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RECKLESS

作者: 森川めだか

RECKLESS


Wild pitch


「消毒終わり」

風磨(ふうま)風彦(かぜひこ)はサマーキャンプで行方不明になった女の子が10年ぶりに助け出されたとラジオでやっているのを横に一人、深夜の営業を終えた。

クリーニング店を後にし夜明けの清々しい街を歩く。

自宅アパートに帰ってきた。

「お父さん、僕、変じゃないよね?」

「あ?」父の寅彦(とらひこ)が間延びした声を発する。

「僕、変じゃないよね?」

「何が、ちっとも変じゃないぞ、どうした? 何かあったか」

「ううん、気になって」

目はキョロキョロとどこか落ち着きがない。

「ひどいニュースだな。怖かったろうに」

「うん。怖い」風彦は自分の部屋に入った。

どこかいつもの自分の部屋とは違うような。風彦はゴミ箱の底を見、筆箱を裏返した。

クロゼットを開けると何を着ていいか分からない。

「お父さん、僕、変じゃないよね?」ドアを開けて聞いた。

寅彦は心配になったのかニュースを消して来た。

寅彦に見つめられると涙がボロボロ出てきた。

「お父さん、僕、変になっちゃったよ」父の胸元で泣く風彦は頭を抱かれていることにも気付かなかった。


「この年頃に多いんです、気になる病ですね。本当の病名はお父さんだけ知っていて下さい。本人には酷でしょうから。長い戦いになりますよ」

精神科で寅彦はニュースを見ていた。目はうつろで耳だけがさっきの先生のお話を反芻している。

「警察のご尽力と、・・皆様のご協力・・」行方不明になっていた女の子の母親が首だけ出して答えている。

確か、事件当初はこの母親にも批判が集まったはずだ。確か、女の子は三橋(みはし)(とし)()といった。

今、いくつになるだろう。この母親も片親なのか。

「風磨さま」寅彦は立った。

「これからお世話になります」一刻も早く薬を風彦に届けよう。今でも家で一人だけで苦しんでいる。

俺が代わってやれれば。何度思ったか。


名神(ながみ)(あい)は心苦しいが三橋年美の調書を取っていた。

当時、オリーブ色のタンクトップ、6歳の年美は16歳になっていた。

「で、脅されて隠れてたのね?」

まともに受け答えできるのか、と思ったが意に反して年美は肯き、はっきりとした口調で聴取に応じていた。

「誰? 男? 女?」

「男」

「どんな?」

「・・ふうま」

「それが名前なの?」

年美は愛の目を見て肯いた。一旦、愛は外に出て伝え、戻ってきた時には年美は震えていた。

「もういいわ」できるだけ優しく年美の肩に手を置く。

事件から年美の両親は離別した。事件が与える影響は厳しい。

今は母親の千春(ちはる)に匿われている。匿われている、という言葉の方が適切だろう。

一人の戦いは一生続く。飼われていたのだろう、と誰もが思う。

「ねえ、トイレに行かせて」

一人で行かせるわけにもいかないので入り口まで付き添った。

警察署の池では鯉が飼われている。水を取り替えていない濁った水が雑食の鯉の荒々しさだけを際立たせているような気がして用務員は楽してるなと思った。

もともと手間がかからないので鯉がいるのだ、と思った時、水を流す音がした。

年美は出てきたが、自分の帰る場所は分かっているのだろうか。

「家まで送ろうか、暑いよ」

自宅アパートまで送ると、千春が外まで追って来た。

「いなくなっちゃうような気がして」

長年、担当してきた刑事なので千春は愛に心を許している。

放り出した事件なのだが解決した後は知る由もない。

「無理もないですよ。ゆっくり休んで下さい。今日、年美さんから重要な情報をもらいました。あと少しです」

千春はお守りを握りしめていた。


「たいしょう、どこ行った」

たいしょうとはクリーニング店での風彦のあだ名だ。

若いから仕事が早いのでそう呼ばれているのか、頼りにされていたんだなあと我が子ながら誇らしく感じる。

「はあ、ちょっと」偏見が怖くてそう答えるしかなかった。

嘘をつくのも風彦を裏切ったような気がして言えなかった。薬は順調だ、今は笑顔も見せるようになった。

寅彦は風彦の代わりに働くようになった。持病のリウマチで手がうまく曲がらないので仕事をアーリーリタイアしたのだが風彦はこんなキツい仕事をしてたのか。

遺伝を疑いざるを得ない。俺の家系なのか亡妻の家系なのかそんなことは風彦に言えなかった。

風彦は単なる気になる病だ。いつか治る、きっと良くなる、必ず治ってみせると風彦は頑張っている。

でもそのいつかはいつだ? 風彦が戻って来た時には英雄だと褒め称えよう。

それまでの辛抱だ。俺が弱音を吐いてどうする。ホットプレス機はシャツを何枚も押し潰ししわを取る。

こんな風に簡単に治ったらなあと思う反面、こんな時に風彦に母がいたらと心細くなるのだった。


「外に出ちゃだめじゃない!」愛は自宅アパートの公園で一人で遊んでいる(ゆう)()を抱きしめた。

有太は免疫抑制剤を打っている関係でバイ菌に弱い。

不自由させているのは分かるが命を守るためだ。

連れて帰ると手が砂でベタベタだ。汗も拭いてやると不機嫌そうな有太の顔も戻った。

やっぱりママがいないとだめなのか。

愛は片親だ。働かないとしょうがない。

