14 火消の風
14 火消の風
夕刻、第一部室棟の廊下は静まり返っていた。
朸込と私は、ひんやりとした空気を感じながら建物の奥へと進む。窓の外には赤みを帯びた夕日が沈みかけており、廊下の床に長い影を落としている。
「さて、最近は噂も聞かなくなって、おとなしくなったみたいだけれど、まだいるのかしら。」
朸込はまるで遊びに来たかのような調子で言う。
私は辺りを見回す。だが、特に異変はない。
「……本当に、ここに……?」
そう呟いた直後、部室棟のドアが勝手に閉まった。
生ぬるく、湿った風が吹くと、廊下の蛍光灯が一斉に瞬きをし、次々と消えていく。
「うわっ……」
私は思わず声を上げた。暗闇が部室棟を包む。
「来たわね。」
朸込が静かに言う。
すると、闇の奥からくすくすと笑い声が響いた。
「ふふふ……」
生ぬるい風が足元を撫でる。
「やっぱり、まだいたんだ。元気そうで何よりだわ。」
朸込はどこか余裕のある声で応じる。
「久々に戻ってきたと思ったら、また邪魔をしに来たの……?」
声の出どころは掴めない。耳元から、背後から、ささやくような声が聞こえる。
「そんなつもりはないわ。ただ、ちょっとあなたに話を聞きたくて。」
「話ぃ……? あなたに話すことなんか、何もないわ。またアレ、持ってきたんでしょ?」
「いいえ。何も持ってきてないわ。ふふ。」
「本当に?」
風が私たちを包み込み、体中をまさぐるように吹き抜けていく。
「ひっ……!」
周囲の空気が歪み、暗闇がさらに濃くなった気がする。
「あはは。本当だ。ない! 何も……バカなやつ! 何も持ってこなかった! あはは!」
何も見えない。
見えないが、確かに、何かがそこにいる。
「そう、だから話を……」
朸込は暗闇に向かって声を投げかける。
「私のことをバカにしているの? それとも、喰われにきたのかしら? 話なんてしないわ。平等だと思わないで。この場で一番強いのは私。どいつもこいつも、闇に飲まれてしまえばいい……」
囁き声が近くで聞こえた。
私は息を呑む。
だが、朸込は微笑んだまま。
「——ところで、私がここに来たのは5時20分だったかしらね。」
「……は?」
「日の入りまであと数分って所かしら。」
火消の風は一瞬、沈黙した。
「なに言ってんの?」
その時だった。
窓の外から、赤い光が差し込んだ。
沈みかけた夕日が、部室棟の廊下を照らす。
影の向こうに、ぼんやりと浮かぶ姿。
そして、その顔が、はっきりと——
「——!!」
火消の風は咄嗟に身を翻そうとした。
しかし、遅かった。
「……あら。」
朸込は、目を細めた。
「……っ! うあああああっ!」
突風が吹き荒れ、火消の風が暴れ出す。
「見ないで!」
しかし、朸込は腕を組み、にやりと笑っていた。
「そんなに暴れても無駄よ。もう、あなたの顔、しっかり見ちゃったもの。」
「うあああ……なんで……なんで光が……!」
「だから言ったでしょ? 日の入りの時間よ。」
夕日はじわじわと沈みながら、しかしまだ十分な光を部室棟に届けている。
火消の風は、まるで見られることが何よりも苦痛であるかのように、両手で顔を覆っていた。
やがて、ふるふると震えながら、うつむいた。
「……そんな、バカな……。」
「そんなことだろうとは思ってたのよ。あなたの弱点は光そのものじゃなくて、見られることだったのね。」
朸込は満足そうに頷く。
「ま、可愛いからいいんじゃない?」
「……っ!」
火消の風はそれ以上何も言わなかった。
やがて、うつむいたまま、小さく息をつく。
「……で、話って、何?」
朸込が満足げに微笑む。
「駅の自殺について、噂を教えてほしいの。あなたなら、学生の話をよく聞いていると思って。」
「……駅ね。」
火消の風はしばらく黙っていたが、やがて、小さく言葉を紡いだ。
「最近、よく聞くわ……『午後4時44分に、S駅のホームにいると、死神に殺される』って。この部室棟でも……模型部の子が、それで死んだって。」
私は思わず息を呑んだ。
「犠牲者がこんなところにまで……?」
火消の風は朸込に縋りつく。
「ねえ、あなたならなんとかできるの?」
「どうでしょうね。聞く限り、ヒトの身では太刀打ちできない気がしてるけど。どう? なんとかできると思う?」
朸込は私の方を向く。
「え? その……どうでしょう……」
火消の風も私の方を見て、首をかしげる。
「そういえば、この子は?」
「麻乃華ちゃんは怪異よ。うちの研究室生まれの。」
「はぁ……へぇ……二十年? もっと前だったかしら? とにかく、結構前から、いるとは聞いていたけど、こんな見た目だったんだ。なんか、あれみたいね。どっかの部室のパソコンで学生が遊んでるの見た時に、あなたみたいな見た目のがいた気がする。あれよ、コアラの食べてるやつみたいな名前の。」
「ユーカリ?」
「ああ、そうだったっけ。いや、違う? まあ、どうでもいいわ。」
シューティングゲームやユーカリや……一体、私の見た目は、何に似ているのだろう?