核心
「…レティーナ嬢、貴方は私と妹君との婚姻を結ばせるために、リィシュ嬢になったのだろう?」
リィシュ本人はクレイルと婚約を進めるつもりはなかった。
だが、当然ながらエルシアン家の立場を考えても断る訳には行かないはずだ。
そして何らかの理由――おそらく父親絡みでハミルト伯爵との婚約も断れなかったのだろう。
レティーナは今回、自分からハミルト伯爵のもとへ訪れているくらいだ。
当初から自分がクレイルと婚約し、リィシュをハミルト伯爵のもとに送るなんてことは欠片も選択肢になかったはずだ。
レティーナの目的はリィシュとクレイルの婚約を成立させるところまでだった。
そして、変化の魔法が解けたあの時…“リィシュとの婚約を進める”と言ったクレイルの言葉を聞き届けて、レティーナは自分の役目を終えたと判断したのではないか。
クレイルが事の核心を突いた時――――
先程から目も合わさなかったレティーナが、クレイルの両の眼を捉えたあと、俯けていた顔を堂々と上げてみせた。
その動作はクレイルにとってコマ送りのようにゆっくり感じられた。
そしてクレイルが目にしたのは―――
今まで一度だって目にしたことがないほど尊大で不敵な笑顔だった。
まるで“何を馬鹿なことを言っているの…?”と言わんばかりの。
あくまで自分が悪者であり続けるための精一杯の演技だった。
その顔を見た瞬間、カッとクレイルの頭に血が昇った。
―――まだそんな演技を続けるか…!
クレイルの雰囲気が変わる。
陽炎が立ち上るかのように、クレイルは感情を揺らめかせた。
それは最後まで本当の姿を見せないレティーナに対する苛立ちでもあった。
瑠璃の瞳が輝きを増し、レティーナを怖いぐらいに睨み据えた。
クレイルは威圧感を隠そうともせず、レティーナににじり寄るとぐっとその腕を掴んだ。
―――殴られる…っ!
目を閉じて身体を固くしたレティーナだが、どこにも衝撃を感じることもないまま、掴まれた腕が強く引かれた。
今度はどっと身体に衝撃があり、気がついたときにはレティーナはクレイルの腕の中にいた。
咄嗟にレティーナは自分の状況が呑み込めず目を白黒させた。
視界には自分より広く逞しい肩幅…そして腕の下からは腰と背中から首に回された腕。
密着した身体を意識して、ドキンとレティーナの鼓動が鳴る。
美しい鎖骨が目に止まった瞬間、見とれる暇もなく首筋に微かな吐息とともに温かい感触が。
唇と舌が意味深にその首筋から耳元を、そして耳を辿る。
「――――…っ!!」
クレイルの予想外の行動に、レティーナは真っ赤になって、膝から崩れ落ちた。
もちろん膝を付く前にクレイルが背中に回した腕で支えたが。
レティーナが呆然と見上げると、してやったりとクレイルは舌を出してみせた。
彼女の素の顔を見たことにとりあえずは満足する。
レティーナはまだ少し顔を赤らめていたが、腰砕けになった足に力を込めてなんとか自力で立った。
溜飲を下げたクレイルは冷静にレティーナへ告げた。
「妹君…リィシュ嬢と進んでいる婚約の話は白紙に戻すつもりだ」
告げると同時にレティーナの顔に動揺が走ったのをクレイルは見逃さなかった。
「…初めて顔色が変わったな」
やはりそうか…。
貴方はいつもこのか細い小さな手で誰かを守ろうとするんだな。
…あの時もきっとそうだった。
ローデイル伯爵邸で彼女が伯爵子息に絡まれていた、あの時。
“早く行きなさい――!”
居丈高な彼女の態度―――使用人が横やりを入れようとしたことにそんなに腹が立ったのかと当時は思ったが、本当にそうだったのか…?
彼女から見たクレイルは“ローデイル伯爵家の使用人”だった。
あの男は使役する立場の者で、クレイルはそれに使える側の人間――と認識したはずだ。
そして後から思い出したが、以前ユーシスがローデイル伯爵子息のことを口にしたことがあった。
“あの男の家臣に対する扱いはろくなものではない”
“同じ人間だと思っていないんだろうね”と。
つまり彼女は守ろうとしたのだ…使用人であるクレイルを。
自分が先陣を切って叱責し、その場から離れさせることで、男の怒りの矛先を使用人に向けさせまいとした。
クレイルは興奮していて、見ていたのに認識していなかった…あの時、彼女のこの手は微かに震えていたのに。
ヒントは色々あった…でも気づくことができなかったんだ。
“―――表面上のことだけで判断していると間違えるぞ”
あぁ、本当に…その通りだな。
“いつもなら出来ることができない。その意味を考えたことがあるか?”
クレイルの脳裏に彼女との出会った時の感情が蘇る。
本当は彼女を一目見たときから気になっていた。
透明感のある瞳は不思議な存在感を放って、クレイルを捕らえた。
だが、その眼差しは一度こちらを見やると、ほんの幾らもしないうちにすっと外れていった。
――その瞳を逸らさないでくれ。
感情をのせた瞳でもう一度こちらを…自分を見てほしいとクレイルはあの時確かにそう思ってた。
その感情がなんなのか分からない。分からないままに願っていたんだ。
けれど、その後彼女がこちらを気にかける様子はついぞ感じられず。
再会の時には厭うてるかのように放たれた言葉。
さらには他の男との噂ばかりが耳に入ってくる。
クレイルの願いはいつしか苛立ちにかたちを変えた。
そうしてその奥に隠れているものさえ、いつの間にか見えなくなっていた。
クレイルはひとつ息を吸うと真剣な眼差しでレティーナに向き合う。
「――定石通り私は貴方との婚約を進めることにする」
ハッとレティーナがクレイルを見る。
「心配しなくても、リィシュ嬢のことは悪いようにはしない。なにせ貴方が王太子であるこの私を騙してまで望んだことだろう?」
レティーナがようやく曇りのない目でクレイルのことを見つめた。
「貴方が妹に成り代わって私に近づいた理由は2つあるのだろう?
1つ目は大事な妹を託せる相手かどうか人柄を見極めるため。
2つ目は問題がなければ滞りなく婚約を進めるため」
「どうだ、私のたどり着いた結論に否やはあるか?」
レティーナに聞いてみせたクレイルは…それはそれは得意そうな顔をしていた。