有太はアンモナイトの化石を見に行った。

今、ふうまという情報しかない。千春が拒んでいるのだ。

ふうまという名前なのか苗字なのか。一軒家を主に当たっているが甘いのではないか。

電話もすぐに切られてしまう。年美に何か変化があったのか。

「お母さん、僕が死んだら化石になるの?」有太がアンモナイトの化石を持って来た。

「その前にお母さんに死なせて」

できることは私が年美を追うことだろう。ふうまというのも疑わしい。

有太はアンモナイトの化石だけを外に出して、窓から下を眺めている。

刑事という仕事を選んだ私の責任だ。最後までやろう。

それにしても年美が誘拐されてから、ちょうどほぼ10年になる。どうやって逃げ出したのかも聞き出せていなかった。ふうまにも何かルールがあったのか。

この事件はまだ途中だ。動き出したのは事件ではなく三橋の年月だろう。


重要人物として浮かび上がってきたのは風磨風彦という青年だった。

「閉じ込められるスペースが」

「どこかの倉庫かも知れない」

「しょっぴくか」

同行したのは愛だった。

風彦は会った時から落ち着きがなかった。

「この子は病気なんです」

「どんなご病気ですか?」

「精神の方です」

「詳しく話を聞くだけですから」

「その子を一人に?」

風彦はあらゆる物を裏返し、底を見て、元の位置に戻す。二度、三度やる事もある。簡単に言えば障害者だ。

風彦は何度も肯いた。その度に確認する。

寅彦は毎日やって来た。

「刑事さんに会えませんか」

「今は」

「薬を届けてやって下さい」

やっと裏付けが取れた。どこに閉じ込めていたかは最後まで聞き出せなかったが、そうだよね? という刑事の取り調べに風彦は観念したように見えた。

「不当逮捕だ!」寅彦の叫びがどこまでも響いた。

医師からの診断書を基に一旦、鑑定留置に回されたが警察側の医師からは問題なしとあったので拘置所に入れた。

疑念があったのは風彦が年美の名前も知らなかったことだ。精神病だ、致し方あるまいとどうしても犯人を早めに上げたい上層部の意思もあった。

「誰も何もしねえ、でんと・・」

「僕、変じゃないですよね?」

諦めたように同室の男は横を向いて黙った。


越智(おち)千代子(ちよこ)は自宅のトイレの取っ手で首を吊っていた。

押し入れにはオリーブ色のタンクトップと帽子と子供用の靴が畳んで置いてある。

死の間際にも、千代子は実父から受けたいたずらを思い返していた。

紺色と茶色のスカーフは大人になった自分への贈り物だった。

年美が逃げ出したんじゃない、鍵を開けておいた。

16歳はいたずらが止んだ私の記念日だ。

テークイットイージー。気を楽に。

今日はきっとうまくいく。

自分を責め続ける恐れからやっと死ねる。母は何もしてくれなかった。

私もサマーキャンプで私に誘拐されたかった。片親だったら良かったのに。

じゃ、行こう。

千代子は観念したように目を閉じた。


Even


 風彦は髪が後退していった。

寅彦は毎日、接見に来たが、仕事場には黙ったままだった。

風彦の名は精神鑑定の余地があるということで伏せられていた。

明らかな誤認逮捕なのだが、それには警察の面子もあるのだろう。

「気長している」

風彦は寅彦に助け出されるのを待っている。

「必ず助けるからな」

「お父さん、僕の地図のバッグ持って来てくれる?」

「何に使うんだ?」

「ここじゃ外に出られないから想像するの」

「お前、たいしょうって呼ばれてたんだな」

「たいしょー、たいしょー」風彦の目には光る物があった。逮捕されてから初めて泣いた。

「みんなと会えなくてさみしいか」

「心壊れた」

「いつか良くなるさ、薬は飲んでるな?」

風彦は肯いた。

「また明日も来るからな、地図のバッグだな」

「うん、僕の地図のバッグ」

寅彦は理容店に行って髪を刈った後、その水槽で飼われている鯉に目を奪われた。

夏草や蔦にからまる枯穂かな

この鯉はこの世界しか知らない。エサはくれるものだと思っているし一人ぼっちだ。

野生の方が幸せだというがそうだろうか? 毎日天敵に怯え、エサもろくに取れない、いつ死ぬか分からないのが幸せだろうか。

子供には元気に育ってほしい。意外にこの鯉の親は感謝してるかも知れない。

普通に生きて普通に結婚して子供も普通で老後には普通の孫に囲まれる。普通に死んでいくことが何と難しいことか。

亡妻はこれを見ないで良かったかも知れない。あいつのことだから毎日取り乱して自分で真犯人をとっ捕まえてくるだろう。

俺たちは水槽の鯉じゃない。もう後戻りできない道を引き返すこともなかろう。

鯉の模様は燃えているようだ。寅彦の身中から怒りという執念が湧いてきた。

息ができないぐらいの夕暮れ、久々にもう諦めかけていた自分の激しさにも寅彦は背中を押される気分だった。

風彦の部屋に入り椅子にかけられていた地図のバッグを手にする。

それを思いっきり床に叩きつけ、少し泣いた。


精神病者を拘置所に放置しておくのは後の批判が怖い警察の面子にかけて風彦は鑑定留置に置かれた。

いつまでも逮捕者の名前を伏せているのもこれで誤魔化せた。

愛は調書を読んでいた。

肝心な所はいつも誘引されている。

警察が作った物と思われても仕方ない。

証拠能力はあるのだろうか?

