第一章 七つ下がりの雨、遣らずの雨
講義終わり、大学の建物を出ると雨が降っていた。雨を確かめるように片手を空にかざす。
「雨は好きだ」花香は心の中でそう思う。雨が降ると、いつもの代わり映えしない景色が少しだけ特別に感じる。雨音は乾いた雑音を消してくれるし、傘をさせばすれ違う人々の顔さえ分からないから、自分だけの世界にいるみたいに感じる。スマホの時刻を見ると18時半を過ぎたくらいだった。速足で行けば次の電車には間に合うだろう。
大学の敷地を出ると、通りには傘をさす人々が見えた。駅までは10分ほどだが、迷った結果、傘をさすことにした。教科書やらパソコンやらで重たい鞄から折りたたみ傘を取り出す。傘を広げようとふと何気なく顔を上げると、近くのそれほど大きくはないビルの屋上に人影らしきものが見えた。一瞬自分の目を疑った。しかし、目を凝らして見てみてもそれはやはり人のようだった。その人影は屋上のフェンスから身を乗り出していて、手を離せば今にも落ちてしまいそうだった。
「え・・・」
状況を理解した瞬間、声にならない声が出た。心臓から体の隅々まで冷たい水が一気に押し寄せるような感覚がした。周りを見渡したが、誰も屋上の様子には気が付いていないようだった。
気づいたときには花香はビルに向かって走り出していた。自分の鼓動が何度も頭を内側から押さえつけるかのように鳴っていた。背負った鞄は一歩踏み出すごとに背中に打ち付けられた。手に持った開きかけの折りたたみ傘は風になびいて時折すれ違う人々にぶつかった。花香は時折ビルの屋上を見ながらなりふり構わず走った。
息を切らしてビルの下までたどり着くと、さほど時間は経っていないはずだが、雨は先ほどより強くなり、濡れた前髪から垂れた雨粒が目に流れ、思わず顔を腕で拭った。ビルを見上げたが、雨と街路樹で屋上の様子はよく見えなかった。ビルは何かの会社のもののようだったが、古くさびれた様子で、今は使われていないのか、入口や窓に明かりはついておらず、人の気配も感じられなかった。ビルの反対にまわると、わずかに扉が開いたままになっている、屋上へとつながる外階段があった。階段の下に、背負っていた鞄を投げ出し、花香は夢中で階段を駆け上がり、屋上の扉を勢いよく開け放した。
***
どこからか聞こえてくるカンカンという音で修一郎は我に返った。その音は段々と近づいてきていた。振り返ると、バンという音がして外階段につながる扉が開き、そこには雨で髪や服を濡らし、俯いて肩で息を切らす女の姿があった。
「よかった」
と女が小さくつぶやくのが聞こえた。修一郎は訳がわからず唖然とするばかりだった。
「ねえ」
と女が呼び掛けた。
「ねえ、待って」
再び呼び掛ける女の声で、修一郎はこの女が何をしようとしているのかが分かった。俺がここから飛び降りるのを止めようとしているんだ。いらない正義感で。
修一郎は女のいる方から顔を背けて、再びビルの下の景色に目を向けた。ぐずぐずしていたらもうどうにもならない状況になってしまった。この期に及んで、道徳だとか、きれいごとでできたエールとか、お説教とかを聞きたいわけじゃない。いっそ今ここでフェンスから手を離してしまえばいいのかもしれない。全てが面倒くさい。もうやめにしたい。
「まだいなくならないで・・・なんか・・・なんでかわかんない、なんていったらいいのかわかんないけど、もう少しだけ・・・明日までは待って、お願い・・・」
女の声がしたが、修一郎は構わずフェンスからさらに身を乗り出し両手を離した。
その時、胸の下あたりを強く締め付けられるような感覚がした。一瞬何が起こったのか分からなかったが、見ると先ほどの女がフェンスの内側から、自分を後ろから抱きしめるようにして、引き留めているのだった。
「なんで・・・」
驚きと混乱で修一郎は思わず言った。
「もう私の目の前で誰かにいなくなってほしくないから」
そう言った女の言葉だけを覚えている。
気が付いたら、ビルから少し離れたハンバーガーショップの席に着いていた。
