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9/12

9 鈴の水

 婚儀の日からひと月が過ぎると、異都の夫婦は男女それぞれの仕事場に戻っていく。男は石切り場から石を運んで坑道を直し、女は農場で仲間たちと作物を作る。

 けれどひと月の後もかたときも離れない夫婦がいる。妻が子を宿したときだ。

 異都の人々の寿命は短いが、生まれてくる子は奇妙なほど生命力が強い。死産はほぼなく、十四歳で成人するまで病気一つせずに育つ。

 その代わり腹に宿った子は、母の生命力を残らず吸い取るようにして生まれてくる。夫が食べ物を与え、甲斐甲斐しく世話を焼かなければ、妻は衰弱して出産のときに命を落としてしまった。

 婚儀から三月の後も、黒耀は名那を農場に返さず、洞で世話を焼いていた。人々は洞を覗かなくとも想像を馳せて、名那が子を宿したのだと疑いなく信じた。

 ただ黒耀と名那は人々が思うような夫婦の仲ではなかった。二人は古くから異都で続いてきた生活をたどるというよりは、手探りで日々を過ごしていた。

「おはよう、名那」

 寝台の上で目を開いた名那を見下ろして、黒耀は首を傾ける。

「少し汗をかいているな。発疹ができるといけない。どれ」

 黒耀は名那の上衣の前合わせをほどくと、水で絞った布で丁寧に体を清める。名那はそれをぼんやりと見上げていた。

 名那の意識は川面にたゆたう舟のようで、問いかけにはっきりした答えを返すことはない。

 体を清め終わると、黒耀は炊事場に向かった。かまどから鉄の鍋を下ろし、山芋をすりつぶして混ぜ、とろみをつけた粥を器に盛る。

「ゆっくりお食べ」

 黒耀はさじをすくって一口ずつ粥を名那の口に運ぶ。

 名那は、お腹が空いて食べているという様子ではない。けれど激しく拒絶することもない。

 頭より先に、名那の体が気づいてしまった。今世では飲まず食わずでも、名那は死なない。朝になれば目覚め、呼吸は続く。

 けれど体は治っていっても、心は壊れたままだった。ふいに名那はせき込んで血の混じった粥を吐き出す。

「すまない。まだ固形物はつらかったな」

 黒耀は眉を寄せて名那の背をさする。水差しを当てて口をすすがせて、名那が落ち着くまで体を抱いていた。

 やがて名那の咳はやみ、停滞した意識の中で水差しに手を伸ばす。それが生きようという意思ではなく、死から切り離された心がさまよっているだけだと黒耀は知っている。

「待っておいで」

 黒耀は名那を抱き上げて、洞の奥に向かう。

 新しい洞の奥には地下水が湧いている。銀色の砂利を詰めたろ過装置で飲み水に変えていて、水を汲むたびにしゃらしゃらと音が鳴った。

 黒耀はそこから冷たい水を汲みなおすと、綿に染みこませては名那に水を少しずつ含ませる。

 こういった根気の要る看病を続けて、黒耀は気づいたことがある。

「……ずっと、お前が私を愛してくれないと呪ってばかりいたが」

 小さく名那の喉が鳴って、水を飲みこんでいく。その様さえたまらなく愛おしいものだと、黒耀は名那をみつめながら思う。

「今までのように私の手からすり抜けることなく、今世のお前はまだ生きている。だから……その小さな希望を私は、持ち続けても良いだろう?」

 黒耀は長い間、希望というものを持つことさえ忘れていた。気が遠くなるような時の中で、痛みも悲しみも忘れていた。

 今の名那の瞳は遠いところを見ているが、かつてその視線の先を追うのは黒耀の癖のようなものだった。その澄んだまなざしをねじまげたかったわけではない。

「今日はまだ伝えていなかった。愛している、名那」

 黒耀はいにしえの頃の誓いを口にすると、痛みと悲しみを帯びた目で名那を見下ろした。

 水が鳴る音が、洞の中に響いていた。

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