“悪役”令嬢の婚約破棄、もしくは〈黒の聖女〉顛末記 ~Another Story~
「オティーリエ、本当に残念だよ。
エミーリア嬢に対する陰湿な苛めに加え、公爵令嬢という立場を使って彼女を退学に追い込もうとした。
僕が気づいていないとでも思っていたのか?」
学園の食堂で、大勢の学生に囲まれ、私は一人だった。ランチタイムはまもなく終わろうとしていて、窓の外に見える中庭の緑が目に眩しかった。
「君との婚約は解消する!
学園長は、君の退学を決議した。1週間後には正式な通達がある。今のうちに荷物をまとめておくことだ」
私を弾劾しているのは、エルヴィン王子。かつての婚約者だった相手だ。
もっとも私たちが生まれる前から決まっていた婚約だし、これといって王子に思い入れがあるわけでもない。「嫌いか?」と聞かれれば「嫌いではありません」と答えるけれど、「好きか?」と聞かれれば礼儀正しく口を噤む。それくらいの温度感。悪い人じゃないんだけど。
私は、王子が手を取る少女を、見る。平民の生まれであるにもかかわらず、この貴族院に特別枠で進学してきた、エミーリア嬢だ。
彼女は一瞬だけ私の視線に怯んだが、それでも毅然として私の目を見返してきた。綺麗な黒髪に、やや薄い茶色の瞳が目を引く、朴訥な少女。はっきり言えば田舎者そのものだが、磨けば目が醒めるような美人になるタイプだ。
なにより、彼女には抜きん出た知性がある。「女は馬鹿なくらいが丁度いい」などと言い出す昆虫ならともかく、まともな脳みそを頭蓋骨の内部に収納している人間なら、彼女の知性に惚れこまざるを得ないだろう。
ともあれ、ここで後に退くわけには、いかない。
「随分と一方的なお言葉ですね、エルヴィン殿下。
申し訳ございませんが、私には身に覚えがございません。
そもそも、何か証拠でもあるのですか?」
私の反論を、王子は真っ向から切り捨てた。
「オティーリエ。君が公爵家の人間だから、僕は詳細を省き、結論だけを述べている」
事実、『陰湿な苛め』という手ぬるい言葉で君を弾劾することには、学園長から厳しい異議申し立てがあった。『もっと正確な表現をすべきだ』とな」
まったくもってご尤もとしか言いようがない。「苛め」の実態は、窃盗・器物損壊・暴行・傷害未遂といった類の、官憲の前でやれば一発で逮捕されるような犯罪行為だ。無論、そんな程度の犯罪で公爵家の人間が逮捕されることなどあり得ないが、それはそれ、これはこれ。
「どうやらまだ君は勘違いしているようだ。
本当に、君の企みに誰も気づいていないと思っているのか?
君が公爵家の権力を使ってエミーリア嬢の暗殺を計画していたことは、アンダールス国王スラヴォミール陛下もご存知だ。動かぬ証拠だって揃っている!」
王子の厳しい追求に、思わず表情が歪む。
エミーリア暗殺計画の証拠を、国王が掴んだ……? 私が知る限り、そんなことはあり得ない。でもハッタリだと断じるには、王子の態度は自信満々に過ぎる。
それは、一瞬の動揺だった。
でもその一瞬の動揺は、場の空気を決定づけようとしていた。
王子が私を弾劾し始めた段階ではまだ痴話喧嘩の類かと思って私達を眺めていた周囲の学生たちは、いまやこれが正式な弾劾であることを理解し、またそれだけの悪事を私がしでかした――かつ、それが完全に露見したと確信しつつある。
事実、周囲の有象無象が私を見る目は「王子が愛人を作ったことに怒るのは仕方ないとしても、その愛人の暗殺まで企てるというなら、せめてバレないようにやれ」という、蔑みの目だ。
ふむ。王子もなかなか、お上手なこと。
彼は実際に証拠品を提示することなく、場の流れを決めてみせたのだ。
周囲で学生たちがささやき交わす声が、私の耳にも否が応なく入ってくる。
(オティーリエ様、滅茶苦茶マズいことになったんじゃない?)
(婚約破棄、学園から追放って……こりゃあオティーリエ派もおしまいだな)
(さっき、殿下は国王陛下の御名前も出したよな……? つまりこれって殿下の暴走じゃなくて、陛下もお認めになられてる……ってことか!?)
(どうしよう。ウチのパパ、オティーリエ様のお父様にペコペコしてたのよ……早くパパに知らせないと、これってウチも大変なことになるかも! ごめんね、先に帰る!)
(ウチもだ……クソッ、なんでこんなことに! これだから世間知らずのワガママお嬢様は!)
(いや、オティーリエ様の父上は、あのハヴェル公爵だ。あの人なら、なんとでもするんじゃないか?)
(なんとでもって……まあでも……そうか、そうよね。あのハヴェル公爵だもんね)
(ああ。オティーリエ様にはお可哀想なことが起こるだろうけどね。最低でも勘当は間違いなし。ワガママお嬢様は良くて一生修道院暮らし、悪けりゃ野垂れ死にってわけだ)
……まったく。ため息のひとつもつきたくなる。
だからといって、全面降伏など許されない。
たとえ敗れたとしても、公爵令嬢としての矜持は示さなくてはならない。
「国王陛下のご聖断、確かに拝領いたしました。
エルヴィン王子、エミーリア嬢と末永くお幸せに」
私は踵を返し、背後を固めていた人垣を睨みつける。
私の視線を浴びた人垣が、さっと2つに割れた。
ほんと、馬鹿。馬鹿な人たち。
私は一人、自室に戻ることにする。
決して俯くことなく、背筋を伸ばして。
■
ここに至った経緯は、滑稽ではあるが、実に簡単だ。
私の父――ハヴェル公爵は、その権勢を利用し、本来はもっと早く終わるはずだった戦争を、ダラダラと引き伸ばしていた。
言うまでもなく、これはアンダールス王国に大きな負担と、国際的な悪名をもたらした。
けれど戦争が長引くことで、得をする貴族は、決して少なくない。
父はそういった貴族たちを支持者として「ハヴェル派」と呼ぶべき派閥を形成、泥沼の戦争を演出し続けていたのだ。
戦争を意図的に引き延ばすために、父たちは何でもやった。
「敵による虐殺」の偽装。
新聞を使った、軍事情報の漏洩。
誘拐に、脅迫に、暗殺。
ハヴェル派は大いに潤い、私はそのおこぼれに預かる形で、思うがままの贅沢を許された。そして私自身、自分が何不自由なく、望むとおりに生きていけることを、当然のことだと信じきっていた。
だから婚約者であるエルヴィン王子が王立の学園で学ぶと聞いたときは、自分も同じ学園に行きたいと盛大に駄々をこねた。父は「お前はそんなところに行かなくていい」と私を諌めたが、ワガママ放題に育った私を前に、最後は折れた。
今にして思えば、私を学園に通わせるという父の判断の裏には、父ならではの策略が潜んでいた。
ハヴェル派が権勢を保っていた理由のひとつはイカサマめいた戦争から得られる膨大な利益だったが、近年においては私がエルヴィン王子の婚約者だという点もまた、父は強い手札として活用していた。
エルヴィン王子が次代のアンダールス国王になるのは確実視されているが、それはつまり私が未来の王妃となり、ハヴェル家は王家の外戚となるという予想図もまた、ほぼ確実だということだ。
ハヴェル派にとって最良のストーリーは、遠からずエルヴィン王子が戴冠し、私が生んだ男児がアンダールス王国の王位継承者第1位となったところで、エルヴィン王が不幸な事故によって崩御、いまだ幼き次代の王のために摂政として父が王国の政治を取り仕切る……といったところか。
もちろんあの父が、事実上の反逆罪でしかないこんな野望を、実際に口にすることはない。けれどハヴェル派の一員として父に頭を下げる貴族たちは当然、そんな未来を想像したことだろう。