***
花香は学校帰りの学生や、仕事終わりの会社員で賑わうハンバーガーショップで、飲み物の乗ったプラスチックのトレーを持って、先ほど出会ったばかりの高校生くらいの男の子の向かいの席に着いた。男の子はずっと俯いたままだった。
「あの、全然しゃべらなくて大丈夫・・・とりあえずこれ飲んで、喉、乾いてるだろうから・・・」
花香はトレーからドリンクの入ったカップを出して、男の子の前に置いてそう言った。どうすれば良いのかも、何を言ったら良いのかも分からず、花香はトレーからそっともう一つの自分用のドリンクを手に取り、ストローを差して、ちらりと俯いたまま喋らない男の子と見た。
「えっと、これは、その、私が勝手なことしちゃったお詫びだからさ・・・」
なおも動かない男の子を見て、花香はカップをさらに男の子の前に押し出してそう言った。男の子はゆっくりと手を伸ばしてカップを手に取り、ストローを差して何口か飲んだ。その様子を見て花香も自分のドリンクを手に取りまた一口飲んだ。
しばらくの間二人は言葉を交わすことはなく、スマホを見るでもなく、ときどき飲み物を飲む、気まずいような、静かなような、何とも言えない時間が流れた。
花香は男の子の方にまた目をやったが、やはり俯いたままで、表情一つ変えなかった。無理もない。何があったのかは知り得ないが、この男の子はつい先ほどまで自ら命を絶とうとしていたのだから。
自分の選択が正しかったのか分からないが、今この間だけでも最悪な事態を防げたことは良かったと花香は思った。安堵もあったが、まだ緊張と不安で鼓動はおかしかったし、隣のテーブルに座る女子高生グループの会話ばかり耳に入ってきた。
六月に入ったばかりだったが、雨もあって外は少し蒸し暑く、ハンバーガーショップの店内にはエアコンがかかっていて、濡れた頭や服に風があたると肌寒く感じた。冬でも冷たいものを飲むくらい滅多に温かい飲み物を飲むことはない花香だが、このときばかりは、ホットコーヒーにでもすれば良かったと思った。男の子もそう思っているだろうか、温かいのがいいかくらいは聞けば良かった。せめてタオルくらいは朝、鞄に入れておくんだったと、自分と同じくらいびしょ濡れになっている目の前の男の子を見て、花香は思った。
この子は高校生くらいだろうか。必死で何も気が付かなかったが、男の子は私服で、鞄を持っておらず手ぶらに見えた。いや、そんなことを考えたって仕方がない。でも、自分は正しかったのだろうか。生きることを止めようとしている人を引き留めて生を続けさせることは、死より酷なこともあるだろう。分からない。今は自分を無理やり信じるしかなかった。
***
修一郎はじっと目の前の残り僅かになったドリンクカップを見つめていた。何も飲む気にも食べる気にもなれなかったが、喉が乾いているだろうからと言われると、途端に喉がカラカラであることに気が付いた。オレンジジュースは乾いた喉にしみて、今までで一番美味しいとさえ思った。
目の前に座るこの人は何で俺を引き留めたのだろう。あのまま一歩踏み出せばこれから起こるだろう嫌なことや辛いことからは解放されたのだろうか。でも、今は誰かが手を差し伸べてくれたことの嬉しさも感じているのかもしれない。不思議とあの時感じていたこの人への反抗心はなくなっていた。これからどうすればいいんだろう。明日は学校に行かないといけないだろうな。無断欠勤したから怒られることだろう。なんて説明すればいいんだろう。どんな顔して行けばいいんだろう。また、“いつも“の生活に戻って、普通に過ごしていくのだろうか。
修一郎がなくなりかけたドリンクを啜る音と、花香がカップをテーブルに置くときに鳴った氷のカラッという小さな音は、店の雑音に溶け込んでいった。修一郎は空になったカップをそっとテーブルに戻した。店の出入口側の端にあるテーブルなので、すぐ横は通りに面した透明なガラス窓になっていた。修一郎は窓に少し顔を近づけてガラス越しに通りを眺めた。いつの間にか外は日が沈んでいて、街灯がぼんやりと街を照らしていた。雨は降りやまず、ガラスには大粒の雨が付き、水滴が重なって滑るように下のほうに流れていった。修一郎の吐く息でガラスは微かに白く曇り、修一郎はまた俯いてテーブルの上をどことなく見つめた。