「自殺だ、自殺」

「誰が?」

「ばあさんだと聞いてるが」

仕事用の携帯に千春から電話がかかってきた。久しぶりの出来事だ。

喫煙所まで来て折り返す。千春はヒソヒソ声だった。

「別人?」

「のようなんです」

「年美さんがですか」

「あの子がいないっていうか、あの子じゃないんです」

「それは時間を・・」

「親だから分かることってありますよね? あの子、自分の持っていた物に見向きもしないんです。普通は懐かしがりますよね」

「それは思い出したくもないんじゃないんですか」

「そういう事じゃなくて、意識的にいなくなるっていうか、そこにいるのにいない」

「年美さん、事件のことについて何か触れられていますか」

「何も」

「愛してあげて下さい。一番思い出したいのは愛じゃないでしょうか」

「失礼ですが、名神さん、お子さんいらっしゃいます?」

「いません」

電話は切られた。

逆恨みが一番怖い。だから有太の存在は事件関係者には隠すことにしている。

外の外に追いやられた喫煙所は風化していく遺跡のようだ。

弁当の時間には一人、二人寄るが、誰も円の中に入らないで遠くで煙草を吸って吸い殻を捨てる時だけ後ろめたそうに筒に落とす。

愛は煙草は吸わない。匂いがするとそれだけで信用が取れないことがあるからだ。

自殺は管轄外だった。年美に会ってみたかったが、千春が許さないだろう。

調書は全てファイリングされている。年美と風彦の食い違いを勘案してみよう、愛は階段を上った。


寅彦はネットで色々な冤罪事件の勝訴した事例を仕事の合い間にも調べていた。

「寅さん、昼」

「あ、いただきます」

「たいしょう、元気にしてるか?」

「いつか復帰するんだって意気込んでますよ。ほら、あの仕事で使ってた地図のバッグあったでしょ? あれ、病室に持ち込んで枕元に置いてるんです」

風彦は入院していることにしている。

「なら、心配ねえな」

寅彦は三橋を憎むようになってきた。何で何も言わないんだ。

女の子は見ていたはずだ。犯人を間違えるなんてことはあってはならない。

風彦が鑑定留置にされて、ひとまず安心したが一度逮捕された者を撤回させることは容易ではない。

それにこの事件は異質だ。その性格上、公にはならないだろう。

「警察なんてもんは命を何とも思ってない」寅彦は珍しく愚痴った。

遺伝子なんて狭い話だ。風彦はそんな子じゃない、絶対にそんな事ができるようなそんな子じゃない。

「寅さん、拉致事件に関心あるの?」後ろの自販機に立っていた男から声をかけられた。

「はあ、まあ、ちょっと」

「ひどい話だよねー、国ぐるみでそういう事するんだもの」後ろの男はコーラを買ってインスタント焼きそばの横に置いた。

寅彦はこの頃、食が細くなった。

風彦に「お父さんのリウマチ、放っといたからいけないんだよ。今はいい薬もできてるのに。治ったんだよ。僕達のために無理したの?」と話したことを覚えている。

本当だな、早めに手を打たないと。曲がりにくくなった手を見る度、風彦の言葉を思い出す。

優しい子だった。俺に似て働き者だった。普通に生きられたかも知れない。

風彦も頑張ってるんだから俺も負けてられないな。

「さあ、行くんだ」

「さすがたいしょうの親御さんだなー」

まだお湯を捨てている最中だった。


「死っていなくなること?」

「自分から瓦解していくことだよー」

「ガカイ? 海外?」

愛は焼きそば作りに忙しい。

「でもこのアンモナイトは残ってるね、死んでも残るんだね」

有太も死を考えるようになったか。自分の死を考える時、有太はいくつになってるだろうか。

「今は生きることだけ考えよう」焼きそばを並べた。有太のだけ大盛りだ。

「キャベツ畑からこのキャベツ来たの?」

「そうだよ」

「このキャベツ死んでるの?」

「さあー、植物は枯れないと死なないんじゃない?」

「お母さんも知らない事あるんだね」有太は焼きそばをおとなしく食べている。

「知らない事ばっかりだよー、知らなくて悔しいから頑張ってるんじゃない?」

あの日のように壊れやすいから刑事という仕事を選んだのだろう。

何も知らないことが更なる犠牲を生むから。


「お母さん」

初めて呼ばれたように振り返ると年美が立っていた。

「スカーフちょうだい」