学園に通う権利を勝ち取った私に向かって、父は「お前には負けた」と苦笑いしながら、入学祝いを贈ってくれた。大きなオパールをあしらったチョーカーは、これまでにプレゼントとしてもらったどんな装身具よりも美しく、私は「学園では必ずこれを身につけます」と上機嫌で約束したものだ。
いやはや、思い返しても無知とは恐ろしい。
濃い緋色の中で七色の光が瞬くこのオパールが、宝石商の間では「ブラックオパール」と呼ばれていることを、私は知らなかった。言い訳させてもらえば、ブラックオパールの存在は知っていたが、黒くないブラックオパールがあるだなんて知らなかったのだ。
それさえ知っていれば、このオパールは「黒と緋色(アンダールス王家の紋章を構成する色だ)は、すでに我が手中にあり」という父の意思表示であることに、もっと早く気づけただろうに。
私は能天気にも、かのチョーカーをつけて学園を闊歩した。アンダールス王家側としては腸が煮えくり返る思いだったろうが、かといって何も知らない馬鹿女が首からぶら下げている宝石を指さして「ハヴェル家に叛意あり」と糾弾するのも難しい。ましてやその女が王子の婚約者ともなれば、なおさらだ。
かくして私は父の思惑通り、ハヴェル家の権勢を知らしめる広告塔として、学園生活を満喫するようになった。また、この頃からハヴェル派内部で私は、「ハヴェル家に勝利をもたらす〈黒の聖女〉」と呼ばれるようにもなった。私は「聖女だなんて、お父様はいくらなんでも悪ふざけが過ぎるのでは?」と思ったが、さすがに当時の私であっても、この感想を口にしないほうがいいことくらいは分かっていた。
もしあのまま何事もなく時が過ぎれば、やがてアンダールス王国は父の手中に落ちていただろう。さもなくば逆に、国を真っ二つに割る悲惨な内戦の時代を迎えたかもしれない。どちらにしても、王国の未来は真っ暗だった。
でも私は、出会ってしまった。私の世界を、根底から変えた人――エミーリアに。
■
学園におけるエミーリアは、平民モドキと呼ばれていた。
もともとこの学園は、古代ユリウス帝国における西方騎士団が母体となって生まれたアンダールス王国において、「高貴なる尚武の気風を受け継いでいく」ことを目標として創設された、ということになっている(なので初期において学生は男子のみだった)。
このため学園に通う生徒は、少なくとも学園の内部においては、使用人に頼らず一人で行動することが求められる――そもそも召使いだの護衛だのは、学園内に入ることすら許されない。そういう、アンダールス貴族の義務と精神を涵養するための場が学園であり、従って貴族の子弟のみが入学を許されている。
そんな学園に平民生まれのエミーリアの席があるのは、スラヴォミール陛下の弟君であるスカルニーク卿の私設学校において、エミーリアが突出した才能を示したからだ。エミーリアは形式上スカルニーク家の養女に迎えられ、学園で学ぶようになったというわけだ。
とはいえスカルニーク家は、その高貴な血筋に似合わず、裕福からは程遠い。私財を投じて平民までもを受け入れる学校を経営しているのがその主な理由で、多くの貴族からは酔狂な文化人だと思われている。
学園において、親の力とはすなわち、その人間の力だ。家柄以外に見るべきところのないスカルニーク家の養女という立場では、エミーリアは「事実上の平民」でしかなかった。
つまり。普通に考えれば、私とエミーリアの接点はゼロだった。
だから王宮で開かれた「スカルニーク卿の誕生日を祝う身内のパーティ」に招かれた(私は未来の王妃なのだから当然のことだと思っていた)席でエミーリアを紹介されたとき、私は内心で驚きを隠せずにいた。
こう言っては何だが、私は学園に通う女学生の頂点に立つ人間だ。私のことを疎ましく思っている女学生だっているが、未来の王妃と真正面から喧嘩する馬鹿はいない。つまり学園において、私の耳に入らない噂は、存在しない。
にも関わらず、エミーリアに関する噂は「平民モドキ」という罵倒以外、聞いたことがなかった。学園に在籍する女子31名のうち、私が最も取るに足らないと認識している娘ですら、彼女がどんなお菓子が好きで、どんな男性がタイプなのかくらいは把握しているというのに。
この気づきは私のプライドを微妙に傷つけたが、同時に好奇心も掻き立てられた。
人間、誰にだって、他人に隠しておきたいことはあるものだ。好きなお菓子ひとつとっても「頑張れば平民でも手に入る程度の下品な甘味が好き」だったりする者はいて、学園でその子はそれを悟られまいと必死になっている。
この田舎くさい平民モドキにだって、きっと秘密はある。それを知らないまま放置しているのは、どうにもモヤモヤする。
かくして王宮でのパーティの翌日、私は早速、行動に移ることにした。
私を慕ってくれる女学生たちに「お願い」をしてもよかったのだが、きっと彼女たちもエミーリアの秘密は知らない。つまりこれは、「私だけが知る秘密」を探り当てるチャンスだ。たとえそれが平民モドキの秘密であろうと、秘密というものは知っている人間が少なければ少ないほど価値がある。
それに、一日の講義が終わった後、エミーリアがどこにいるかの目星はついている。
私の情報網には、学園の女学生が見たり聞いたりしたことが集まってくる。この情報網にエミーリアが引っかかってこないということは、彼女は普段から、普通の女学生なら絶対に行かないような場所にいるのだ。
思い返しても実に残念な消去法に基づき、私は自信満々で放課後の図書室へと向かった。図書室の司書は非常に口うるさい女性で、館内での飲食や私語は禁じられている。秘密の逢い引きをするために鬱蒼とした裏庭に足を運ぶ女学生はいても、何もない図書室に行く者など、けしていないのだ。
図書室の中は、まだ日は高いというのに、窓の鎧戸をしっかり閉めているせいで薄暗かった。古い本が大量に保管されている場所ならではの香り(当時は「臭い」と感じたものだが)が鼻腔をくすぐる。
司書の姿が見当たらなかったので、これ幸いと閲覧室に忍び込む。案の定、閲覧室ではエミーリアが傍らに数冊の本を積み上げつつ一人で読書に没頭していたので、私は息を潜めて彼女へと近づいていった。幼い頃に祖父から習った「かくれんぼ」のコツは、こんなときに遺憾なく発揮される。
平民モドキのことだ、どうせ不道徳な本か、さもなくば幼稚な絵本でも読んでいるに違いない。彼女の背後に立った私は、そんなことを考えながら、声をかけた。
「エミーリアさん。ずいぶんとご熱心なことですね」
私の声を聞いたエミーリアは心底驚いたという顔で振り返ると、あわてて本を隠そうとした。イタズラしているところを見つかった子犬のようだ。私は内心で嘲笑しながら、優雅な所作で彼女の手を抑える。
「貴重な蔵書を、そんなに荒っぽく扱うものではありません。
司書様に見咎められたら、お出入り禁止になりますよ?」
薄い笑みを浮かべながら、エミーリアに小声で注意する。それから私は改めて、彼女がどれほど下賤な本を読んでいたのかを確認しようとして……そのときの私には、そこに書いてある文字が何を意味するのか、まるで理解できなかった。思わず、動きが止まる。
これは――まさか、古典ユリウス語? 貴族ですら読める人はほとんどいない、あの超難解な古典語の本を、平民モドキが読んでいたの!?