「私からお願いがあるんだけど・・・」
沈黙を破って花香が言った。修一郎は少し顔を上げ、花香の方を見た。
「明日までは元気でいてほしい・・・その後はもう私が関わることもないと思う・・・止めたりもしない・・・」
「・・・だから・・・明日もまたここに来てほしい・・・」
花香の言葉に修一郎は俯いたまま小さく頷いた。
雨の強さは増していた。一瞬稲妻が光り、暗くなった街を照らした。ガラスに近い席に座っていた客の何人かが窓側を向いて外の様子を伺った。数秒後に雷の低い音が響き、また何人かの人達が外を見た。小さな子どもがテーブルに身を乗り出すようにしてガラスの方を指さして、「かみなりだー」と言った。「そうだねー、ちゃんと隠しとかないとおへそ取られちゃうかもよー」と子どもの隣に座る母親が言う。「えー、雷じゃん、コワ。」と隣のテーブルの女子高生達が談笑している。
どちらが言うとでもなく、空になったカップをゴミ箱に捨て、修一郎と花香はハンバーガーショップを出た。
花香は鞄からまだ水を含んでいる折りたたみ傘を取り出す。
店の軒下から雨の中へ出て行こうとする修一郎を見て花香は、修一郎が何も持っていないことを思い出した。ビルからここに来るまで、手に持っていた傘に二人で入って来たが、動揺していて忘れていたが、今日は傘をもう一つ持っていたことに花香は気が付いた。花香は鞄の奥からもう一つ傘を取り出して修一郎に差し出した。
「二つあるから・・・」
修一郎は小さく会釈して傘を受け取った。
「明日また返してくれればいい・・・」
花香はそう言って傘を開き、修一郎に背を向けて駅の方に歩き出した。大学のロッカーの使用期限がもうすぐ切れるので、整理したついでに持って帰ってきた置き傘が、こんなところで役に立つとは思わなかった。スマホを見るともう20時近かった。ロック画面には大学からやアプリのお知らせメールが数件と明後日締め切りのレポートのリマインドが表示されていた。花香は、はあと空に息を吐いた。ため息は雨空に吸い込まれていった。
私は雨が好きだ。雨粒が傘に当たる音は心地良い。水たまりを揺らす雨粒の波紋も、そこに映る景色も。両親と雨の中遊んだあの日を思い出す。もうできないけれど、またあの時みたいに雨のなか、何も考えずにはしゃぎたい。ずっと雨が続けばたのしいのかなと思う。もう過去のことだけど。両親が事故で亡くなる前の最後の思い出だから。
修一郎は受け取った傘を開いて外に出た。花香は修一郎の帰路と反対の道を歩いていた。修一郎は立ち止まってその姿が見えなくなるまで、花香の背中を見送ったが、花香が振り返って、修一郎の方を見ることはなかった。
***
修一郎は放課後の教室で、教科書をスクールバックにしまっていた。クラスメイトも皆談笑しながら帰りの支度をしていて、帰りのホームルームが終わったのを見計らってやって来る隣のクラスの生徒や、担任の先生に教科の質問をする生徒で、教室は賑わっていた。大学入試まで残り半年と一か月ばかり(6月のはじめくらい)で、教室の後ろの黒板には入試までの日数がカウントダウンされていた。
「俺たち練習行くけどどうする?」
クラスメイトで同じ部活をしている涼が、修一郎の机の前に来て尋ねる。涼の隣には同じくクラスメイトで部活仲間の春斗もいた。春斗は制服のポケットからスマホを取り出し、修一郎の机の端に座った。
「ごめん、今日も行けない」
修一郎は帰り支度の手を止めて言った。このやり取りももう何度目かになっていた。心配そうな顔をして修一郎を見る涼を前にして申し訳なさと自分の惨めさで、毎度胸が締め付けられるような感じがした。スマホを片手に平然としているように見える春斗も、なぜ今日も部活を休むのかと聞かないのは春斗なりの優しさなのだと思う。
