1 幕開け
いきなり暴力表現ですみません。苦手な方は飛ばしてください。
―─なぜ、こんなことになったのだろう。
少し前まで、この館は心有る主人のもとに秩序が保たれていた。契約は守られ、衣食住は保証され、理不尽な扱いを受けることなどなかった。
しかし、彼らは不幸にもその座を追われ、私たちはすぐに新しい主人を迎えることとなった。
仕える主人によって、多少の考え方ややり方の違いはある。とはいえ、私たちの仕事はほぼ決まったものであるし、使用人としての身分は保証されるはずだった。
だから、しばらくすれば、以前とあまり変わらぬ日常が戻ってくると思っていたのだ。
「愚かなあなたたちに、まずは誰がご主人様か分からせてあげるわね。」
新しい主人は、館に着くなりそう言い放った。
そして、上着を預かりに来た侍女を、いきなりそばにあった燭台で思いきり殴りつけたのだ。
「ご主人様を値踏みするような女はいらないのよ。」
燭台をカランと投げ捨て、鼻から血を出して倒れた侍女を下目に、主人は言い捨てた。
出迎えた時の目つきが気に入らない、ということらしい。
鼻が折れた侍女は、倒れたまま泣いていた。主人はいつまで寝ているの、とその顔をさらに蹴った。
そして下男に、その侍女を一晩門の外に放り出しておくように、と命じた。
泣きながら許しを乞う侍女を、下男は下卑た笑いを浮かべながら引きずっていった。
無防備に女が一人、往来に一晩もいれば、王都とはいえ悪漢に襲われてしまう。一晩小屋に匿ってもらうために、彼女は下男に何を支払ったのだろう?
彼女は鼻が折れたまま、ここで働き続けている。
私は、自分が正しいと思うことをしただけだ。
使用人が雇い主を選べるものか。王家に逆らえるものか。
それが、どうして。
私は今、新しい主人のドレスを完璧に用意することができなかったために、罰を受けている。
新しい主人は美しい少女である。
ぱっちりとした目に黒曜石のような瞳。同じく漆黒の髪は艶やかで、彼女の白い肌を際立たせていた。
確かに今日用意をしたドレスは、彼女の美しさを最大限に高めるようなものではなかったかもしれない。しかし、一流の職人に仕立てさせた最高級のものだ。
主人は私に、革ひもをしっかりと編み上げた一本鞭をふるいながら、ため息をつく。
「ぼんやりしてるんじゃないわよ。グズねえ。本当にグズ。どうして私が欲しいものが分からないのかしら。やっぱり使える人間って、残らないものね。」
この館を早々に去ったものの方が、優秀だとでもいうのか。
悔しさを覚え、主人の方に顔を上げる。てっきり侮蔑の表情を浮かべていると思ったが、言葉ではなじっているものの、赤い唇は明らかに笑っていた。
瞬間、驚いた私の顔を目がけて、容赦なく鞭が振り下ろされた。
「ああっ」
鞭は私の左目を強く打った。目を押さえうずくまると、その上から頭や背中に次々と鞭が降る。
「お許し、お許しください。」
目がじんじんと痛み、私は涙をダラダラと垂らしながら許しを乞う。
頭をかばっていたので、鞭が何度も腕の皮膚を裂いた。
「顔を上げなさい。」
ぼやけた視界の中で、私は恐る恐る顔を上げた。
私と目が合うと、主人はにっこりと笑う。
「ダメよ。あなたまだ、余計なことを考えているわ。」
「い、いいえ、そんなことは。」
答えたとたん、今度は鞭が右のこめかみをしたたかに打った。
「ひいっ」
思わず再度倒れ込む。
手出しも出来ず、固まっていた周囲の使用人達からも小さな悲鳴が漏れる。
「この場を何とかやり過ごしたら、いつか助けが来るとでも思っているの?」
うふふふ、と笑った声は低く、まるで年をとった女のようだ。
「完全に忘れなくちゃダメよ。妙な期待も、前のご主人様のことも。」
美しい笑顔を浮かべたまま主人はこちらに近づいてきた。
細い顎をくいと上げ、私に命じる。
「伏せなさい。」
主人はそのまま、伏せた私の頭を踏みつけた。
「うっ」
「恥知らずのくせに。」
クックッと主人は笑う。額がグリグリと床に押し付けられる。
「誰があなたたちを助けるというの?あなたたちは恩を忘れて、ご主人様を鞍替えした裏切り者なのに。」
裏切りなどではない。むしろ王家への忠誠だ。使用人なら当たり前のことだ。身分と職を確保してくれるというのに、なぜ罪人とされる者を庇わなくてはならないのだ。
「私だって鬼じゃないのよ。あなたたちは、今はまだ、すぐに強いものに靡いてしまうだけの、愚かな生き物だわ。」
可哀想に、と言いながら、さらに足に体重をかける。
「安心して、私は躾が上手なの。あなたたちのために、しっかりと躾けてあげるわ。つまらないことを考えないように、私の言うことをようく聞けるように。」
足が下り、私はやっと顔を起こすことができた。
目の前に、ふわりと美しい黒髪が揺らめいたかと思うと、主人は私の顔を乱暴につかんで引き起こした。
「あうっ……。」
うっとりと頬を上気させながら、私の醜く歪んだであろう顔を見る。
「ああ、素敵ね。あなたたちは、私のおもちゃ。」
周囲で息を呑む音が聞こえる。
「終わりなんて来ないのよ。あなたたちは、死ぬまでここにいるの。助けなんて期待しちゃダメよ。」
主人が手を放し、私は床に投げ出される。
私を下男に渡すように、と命じる声が聞こえる。
明日は顔がしこたま腫れるだろう。傷だらけの腕には服が擦れ、動くたびにひどく痛むだろう。
ぼんやりとした頭、霞んだ目で、美しい少女を見る。
「あなたたちみんなの躾が終わったら、次は若い子を入れましょう。」
主人は、いい考えが浮かんだとばかりに、パンと手を叩き、目を大きく開いて、笑顔で私たちを見渡す。
──明日はご主人様のお考えの通りに動けるだろうか。
「できるだけ小さな子がいいわ。親の顔なんて忘れてしまうくらいの。」
──教えてあげないと。ご主人様に逆らうのは愚かなことだと。
「その子たちの躾はみんなでやりましょうね。ああ、今から楽しみだわ。」
私の意識が次第に遠のいていく。
下男が私の襟首を掴み、乱暴に引きずっていく。鼻の折れた侍女のように、私も下男の小屋で一晩を過ごすのだろうか。
意識が途切れる寸前、ぼんやりとした頭の中に、ご主人様の声が響く。
「私が王妃になったら、とても素晴らしい国になるわね。」
お読みいただいてありがとうございます。次から主人公が出てきます。続けてお付き合いいただけると嬉しいです。