「どこか出かけるの? ちょっと待っててね」千春は自分の棚から明るいスカーフを出した。

「これじゃない」

年美は千春のスカーフを見た事がないはずだった。

「どんなスカーフ?」

「紺色と茶色の」

「そんなスカーフ持ってないよ」

「くれるって言ったじゃない!」年美は頭を抱えて屈んだ。

「年美」

「言葉が入ってこないよ」

「いいの、いいの、今はそれでもいいの」

「お母さん、話し続けて、私、聞いてるから」

千春はサマーキャンプのことは除いて懐かしい事をのべつまくなしに喋った。

年美は時折、肯くばかり。

「川に向かって話してるんじゃなくて、年美に話してるんだよ、年美、戻って来て!」千春は思わず年美を抱き寄せた。

「お母さん、私って誰? お母さんの子だよね、それ信じられないよ」

「お願いだから戻って来て」

「千代子」

「え?」

「私のこと、千代子って言ってた。その人」

「今、捕まってる人?」

年美はボーッとした顔をした。

「女の人」

千春は黙っていようと思った。

もう年美が壊れるのを見たくない。


Nozzle


 警察署に寅彦の嘆願書が送られた。

「あの親父、動き出すらしいぞ」

寅彦は街頭に署名活動に立っていた。

「皆様のご協力・・」

最初は白い目で見られた。それも風彦の病気からくる偏見だろう。

どうせやったに決まってる。寅彦は一人、チンドン屋のようにプラカードを掲げ横断幕を広げた。

汗だくになりながら大声を張り続けた。

一人、二人とみじめに思った高齢者が自分の名前を書いていく。

「ありがとうございました!」

「頑張ってくださいね」

ショッピングビルに吸い込まれる人たちは少し前の風彦と同じだ。

何を間違ったのか小銭を持ってくる人もいた。警察の壁は厚い。

ただ、協力者を募る気にはならない。風彦にはまだこれからの長い人生が待っている。名前や写真が出回るわけにはいかない。

「ありがとうございます」

もう今更クリーニング店に隠すわけにはいかないだろう。たいしょうを信じてくれる人がいる。

「お願いします」

赤ん坊を連れた若いママがこっちを見ている。一昔前の俺なら署名をしただろうか。

他人の無実を信じただろうか。尚更、頭のおかしくなった奴だ。

自分の子供にならないと分からない。寅彦は目を伏せた。

ボールペンを持つ手が見えた。

「あり・・」

あの若いママだった。片手で赤ん坊を抱き左手でボールペンを持ってくれている。

ママは目礼した。

「女の子ですか?」

はにかんだようにママは「はい」と言って赤ん坊に口を近づけた。

「全部ピンクでできてますね。お気を付けて」

赤ん坊は寅彦を見て笑った。ショッピングに行ったら俺のことも今日も一日の出来事として忘れられるだろう。

それでいい。風彦のことも忘れてくれ。

一方では信じ一方では忘れられることを願っている。

目指すは一万人だ。風彦は誰からも愛される子だった。


警察にとって寅彦は目の上のたんこぶだった。ややこしくしている。

愛も諦めたわけではない、疑念は消えない。だから年美を追っているのだ。

ただ、組織が方針を打ち出したら個人ではなかなか動きが取りづらい。

警察といえど一枚岩ではない。それをまとめるために方針は必要なのだ。

寅彦の活動は方針転換を強いるものだ。面白く思うはずもない。

国民の信用を失うことが警察にとって一番怖いはずだ。精神病者を犯人に仕立てた誤認逮捕だとすれば責任は上層部にまで及ぶ。

ただ、愛には気になっていたことがあった。風彦が年美を誘拐したとすれば目的が分からない。

わいせつが目的だとすれば簡単だが、年美には丁重に扱われていた形跡がある。

精神が目的だとすれば当たりだが、壊れたのは風彦の方だ。

第一、どこに閉じ込めていた? 風彦の家庭は片親がよく陥る貧困ぎみだ、とても自宅以外を借り上げる財産はない。

ただでさえ、最近は風磨家は風彦の収入に頼っていたことが分かっている。

飼育にも金と時間がかかる。三人は養えないだろう。

愛は風彦の自宅アパートを思い出す。階段は錆びついて赤くなり、新聞も取っていなかった。

年美が逃げ出したのが壊れたきっかけなら合点がいくがどうやって分かった?

その日の足取りは職場と自宅の行き来だけ。自宅に着いた頃には様子がおかしかったと寅彦は答えている。

動機は? 手法は? 場所は?

