少年少女は迷いて進む(2) ―蝉の弔唄―
新しく短編として上げさせていただきますが、この話は作者の前作『少年少女は迷いて進む』から引き続いたものとなっております。物語の舞台や登場人物が前作と重なっておりますので、前作をお読みでない方は是非そちらからご一読ください。
前作『少年少女は迷いて進む』 → https://ncode.syosetu.com/n9472et/
セミの鳴き声をただ騒々しいと思っていた。そんな私がセミの寿命は七日間だと知ったのはたしか三歳か四歳のときだ。誰かに教えてもらったというのは覚えている。それが友達だったか、幼稚園の先生だったか、誰に教えてもらったのかまでは覚えていない。
その話を聞いた私は大声で泣いた。これまでただうるさいと思っていたセミの声がまるで断末魔のような悲痛な叫びに聞こえて、思わず両の耳を塞いでその場にうずくまり、しばらく泣き続けた。
それ以来、セミの鳴き声は苦手なままだ。できることならもう二度とあの声を聞かずに過ごしたい。無茶な願いだということは分かっている。セミの声がどれだけ遠くまで届くのか、私はよく知っている。
私の思いをあざ笑うかのように、今年も、夏が悲鳴を上げる。
*
その日、新川希は日直の仕事のために普段より一時間早く目覚まし時計を鳴らした。新川の暮らす学生寮はあまり生徒数が多くないため、ほとんどの生徒が一人一部屋あたえられている。ルームメイトがいないというのはこういうときに気を遣わなくて済むからいい。
着替えて顔を洗い、さっと髪を整える。髪を短く切りそろえているのは、ひとえに手入れが楽だからだ。可愛いものや綺麗なものは好きだが、そういったおしゃれに時間や手間をかけたくはない。男性的な考え方だとよく言われるが、決してガサツというわけではない。必要以上に時間をかけない、新川の考え方は合理的と呼ぶのが相応しかった。
十五分ほどで身支度を整えた新川は食堂に向かう。いつもは朝食をとる生徒たちでにぎわう学生寮の食堂も、この時間はまだ静まり返っていた。厨房では寮母の福原がひとり朝食の準備をしている。
「おはよう、フクさん」
「あら、おはよう希ちゃん。今朝は早起きね」
「日直なんだよ。仕方なくね」
答えながら、茶碗に軽く一杯のご飯をよそう。朝からたくさん食べるタイプではない。
「おみそ汁は出来てるわよ。鮭も焼きましょうか?」
「いや、みそ汁だけあれば十分だよ。ありがと」
そう言ってお盆を差し出すと、みそ汁と一緒に断ったはずの焼鮭も渡された。
「じゃあその鮭は、お隣さんに持って行ってあげてちょうだい」
「お隣さん?」
改めてテーブルの方に目を向けると、隅の方で黙々と箸を進める知人の姿があった。新川はお盆を持ったまま駆け足で近づく。
「みーみ、おはよう」
「あ、のんちゃん。おはよう。そっか、のんちゃん今日は日直だったもんね」
そうなんだよ、と少し愚痴っぽく言いながら、新川は「みーみ」と呼んだその少女の隣に座って鮭ののった皿を差し出す。
「みーみは、どうしてこんなに早起きなの?」
「えっとね、ピアノの練習をしてるの。音楽室、朝以外はほとんど貸してもらえないから」
「美加ちゃん、最近はほとんど毎日この時間なのよ」
麦茶を持ってきてくれた福原が、二人の会話を聞いていたのか、付け加えるようにそんなことを言う。
「そっか、今年もやるんだね、演奏会」
「うん。のんちゃん、今年も来てくれる?」
「もちろん」
この迷路地町は移住者が極めて少ない町だ。この町の人たちはなかなか外に出たがらないし、逆に外からこの町に移住しようとする人もほとんどいないらしい。そのため迷路地には町の外に親族がいない町民がほとんどなのだが、みーみ、宮下美加はその数少ない例外の一人だった。
宮下の母方の実家は町の外、電車で二時間ほどの場所にある片田舎にあった。毎年お盆の時期になると、宮下はその実家へと帰省している。
宮下には秀でたピアノの才があった。高校に進学して寮暮らしを始めてからはほとんど弾くことがなくなったが以前は家に遊びに行ったときによく弾いてくれたものだ。さらに、帰省をするといつも地元の人たちを集めた演奏会を開いていた。蝉の音リサイタル。その名前の由来を聞いたことはないが、宮下の行うその演奏会にも新川は毎年招待されていた。
「のんちゃん。私、先に行くね」
