糸張りの村
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おっと、つぶらやくん、ちょっとストップで。
ほらご覧。ワイシャツの袖、けっこうほつれているじゃないか。長く使ってもらえるのはシャツとしてありがたいかもだが、人様にさらすにはちょっとみっともないかもな。
ふふふ、ソーイングセットは社会人のたしなみ。こんなこともあろうかと、ポケットには忍ばせているのだよ。それ、糸切りばさみでちょちょい……とね。
よし、こいつでひとまずどうにかなるだろう。できるなら、ぼちぼち別のワイシャツを用意した方がいいかもね。
しかし、糸とはなんとも不思議なものだと思わないか?
そうと知らなければ、この着ている服たちも糸を束ねたものであると判断はできないだろう。私たちの身体も、細かく紐解けば細胞のひとつひとつ、それを構成する分子たちの結合した形なんだ。
それがこうして、目に見える格好になる奇跡。ほんのちょっとのほつれは見逃せるものなのか、それとも崩れ去るきっかけとなってしまうのか……。
私の聞いた話なんだけど耳に入れてみないかい?
むかしむかしのこと。
とある村で追いかけっこをしている子供が、林の入り口で盛大に転んだ。
ろくに手もつかず、前方へ何尺もすっ飛んでの顔から着地。追いかけている鬼でさえ心配してしまうほど、見事な転倒ぶりだったらしい。
鬼側も助け起こそうとして、相手の転んだあたりで足に引っかかりを感じる。走ってはいなかったから、転ぶまでには至らなかった。
木の根上がりにでも突っかかったかと思ったが、違う。
振り上げかけた足のつま先に、ちょうど引っかかるかという高さに渡されていたのは、一本の極細の糸だったんだ。
一端は地面の中へ隠れ、もう一端は近くの木の幹の裏側へ……と思いきや、幹を影に急激に落ち込み、再び地面へ潜り込みそうな軌道が続いている。
転んだ子を助け起こし、二人して糸を見やった。いたずらにしては、糸があまりに丈夫すぎる。指でちぎろうとしても、石で断とうとしても糸はびくともしなかった。
子供たちがその頑丈さに不審を抱き、周りの友達や大人たちに罠のたぐいを張ったのかと、聞いて回っても収穫なし。
いざ見てもらおうと、あらためて現地へ案内したときにはすでに糸は見当たらなくなっていたとか。
けれども、糸そのものが消えてしまったわけじゃなかった。
それからというもの、地面すれすればかりじゃなく、村の中やその近辺で例の糸らしきものを目にすることが増えたから。
不意を打って現れて、消えるときもあっという間。誰もが存在を知りながら、その正体にたどり着ける者はいない。ときには空高くに張っているのか、飛んでいる小鳥が急に失速して、地面に落ちることもあった。
糸が食い込んだと思しき、深い切り傷をこさえながらね。
何者の作為によるものなのか。村人の中に突き止めようとする動きは、あり続けたようね。
そうして、村人全員がおよそ糸を味わってからしばらくして。
猟師がひとり、山の深くに分け入っていたみたい。今日はいつもに比べて、いやに生き物の気配がせず、なおも奥へ奥へ向かっていったのだとか。
漁師自身もこれまで糸に引っかけられたことが何べんか。その日も足元をはじめ、あらゆるところへ目を向けながら、先を急いでいたらしい。
ふと頭上より振り落ちる闇に、足元さえも暗くなった。
大きな鳥でも通ったかと頭上を見やると、それは黒ずんだ雲のように思えたんだそうだ。
けれど、動きが速すぎる。猟師の頭上を越え、まっすぐに村方面へ向かう雲は、遠ざかる間もその輪郭をちらちらと揺らめかせた。
ときにちぎれては戻り、また肩をいからすかのように盛り上がっては、急にしぼんでみせたり……それはおよそ雲が行えるものじゃなかった。
虫の大群。それも猟師が見たことがない、羽も胴体もまともに見えない霞や煙のような塊。
