように頭を少し下げて、静かに改札へ向かっていった。
構内に無機質なアナウンスが流れる。
「ドアが閉まります。ご注意ください。」
遠ざかる車両の光が、雨の帳に消えていく。
ホームに再び静寂が訪れた。
4時32分。
私はふと、空を見上げる。
灰色の雲は低く垂れ込めている。
「……朸込さん。」
私は、隣に立つ朸込を見た。
彼女はポケットに手を突っ込みながら、スマートフォンをいじっていた。
「どうしたの?」
「……私は、何のためにいるんでしょう?」
私の声は、雨音に紛れた気がした。
けれど、朸込はすぐにスマートフォンを閉じて、私を見た。
続けて、と無言で促すように。
私はホームの端を見つめた。
降りしきる雨が、地面を叩いている。
「私は、いろんな怪異と話しました……彼らと話して、怪異の種類も、自分の区分も、なんとなくわかった気でいます。」
「そう。」
「でも……わからないんです。」
私は、朸込の顔を見た。
「私は、何のために存在するんでしょう? 昔は、まだ科学も発展していなかったから、原理不明の現象が怪異のせいであるとした……それは、わかります。けれど、今のヒトにとって、わざわざ怪異なんて考える理由がありますか? 怖いもの、わからないものを避けたいなら、それを科学的な現象として名前をつければいいだけ。もう、妖怪や怪談を生み出す必要なんて、ないじゃないですか?」
私は、拳をぎゅっと握る。
「なのに、ヒトは、怖い話を作って、怪異を生み出し続けている。それは、なぜですか?」
朸込は、しばらく黙っていた。
雨がさらに強くなり、吹き込む風が、冷たく肌を撫でる。
やがて、朸込は小さく息をついた。
「つまり、あなたは『ヒトが、わざわざ恐怖を求める理由』が知りたいのね。」
私は息を呑んだ。
「……そう、かもしれません。」
朸込京香は、明らかに恐怖を求めているヒトだ。
彼女は、怖いものを避けるどころか、わざわざそれを見つけに行く。
彼女のようなヒトにこそ、私は問いかけるべきだった。
なぜ、ヒトは恐怖を求めるのか?
私は、じっと彼女を見つめた。
「突き詰めれば、ただの娯楽でしかないのでしょうけど、それだけじゃ面白くないわね。私は他の側面もあると思ってる。言わば、ワクチンのような……」
続きを待ったが、彼女は何も言わない。
私は違和感を覚えた。
彼女は、朸込京香は、こんな風に言葉を濁すような人だっただろうか?
「朸込さん……?」
背後から、静かな声がした。
「恐怖は、苦しみでしかありません。そうでしょう?」
私は、背筋が凍りついた。
反射的に振り向く。
そこに、黒い服の女が立っていた。
私たちのすぐ後ろ。
黒いワンピースのような服を纏い、濡れたコンクリートの上に佇んでいる。
彼女の目は柔らかく、微笑みさえ浮かべていた。
私はこれまで殺気というものを経験したことがなかったが、彼女の放つそれが殺気であるとすぐに理解した。彼女は生と死の境界そのものだった。彼女は高層ビルの淵から下を覗き、私たちは、すでに突き落とされて、彼女と目が合っている……
「大丈夫ですよ。」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「怖がらないで。大丈夫、すぐに楽になります。」
言葉が、耳にまとわりつくようだった。
朸込が、何も言わない。
視線を向けると、彼女は静かに立ったまま、微動だにしていなかった。
「朸込さん……?」
彼女はホームから線路に向かって立っていて、その瞳は、どこか遠くを見つめていた。
このままでは、彼女は今日の犠牲者になる。
「大丈夫ですよ。もう怖い思いをしなくて済むんです。力を抜いて。私が、背中を押してあげますから。」
4時43分。遠くに電車の灯りが見える。構内にアナウンスが流れる。
「電車が、通過致します。危ないですから、黄色い点字ブロックまで、お下がりください。」