なんとなくピンチ
朝食のハムエッグをきれいに平らげた真桃ちゃんは、食後のコーヒーを飲みながら、すっかり我が家のようにくつろいでいた。
「ふぅ……。オジサン、ごちそうさまでした。なんか、実家より落ち着いちゃうかも」
「それは褒め言葉として受け取っておくよ。さて、そろそろ送っていくか?」
俺がそう切り出すと、彼女は「あ」と思い出したように声を上げた。
「あ、そうだ! 昨日はご迷惑かけちゃったし、お礼に私が昼食を作りますよ。カレーとかどうですか? 私、カレーだけは自信あるんです」
「カレー? いや、悪いよ。女の子にそんなことまでさせちゃ」
「ダメです、私の気が済みません! ……それに、オジサンの冷蔵庫、寂しかったですし。買い物も付き合ってください。ね?」
上目遣いでお願いされると、昨夜の「無事に帰すのは今晩だけ」という、酔った勢いの独り言が頭をよぎって少し気まずくなる。だが、断る理由も見当たらなかった。
俺たちは連れ立って、近所のスーパーへと向かった。
外の空気は清々しく、真桃ちゃんはパーカーのフードを被って少し顔を隠しているものの、その立ち振る舞いはやはり目を引く。横を歩いているだけで、自分が何倍も立派な人間になったような錯覚を覚えるから不思議だ。
「ジャガイモは男爵がいいかな、メークインかな……」
真剣な顔で野菜を選ぶ真桃ちゃん。その姿は新婚生活のようでもあり、俺の心臓はさっきから少しうるさい。
だが、そんな浮かれた気分をぶち壊す声が響いた。
「あら、三烏さん? 奇遇ですね」
聞き覚えのある、凛とした声。
振り向くと、そこには買い物カートを押した女性が立っていた。
佐伯さんだ。三十代前半、艶やかな黒髪をまとめ、知的な瞳を輝かせている美女。俺がダンジョン探索の研修を受けた際、担当してくれた同じ事務所の先輩探索者さんだ。
「あ、佐伯さん。お疲れ様です。買い物ですか?」
「ええ。……それより三烏さん。そちらの可愛らしいお嬢さんは?」
佐伯さんの視線が、俺の隣でカレーのルーを手に取っていた真桃ちゃんに注がれる。
真桃ちゃんはキツネ面も着けていないので、その美貌は隠し切れていない。佐伯さんは、俺と真桃ちゃんの顔を交互に見比べると、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ふふ、なるほど。最近の探索の成果が上がっているとは聞いていましたけど、私生活の方も『Aクラス』のようですね」
「えっ、いや、これはその、誤解で……」
「いいんですよ、三烏さん。ダンジョンは夢を売る場所でもありますから」
佐伯さんは「お邪魔しました」と茶目っ気たっぷりにウィンクをして、流れるような動作で去っていった。
残されたのは、顔を真っ赤にした俺と、なぜか少し得意げに胸を張っている真桃ちゃんだった。
「今の綺麗な人、誰ですか?」
「あー……同じ事務所の先輩だよ。完全に勘違いされたな」
「いいじゃないですか。間違ってないですよ、昨日から一緒なのは」
さらりと恐ろしいことを言う彼女に、俺の精神力(MP)は削られる一方だった。
家に戻ると、真桃ちゃんは手際よくキッチンに立った。
野菜を切る音、炒める香ばしい匂い。ワンルームの部屋が、急速に生活感に満たされていく。
「お待たせしました! 真桃特製・ダンジョン肉カレーです!」
差し出されたのは、じっくり煮込まれた深みのある色のカレーだった。
一口食べると、驚くほど本格的な味がした。スパイスの加減が絶妙で、隠し味に何を入れたのか、奥行きのある旨味が広がる。
「……うまい。真桃ちゃん、これ店出せるぞ」
「本当ですか!? やったぁ、頑張った甲斐がありました」
二人で並んで食べる昼食。テレビのバラエティ番組の音がBGMだ。
さっきスーパーで買い込んだデザートの高級プリンも開ける。甘いものを食べている時の真桃ちゃんは、本当に幸せそうで、さっきまでの「芸能人の卵」という壁が消えて、ただの二十歳の女の子に見えた。
食後、二人は自然とテレビの前のソファ(といっても、俺の座椅子とクッションだが)でくつろぐ形になった。
真桃ちゃんはデザートを食べ終えると、俺のクッションを膝に抱えて、うとうとし始めている。
「……なんか、お腹いっぱいで眠くなっちゃいました……」
「そうだな。少し休んだら送るよ」
「んー……まだ、いいです。この番組が終わるまで……」
番組が終わっても、次の番組が始まっても、彼女が立ち上がる気配はない。
窓から差し込む午後の日差しが、彼女の長い睫毛を照らしている。
テレビの中では、昼下がりの情報番組がゆるいテンションで進んでいる。料理コーナーに切り替わり、司会者が妙に大げさに「簡単で美味しい!」を連呼しているのが耳に入るが、内容はほとんど頭に入ってこない。
なぜなら、俺の意識の大半は、すぐ隣にあるからだ。
真桃ちゃんは、さっきから完全にくつろぎモードに入っていた。クッションを抱えたまま、半分横になり、時折まぶたが落ちかけては、はっとしたように目を開ける。その繰り返しだ。
「……寝るなら、ちゃんと布団で寝た方がいいぞ?」
「んー……起きてますよぉ……」
全然起きていない声だった。