年美が行方不明になった10年前、風彦は車を運転できる年ではなかった。

どれを見ても白紙のトランプだ。ワイルドカードが一枚隠れている気がする。

愛は千春の番号を押した。


「寅さん、そんな事になってたんか」

「すみません、弁当中に押しかけて」

「たいしょう、入院してたのって、あれ嘘か?」

「いずれそうなるかも知れません」

「人生ってもんは・・」

誰もが名前を書いてくれた。寅彦は涙の出る気分だった。

「もうしばらくは、来れないんだよね」

「お世話になりました」

「親だもん、仕方ないよ」

寅彦はまた帰りがけに鯉を見た。沼のような池に口を広げている。

案外どこにでもいるんだな。今まで気づかなかっただけか。

570人。寅彦は署名の集まった名簿を見て汗を拭いた。

風が止んだ。

万物は流転して、転がる石のように溝に落ちて行くだけ。

鯉さんも署名してくれんかね。そうしたら572人になるんだが。

寅彦は屈んで久しぶりに煙草を吸った。働けなくなってから風彦に遠慮してやめていたのだ。

吐く時が気持ちいいんだよね。寅彦は自分も鯉と同じように口をパクパクしていることに気づいて少し笑った。

また風彦と笑いたいなあ。うまく曲がらなくなった手でも大きくなった風彦を抱けるだろうか。

名簿に涙がボロボロ落ちた。風彦、ごめんな。無理させちゃったかな。

車いすの少年が通りかかった。涙は自分のために出すもんじゃない他人のために出すもんだよね。

寅彦は立った。青空の下に立った。


千春は妙に明るかった。

「年美さん、どうされてます」

「元気にしてます」

いつもなら「上がっていかれません?」と言うのだがこの日はドアを開けなかった。

「ふうまさんの親御さんが署名活動をされているのをご存じですか」

千春の顔色がサッと変わった。

「あの人が犯人なんです。決まってます」

「ふうまというのが、ふうまと聞いたのか、ふうまと見たのか、それだけでも教えていただけませんか」

「事件のことを思い出したくないって言ったのは、名神さん、あなたですよ」

「年美さんは事件のことを覚えていますか」

「もうやめてください」

「千春さん、これは年美さんのことでもあるんです」

千春は血がにじむほど唇を噛んだ。

「年美は今、寝てますから」

「私にも子供がいます」

千春は目を見開いた。

「教えていただけませんか、年美さんが今、どう思っているのか」

「事件のことですか」

「犯人のことです」

「名神さんも信じてくれないんですか」

「私は警察です、役目があります」

千春は指を噛んだ。

「千春さん、大丈夫ですか?」

その目は風に吹かれるように揺れていた。


Apple


「状況が変わったんです」

越智千代子が被疑者死亡のまま送検された。

あれから。

鍵は開いていた。

出かけた年美の後を追って、愛は住宅街に来た。スカーフを巻いていた。

表札もぶら下がってない家に年美は入っていった。愛は念のためブザーを押した。応答はない。

人間の目も動くものを見るようにできてる。

奥で何か小さな物が動いた。外から鍵を閉める部屋。

「どうしてここにいるの?」

愛は年美に声をかけた。年美は寝転がって天井を見ていた。

その手には紺色と茶色のスカーフがある。

年美は陶酔してるようにこっちの声が聞こえたのか分からない。

「ここで・・」愛が足を踏み入れた時、年美はビクリと動いた。

「お母さん」

ここで閉じ込められていたのか。誰の家だ?