あまりの異常事態に思考と挙動が凍りついた私を見て、エミーリアは彼女ならではの早とちりをした。私が「何もかも理解した」と思い込んだのだ。
覚悟を決めたかのような神妙な表情で、彼女は私に向かって頭を下げた。
「さすがオティーリエ様です……気づかれてしまったのですね。
お察しの通り、これは王族のみが閲覧を許された、〈テリマの書〉です。この罰は、いかようにも……」
あのときの私は、完全に動転していたのだと思う。でも動転していたからこそ、自分が何をしなくてはならないのかも、素早く理解した。あるいは、それしか行動を選べなかった。つまり、自分の尊厳を守るのだ。
「……あなたは自分が不敬の極みと言うべき失言をしたことを、自覚していますか?
あなたは今やスカルニークの名を背負っています。末席の末席とはいえ、あなたも王族の一員なのです。その自覚をお持ちなさいな」
偉そうなことを言いながらも、私はこの場から可及的速やかに逃げ出したいと思っていた。エミーリアの秘密を探った結果、分かったことが「彼女はとんでもなく頭が良い」だなんて、藪蛇にもほどがある。
私の言葉を聞いたエミーリアはハッとしたような顔になって、また深々と頭を下げた。よし、今がチャンスだ。彼女に何か言われる前に、こっちから話を切り上げればいい。
「ともかく、見つかったら罰を受けるという自覚があるような行為は、厳に慎みなさい。
あなたの罪は、スカルニーク卿の罪なのですよ?
司書様には私がとりなしておきますから、今日のところはさっさと自室に戻って――」
でもそのとき、エミーリアは毅然とした顔で、私の手を取った。
その瞳の強さに、そしてそれに反して戦慄く睫毛に、思わずドキリとする。
「オティーリエ様。
私を正しく導いてくださったこと、どう感謝してよいのかわかりません。
オティーリエ様が指し示して下さったとおり、私は自分の信じる道を進みたいと思います」
えっと?
「私はずっと、この国はもっと良くできると感じてきました。
でも、そんなことを考えるだなんて平民の私には不遜なこと。そう、思っていたんです」
え、えっと?
「だけどオティーリエ様のお言葉で、目が覚めました。
私はいま、末席の末席ながら、この国のことを考えねばならない立場にいます。
オティーリエ様。お時間がよろしければ、少し私の考えを聞いてくださいませんか?」
藪をつついたら蛇が出てきたのみならず、その蛇をあしらおうとしたら目の前で竜に変身した。あのときの私の気持ちを表現するなら、こんな感じだろうか。
なんにせよ、これが私とエミーリアが本当に出会った瞬間だった。
■
それからというもの、私はエミーリアに会いに図書室へと通うようになった。今すぐ逃げ出したいと思った相手に、なぜ自分から会いに行くのだろうと何度も思ったが、結論はすぐに出た。彼女の話を聞くのは、とても楽しいからだ。「私たちが立っているこの大地は、本当はすごく大きなボールのような形をしているはずなんです」なんていう話が、面白くないはずがない。私語厳禁の図書室だったが、司書が私たちに退出を求めることは不思議となかった。
そのうち、私はエミーリアの話を聞くだけでなく、彼女にアドバイスをするようにもなった。エミーリアは私のことを「自分と同じかそれ以上に頭がいい」と思い込んでいるので、彼女との問答は毎回冷や汗をかきっぱなしだったが、それでも私は彼女を放ってはおけなかった。
実際、彼女は貴族社会の流儀に、あまりにも疎かった。書類上はギリギリ王族と呼べなくもない立場にいながら、自分のことを王族ではないと思い込んだり、逆に自分には王国の未来に対する絶対的な責任があると思い込んだり、とにかく彼女は危なっかしい。
彼女と対話を重ねているうち、喜ばしいかな、彼女は徐々に貴族社会について理解を深め始めた。が、そうなったらそうなったで、別の問題が発生した。彼女がピンポイントで詰めてくる問いに、私が答えられないという事態が増え始めたのだ。
私にとって決定的な転機となったのは、当時の私にとって誇りの象徴だったブラックオパールのチョーカーのことを、エミーリアが「エルヴィン殿下からの贈り物」と誤解していたことに気づいた瞬間だった。呆れた私は「これは父からのプレゼントだ」と教えてあげたが、その答えはエミーリアを大いに困惑させ、10分ほど噛み合わない問答が続いた果てに、私は自分がとんでもないことをしでかしていることに気づいた。
でも真っ青になった私に向かって、エミーリアはこう言ってくれた。
「伝統に甘えるのみならず、信奉するようであっては、いずれ国は滅びます。伝統は常に検証され続けてこそ、真の価値を産むと思うんです」
「今のアンダールス王国には、オティーリエ様以外にその宝石が似合う方なんていません。ならばその宝石は、オティーリエ様が身につけるべきです」
私以上に不遜としか言いようのない言葉だが、おかげで私は精神の均衡を保ったまま、あのチョーカーを身につけ続けられた――さすがに当時の私ですら、今更このチョーカーを外して学園を歩けば、父から酷く叱られるだろうことくらいは想像できた。
ともあれ私は、アンダールス王国の歴史や成り立ちを皮切りに、必死の猛勉強を始めざるを得なくなった。これはもう、プライドの問題だ。いまさら彼女を平民モドキと侮る気持ちは微塵もないが、いくらなんでも私の庭でエミーリアに負けるのは、我慢できない。
そうやって歴史や文学を学ぶうち、いつしか私も古典ユリウス語がそこそこ読めるようになっていった。と、今度はエミーリアが何を学ぼうとしているのかが、気になってくる。
エミーリアには何度も「それは少し違うのでは?」と呆れられたが、貴族の精神の本質は「やられたらやり返す」と「やられる前にやる」に尽きる。私の得意分野でエミーリアにしてやられた以上、今度はエミーリアの得意分野で彼女を青ざめさせなければ、気が済まない。
とはいえ、この頃にはさすがの私も、エミーリアが「とんでもなく頭がいい」などというレベルにとどまらない、一種の天才であることに気づいていた。そこに追いつき追い越そうとすれば、並の努力では及ばない。いや、私では努力したって、追いつけすらしない。かろうじてついて行くのが、限界だ。
でも私は、エミーリアが輝くような笑顔で「オティーリエ様! 私、思いついてしまったんです!」と打ち明け話をしてきたとき、彼女が何を言っているのかさっぱりわからないような人間にだけは、なりたくなかった。努力に努力を重ね、なんとか彼女の背中が見えるようになった今だからこそ、彼女が振り返ったとき、そこにいられる私でありたかった。
それは私が、自分が何者であるかに気づいた後でも、変わらなかった。自分は、王国を衰退させている元凶たるハヴェル家が有する、大駒のひとつでしかないと悟っても、なお。
いま思い返しても、あの頃は毎日が輝いていた。私たちは互いに言葉を聞き、考え方を批判しあい、見出した新たな知見を称賛しあった。こんなにも充実した毎日があるだなんて、信じられない気持ちでいっぱいだった。
だから私は、油断をした。油断をして、取り返しのつかないミスを犯した。
その日も私は、エミーリアと図書室で一緒に勉強しようと思っていた。
でもエミーリアいつまでも図書室に姿を見せず、不審に思った私はエミーリアの部屋に足を向け、その途中で手紙を手に呆然と立ちすくむ彼女の姿を見つけた。