「そっか」
涼は明るくそう言って、励ますように修一郎の肩を軽く叩いた。
修一郎はバッグに荷物を詰め込んで、三人は一緒に教室を出て、校舎の一番上の階からお互いに黙ったまま階段を下りていった。下の階に行くと下級生のクラスもホームルームが終わったばかりらしく、教室から出てくる生徒で廊下や階段は混み合っていた。
「いつもごめんな・・・」
校舎から出たところで修一郎は立ち止まっていった。
「大丈夫だって。気を付けて帰れよー」
先を歩いていた二人は振り返って、涼がそう言った。
二人はじゃあといってグラウンドの方に向かって行った。修一郎はうつむいてグラウンドを早足で通り過ぎ、正門を通って学校を出た。
***
花香はいつものハンバーガーショップの大きなガラス窓近くの定位置で、パソコンを開いてレポートに取り掛かっていた。ハンバーガーショップに入ってから1時間ほどが経ち、何とか今日中にレポートを提出できる兆しが見えてきたところだった。
修一郎はハンバーガーショップに入り、少しあたりを見ると、すぐに昨日座っていた席に花香の姿を見つけた。修一郎はゆっくりと花香の方に歩いていった。
人の気配を感じて花香はふと顔を上げた。目の前には昨日の男の子が少し気まずそうに立っていた。「やっぱり高校生だったんだ」と制服姿の男の子を見て花香は思った。
「あ、えっと、よかったら座って」
花香は立っている男の子に促した。修一郎は軽く会釈して花香の向かい側の席に座った。
「ちょっと待っててね」
花香はそう言って、修一郎用にドリンクを注文しようと席を立ってカウンターに向かった。
「あの、来てくれてありがとう・・・これ、よかったら」
花香は席に戻ってくると、修一郎に昨日のようにドリンクの入ったカップを渡しながら言った。
「ありがとうございます。」
修一郎は小声でお礼を言った。
花香はレポートを続けるのも変だと思い、そっとパソコンを閉じた。それから二人は何を話せばいいのか分からなくなり、気まずさを紛らわすようにドリンクを一口飲んだ。しばらくの間、何とも言えない沈黙の時間が流れていった。
「私そろそろ行くね」
二人のドリンクもなくなりかけて来た頃、花香はそう言って席から立ち上がった。つられて修一郎も席を立った。二人はまた昨日と同じようにハンバーガーショップを後にしようとしていた。昨日と違い雨は降っていなかったが空は灰色の雲で覆われていた。
「傘、ありがとうございました。」
修一郎は昨日借りた傘を花香に差し出した。
「ううん、全然。ありがとう」
花香はそう言って修一郎から傘を受け取った。
「あの、西本花香さんていうんですか、名前・・・」
修一郎にそう言われて、花香はなぜ分かったのか一瞬不思議に思ったが、すぐに貸した傘の止めひも部分に名前を書いていたことに気づいた。
「そう、名乗ってなかったよね、西本花香っていいます・・・。一応ここの近くの大学に通ってて、よくこの店に来るから・・・」
「えと、東修一郎です・・・霞ヶ丘高校に通ってます・・・色々親切にしていただいてありがとうございました。」
花香と修一郎はお互いに自己紹介した。
そのあと少し気まずくなって、軽く会釈をし合って二人は反対方向に歩きだした。花香は歩きだしながら一瞬後ろを振り返り、おそらくもう会うことはないであろう修一郎の後ろ姿を見た。修一郎君が幸せに生きていけますようにと花香は心の中で願って、また歩き出した。
修一郎は少し歩いた後、立ち止まって花香の方を見た。「ここで別れてしまっていいのだろうか」と修一郎は考えた。このまま歩き出してしまったらもう二度と会えない気がする。
「あの・・・」
修一郎は直感的に声をかけていた。
少し離れた花香がゆっくりと不思議そうな顔で振り返った。
「次もまた・・・この場所で・・・」
修一郎は言った。通り過ぎる何人かの人が修一郎の方を何だろうとちらりと見た。花香は少し驚いた様子を見せたが、小さく笑って頷き、修一郎に向かって片手を振った。