押し入れを開けると年美の物が出てきた。年美が泣き出した。

「お母さん、死んじゃったの?」

心まで支配されているのか。女か。盲点だった。

「さ、年美ちゃん、帰ろう」愛は年美の手を取った。

「緊急応援頼む、場所は・・」

「年美さんの髪の毛が多数発見されました」

検証には愛も立ち会った。

クリーニングにふうまのタグ。誤認逮捕だ。しまったと思ったが愛はもう心を決めていた。

死後、千代子が二科展に出品していたことが確認された。題は「自画像」。

年美の肖像画だった。

エチュードが押し入れにつまっている。どれも年美のものだった。

メディアに紹介されると様々な憶測を呼んだ。自分と違う女に育てる人体実験、新しい自分に生まれ変わる、絵と結婚したなどなど。

その異質さゆえに警察は助かったと言える。穏便に風彦は釈放された。

父親の執念、警察を動かすなどと民放で特集されたが寅彦も風彦もそれを拒んだ。

その意味でも警察は助かったと言える。誤認逮捕は立ち消えとなった。

愛は寅彦に電話をしていた。

「申し訳ございませんでした」

「これから再出発ですよ風彦も私も、あんたはよくやってくれた・・」

風彦は精神病院に入れられた。

年美の聴取が再び始まった。

「その人のことをお母さんと呼んでたの?」

「私だけ」

「どんな風に脅されて?」

「よく覚えてない」

「君から逃げ出したの? どうやって?」

「お母さんがいなくなったから」

「何かされた?」

「何にも、ただ・・」

「ただ?」

「お腹が減ってた」

愛が聴取を代わった。

「年美さん、このことを知ってるのはあなただけ?」

年美は肯いた。

「本当に?」

年美は黙って、首を振った。

「ありがとう」


愛は徹夜して二日ぶりに家に帰ってきた。

有太がアンモナイトの化石を抱いて寝ていた。

私もちょっと寝よう。まだ日は明るいがカーテンを閉めて横になった。

紺色と茶色のスカーフ。年美が持って行ったのはそれだけだろうか。

千代子の動機、抑圧が自分を蝕み続ける時、狂気につながるのだろう。愛はうまく眠れなかった。

隠してあるボトルを出す。リキュールはまだ子供に出すのには早い。

愛は深くため息を吐いた。

グラスを持ったままカーテンを開ける。

有太が起きてきた。

「起こしちゃった?」

「うん」

「お母さんと一緒に公園行こっか?」

「いいの?」有太は大喜びでアンモナイトの化石を置いて着替えた。

「アンモナイトと一緒に夢見られると思ったんだけど・・無理だった」

「どんな夢見たかったの?」

砂でお城を作る。

「ずっと前の人間の夢」

「それは願い星に願わないとだめだよー」

「昔の人はどんな夢見てたのかな? やっぱり鹿を追いかける夢とかかな」

「今とあんまり変わらないと思うけど」

「そんなことないよ、ゲーセンなかったでしょ」

「有太、ゲーセンの夢見るの?」

「暗い夢」

「知ってる人が出てくるでしょ、夢って」

「知らない人も出てくるよ」

「どんな?」

「何か、おばさん」

愛は笑った。

お城が貫通した。そこから水を流す。

お城はせっかく出来上がったのに溶けるように崩れていった。

「よく手、洗わなきゃね」

幼気な有太は爪の間まで洗って、アルコールで除菌する。

「明日、病院行く日?」

愛はカレンダーを見た。赤丸がしてある。

「そうだよ」

その次の日に時刻が書いてある。何の時間だっけ。

そうだ、楽しみにしてた映画の時間だ。録画しておかなきゃ。愛はテレビをつけた。

千春のアパートが映っていた。首だけ出して答えている。

年を取ったものだと思った。しわくちゃだ。女は首から年を取る。

事件当初は叩かれたが今の千春に耐えられるだろうか。

10年もの長い月日、有太を奪われたら自分は。

音声を変えています。

千春は紺色と茶色のスカーフをしていた。よく似ているが違うものだ。

それで時折、首を隠す。手も年を取っている。

愛は録画するのを忘れていた。後ろに有太が立っているのにも気付かないでいた。

女性の存在は他者の不在だ。不理解が招く女性自身。

