コーンスープとホットケーキ
薄暗い廊下、灯りの油が燃える匂い。
ふたりで女神様の手を引いて走って行く。
逃げないと逃げないと。
走る事なんてあまりないから、息が苦しい。
女神様が何か叫んだ。
そして引いていた手がグッと重くなる。
引っ張られて立ち止まって振り返ると…
己と同じ姿の男が倒れている。
女神様と右手を繋いで、一緒に走っていた筈の男。
俺の片割れ。
双子の兄。
兄の赤い血が広がって。止まらない。
廊下の向こうから怒号が響く。
女神様の手が冷たく感じる。
ああ、なぁ、嫌だよ。
置いて行くなよ。置いて行けないよ。
これからは3人でずっと一緒に居ようって言ったじゃないか。
――ポッポーポッポーポッポー
大音量のどこか間抜けな音がして、俺は目を見開いた。
薄暗い廊下ではなくて、薄暗い小さな部屋。
間抜けな音を出していたのは鳥の形の目覚まし時計だった。
夢を見ていたようだ。
少し乱暴に目覚まし時計を黙らせる。
荒れた呼吸を整えながら、寝転がったまま横を向いた。
狭い通路を挟んだ向こうのベッドに、兄が寝ている。
すやすやと気持ちよさそうな寝息を聞いていると、段々と落ち着いてきた。
大丈夫、アングレルは生きてる。
落ち着いた所で、兄を起こしにベッドを降りる。
「なぁ、アン。俺バイト行くから。」
声を掛けても反応は無い。
「なぁって。なんか食う?」
肩を揺するが「うーん」とか唸ったっきり。
やはり起きない。
時刻は午前4時。
この日本という国で、一般的に朝食って時間でもないし、なんなら起きる時間でもないのかもしれない。
俺は早朝から昼まで、近くのカフェで働いている。
兄のアングレルは同じカフェで夜から朝まで働いている。
俺たちが店に居る日は、なんと23時間営業だ。
しかし昨日はオーナーの気まぐれでカフェが休業だった為、ふたりで朝から夜まで遊び歩き…
眠ったのは深夜0時をまわっていただろうと思う。
兄が起きないのも仕方が無い。
俺だって眠気こそ醒めたが、まだ疲れは取れてない。
でもどうしてもアングレルの目を開けた顔が見たくて、しつこく布団の上から肩を叩く。
「アン、なぁって。アングレル!」
「んー…何…怖い夢?」
ヨシヨシ…と呟きながら、寝惚けた顔の兄は俺の頭を撫でた。
そして、その手がパタリとベッドの上に落ち…
すやすやと寝息が聞こえ始める。
「器用だな…」
文句っぽく言ってみたけど、俺は少し安心していた。
あれは夢だ。
今、俺とあいつが生きてて、一緒に暮らしてるんだから。
今はあっちが夢だ…。
頭の中で自分に言い聞かせて、バイトに行く準備を始めた。
「おはようございまーす。」
勤め先のカフェに入ると、いつもの甘い匂いがした。
このカフェの看板モーニングメニュー、コーンスープの匂い。
ここで初めて口にした料理。
カフェTwinkleMagicのコーンスープ。
とても甘いトウモロコシの良い香り。
ホッとする。
「あっ!」
俺はふと思い付いて、声を上げた。
そうだ、昼食にはアレが食べたい!
