レティーナの過去 2
妖精が消えると同時に歪な空間は元に戻っていた。
レティーナは足元から力が抜けて、ガクガクと震えながらその場に座り込んだ。
その背にデイジーがそっと手を添えた。
「怖かったわね。もう大丈夫よ」
先程の恐怖に身体を強ばられていたレティーナはその優しい声と温もりにほっとする。
だが、皮肉なことにデイジーの言葉は、ある一点において間違っていた。
――危機は去ってはいなかった。
「…今のはなんだ…」
抑揚なく、なんとか絞り出したような声が聞こえた。
声の方向へ振り返ると、父ゲオルグが呆然とした面持ちで立ち尽くしていた。
部屋の中は荒れていた。
物が散乱している状態で、一瞬にして盗人が入ったかの様相だった。
呟くと、ゲオルグは黙り込んだ。
そして爛々と輝く目で、デイジーをレティーナをこの部屋の状態を順に見やる。
そのうち身体が小刻みに震え出してきた。
様子がおかしい。
「あなた?」
デイジーがゲオルグに声を掛けて、側に寄ろうとした。
するとゲオルグは金縛りが解けたかのように突然動いた。
かと思うと、近寄ってきたデイジーを力一杯払い除けた。
「寄るな!化け物め…っ!」
どっと音がするほど強い力でデイジーが床に叩き付けられる。
デイジーがなんとか上半身を起こすと、驚きの表情を浮かべてゲオルグを見やる。
「あ…あなた…どうしたの…?」
「うるさいうるさいうるさい!良くも騙していたな、この化け物!さっさとこの屋敷から出ていけ…!!」
異様な様相で激昂しながらも、ゲオルグの顔は見えないものへの恐怖で強張っている様にも見えた。
なおも近づこうとしたデイジーにゲオルグが再び腕を振り上げた。
「来るなと言っているだろうが…っ」
「お父様、止めて…!」
瞬間的にレティーナはゲオルグの動きを止めようと駆け出した。
胴に手を回そう手を伸ばしたが、大人と子供の体格では覆しようがない力の差がある。
ゲオルグが振り上げた腕にレティーナは吹っ飛ばされた。
ガツンッと鈍い音がした。
レティーナの身体が机にぶつかった音だった。
額に深紅の幕が降りてくる。
血を流したレティーナを見て糸が切れたようにゲオルグの動きが止まる。
ふらりと背を向けると先程とはうって変わって抑揚のない声でデイジーに言った。
「…出ていけ。無理やり追い出されないだけありがたく思うんだな」
ゆっくり父の背中は扉の先に消えていった。
*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…
レティーナの傷は幸い深いものではなく、打ち所が頭だったために思ったより血が出てしまったようだ。
だが、あの出来事があってから父ゲオルグはおかしくなったしまった。
常におかしいわけではなく、狂乱と平静を行き来しているようだった。
荒ぶり、混乱する時間が長くなるほど、ゲオルグの眼窩は落ち窪み、部屋でぶつぶつと独り言を言うこともあった。
とりわけそれは母デイジーが近くにいるときに起こった。
最初は話し合おうとしていたデイジーだったが、ゲオルグの混乱状態が極まり、命の危険を感じることもあった。
母は自分がこの状態を引き起こしていると薄々と感じていたんだろうと思う。
ある日から母デイジーの姿が消えた。
レティーナは邸中を探し回ったけど、いなかった。
父には聞けなかった。
侍女に尋ねると、言いにくそうに奥様は出ていかれました、と教えてくれた。
自分のせいだ、とレティーナは思った。
自分が妖精たちに連れていかれそうになってから、みんなみんなおかしくなった。
お母様はこの家に愛想をつかせて出ていってしまった。
そう思うと悲しくてレティーナはひとりで泣いた。
*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…
母がいなくなってから、父が異常に取り乱すことは少なくなった。
だが、今度はその時々によって激しい気分の落ち込みとを繰り返すようになった。
母デイジーに対する想いは、いなくなって清々した…などという単純なものではないなかったらしい。
それから父ゲオルグは段々良くない人物と付き合うようになった。
レティーナはそれを止めることもできなかった。
*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…
月日が流れ、母デイジーが亡くなったと聞いたのはレティーナが15歳の時だった。
あれからただの一度もデイジーと会うことはなかった。
その報せは本当に突然のことだった。
それを運んだのはレティーナの妹だと名乗る、リィシュという女の子だった。
年の頃は13歳くらいだった。
本来なら家長であるゲオルグが対応するはずだが、父は部屋から出てこなかったため、レティーナが出迎えた。
彼女は邸でレティーナに会うなり母デイジーからの手紙を差し出した。
その筆致は確かに母デイジーのものだった。
簡潔な文章には多くは語られていなかったが、孤児院に身を寄せていたことが書かれていた。
そしてリィシュは貴女の妹だ、とも記されていた。
レティーナはその時初めて自分に妹がいることを知った。
驚きに目を見張るレティーナに、リィシュは“これをお姉様にとお母様から預かってきた”といってペンダントを手ずから渡してくれた。
母の形見のペンダントだった。
受け取った瞬間、レティーナの唇が震えた。
その刻印は、離れてもデイジーの中にレティーナが確かに存在していたことを教えてくれたのだった。