抑圧が自分を閉じ込める時、そこで初めて気づく。他者とは何者だったのか。

それは母の存在。

青は愛より出でて愛より青し。

愛は千春も眠れてないだろうと思った。なぜなら、Tシャツのままだからだ。


Paint


「お父さん、お母さんは?」

「お母さんなあ、お前が来るまで待ってるってさ」

寅彦は風彦の頭を撫でていた。

精神病院に入った風彦はますます分からなくなっていた。それでも「お父さん」と呼んでくれるだけ嬉しい。

「覚えてるか?」

寅彦はすしを握る手つきをした。

「数の子すし。お前とお母さんとで作り過ぎちゃってさ、もう二度と数の子すしは食べないって」

風彦は笑った。

「何の時だっけなあ」また寅彦は風彦の頭を撫でた。

すっかり後退した髪。

「俺より歳取っちゃったなあ」寅彦は笑おうとして泣いてしまった。

「お父さん、何で泣いてるの」

「何でだろうなあ」

「僕が変になっちゃったから?」

「変じゃない、風彦は風彦のままだよ」

「じゃあ、何で泣いてるの?」

「風彦、辛かったろうなあと思ってな」

寅彦はクスッと笑った。

「覚えてるか? 高尾山に行った時、バスガイドさんの笑い話」

「うん」

「唯一、神は女性として崇められていました」

「髪が長いからです」

二人して笑った。

「ポンジュースもっと飲むか」

風彦は布団を顔まで隠して肯いた。

「お父さん」

「ん?」

「産んでくれてありがとう」

黄色い涙が出た。風彦、小っちゃい時からポンジュース大好きだったもんなあ。

風彦は風彦だ。分からなくなっても俺の風彦だ。


病院の屋上では鯉が飼われている。ビニールプールに入れられて洗濯物を眺めている。

台風が過ぎた日の朝はあっけらかんと晴れている。寅彦は煙草を吸いに来たのだが病院はどこも禁煙らしい。

「この鯉、どうするんです?」

風彦も看てもらった看護士に聞いた。

「秋までこのままです。凍るようなら入れますけど」

「名前は付いてるんですか」

「忙しくて、なかなか・・」

「すいません、そういう意味じゃ」

「子供が喜ぶんです。外に出られないような子でも笑うんですよ」

寅彦は肯いた。

風彦が入ってるのは精神病棟だが、普通の子もいる。

病気は外から見ても分かりにくい。だから偏見を生むのだろう。

精神病者が事件を起こす統計は一般の人より低い、とどこかで聞いたことがある。

除け者にして蔑ろにして都合のいい時だけ責任を押しつける。見て見ぬふりをしてきた私たちの責任ではないか。

看護士が入っていって屋上で一人きりになった。

上から見ると地図が広がっているようだ。風彦の地図のバッグ。

あれには地下鉄が書いてあった。もうすり切れて分からなくなっているが駅も書いてあった。


年美は帰された。

愛はアンモナイトの化石を見ていた。

このアンモナイトは自分が化石になって人に見られるなんて思ってもなかったろう。

有太が見たかったアンモナイトの夢は全て夢だと告げる、夢なのかも知れない。

帰りがけにビデオショップに寄って録画しそこなった映画を借りてきた。

見る気になれなかった。一度見た映画だからだ。

悲しき人生というその映画はさほど悲しくもない。現実よりかは楽だろう。

思春期に見た映画と親になってから見る映画は同じでも違うだろう。

有太にはまだ難し過ぎるし私には意味もない。

年美には合うかも知れない。ただ、もう愛は三橋家に関わるつもりはない。

繰り返す波のように冷たい夢を見ては忘れる。

愛はアンモナイトの化石をひっくり返して見た。

アンモナイトは化石になって見られるなんて思ってなかっただろう。

寂しい愛を受け止めきれない人に映画のように見られるなんて。

臨時ニュースが入ったのはその時だった。


Hose


 愛は駆けつけた。

「要求は?」

「さあ」

年美がオフィスビルに立てこもった。

「拳銃を所持した、少女は拳銃を所持・・」

「ちょっと待ってください、拳銃?」

「自分も死ぬ、とか何とか」

メディア陣は今か今かと待ち構えている。

千春の姿はない。

年美は紺色と茶色のスカーフを巻いて何か叫んでいる。その横をメディアのヘリコプターが回っている。