嫌な予感を覚えた猟師は、そのまま雲のあとを追うも、地形による減速は免れない。
どんどん引き離されながらも、猟師は雲を追い続けていったんだ。
だが、待っていたのは信じがたい光景だった。
村の入り口まで来たとき、村全体は夜と見紛うような暗闇が下りていた。あの黒雲が村の上空だけを覆うようにとどまっていたせいだが、それだけじゃない。
塀の内側の人家が、きれいさっぱりなくなっていた。そのうえ、外を出歩いているはずの他の村民たちの姿も。
ただ、どこにも見当たらないだけなら、猟師はかえって衝撃を受けなかったかもしれないが、彼は幸か不幸かその瞬間に居合わせてしまったんだ。
村民たちは、たしかに姿がなかった。ただしそれは、足より上の部分のみの話だ。
塀の内側、猟師の立つ位置から数十歩先に立つ、二本足。股より上を失い、そこに直立する一対の足は、切り取られて置かれていたわけではなさそうだった。
断面にあたる足の付け根の部分に、血肉のたぐいは浮かんでいなかったんだ。それどころか、断面は白くまっ平に埋まっているのにくわえ、猟師の見ている前で少しずつ、少しずつ高さを失っていく。
断面部分を起点として、足がおのずからどんどんとかつらむきされるように切り離され、天上へ引っ張られていく。
高度が増すに伴い、かつらむきにされる足の部分はどんどんと細くなりながら、雲の中へ吸い込まれていくんだ。
その細まりようは、ここ最近、村で話題が持ちきりだったあの糸を思わせるような格好だったんだ。
猟師の間近にある足ばかりじゃない。少し遠くを見やれば、同じく大根のようにして身を削られていく、いくつもの足たちの姿があったんだ。
その中に、家族の履いていたものと同じ足袋の姿を見ては、猟師はもはやここにとどまってはおられず。
一里半ほどある隣村への道をひた走り、応援を頼み込んだのだとか。
事情はどうにもうまく伝えられなかったものの、平素から付き合いのあったこともあり、村の若い衆が十数名ほど武装し、猟師の先導のもとで村へ向かったんだ。
しかし、そこに猟師の話すような惨状はない。
先ほどまでの雲は形もなく、村もまた猟師が出ていったときと変わらない姿でもって出迎えてくれた。
村民も同じく、自分を見かけるといつも通りに声をかけてくれる。あの先ほどまで足だけとなっていたはずの、足袋を履いた自分の家族さえも。
無駄足にぶつぶつ文句を漏らす隣村の者を見送りながらも、猟師はしばらく狐につままれたかのようだった。
相手の受け答えなども、普段自分が接している通りで不自然な点はない。自分と当人しか知らないことも、よどみなく答えられている。
雲を含めて、あの光景は自分が見た幻だったのだろうか。
そう楽観的に構えられたのも日が暮れるまでの間だった。
自宅の晩。
普段通り、家族で川の字になって眠るも、猟師はみんなが寝入るのを待ち、やがて隣で眠る妻の手をそっと取った。
いや、取ろうとしたんだ。
それがそっとつかんだはずが、妻の手はたちまちぐずぐずと形を崩してしまう。
糸玉が弾けたかのようだ。先ほどまで整っていた指も手のひらも手首にかけても、たちまち無数の糸がほつれた姿に変わってしまったんだ。
そのうえ、そのことを意に介さないかのように妻は――いや、妻らしきものは、変わらずに寝息を立て続けている。
その後、夜中に起きて家々も同じような状態になっているのを悟り、猟師はその晩のうちに荷物をまとめて村を後にしたんだ。
もう、村のすべてはあそこにない。はた目には分からない糸たちにとって代わられてしまった。
ずっと見てきたあの糸たちは、こうして成りかわるために、おそらくあの雲たちが仕組んだことなのだろう。
長年、各地を放浪した猟師はこのことを伝えつつ、自分の身体もいつ、あの糸のようにほつれてしまうか、おののきを捨てられずにいたとか。