「なになに?忘れ物でもした?」
厨房に居たレイさんが声を掛けてくれる。
訳あって俺とアンは自分の歳がハッキリしないけど、きっとレイさんは歳が近い。
レイさん、23歳って言ってたかな。
色白で金髪碧眼、華奢に見える男子だけど、鍋を振る手にはしっかり筋肉が付いている。
ここの料理のほとんどをこの人が作っている。
こんな歳も背格好も変わらない人が、魔法みたいに手際良く、美味しくて優しい味の料理を毎日作る。
料理に人柄って出るのかな、レイさんは優しい。
こんな風にいつもよく気に掛けてくれる。
「いや忘れ物じゃなくて、えーと、昼に食べたいもの思い付いて…スイマセン」
「ははっ!そうなの?お腹空いてんの?コーンスープ飲む?」
朝5時。出勤した途端に"昼に食べたいもの"の話をするなんて。
空腹だと思われても仕方ない。
家を出る前にパンをかじったけど、レイさんの作ったコーンスープを断る理由にはならなくて。
俺は元気に「飲む!」と手を挙げたのだった。
13時、仕事が終わってソワソワしながら家に帰る。
帰ると言っても徒歩1分。
カフェと同じ敷地内にあるアパートが今の俺の家だ。
やや急ぎ足で2階に上がって玄関のドアを開く。
と…
ほんのり甘い香りと「おかえり」の声。
「今日はきっと、コレかと思って。」
キッチンで出迎えてくれた兄の手には、俺が食べたかったものが乗った皿。
綺麗に焼けたホットケーキ。
「うあああコレ!」
まだアンが起きて居なかったら自分で作ろうと思っていた。
俺が食べたかった、ホットケーキ。
「手洗いうがいしてね。」
予想が当たって嬉しそうな顔の兄。
促されて手を洗いに行った俺は、きっと同じ顔をしていたと思う。
「俺、ホットケーキってさ"ホッと、ケーキ"だと思ってた。」
蜂蜜とバターをたっぷりつけた一口を飲み込んでから、言った一言。
兄は俺の言葉に「ぐふっ」と吹き出す。
「わかるけど…ふふふっ」
「わかるだろ?!」
「こんな話が出来るようになるなんて。本当に僕たちは日本語が上手になったなぁ…」
そのしみじみとした様子に俺も頷く。
俺と兄は日本語がわからなかった。つい1年程前の話だ。
日本語がわからないどころか、ここがどこだかもわからなかった。
気が付いたらここに居た。
このアパートの近くの川辺に倒れていたそうだ。
近所の住人が保護してくれて、言葉がわからない様子の俺達をTwinkleMagicに連れて行ってくれた。
あのカフェには度々「そういう客」が来るらしい。
オーナーも店長も慣れている様子で、俺達を色々世話してくれた。
言葉を教えてくれて、この世界の事を教えてくれて。
住む場所も仕事も、何もかも面倒を見てもらっている。
どうも俺達は「別の世界」に来てしまったようだった。
ここに来る前。
確かに俺達は死んだ筈だった。
今朝夢に見た、あの時がそうだ。
大きな神殿、手を繋いで逃げた女神様。
店長に聞くところ、俺達の元居た場所は、この世界のエジプトという国に似ているという話だ。
実際の所はよくわからない。
俺達は神殿から逃げる所だった。
役目から解放されて、俺と兄と女神様と、どこか遠くで一緒に暮らしたかった。
逃げなければ戒律によって死ななければならなかった。
新しい神の器が生まれたら、古い器は還らなければならないと。
でも俺達は死にたくなかった。
だからあの時逃げた。
途中で兄が負傷し、倒れて、俺も女神様も兄を置いては行けなかった。
3人一緒じゃないと意味が無かった。
「冷めるよ、ホッとケーキ。」
頬に冷たい感触がしてハッとした。
兄がフォークの柄で俺をつついている。
「大丈夫だよ、リトラビア。女神様もどこかに居るよ。」
きっと死んだあの時を回想してたのがバレてるんだろう。
アングレルは少し寂しそうに笑って、呟くように言った。
俺にはリトラビアという名前があって、兄にはアングレルという名前がある。
けれど女神様には名前が無い。
女神様という役目しかない。
もし彼女もこの世界に来ているのなら…
見付ける事が出来たなら…
最初に彼女に名前を付けてあげるんだ。
ふたりで一生懸命考えて、一番一番良い名前。
美しくて愛しい名前。
そしてこのホットケーキみたいに美味しいものを、3人でたくさん食べるんだ。
毎日毎日、一緒に食事をしたい。
それがこの世界での俺達兄弟の目標だ。
「なぁー、女神様、ホットケーキ好きかな?」
「好きだと思うよ。きっとメープルシロップ派。」
「えっ、ハチミツ派だろ!」
「いやメープルでしょ。」
「ハチミツだよ。」
女神様はどっちを選ぶだろう?
どっちも美味しいって言ってくれるかな。