5 故郷
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
ヘンリー・マクスウェル:イーリンの父、公爵
ソフィア・マクスウェル:イーリンの母、公爵夫人
マリア・マクスウェル:イーリンの姉、隣国貴族と婚姻予定
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アンナ:イーリン付きの侍女
ピーター:マクスウェル家の庭師
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの婚約者
ルイス・ギーベル:第二王子、リリーの婚約者
キャサリン・パー:男爵令嬢、王太子のお気に入り
リーデン伯爵:キャサリンの後見
イーリンが目を覚ましたときは、もう次の日の朝だった。
アンナに尋ねると、ヘンリーが抱いて部屋まで連れてきてくれたと言われ、自分が小さな子供みたいに父親の腕の中で眠ってしまったことを知り、恥ずかしくなった。
気分は悪くなく、何か月かぶりにぐっすり眠ったようだった。
アンナも穏やかな笑顔を浮かべており、遅めの朝食を勧めてくれた。久しぶりにパンが甘く、スープが温かく感じた。
ヘンリーはすでに公務に出かけてしまっているとのことだったが、夕食は一緒にとろうと伝言を残してくれていた。
朝食の後、庭に出ると、ピーターが掃除をしているところだった。
「今日は顔色がよさそうですね。この間は風邪を引かれるのではないかと心配しましたよ。」
と、笑顔で声をかけてくれた。あちらのガーベラが綺麗に咲いていますよ、と教えてくれたので、アンナと一緒に見に行くことにした。
色とりどりの花を見て、イーリンは少し浮き立つような気持ちになった。イーリンが喜んでいるのを見て満足げなピーターは、後で花束にして届けると言ってくれた。
「ありがとう、アンナ。お父様に相談して、本当に良かったわ。」
館に戻ってから、イーリンは改めてアンナに礼を言った。
まだ何も解決したわけではないし、思うように進むとは限らない。しかし、父親が自分の思いを受け入れてくれたというだけで、かなり心は軽くなった。
「お嬢様は一人ではありません。もっと頼ってよいのですよ。」
「ええ、よくわかったわ。」
イーリンは、昨日の父親の言葉を思い出していた。
『あれはとても恐ろしい相手だ。お前一人では太刀打ちできない。これは、お前に力がないと言っているんじゃない。皆で力を合わせないと、勝てない相手なのだ。』
(私は間違っていたのね。1人で何とかできると思うなんて、思い上がりもいいところだわ。)
まずは体力を戻さなくては。そして、戦う覚悟を持たなくては。
夕食の場で、ヘンリーから、週末には領地に向けて出発する予定だ、と伝えられた。
「手紙はすでにお母様に送ってある。事情も伝えているから安心しなさい。」
「ありがとうございます、お父様。」
「王家には病気療養と報告しているから、気兼ねなくゆっくり過ごしなさい。」
「はい。」
その日の夕食も美味しく、イーリンはひさびさに満腹を感じた。
夕食後には、ピーターが作ってくれた花束が部屋に飾られていた。真ん中に白色の花があり、そのまわりを様々な色が囲んでいた。皆の愛情を感じ、イーリンは温かい気持ちで布団に入ることができた。
翌日、リリーとルイーゼがお見舞いに来てくれた。
「起きられても大丈夫なのですか?」
室内着で迎えたイーリンに、リリーが心配そうに声をかけた。
「少しね、体力が戻らないだけなのよ。」
ふふ、と笑ってイーリンは答える。
「イーリン様がご領地に戻られるのは寂しゅうございますがっ……。たくさん美味しいものを召し上がって、より健康になって戻ってきてくださいましねっ……。」
ルイーゼは涙目である。
「私、わずかなものですが、お見舞いを持ってまいりましたの……。受け取っていただけますか?少しでも元気になっていただきたくて……。」
「もちろんよ、嬉しいわ。」
イーリンは微笑んで答えるが、リリーは怪訝そうな顔つきをしている。
「ルイーゼ様、普通の物を持ってこられましたわよね。」
「もちろんですわ。ボンベルグ領での流行りを取り入れました。館の者にも確認しましたもの。これなら間違いないと太鼓判を頂きましたわ。」
「それなら、いいのですけどね。」
リリーは、まだ不審そうな顔をしている。
ルイーゼは、ずいとイーリンに近寄り、真剣な表情で言った。