新川が箸を止めてふと横を見ると、先ほどまで山盛りだった宮下の茶碗の中身がいつの間にか空っぽになっている。渡したばかりの鮭も骨だけを残してきれいに無くなっていた。
「相変わらず食べるの早いねぇ。私はゆっくり食べてから行くよ。また学校でね」
「うん。福原さん、ごちそうさま。いってきます」
福原が厨房から返事をする。そろそろ早い生徒は起き出してくる時間だ。朝食の準備が忙しいのだろう。新川も他の生徒が来る前に残りの食事を片付けた。食べ終えた食器を厨房の方に持っていくと、福原が少し驚いたように新川の方を見る。
「希ちゃん、美加ちゃんといっしょに行かなかったのかい?」
「私食べるの遅いし、それにみーみは夏の間はひとりで学校に行くって決めてるから」
どうして。食器を受け取りながらそう尋ねる福原に、人差し指を立てながら新川が答える。
「私情の詮索なんて、友達のすることじゃないでしょ」
行ってきます。そう言って新川もまだ人影のない食堂をあとにした。
*
その日の夜、新川は宮下の部屋のドアを叩いた。いつもは綺麗に片付いているはずの宮下の部屋に、今日は何枚もの楽譜が散乱していた。さらにデスクの上にはポータブルプレーヤーに刺さったままのイヤホンが乱雑に置かれている。そういえば最近は、イヤホンで何かを聞きながら歩く宮下の姿をよく目にする。
「すごいねぇ。今年は新しい曲もやるつもりなんだ?」
「うん、高校生になったからね。チャレンジだよ。それより、今日はどうしたの?」
「ああ、うん。そのリサイタルのことなんだけどね」
朝食のときに福原には余計な詮索をしないのが友達だと言ったが、友達のことを知らなすぎるというのもいかがなものかと、自分で言ったあとに思ったのだ。だから朝いっしょに登校しようと言うつもりはないが、せめて前々から気になっていた演奏会の名称、蝉の音リサイタルという名前の由来くらいは知りたいと考えたわけだ。
「蝉の音リサイタルの、名前の由来?」
「そう。いくら夏に開くからっていっても、普通ならピアノの演奏をセミの声に例えたりしないだろうって前から気になってたんだよ。なにかセミに思い入れがあったりするのかなって」
思い入れなんて。そう言って宮下は目を伏せる。
「むしろ私はセミの声が大の苦手で。あの鳴き声はなんだか辛そうで苦しそうで、ずっと聞いていて具合が悪くなったことだってあるんだよ?」
それならどうして。新川は思わず聞き返す。それは宮下にとって聞かれたくないことなのかもしれないと感じて、問いかけてから後ろめたい気持ちになる。
しかし新川の心配は杞憂だったようで、宮下は昔を懐かしむように視線を巡らせながら答える。
「セミの声は苦手だけど、同時に憧れたものでもあるの。なにから話せばいいのかな」
私はおばあちゃんにピアノを教わったんだ。話したことあったっけ? 新川が首を振ると、じゃあそこからかなと、宮下はおもむろに話を始めた。
* * *
町の外にある私の実家には、大きなピアノが置いてあった。なんでも祖母が有名なピアニストだったらしく、だから私がピアノに興味を持つのも当然のことだった。ピアノに触るのは楽しかったし、なにより私がピアノを弾いているときの祖母の嬉しそうな顔が好きで、だから私は祖母の家に行ったときは決まってピアノを弾いていた。
すぐに祖母の家でピアノを弾かせてもらうだけでは飽き足りなくなり、小学校に入学すると同時に小さなキーボードを買って貰った。それでもやはり祖母のグランドピアノを弾いているときが一番心地よかった。
ピアノ教室に行こうと考えたことはなかった。祖母は聞けば何でも教えてくれる人だったし、楽譜も簡単なものから難易度の高いものまで祖母の家に山ほどあった。何より、血筋というものなのだろうか、誰に教わらずとも自分の演奏がどんどん上達していくのを感じていた。お盆と正月の年二回、新しく覚えた曲を祖母に聞いてもらうのが私の一番の楽しみだった。
しかし、その楽しみが長く続くことはなかった。小学校三年生の夏、ちょうどお盆前の八月初旬に、祖母が他界したという知らせを受けた。
その年は二週間ほど早く祖母の家を訪ね、目を覚ますことのない祖母の横で、新しく練習してきた曲を演奏した。いつも私の演奏を嬉しそうに笑って聞いていた祖母が、このときだけは笑ってくれなかった。涙は、演奏が終わった後も止めどなく流れた。
数日間なにも考えることができなかった。葬儀には参加したが、そのときのこともよく覚えていない。まるで涙とともに感情のすべてが流れ出てしまったかのようだった。必死に祖母の死を否定したがる頭の中にセミの声だけが絶え間なく響く。そのことがどうしようもなく気持ち悪かった。