手紙の文面は、極めて短く、かつ残酷なものだった。エミーリアの母と妹が、流行病で危篤だという連絡だったのだ。
エミーリアの母と妹にも、スカルニーク家から(少ないながらも)生活費が支払われていた。だが彼女たちはその支援金を「エミーリアの未来のために」貯蓄することを選んだ。
麗しい家族愛は、最悪の形で終わりを告げた。母と妹が住んでいた下町を、伝染病が席巻したのだ。長引く戦争で疲弊するアンダールス王国は、王都ですら伝染病の蔓延を抑止できない状況にあった。
もし私が、エミーリアの家族のことを、ほんの少しでも考えていれば。
もし私が、王国と王都の現実に、もう少し真剣に向き合っていれば。
私の宝石箱に収まっている一番安い宝石1つの代金で、一家をもっと衛生的な地区に引っ越しさせられた。
私の衣装棚に死蔵されているドレス一着の代金で、一家に日頃から栄養のある食べ物を食べさせられた。
そんなことをしても伝染病の猛威は一家を襲ったかもしれないが、何もしないよりはずっとマシだったはずだ。
エミーリアの家族が危篤だという手紙が届いた3日後に、エミーリアのもとに次の手紙が届いた。封を切るまでもなく、訃報だ。
伝染病で死んだ人々の遺体は、王都から遠くに運びだされ、そこでまとめて燃やされる。親子だろうが親類縁者だろうが、会いに行くことはできない。エミーリアもまた、母と妹の死に顔すら見れなかった。
葬儀もないまま家族との永遠の別れを迎えたエミーリアは、学園の庭の隅で、一人で泣いていた。霧のような雨が降るなかひたすら泣きじゃくる彼女を見ながら、私は何と声をかけてよいのかわからず、しばらく立ちすくむ。
ごめんなさい? 私が気をかけていれば? 私なら守れたのに?
何度かそう口に出そうとして、思いとどまる。
ごめんなさい。私が気をかけていれば。私なら助けられたのに。そうやって、エミーリアは何度も悔いたはずなのだ。
なるべく頻繁に家族と会うようにしていれば、母と妹が切り詰めた生活をしていることに気づいただろう。スカルニーク卿に正面きって家族の救済を頼み込めば、彼女たちがスカルニーク家に住み込みで働くという選択肢もあったかもしれない。そして末席の末席とはいえ王族にかすっている以上、彼女の衣装箪笥には肥やしになっているドレスが絶対にある。
だから私は、エミーリアの背中を、そっと抱きしめた。
後悔の涙に震える彼女の体は、悲しいくらい小さくて、暖かかった。
つまり、そういうことなのだ。
私たちはしょせん、どうしようもなく負け犬なのだ。
そして自分たちがどうしようもない負け犬であることを内心で理解していたからこそ、私たちは二人で無心になって、「自分たちは負け犬なんかじゃない」という夢を積み上げた。現実を忘れるくらい、そうやって砂遊びにのめり込んだ。
でも、この国の貴族たちが私に望むのは、知識でも教養でもなく、エルヴィン王子の子供をたくさん産むことのみだ。それはまだマシなほうで、エミーリアに至っては「平民モドキには何もできない」という結果を出すことだけを待望する者が、群れをなして待ち構えている。
そんな私たちが、国を良くする? どうやって?
身近にいる大切な人すら守れなかった、私たちが?
だから私はエミーリアをしっかりと抱き寄せて、彼女の耳元で囁く。
「エミーリア。
私たちがこの国を、誰もが安心して暮らせるよう、変えていきましょう。
あなたのお母様と、妹さんのためにも」
果てしなく、無責任な言葉。
でもそれ以外に、口にできる言葉はなかった。
「はいっ……きっと、きっと変えてみせます……!」
涙にくれるエミーリアはそう言いながら、何度も頷いた。
霧雨を吸ったドレスは重く、彼女の涙は少しだけ塩辛かった。
■
エミーリアの家族が亡くなってからも、私たちは図書室で机を並べて勉学に励んだ。でも私たちの間にほとんど会話はなく、ましてや議論などまるで起きなかった。私たちはただ、目の前の本を読んでいた。
その結果、学園の定期試験では、私とエミーリアがいつも首位を争った。といってもエミーリアは原則的に満点を取るので、私がケアレスミスをしたぶんだけ1~2点の差が開いて2位に収まるというのが定番だ。
つまるところ、あの頃の私たちは、意地っ張りな迷子だった。
自分たちが迷子であることを自覚しつつ、自分たちは迷子なんかじゃないと言い張り、その結果さらに迷走を深める、最悪の迷子だった。
そのことを2人とも分かっていたけれど、だからといってどうしようもなかった。どうしようもないから、次の試験に備え、そしてまた次の試験に備えと、毎日のように私たちは図書室で一緒に勉強を続けた。
でもそんな毎日は、唐突に終わりを告げた。
今度もまた、私のミスが原因となって。
図書室でエミーリアと議論していた頃は、私は勉学にも打ち込んだけれど、学園に通う学生たちとの交流を疎かにすることもなかった。あの頃は「危なっかしいエミーリアを貴族社会の悪意から守ってあげる」という保護者めいた意識も強かったから、その手の外交にも積極的だったのだ。
でも、2人でただただ勉強するようになってからというもの、お茶会やランチパーティといった誘いはほぼ全部断るようになっていた。心のどこかに「そんなことをしたところで、何も変わらないし、何も守れない」という甘えがあったのだ。
私の素行が急に変化したことで、学園に通うハヴェル派の子弟は、私が貴族として果たすべき義務を果たしていないと感じるようになった。その点については「まことその通りでございます」としか申し開きのしようもない。
ハヴェル派の子弟にとってみれば、オティーリエ様を相手に無駄なお喋りに花を咲かせて「我々は未来の王妃様とこんなにも仲良しなのですよ」と周囲に見せつけるというのは、私との共同事業だ。なのに私がお茶会からパーティまで全部断ってしまえば、ハヴェル派としては「話が違う」と言いたくもなるだろう。
そう。お茶会やパーティをしたところで、何も変わらない。
でもそれらを拒否すれば、状況は「変わってしまう」のだ。
私たちにとって、悪い方向に。
ある夜、どうしても寝付けずにいた私は、真っ暗な館の中を散歩していた。あの頃、やけに寝付きが悪かったり、すぐ目を覚ましてしまったりというのが毎晩のことになっていて、散歩のルートも「いつものコース」ができていた。
でもその夜は、少しだけ普段と違っていた。応接室から灯りが漏れていたのだ。
気がつくと私は、エミーリアと初めて図書室で会ったときのように、足音を忍ばせて応接室の扉に近づいていた。
扉の向こうでは、父が誰かと喋っていた。自分は何をしてるんだと思いながら、聞き耳をそばだてる。
「……このところのオティーリエ様の奇行には、例の平民モドキの悪影響があると考えて間違いないかと。
僕たちで何とか処理したかったのですが、あの平民モドキはスカルニーク卿が庇護していますから、手が出し難く……」
「皆まで言わずともよい。
まったく、女は馬鹿なくらいがちょうど良いのだ。学問に励むなどもってのほかよ」
「とはいえオティーリエ様は、学業においても比類無き業績を示しておいでですが……」
「それがいかんのだ。このままでは最悪、ハヴェル家の真実に気づかれる可能性すらある」
――ハヴェル家の真実?
