1 プロローグ
ヒトには感情がある。
喜びがあって、怒りがあって、哀しみがあって、楽しみがある。
その中にあって、なるべく感じたくないものといったら、恐怖だろう。
誰だって、日常の中では、恐怖を感じたくはない。
しかし、ヒトは恐怖を求める。
動画に、お化け屋敷に、小説に。
それを求めるヒトがいて、それを作るヒトがいる。
なぜ、怖がりたいヒトがいるのだろう。
なぜ、
私は在るのだろう?
1 プロローグ
冷たい空気に満たされた薄暗い研究室に、一人の男がいる。彼はこの研究室に通う学生で、名を北窪優というらしい。
北窪はデスクチェアに腰かけて、パソコンのブラウザを立ち上げ、ホームに表示されるニュース記事をクリックしては、読んでいるのかいないのかわからない早さでスクロールし、また次のニュース記事を読んでいる。
そして、私はその後ろに立っている。私は彼の背後から、耳元に息を吹きかける。
「ええっ!? 何!?」
彼は驚いて、椅子から跳ね上がり、私のほうを見る。
「えっ、怖……誰もいないじゃん……何なんだ。最近こんなこと多いなあ」
どうやら彼には私のことが見えないということは、ずいぶん前に理解していた。彼に限らず、私のことが見えたヒトは全くいなかった。
私は幽体というか、透明な存在で、先ほどのように、息を吹きかけることや声をかけることはできても、その存在は全く認知されず、空気のような存在だった。彼らにとっては、私の行為はすべて「なんか風が吹いた」とか「なんか声が聞こえた気がする」とか、その程度のことらしい。
北窪は、研究室の流し台に、コーヒーを淹れにいったようだ。
私は、検索欄に文字を入れる。
「うえを みろ」
彼がデスクチェアに座りなおすと、期待通りの悲鳴が上がる。彼が素直に上を向いてくれたので、今度は研究室の明かりを消してやる。
「みぎを みろ」
彼は言葉にならない何かを喚きながら、恐る恐る横を向く。その隙に書き込みを続ける。
「うしろを みるな」
彼のブルブル震える姿を見ると、私も歓びに震えるようだった。この瞬間だけが、私の至福の時だった。あまりに彼の震える姿が面白いので、彼の背筋を指でなぞってみた。
「だあーっ!! もう無理っ! さすがに訳分かんないしヤバいって! き、朸込さん、助けて!」
北窪は、バタバタと研究室の外に駆けていく。勢いのあまり、途中で転んで怪我をしないだろうか、などと心配になる。自分でも訳が分からないが、私は、ヒトを怖がらせたいのであって、傷つけたいわけではないのだ。
はあ、と思わずため息を吐いてしまう。最近、こんなことばかりだ。誰かを驚かして、誰かを心配して、矛盾する感情の板挟み。せめて誰かに話し相手になってもらえるなら、どんなにいいだろうか。そんなことばかり考える。しかし、それは叶わぬ夢で、私は永遠に孤独であるという事実だけが、この研究室の静けさとともにあった。