俺は苦笑しながら、テーブルの上を軽く片付ける。食べ終えた皿やスプーンをシンクに運び、水に浸しておく。こういう何気ない家事をしていると、まるで本当に誰かと同居しているような気分になるから不思議だ。
背中越しに、かすかな寝息が聞こえた気がして振り返る。
案の定、真桃ちゃんは完全に落ちていた。
規則正しい呼吸。クッションをぎゅっと抱きしめたまま、無防備に眠っている。その姿は、さっきまでカレーを振る舞ってくれたしっかり者の女の子とは別人みたいで、年相応というか、それ以下にも見えるほどあどけない。
「……ほんと、自由だな」
思わず小さく呟く。
だが、不思議と嫌な気はしない。むしろ、部屋の空気が少し柔らかくなったような感覚すらある。
俺はそっと窓のカーテンを少しだけ閉め、直射日光が当たらないようにしてやった。起こすのも忍びないし、かといってこのまま放置するのもどうかと思う。
少し考えてから、押し入れから薄手の毛布を取り出し、彼女の肩にかける。
「……ん……ありがと……」
寝言なのか、かすかにそんな声が聞こえた気がした。
――さて、どうするか。
時計を見ると、まだ午後二時を少し回ったところだ。夕方まではだいぶ時間がある。
普通に考えれば、このまま昼寝をさせて、起きたところで「じゃあ送るよ」となるのが自然な流れだろう。だが、相手はダンジョンではキツネ面で過ごす謎の少女だ。しかも、俺の生活圏にするりと入り込んできて、カレーまで作ってくれる距離感の近さ。
常識的な判断が、あまり当てにならない気がする。
「……いや、考えすぎか」
自分に言い聞かせるように呟き、俺はテレビの音量を少し下げた。
しばらくの間、静かな時間が流れる。
番組はいつの間にか再放送のドラマに変わり、画面の中で登場人物たちがシリアスな会話を繰り広げている。その緊張感とは裏腹に、こちらの空間はやけに穏やかだ。
やがて、三十分ほど経った頃だろうか。
「……んん……」
小さな唸り声とともに、真桃ちゃんが身じろぎした。
ゆっくりと目を開け、ぼんやりと天井を見上げる。そして、数秒遅れて現状を理解したのか、ぱちぱちと瞬きをした。
「あれ……私……」
「おはよう。いい昼寝だったな」
「あ……すみません……寝ちゃってました……」
むくりと体を起こし、肩にかかっていた毛布を見て、少しだけ頬を緩める。
「これ……オジサンが?」
「まあな。風邪でもひかれたら困るし」
「……優しいですね」
そう言って、小さく笑う。その笑顔がやけに自然で、俺は一瞬言葉に詰まった。
「で、どうする? そろそろ帰るか?」
なるべく平静を装って尋ねる。
すると、真桃ちゃんは少しだけ首を傾げた。
「うーん……どうしようかなぁ……」
どうしようかなぁ、じゃないんだよ。
内心でツッコミを入れるが、口には出さない。
「今日は、特に急ぎの用事とかないんですよね。レッスンもオフですし」
「そうなのか」
「はい。だから……」
そこで言葉を区切り、いたずらっぽくこちらを見る。
「もう少し、ここにいてもいいですか?」
真正面からそう言われて、断れる男がどれだけいるだろうか。
「……まあ、別に構わないけど」
「やった」
軽く拳を握って喜ぶ様子は、年相応の無邪気さそのものだ。
だが同時に、俺の中の警戒心もわずかに顔を出す。
「ただし、夕方には送るからな。さすがに夜までいるのは――」
「えー」
露骨に不満そうな声。
「いや、“えー”じゃない。昨日も泊まったんだから、今日はちゃんと帰れ」
「むぅ……」
頬を膨らませる真桃ちゃん。だが、その表情もどこか楽しんでいるように見える。
「じゃあ、夕方までで我慢します」
「最初からそう言ってるだろ」
思わず苦笑が漏れる。
それからは、妙に穏やかな時間が続いた。
二人でテレビを見ながら、くだらないバラエティにツッコミを入れたり、スマホで見つけた動画を見せ合ったり。ときどき、真桃ちゃんがキッチンに立ってお茶を淹れてくれたりもした。
特別なことは何もない。
だが、その「何もなさ」が、妙に心地いい。
「オジサンの部屋って、ホント落ち着きますね」
ぽつりと、真桃ちゃんが呟く。
「物少ないし、静かだし……なんか、安心する」
「それ、褒めてるのか?」
「褒めてますよ。すごく」
そう言って、柔らかく笑う。
その言葉に、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
気づけば、窓の外の光は少しずつ傾き始めていた。
長い影が部屋の中に差し込み、昼の空気がゆっくりと夕方へと変わっていく。
――そろそろ、か。
そう思いながら、俺はちらりと隣を見る。
真桃ちゃんは、またクッションを抱えながら、今度はしっかりと目を開けてテレビを見ていた。
だが、その横顔を見ていると、ふとした疑問が頭をよぎる。
この子は、本当に――
ただのお礼で、ここにいるだけなんだろうか。
それとも。
そこまで考えて、俺は小さく首を振った。
「……考えすぎだな」
「何がですか?」
「いや、なんでもない」
真桃ちゃんは不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。
ただ、ほんの少しだけ。
俺の方へ体を寄せてきた気がした。