私が気づいてはならない真実が、他にもある、と?
そんな戸惑いは、一瞬で消えた。しばしの沈黙の後、父が何かを決意したとき特有の口調で、こう言ったのだ。
「……退学……いや、平民の娘など排除してしまって構わん。
事後処理は任せておけ。実行からして不安と言うなら、私が直接指揮をする。
貴君らにくだらん失敗をされると、面倒が増えるからな」
気がつくと、私は自分の部屋に戻っていた。
「排除」「事後処理」「直接指揮」
頭の中を、父の言葉がぐるぐると回る。
私は咄嗟に、今晩のうちに父の前にひれ伏してでも、エミーリアを見逃してもらえるように頼もうと思った。子供の頃のように地団駄踏んでワガママを言っても通らないだろうが、私が素行を改め、学問を捨て、昔のように何も知らぬ公爵令嬢にして王子の婚約者として振る舞うと誓えば、父なら考え直してくれるはずだ。
そこまで考えて、私は強く首を振る。
あの父が、「排除する」と決めたのだ。父はいつか、必ず、エミーリアを殺す。私が父と交渉したところで、父はどこかの段階でエミーリアを事故死させるだろう。私がどう足掻いても父の関与を証明できないような、巧妙な手段で。あるいは私に一度暗殺を阻止させておいて、私が安堵したところで改めてエミーリアを殺す、というパターンすらあり得る。父にとってエミーリアはハヴェル家の敵で、私は躾けるべき子供なのだ。
……ならば。
ならば、私は、エミーリアを守る。
私たちは絶対に、迷子の負け犬のまま終わったりなど、しない。するものか。
今こそ、私は誓おう。
「エミーリアの敵は、私の敵だ」と。
■
決意した以上、もう迷いはなかった。
私は客人が帰るのを待って、寝間着姿で応接室に飛び込み、父の足にキスをしながらエミーリアの命だけは奪わないでくれと泣いて頼んだ。
父は虫ケラを見る目で私を見たが、「学問は捨てる、社交に打ち込む、父の言いつけはすべて守る。でも愛するエミーリアが死んだら私も死ぬ」と私が誓った段階で、いろいろと理解したようだった。「女の愛人とは、誰に似たのやら」と吐き捨てて父は応接室を去ったが、母にそういう趣味があるとは初耳だ。ともあれ嘘も方便(何が嘘かは聞かないように)、これで最低限の時間は稼げた……と、信じることにした。
自分史上最も無様なワガママを通した翌週、私は婚約者であるエルヴィン王子と会った。そしてハヴェル派の子弟たちが見ている前で、「この国を根底から変革できる才媛であるエミーリアを、殿下の力で守ってもらえまいか」と頼んでみた。
最初こそエルヴィン王子は「この女は何を言っているんだ」という目で私を見ていたが、その後、偶然にもエミーリアと直接会話する機会を得た王子は、私の申し出を受け入れてくれた。エミーリアの持つ才能の偉大さを熱く語るエルヴィン王子の横顔は、今もはっきりと思い出せる。
当然ながら私は父に呼び出しを食らい、「王族を使って保険をかけようとするなど、小賢しい真似をするな」と叱られた。でもエルヴィン王子がエミーリアに惚れ込んでいることを指摘し、「この国の未来の王妃として、夫の愛妾はきちんと管理しておきたく思います」と告げたら、父は低く唸ると「よくやった」と認めてくれた。
父にしてみれば、エミーリアを(正確にはスカルニーク家を)ハヴェル派に取り込めば、ハヴェル家にとっての牝馬をもう一頭増やせるという計算が成立したのだろう。王弟とはいえ経済的には苦しい立場にあるスカルニーク家ごとき、靴下に金貨を詰めて殴ればどうとでもなるという父の発想に対しては、「私もそう思います」以外に何も言えない。
そう。けして父を侮ってはならない。父は極めて、極めて、優れた政治家なのだ。経験も、コネも、財力も、なんなら直接的な暴力まで含めて、私が父に勝てる要素は何もない。
だから私が父に勝とうと思ったら、たった一回の奇襲で、完膚なきまでに打ち倒すしかない。「娘が裏切ったとしても、一刺しくらいなら痛くも痒くもない」という油断に乗じて、その一刺しで倒す以外に勝ち筋はない。
実に厳しい条件だが、幸い学園という舞台装置は、私にとってとてつもなく巨大なメリットを提供してくれる。
建前としては「アンダールス貴族の義務と精神を涵養するための場」である王立学園は、私の父が「そんなところ」と言い放ったように、国王側が貴族たちの力を押さえ込もうとして創立したという背景もある。
このことが最もよく現れているのが、学園には使用人の類いを連れて入れないという掟――正確には「学園に通う学生は使用人や護衛の兵士を連れて入ってはならない」「その代わり学園は王家の最精鋭部隊が守る」という勅令だ。純粋に政治的な側面だけを見れば、学園は国王側が貴族達の子弟を人質に取っている場所なのだ。
このため、かつて深夜に父を訪ねてきた学生がその典型例だが、たとえ父といえども学園内の様子を探るには学生を使うしかない。万が一、私を監視するために潜入させた間諜が捕まって、ハヴェル家の関与が明らかになったら、言い逃れは難しいからだ。
この学園という監獄にして要塞を、私は活用することにした。具体的には王子と2人きりで面会する時間を作ってもらい(当然だが「プライベートな面会」を主張し、ハヴェル派の学生も含め誰にも監視などさせない)、そこで王子にハヴェル家を倒す策に協力してくれるよう、懇願したのだ。
もちろんだが王子は私を大いに疑い、「俺がハヴェル家に対してどれほどの忠誠心を持っているのか調べてこいとでも命じられたのか?」と睨まれたが、私は淡々と事実だけを開示し続けた。過去と現在のハヴェル派の悪行について、私の知る限りを語ったのだ。
だがそれでも、王子は私の提案に乗って来なかった。ハヴェル派の持つ力は、部分的には王家を凌駕し得る。父が腹をくくれば、現王家を武力で打倒してハヴェル王朝を立てることだって不可能ではない(さすがにその先が続かないだろうが)。なんにしても、証拠なしに喧嘩をふっかけるには、危険すぎる相手なのだ。
だから「お前がハヴェル家を打倒するということは、お前は自分の父親を殺すということだ。何のために己の父を殺そうとする?」という王子の問いは、直球すぎる問いではあるけれど、問うべき問いだったと思う。
私の答えは、決まっている。「エミーリアを守るため」だ。直球の問いに対して直球で返しすぎたので「この国とエミーリアを守るためです」と言い添えたが、これは「エミーリアを守るためならアンダールス王国だって滅ぼしてみせよう」という脅迫を丁寧語で語ったに過ぎない。
結局、王子はため息をつくように「この国のため、お前の計画に乗ろう」と言ってくれた。私にはアンダールス王国を滅ぼす道筋などまったく見えていなかったので、ここは気迫の勝利ということにしておこう。
こうやって王子を筆頭とし、学園内に安全な情報連絡経路を作ったところで、最後にエミーリアを計画に巻き込んだ。
実を言うと、これにはかなり悩んだ。何より、エミーリアなら私の計画などお見通しで、打ち合わせなしでもバッチリ息を合わせてくれるはずだという思いがあった。
だがその頃にはエミーリアとも積極的に話すようになっていた王子が「お前はエミーリアのことが何もわかっていない」と強硬に主張したので、内心で「あなたにエミーリアの何がわかるというのか。生まれて初めてシュークリームを焼いてみたら悉く萎ませてしまってしょげた顔や、紅茶に垂らしたブランデーごときで酔って真っ赤になった顔を見たことがあるのか」などと思いつつも、エミーリアを計画に招き入れることにした。
結論から言うと、エミーリアを引き込んだのは半分成功、半分失敗だった。
