12 それも沼
12 それも沼
水面から飛び出したそれは、私をじっと見つめたまま、微動だにしなかった。
水に濡れた髪が、粘るように肌に張りつき、その合間から覗く瞳はどこか虚ろだった。
「……あんた、何? 痛かったんだけど。」
低く、湿った声が発せられる。
ゆっくりと沼の上を漂いながら、私の方へと近づいてくる。
「先に触ってきたのはそっちじゃないですか。あなたこそ……何なんですか?」
私は警戒しながら問い返す。
沼の怪は一瞬沈黙し、それから直角に首を傾げた。
「質問に質問を返す……そういうの、嫌い……」
けだるげな口調だった。
まるで眠気に抗いながら話しているような、だるそうな声。しかし、首を折り曲げながらこちらを覗かれるのは、かなり怖い。
「あ、その……隙間の怪です。」
「あっそ……」
その声は、やる気のない調子で、まるで他人事のようだった。
女はベタリ、と岸に手をつくと、トカゲのような動きで、岸を登ってくる。
やがて、私たちの目の前で立ち上がると、彼女は体を軽く震わせ、水を払いながら髪の毛を絞った。
「まったく……水から出るの、めんどくさいんだけど……仕方ないわね。ヒトに見られたら面倒くさいし……」
次の瞬間、彼女の体の輪郭が揺らぎ、変化する。
異様に長かった指は縮み、姿勢もヒトらしくなった。
青白かった肌にはわずかに血の気が差し、湿った長髪が静かに風になびく。
「……化けた。」
私が思わずつぶやくと、朸込がすかさず問い詰めた。
「で? あなた、何者なの?」
女はうんざりしたように息をつき、半目のまま口を開く。
「んー……まあ、ここらへんに住んでる怪異よ。昔からね。今でこそ、大学の土地だけど……前は集落もあったのよ……そう、それで、親が子どもに『あの沼に近づくと足を引きずり込まれるぞ』って……それが私になったの。」
「……そういう感じなのね。」
朸込は腕を組みながら納得したようにうなずく。
「危険を避けるために広めた話が、積み重なって怪異になったパターン。」
私は改めて、目の前の怪異を見た。
確かに彼女は「人ならざるもの」の空気を纏っている。
けれど、見た目には、ただの気だるそうな女性にしか見えなかった。
「地図アプリにこの沼の写真をアップしているのは、あなたですか?」
私の問いに、沼の怪は「あー……」と少し考え込んだあと、あっさり認めた。
「うん。私がやってる。」
あまりにも素直な答えに、朸込は目を細める。
「なぜ? そもそも、どうやってスマホを手に入れたの?」
すると、沼の怪は首をこきこきと鳴らしながら、けだるそうに説明し始めた。
「私のトモダチがヒトを驚かしたら、ヒトがスマホを落として逃げちゃったらしいの。」
「……え?」
「で、その怪異、スマホに興味ないから、いらないって言うし。じゃあ、私がもらうねって。」
朸込と私は、顔を見合わせた。朸込がつぶやく。
「……そんな……犯罪じゃないの。」
「怪異を裁ける法があるの? んふふ……結構便利よ……調べものできるし、時間つぶしもできるし。充電器も、実験棟の前に置きっぱなしのがあるから……」
沼の怪はスマホを取り出して、指でスワイプする動作を見せる。
「イラストとか小説とか、いろんな作品が見れるし……ヒトには感謝してる……」
この時点で、私はすでに情報の処理が追いついていなかった。
しかし、朸込は次の疑問をぶつける。
「なんで地図アプリに写真を投稿し続けていたの?」
「自己顕示欲。」
即答だった。
「ほら、私、基本的にここにいるから……誰も来ないし、誰も気づかないし。でも、せっかくヒトの文化に触れたんだから、何かしら爪痕を残したいなー……って。地図アプリに写真を上げてみたの。」
朸込は呆れたようにため息をついた。
沼の怪はその反応を見ながら、妙に艶っぽい声でつぶやく。
「それにしても……あれよね。」
彼女の視線が、私と朸込の間を往復する。
「あなたたち……沼だわ……」
私は一拍おいて、「沼?」と真顔で尋ねる。
「推せる……ヒトと怪異……尊い。」
ああ、沼……か。
「……私、ネットで作品を読むのが好きなの……それで……誰かと共有したくて。ここには誰も来ないし……だから、最近は、ネットでみんなを沼に引きずりこんでるの……」
私は絶句した。
この怪異、思った以上に現代に適応している。
私は朸込の耳元でそっとささやく。
「どうします? これ。」
「とりあえず、もう少し話を聞きましょう……本題は、別にあるわ。」
そう言って、彼女は沼の怪のほうへ向き直った。