「イーリン様。私、イーリン様のことが大好きですわ。何かお困りのことがあったら、必ず頼ってくださいまし。軍神に誓って、このルイーゼ・ボンベルグの全てをかけて、お助けいたしますわ。」
「あなたね。」
リリーは、あきれた様子でルイーゼに言う。簡単にそんなことを言ってはいけない、とたしなめる気持ちもあるだろう。
「ありがとう、ルイーゼ様。いずれの日にか、お願いすることもあるかもしれないわね。でも、約束してくださいましね、その時は、ルイーゼ様自身のことも大切になさってね。」
「イーリンさまあ……。」
ルイーゼはもう泣き出しそうだ。
名残惜しそうなルイーゼをリリーが引っ張り、2人は退出した。
ちなみに、リリーからのお見舞いは、美しい刺繡が施された匂い袋と口溶けの良いお菓子、ルイーゼからのお見舞いは、干し肉の束、亀や蛇から取り出したエキス、香草、発酵した豆であった。
ヘンリーの言ったとおり、週末には領地に向けて出発した。
しばらく友人たちと離れることは寂しかったが、馬車の窓から王都が遠ざかっていくのを見ると、ほっとする気持ちが抑えられなかった。
2日かけてマクスウェル領の城に着くと、すぐに母親と姉兄たちが出迎えてくれた。
母親は痩せてしまったイーリンを抱きしめ、そのまま、一緒に来ていたヘンリーを軽くにらんだ。
「あなた、これ以上は待てませんでしたよ。」
「分かっている。今回は私が悪かった。」
両手を上げ、たじたじとなるヘンリーを見て、姉と兄はクスクスと笑っていた。イーリンは、姉や兄にも次々に抱きしめてもらい、家族の温もりを楽しんだ。
「疲れたでしょう、まずはゆっくり休みなさい。」
「はい、お母様。」
その日は1年半ぶりの、家族が揃った夕食だった。マクスウェル領独特の、自然のものを生かした薄味の料理は、弱った身体に沁みるようだった。
ヘンリーはすぐに王都に帰っていった。母親のソフィアは、領主としての仕事をこなしながらも、イーリンと話をする機会をもうけてくれた。
「クリスも大分、領主の仕事が様になってきたからね。」
兄のクリスは順調に、次の領主として成長しており、すでに経営の一部を任されていた。
一緒に刺繍をしながら、イーリンが王都での話をすると、ソフィアの形相は鬼のようになり、布を両手で握りしめ、引き裂かん勢いであった。「王家にも舐められたものね、あの人にもう少し強く言っておくべきだったかしら?」とぶつぶつと独りごちた後、「確かに、婚約は考え直した方がよさそうね。」と言ってくれた。
実は、ソフィアは現在のボンベルグ辺境伯の姉であり、イーリンとルイーゼは従姉妹どうしにあたる。王都から持ってきたルイーゼのお見舞いを見て、「あの子は気が利くわね」と、ソフィアはいたく喜んでいた。
アーサーとイーリンの婚約については、すぐに解消とはならなかった。もちろんヘンリーはすぐに申し出てくれたのだが、王家がしぶったのと、アーサーの悪評が広がりすぎて、代わりになる令嬢が国内になかなか見つからなかったためだ。リリーを王太子妃に格上げする話もあったが、第二王子ルイスとの関係が良好であることと、ストラスタ侯爵やリリー自身があくまで固辞したことで、実現しなかった。
「あんな女性の趣味の悪い方、お断りですわ。」と言ったとかなんとか。
キャサリンはまだリーデン伯爵の養女にはなっておらず、候補になりえなかった。これについては、どうやら伯爵夫人が難色を示しているとのことだった。
結果、アーサーとイーリンの婚約は継続となっていた。ただ解消を進めることもできたが、そうしないのは牽制の意味もあった。王太子の婚約者の座が空けば、リーデン伯爵は無理にでもキャサリンを養女にして送り込んでくるだろう。それは避けなければならなかった。
アーサーといえば、まだイーリンが婚約者のままであるがゆえに、キャサリンと過ごす時間は格段に減っていた。今までイーリンを逢引の隠れみのに使っていたが、イーリンが王都にいない今、キャサリンだけと連れ立っているのはさすがに外聞が悪い。いやいやながら我慢をしているようだった。
その分癇癪が増えたようで、
「あんな様子では、まだまだイーリンを王都には行かせるわけにはいかないよ。」
と、ヘンリーはソフィア宛の手紙に書いていた。
お読みいただいてありがとうございます。ルイーゼの持ってきた豆の話は、後々出てきます。次は、新しいキャラクターが登場します。次もお付き合いいただけると嬉しいです。