私が予想した通り、エミーリアは私が何を狙っているのかを完璧に予見していた。さすがエミーリアだ。でも「じゃあよろしくね」で打ち合わせを終わらせようとしたら、「そんなことはできません! イヤです!」と半泣きになりながら言い張ったのだ。
私にしがみついて涙ながらに「イヤです」を繰り返すエミーリアを見て、王子は「それ見たことか」的なドヤ顔を決めてみせた。ぐぬぬ。だが確かに、ちゃんと説得しなくてはエミーリアは計画に協力してくれなかっただろう。
結局、その場は「もう時間がない」で押し切る形で、エミーリアには計画に協力してもらうことにした。エミーリアは不満顔だったが、「虎に乗って走るだなんて狂気の沙汰です!」と訴える天才を虎に乗せるときは、無理にでも虎に乗せてから虎の尻を叩くのが一番だ。
かくしてキャスティングと台本が揃った私の計画は、実行に移されることになった。
■
さて、計画計画と繰り返したが、その内容は実にお粗末というか、どんなに良く言っても自作自演の三文芝居というやつだ。
一手目は、父がやらかした小さなミスを利用することから始めた。
父が学園内部の情報を得るために使っている学生たちは、けして頭の悪い連中ではないが、「俺はあのハヴェル公爵じきじきの命令で動いている」という優越感を完全に押さえ込めるほど優秀ではなかった。そこまでの自制心を学生に求めるのは、無理だ。
結果、どこからともなく「ハヴェル公爵はエミーリアを退学させようとしている」という噂が湧き上がった。きっと父と密談していた学生が、酒の勢いで誰かに内緒話でもしてしまったのだろう。私はそんな噂なんて流していないのだから。私は。
噂が十分に広まったところで、二手目として新たな噂を広めた。ハヴェル公爵がエミーリアの退学を要求した(この頃には最初の噂は「退学させようとしている」から「退学を要求した」になっていた)のは、「定期試験でどうしてもエミーリアに勝てないオティーリエ様が、父親に泣きついたから」だという噂だ。
これは根も葉もない噂だが、学園には私のアンチも少なからずいる。彼らにしてみればこの噂は格好のネタだ。一方、なんともお寒い話ではあるが、私の支持者の間でも「オティーリエ様の断固たる態度は素晴らしい。あの平民モドキは定期試験のたびにカンニングしているに違いないのだ。オティーリエ様は正義を求められている」という見解が広まった。まったく、人間というやつは、これだから……
ともあれ、ここからが本番だ。
私はエミーリアの前で、以前と同じように和やかに、しかしながら意味ありげなことを言う。するとその日の夕方には、エミーリアの舞踏用シューズが消え失せたり、彼女のカバンに罵詈雑言が落書きされたりした。
その無残な様子を見た私は、以前と同じように心配そうに、しかしながら意味ありげなことを言う。すると翌朝にはエミーリアの朝食だけサーブが妙に遅れた。
この怪事件の連続に対し、「オティーリエ様は平民モドキに正義の鉄槌が下ることを求めておられる」派がすぐさま乗ってきた。かくして予想通り、エミーリアは階段から突き落とされそうになったり、スカートに水をかけられたりするようになった。が、それらの試みは王子とその友人たちの手によって阻止されることも、増えていった。
正直なところ、計画全体のうち、このパートが最も緊張を強いられた。
この手の「悪ふざけ程度の制裁」(と連中が勝手に思い込んでいる暴行)は、「まさかそこまではしないだろう」というこちらの予測を簡単に飛び越えてくる。実際、初手として階段最上段での突き飛ばしが発生したときは、予想の範囲にあったにも関わらず、私も王子も心臓が止まるかと思った。
もっとも、何のかんので私はハヴェル家の人間なのだろう。一週間ほどで「これくらいのほのめかしを、こういうコンプレックスを持った男子学生に対して言えば、これくらいのことをしでかすだろう」という予測がほぼ外れなくなった。
予想外なことと言えば一度だけ、あらぬ方向を見つめながら「ああオティーリエ様! 私のオティーリエ様!」を連呼する女学生に刃物を突きつけられたことがあったが(念のため言っておくと、突きつけられたのは私だ)、これは無事、王子が取り押さえた。
そんなこんなで、学園にはいつしか「オティーリエ派はオティーリエ様の命令に従って、エミーリアを学園から追い出そうとしている」「王子殿下とその一派はエミーリアの味方をしているが、いざというときには婚約者たるオティーリエ様をちゃんと守る」という空気が生まれた。しまいにはエミーリアが本当にうっかり躓いて転びそうになったときすら、「またオティーリエ派が何かしたな」的な目で見られるようになった。
私や王子たちが積み上げた無数の寸劇は、学園内に架空の現実めいたものを作り出すことに成功したのだ。
けれど、ここまであからさまな異常が起こっていても、父にはそれが異常だとは理解できなかった。父に学園の情報を伝える学生たちにとって、それは「ゆっくりと変わっていった結果として行き着いた空気」でしかなく、父に「何か変わったことがあったか」と問われても、「特に何もないですね」という答えしか出て来ない。
もし父が学園内部に入ることがあったなら、とてもではないが「特に何もない」状況ではないとすぐに気づいただろう。だが父にとって学園は「下賤な場所」だから、現場に踏み込まれる可能性は極めて薄いという読みは、的中した。
もっとも、すべてにおいて順調だったわけではない。断じて、父は侮れない。事実、父に呼び出されて「お前は自分の愛人を虐めて楽しんでいるらしいな」と問いただされたときは、事前に予行演習しておかなかったら一瞬言葉に詰まっていただろう。「躾けているだけです」と答えると、たたみかけるように「何を企んでいる」と問われたが、「どうやったらお父様を殺せるかな、と」と正直に答えたら、失笑とともに解放された。
父にしてみれば、私は「自分の前に跪いて靴を舐めた女」だ。ゆえに父の目に映る私は、「いつか必ずあの屈辱を晴らそうとしている女」でもある。よって私の「父を殺す方法を考えている」という解答は彼の予測のど真ん中であり、しかも父をして私から嘘の匂いは嗅ぎ取れなかった(こっちは本当のことを言っているのだ!)。だから私は父にとって「予想の範囲からほんの少しもブレない雑魚」であり、失笑すべき相手というわけだ。
父に呼び出されるたび、ほんの1分足らずの間に寿命を100年ほどすり減らすような気分を味わったが、私は父を欺かないことで、欺き続けることに成功した。
そうやって、命がけで演じるにはあまりにも滑稽にすぎる芝居を数ヶ月続けた私たちは、なんとかフィナーレにたどり着いた。私は王子から「エミーリアに対する陰湿な虐め」を告発され、それを理由に婚約は破棄された。
ちなみに王子は「何か証拠でもあるのですか?」という私の問いに対し、「証拠がある」とは言っていない。これは事前の練習で、王子があまり上手く嘘をつけないという致命的な問題が露見したため、急遽台本を書き換えた結果だ。「エミーリアに対する虐めを私が主導していた」という証拠はちゃんと作っておいたのだが、捏造した証拠を公の場で見せてしまうと、告発側の弱点になりかねない。「証拠はあるが、見せない」という方向へと自然に話を転がすのが理想の展開だった。
それだけに告発の場面で王子が「エミーリア暗殺計画の証拠を、国王が掴んだ」と言い出したのには、かなり驚かされた。
いや、あのリアルな驚きのおかげで場の流れが決まったのだから、「名演でしたね殿下」と言うべきなのだろう。でも普通、あの土壇場でアドリブを入れます? 私としては、どちらかと言えば殿下がアドリブを入れてきたことに対する驚きに飲まれた側面が多いんですけど?