飛び降りたら死にそうな高さから半身乗り出して拳銃のようなものを振り上げている。

「突入は?」

「まだ。訳の分からないことを言ってるようです」

現場は混乱している。

全員、外に出ろと言われた人たちが心配そうに上を見上げている。

年美が上から書類をばらまいた。デスクごと下に落とした。

どこからそんな力が湧いてくるのか。怒りか。

閉じ込められていた少女と分かるには時間の問題だ。

被害者に人権はない。愛はいつ壊れたのかを思い出していた。

ふうまと言った時点で立ち止まればよかったのかも知れない。警察も焦っていた。

こういう時は交渉人が付くのだが訳の分からないことでも本人には筋が通っているのだろう。

念のため、救急車。パトカーが何台か。手旗信号で立ち止まらないよう道路にも警官が立っている。

物見遊山で動画を撮る人や、笑ってる人が目障りだ。

千春はどんな気持ちで見ているだろう。何と言って年美は出かけたのだろう。

この手で年美を逮捕するのか。雲は低く風は強い。

愛はオフィスビルに入った。防刃を着ていたが何だか年美が怖くなかった。

エレベーターは止まっている。階段を上るにつれて暗くなってきた。

隣の窓から交渉しているようだ。愛は年美の立てこもっている部屋の開いた扉にぴったり付いた。

何か叫んでいるのは分かるが内容までは分からない。防刃はオリーブ色のタンクトップだ。

有太にこう言われたのを思い出した。「お母さんは厄介事に巻き込まれるね、僕だったら怖い」

有太はおとなしい性格だ。アンモナイトの化石のようだ。

電気が何もついてないので薄暗い。こういう時はいくつになっても脇に汗をかく。

首だけ伸ばして中を窺う。年美の紺色と茶色のスカーフが今にも飛ばされそうに揺れている。

背後に突入班が命令を待っている。さあ、突入だ。

愛は身を屈めて年美の背後に迫った。年美は怖くないのだろうか。私は怖い。

有太、お母さんだって怖いよ。でも一番怖かったのは有太を一人ぼっちにさせたことだよ。

どこから掴もうか。首を押さえて自分ごと倒れる。

風が当たって寒い。この事件は今日で終わりだ。でも人生は長い。

勘みたいなものが見えてくる。年美の気が逸れて一瞬、間が開いた。愛は年美の腹に手を回し、横倒しに倒れた。

足がもつれ合う。拳銃を手で掴みその軽さを確かめ、年美の肩を固めた。

年美は愛を見ていた。その目には記憶というものがなかった。


年美の聴取は難航した。

「マイマイカブリ」と呟くだけだった。

当然のことながら精神鑑定に回され統失と診断された。

「変な声とか聞こえない? 音が気になったりとか・・」

年美は第一級の障害者とされ名前も伏せられた。

風彦は持ち直しているようだった。今は寅彦と一緒に自宅で暮らしている。

愛は千春に電話しようか悩んだ。悩んだ末に家に帰ることにした。


Glass


「有太、寂しい? お父さんいなくて寂しい?」

こんなことを聞くのは離婚して以来、初めてのことだった。きっと寅彦を見てきたせいだろう。

心なんてもう怖くないと言えるようになるのはいつのことだろうか。

ブザーが鳴った。

「後で教えて」

応対に出ると千春だった。ドアを開けると驚いた。

婆さんだ。白髪染めをやめた母の姿だった。

「千春さん・・」

千春は奥にいる有太を少し見て、愛に深々と頭を下げた。

「ありがとうございました」

「何もできなくて」

千春は下を見て、「色眼鏡で見られるのに疲れたんですよ」とポツリと呟いた。

母しか分からない動機だった。

女の目はルージュ。

千春は帰っていった。下まで送りに行った。

後ろ姿を見ていると、有太も下りて来た。

「お母さん、あのね」

「ん? 何あに」

「僕、あの人知ってるよ、外で何度も覗いてたんだよ、うちのこと」

物哀しく愛は小さな翼を見守るしかできなかった。

鯉が龍に転生するように上り詰めた先には何が待っているのだろう。

人は婆娑羅にもなれる。

ぞっとするのは曇ってきたからだろう。


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