インターフォンのモニターに映るのは若い女の顔だった
インターフォンのモニターに映るのは若い女の顔だった。
麦わら帽子を頭に載せ、長い髪が肩の後ろまで伸びている。その長さはモニターでは確認できない。丸い輪郭の中にこじんまりと納まった小さな目と鼻と口がにこにこ笑っている。
不自然なほどの笑顔でせり上がった頬に押されて眼尻がつり上がっている。愛嬌があるというより、嫌らしい笑顔だ。
「どちら様ですか」
と訊ねた。
日曜日の昼下がり。昨夜は夕方から久しぶりに会った学生時代の友人たちと飲み始めて、三軒目までは覚えていたけれど、そのあとどうやって部屋に帰ったのかも覚えていないくらいに酔っぱらって、気がつけばベッドの上で服を着たまま寝ていた。
時間を確認するとちょうど昼だった。
羽目を外し過ぎたなと思い起き上がると、こめかみががんがん波打って痛みが頭蓋に響き渡った。こんな頭痛は久しぶりだった。ベッドを下りて冷蔵庫に取り付き、飲みかけのミネラルウォーターを一気に飲んだ。干からびたからだが一気に湿り気を帯びた。
食欲はあるはずがない。食卓兼作業机となっているパソコンデスクの前に腰を下ろし、椅子の上で伸びをしてみる。頭の後ろが痛むのは二日酔いのせいだが、両腕と背中がじんじんと痛い。筋肉痛というより打撲の痛みだ。夕べはいったい何をしていたのだろうかと記憶の残骸を掻き集めてみたが一向に映像に結びつかない。波打つような頭痛と、筋肉と骨を締め上げるような疼痛と、腹の底から這いあがってくる吐き気に包まれて、しばらくそのまま座り込んでいた。
チャイムが鳴ったのはそんなときだ。
振り返ると、インターフォン受信機の小さなモニターが点灯してちらちらと影が動くのが分かった。
宅配便かなと思い椅子から立ち上がり、歩きながら何か注文したかなと考えた。
受信機は部屋の入口の横、部屋を出ると4メートルに満たない廊下を、左に狭いキッチン、右にバストイレの扉、そして正面に鉄製の部屋の入り口ドアが囲んでいる。部屋と廊下の境には扉はない。玄関ドアと天井のあいだの隙間は壁ではなく、曇りガラスが嵌め込まれていて、薄暗い廊下に外の光が映し出されている。光が差し込むガラスの下のドアは暗い壁のように立ちふさがり、この部屋を外界から遮断している。ドアの向こうに幽かに人の気配を感じながら、通話ボタンを押して来訪者の正体を訊ねた。
「こんにちは。もうお昼ですよ。やっとお目覚めのようですね」
部屋の外からは中の様子が分かるはずもなく、ましてこちらの今の状態を確認できるはずがないにもかかわらず、相手はずけずけとものを言う。遠回しに非難しているような言い回しが癇に障り、言葉が刺々しくなる。
「いったい何の御用ですか」
「開けてください」
「だからなんの用です」
「は?」
しばしの沈黙。
モニターに映る女の顔は相変わらずお面のような笑顔でこちらを覗き込んでいる。
「開けてください」
再び女は屈託なく言った。
一体どういう積りだ。理由も言わずにただ開けろと繰り返す。モニターの中には引き攣ったような笑顔が大映しに張り付いている。正直、気持ちが悪い。これ以上関わりたくない。どう言えば追い返せるか必死に思い巡らしながら答えた。
「開ける理由がありません。帰ってください」
「開けてください」
「開けません」
「開けてくれるまで帰りません」
「帰れ」
「帰りません」
「警察を呼ぶぞ」
「開けてください」
埒が開かない。いつまでこれを続けなければならない。頭が痛い。背中も痛い。吐き気も治まらない。むかむかと怒りがこみ上げてくる。
「本当に警察を呼びます」
「構いません」
女の顔は笑ったままだ。一気に背中が寒くなった。
こいつは気が狂っているに違いない。ならば警察を呼ぶのは当然の権利だ。警察に排除してもらおう。携帯電話はどこだっけ。思い出せない。
夕べは何をしていた?最後にスマホの画面を覗いたのはいつだ?最初の店を出たのはいつだ?二件目は?三件目は本当に行ったのか?この背中の痛みはなんだ?何があった?これと関係があるのか?酔っぱらって、何かとんでもないことしたんじゃないか?いったい夕べなにがあった・・・?
「開けた方がいいですよ」
こっちを見透かすように女が言った。
いきなり玄関ドアが叩かれた。
「開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて」
言いながら女はドアを叩き続ける。
狭い廊下に耳障りな打撃音が溢れ、壁が微かに震える。
叩く手に力が加わり、音が大きくなる。
「開けなさい」
否応ない口調で命じながら、女は笑い続けている。
ふと、モニター越しの女の顔が横を向き、上に消えた。
上?
女はそれまで屈みこんでモニターカメラを覗いていたのか。でも、カメラは大人の目線の高さに据えられていて、広角レンズが普通より広い視野で外を映し出しているはずだ。カメラに顔を近づけるとそうでもないが、遠ざかると人物の全身が歪んだ廊下に歪んで映し出される。
そこにはカメラの視界に納まりきらない白いワンピース姿の首から下が映し出されていた。
再び力強くドアが叩かれ出す。容赦ない意思と力を感じる音。がんがんと頭蓋に響いていたたまれなくなる。
やめろと叫んで部屋を飛び出し、ドアに取り付く。
「もうやめてくれ」
ドアの向こうに懇願する。気持ちの悪い汗が腋の下を流れる。
不意に辺りが暗くなった気がして見上げると、ドアの上の曇りガラスが何かに覆われたように暗い。外光を遮断しているのは丸い輪郭を持つ何か。
麦わら帽子だ。
女が曇りガラスの向こうから中を覗き込んでいる。
再びドアを叩く音。今度は頭の上、曇りガラスの真下辺りを叩いている。
がんがんがんがん。
「開けてください」
腰が抜けて身動きが取れない。
警察を呼びたくても携帯電話の行方が分からない。助けを呼びたくても声が出ない。ドアの前に尻餅をついて、ドアの上の陰った曇りガラスを見上げた。
帽子の丸い影が揺れる。少し伸びあがり、女の眼がガラス越しに見下ろす気配をひしひしと感じる。
丸く切り取られた闇の中から女が囁く。
「開けたほうが、いいですよ」
終