……いや、まあ、いい。今はそこを追求する状況ではない。
終わりよければすべてよしだが、まだ幕は完全に降りてはいない。
私は前もってまとめておいた荷物が詰まったアタッシュケースを手に取ると、学園の外へと向かった。ドレスも宝石も、ほぼすべて売り払って、王国で一番腕がいいとされる逃がし屋を雇ってある。あとはその逃がし屋の足がホンモノであることを祈るのみだ。
具体的に言えば、復讐の雄叫びを上げる父の足よりも早く、かつ父が広げる手よりも遠くまで行けるくらい、ホンモノであることを。そうでなければ私は、エミーリアがその知性をもって正確に思い描き、それゆえに「ダメです」と繰り返し訴えた未来に、捕まるだろう。
■
学園の正門を出ると、約束通り、そこには黒い馬車が止まっていた。
だが馬車の外で待っていたのは逃がし屋ではなく、およそ十年ぶりに会った祖父だった。
戸惑いを押し隠そうとする私を、祖父は好好爺然とした笑みで迎えた。
「久しぶりだな、オティーリエ。立ち話もなんだ、乗りなさい。
この馬車は、自称『逃がし屋』とかいうゴロツキとは違って、お前の父親に買収されてはおらん」
私は喉の奥から漏れそうになった言葉をぐっと飲み込んで、祖父の勧めに従った。祖父の笑みは柔らかだったが、「最後の最後で詰めの甘い若造が駄々をこねるなら容赦しないぞ」という明確な意思がその笑顔の裏には潜んでいた。
馬車が動き始めると、祖父は私の目をしっかりと見つめて、「見事だった」と言った。
やれやれ。祖父には何もかもがお見通しだったというわけだ。
父が率いるハヴェル派には、明確な脆弱性があった。それは、私だ。
ここ5年ほどでハヴェル派が急激に大きくなった背景には、「遠からずハヴェル家は王家の外戚になる」という予測があった。これは父にとってひどくデリケートな問題でもあったろう――父の政敵にとってみれば、私を暗殺してしまえばハヴェル派が瓦解する可能性があるからだ。
暗殺は極端な例だが、それ以外にも私はハヴェル派にとって弱点となり得た。例えば私がどうしようもなく愚かに育ち、「いくらなんでもコレが未来の王妃になったら王国がヤバくないか?」というところまで行ってしまうと、これはこれでマズかったろう。逆にものすごく才気煥発かつ正義感抜群の人間に育って、「ハヴェル家のやっていることは間違いです!」と王子に訴えられても困ったことになる。
つまり父は、〈黒の聖女〉だなんだと圧勝ムードを演出し、またその勝ち組ムードを大量の現金という即物的な力で支えていたが、現実的に言えば「私」というかなり不安定な商材一本に絞った先物取引に全張りしていたのだ。
ならばその商材の価値が、父には予期できないタイミングで暴落したら?
これが、私の計画のすべてだ。学園を隠れ蓑にして、大人たちには観測不能な世界で「私」の価値をゆっくりと変動させ、そして婚約破棄という形で崩壊させた。
今頃、父は半狂乱になりながら、ハヴェル派の結束を緩めまいと走り回っていることだろう。だが、それは無理だ。「婚約破棄」というニュースのインパクトは極めて大きく、多くの貴族はなんとなく「運がハヴェル家を見放した」という感覚を抱いたはずだ。
ムードを作って勝ってきた父だからこそ、ムードが敵に回ったが最後、「俺はまだ負けていない、俺にはまだこんなにカネがある」と叫んだところで、聞く耳を持つ者などいるまい。
上部だけの柔和な笑みを浮かべながら、祖父はこう言った。
「今回、お前が払った犠牲により、ハヴェル派からは少なからず離反者が出るだろう」
犠牲。犠牲というほどのものではなかったと思うが、それ以外は祖父も私と同じ読みをしている。だが、祖父の言葉はさらに先へと続いた。
「その機に乗じて、王家がお前の父の容疑を摘発するため動く。
ハヴェル家は取り潰され……息子には重い処罰が課せられるだろうな」
なるほど。王家側でもそこまでお膳立てしていたか。
そういうことなら、王子のアドリブにも納得がいく。
「私には、自分の行動だけで、ここまで上手く事が運んだとは思えないのです。
聞かせて頂けませんか、本当のことを?」
ため息まじりの私の言葉に、祖父は初めて心底柔らかな笑みを見せた。
「オティーリエ。私が思っていた以上に、お前は賢い子だな。
いいだろう。ハヴェル家の真実を、お前に教えるとしよう」
祖父曰く、ハヴェル家は代々、王国を影から守る役割を持った家だったという。謀略・調略・暗殺といった技術を用い、ハヴェル家は王国の内なる敵と戦ってきたのだ。
だが、私の父はその力を自らの欲のために利用した。そして先代である祖父が気づいたときには既に安易に手を出せないほど、強大な組織を作っていたのだ。なるほど、この祖父を出し抜いたのだから、父があれほど手強かったのもの納得できる。
「すべては息子を育て損なった私の失態だ。この国のため、あやつをどうするべきかと悩んでおった。
そんなとき、お前の婚約破棄の企みを聞きつけてな」
どこから? と思ったが、それは聞くべきではない問いだろう。
だから私は、別のことを聞く。
「そこでお祖父様は、私の計画が上手く運ぶよう、いろいろと手はずを整えてくださった……ですよね?」
私の計画が成就したのは、奇跡に近い――というか、完全に奇跡だ。
いくら学園には大人の目が届かないとはいえ、教師たちは学園の空気が変わっていったことに気づいていたはずだ。教師の中に、父に正確な情報提供をしている者がいたら、父は確実に私の計画を潰しただろう。
女学生が一人、うわごとを言いながら私に刃物をつきつけ、それを王子が取り押さえたというのも、上手くできすぎた話だ。あの一幕がなかったら、「王子は完全にエミーリアの味方だ」という空気は覆せなかっただろう。そうなれば父は、学園で何かが起こっているのではないかと本格的に疑ったはずだ。
いや、そもそも。
あの用意周到で慎重極まりない父が、なぜ私という不安定な材料一本に絞った賭けをするに至ったのだろう? 父は賭けをしているつもりで、賭けをさせられていたのでは? だとしたら私の計画は、いったいどこまでが私のものだった?
祖父は少し沈黙を守っていたが、やがて軽やかに笑った。
「その通りだよ。お前の計画に合わせ、ハヴェル派が瓦解するように誘導したのだ。
だが、お前が私たちの期待以上に上手くやったのは事実だ。
それに、ここから先は表側の人間たちが綺麗に処理してくれる。
もうお前はこれ以上、何も気に病む必要はない。私には王国の外にも、親しい友人が多い。お前のような利発な人間は大歓迎だと、彼らは口を揃えて褒め称えておるよ」
そう言うと、この話はこれで終わりだとばかりに、祖父は目を閉じた。
私は何かを言おうとして、ただ、馬車の外を流れる王都の夜景を見ていた。
アンダールス王国の疲弊を象徴するかのように、夜の街を彩る灯りの数はとても少ない。貴族達が住むタウンハウスだけが、闇夜に舞う蛍の群れのように、煌々と輝いている。でもこの風景だって、ゆっくりと変わっていくだろう。この王国に住む皆にとって、良い方向に。
そう。
これで何もかもが、終わったのだ。
エミーリアのことは、きっとエルヴィン王子が守ってくれるだろう。
エルヴィン王子がエミーリアを王妃に迎える可能性だってある。家の格だけで見れば、完全な無理筋でもない。
私は祖父の筋書きに乗り、どこか外国の大学に留学してしばらくほとぼりを冷ましてから、場合によってはその国でしかるべき家柄の男性と結婚することになるだろう。
終わりよければ、すべてよし。祖父の手を借りながら、私はなんとかここにたどり着けた。
……けれどそのとき、私は思い出した。
■
婚約破棄を言い渡された後、荷物を取りに自室に戻った私は、逃がし屋が来るまでの時間を部屋で待つことにした。
この部屋ともこれでお別れかと少し感慨にふけっていると、ドアが乱暴に開かれ、エミーリアが飛び込んできた。すべてを台無しにしかねない彼女の行動に一瞬怒りを感じたが、考えてみればもう婚約破棄は決定済みだ。「婚約破棄を破棄します」なんて話にはなり得ないのだし、ここで私がエミーリアと会っていても、大筋でどこかに破綻が生じたりはしない。
食堂での小芝居が一段落したあと、彼女は脇目もふらずに私の部屋へと走ってきたのだろう。息は荒く、目元は涙でグシャグシャだ。
部屋の入り口で立ち尽くしたまま泣くエミーリアを、私はそっと抱き寄せる。彼女は何度も何かを言おうとしたけれど、何も言葉にできずにいるようだった。私の腕の中で、彼女は迷子の子犬のように泣きじゃくった。
彼女ほどの巨大な才能ともなれば、自分自身で才能を持て余すこともあるのだろう。だからもしかしたら、これからも彼女はずっと迷子であり続けるのかもしれない。あの霧雨の日のように。
でも、あの日と今日とで、違うことがひとつだけある。
彼女は――私たちはもう、負け犬じゃあない。
私たちは、戦った。みんなで、戦ったのだ。
だから私は、腕の中にいる小さくて暖かな彼女に、こう告げた。
「きっとこの国を変えて頂戴ね、エミーリア。
私にはできないことも、賢い貴女ならきっと叶うわ」
エミーリアは何度も頷きながら、泣き続けた。
別れの間際、エミーリアは私の手を取ると、自分の心臓の上にかざした。
手のひらに伝わってくる彼女の鼓動は、どんな言葉よりも雄弁に、彼女の覚悟を語っていた。
■
……そうだ。エミーリアは、この国を変えると誓ってくれた。
これからも戦い続けることを、誓ってくれたのだ。
では、私は?
私がやったことは本来、私たちの力だけで成し遂げられねばならなかったことだ。
今回は結果的に祖父の助けのおかげで、すべてが上手くいったに過ぎない。
私はエミーリアを守ると誓っておきながら、まるで力不足だった。
なのに「何もかもが終わった」「なんとかここにたどり着けた」と、自己満足に浸る始末。
だから私は、祖父に告げる。
「先ほどお祖父様は、ハヴェル家は元々国を影から支える立場だとおっしゃいましたね?
これからは私に、その役目を手伝わせて頂くことはできないでしょうか」
案の定、祖父は渋い顔になった。
「……王国の闇を守る者たちは他にもいる。
お前までこちら側に足を踏み入れる必要はない」
祖父の言葉を、私は途中で遮る。
「お祖父様。
私には守りたいものがあり、そのためならどんな犠牲も払う覚悟がございます。
そしてお祖父様がなされている仕事に、とても魅力を感じております。
どうやら私は骨の髄までハヴェルの人間のようです」
私の訴えを聞いた祖父は、長く息を吐くと、ひとつの条件を口にした。
「お前の父には、貴族の――いや、ハヴェル家の精神を2つまで教えた。
だがハヴェル家の精神は、3つの言葉にまとめられる。
お前はその3つが、すべて言えるか?」
私は少しだけ考え、3つの言葉を口にする。
「1つ、やられたらやり返せ。
2つ、やられる前にやれ。
3つ……負けたら勝つまでやれ」
祖父は天を仰いで、呵々大笑した。老人とは思えない、力のこもった笑い。
「3つめは不正解だな。
正しくは『同じ間違いを繰り返すな』だ。
まったく――血は争えんな。ハヴェル家は時折、お前のような人間を産む。生まれながらにして剣を手にした人間をな」
祖父は手を伸ばし、私の首から下がったブラックオパールに触れると、こう告げた。
「よかろう。我々はお前を同志として歓迎しよう――〈黒の聖女〉よ」
〈黒の聖女〉。それが、今後の私の人生における、私の名前というわけだ。
父たちが私のことをそう触れまわっていたときは、ありがたくもない巫山戯た呼び名だと思っていた。だがこれから先、私が死んだら墓に刻まれる名は〈黒の聖女〉の一言だけになるのだろうと思うと、運命なるものの不思議さを感じる。
でも今は、私の運命なんてどうでもいい。
エミーリア。私は誓いましょう。
貴女が進む光の道を、私は影から守る。
真の〈黒の聖女〉として――。
(あらすじ再掲)
本作は「“悪役”令嬢の婚約破棄、もしくは〈黒の聖女〉顛末記」(https://ncode.syosetu.com/n7544cy/)の別バージョンとなります。登場人物が一部共通しているだけで、原則として別の物語だとお考えください(大事なことだけ言えば、この世界線の王子は「「「紳士」」」なのでヒロインと結婚しません)。
本作は2020/8/25に一迅社様から発売された「悪役令嬢ですが、ヒロインに攻略されてますわ!? アンソロジーコミック」(ISBN978-4-7580-3538-5)掲載作「“悪役”令嬢の婚約破棄、もしくは〈黒の聖女〉顛末記 ~Another Story~」(作画・むらさき様)に向けて作成されました。
コミカライズにあたって修正したプロットをもとに、また、むらさき様の素晴らしい作画を踏まえつつ、改めて独立した短編として書き下ろしたのが本作となります。
この場を借りまして、素敵な漫画を描いて頂いたむらさき様と、様々にご配慮・ご検討頂きました一迅社ゼロサム編集部の皆々様に、深く謝意を表したいと思います。
最後になりますが、コミカライズという貴重な機会を頂けるに至った第一の背景として、読者の皆様の篤いご支援があったことは言うまでもありません。本当にありがとうございました。