これまで毎日弾いていたピアノも、まったく弾かなくなった。私の音は祖母のために在ったのだと改めて気づく。そしてそのことが、両親をもっとも不安にさせた。しかし何を言われようともピアノに触る気にはなれなかった。セミの声だけが変わらず響いている。
*
葬儀から一週間ほどが過ぎたある日、私は家の裏で動かなくなっているセミの死骸を見つけた。セミはたった七日しか生きられないんだよ。昔、誰かから聞いた言葉を思い出す。
死んだセミのすぐ近くで、別のセミが鳴いている。あのセミはいったい誰のために音を奏でているのだろう。それがもしも目の前で息絶えているこのセミのためだったとしたら、それはとても哀しいことだ。
家の中から母の呼ぶ声が聞こえた。それを聞いた瞬間に、セミの寿命を教えてくれたのは母だったのではないかと思い当たった。あのときの声を思い出したわけではないが、きっとそうだったように思う。だから家に戻った私は、台所に立つ母に聞いてみた。
「お母さん、セミは七日で死んじゃうんでしょ」
突然の質問に少し戸惑いながら、母は首を縦に振った。
「仲間はすぐに死んじゃうのに、どうしてセミは鳴くのかな? 死んだセミには、声なんて届かないのに」
意図的にこの問いをぶつけたわけではなかった。しかし私は、無意識のうちにセミの声と自分のピアノの音を同一視していたのだと思う。届けたい相手に届かない、哀しい音として。そのことを悟った母は言う。
「それでも、聞いてほしいんだよ。セミの声は大きくてよく響くから、あるいは天国まで届くのかもしれない」
「天国まで……」
「美加も届けてみる? あなたの音を、天国まで」
「できるの?」
「きっと。明日準備をしましょう」
母はそう言うと、狐色に揚がったコロッケを油の中からすくい出した。
*
翌日、目を覚ました私が見たのは、家の庭に出された祖母のグランドピアノだった。驚いて着替えもそうそうに庭に出ると、ピアノの傍には母の姿があった。
「お母さん。どうしたの、これ」
「お父さんにも手伝ってもらって外に出したのよ。空の向こうまで音を届けるのに、天井は邪魔でしょう?」
青空の下でピアノを弾けば、祖母はまた笑ってくれるのだろうか。それは知りようもなかったが、見上げた深い青の先に祖母の顔が見えたような気がして、だから私はもう一度弾くことを決めた。
昼間は暑いしセミの声が邪魔をするからという理由で、朝と夕方に庭でピアノを弾いた。今思えば、近所の家から一切の苦情が出なかったのは両親の計らいだったのだろう。そもそも両親だけであの大きなグランドピアノを運び出せるとも思えない。知らないところで知らない人に、たくさん支えられていた。
そうやって一週間演奏を続けた。夕方の赤みがかった空は頬を赤らめて笑う祖母の顔を連想させた。なんだか本当に祖母のもとに音が届いているように思えて、私はそのことにとても救われた。
ただ一つ迂闊だったとすれば、私たち家族は天気予報というものを信頼しきっていた。夏の夕立は天気予報を見ても分からない。空の下でピアノを弾き始めてちょうど一週間が経った七日目の夕方、私とピアノに突然の豪雨が襲いかかった。
もちろん私と両親だけで重いピアノが動かせるはずもなく、慌ててブルーシートを被せたころにはもうずいぶんと濡れてしまっていた。
無事であってくれと願っていたが、翌日の朝には掠れた音しか出なくなってしまっていた。まさにセミさながら、祖母のグランドピアノは外に出てからたった七日でその命を終えることとなった。
* * *
「だからこれは、私なりの弔いなの。死んだおばあちゃんと、おばあちゃんのピアノを弔うための演奏会」
「それで毎年、家の庭で弾いていたんだ」
蝉の音リサイタルは、青空の下で行われるキーボードの独奏だ。その名と形式に込められた願いは、空の向こう、遥かなる天の国まで自分の音が届くように。宮下美加は、大きく響くセミの音に憧れた。
「今や近所の人も大勢集まるお盆の恒例行事じゃない。亡くなったおばあちゃんのためだったなんて、思いもしなかったよ」
「毎年懲りずにやっていたからね。最初は迷惑じゃないかって心配だったけど、今はずいぶんやりやすくなったよ」
「でも、それならどうして、ただの友人である私を招待してくれるの?」
新川は尋ねる。宮下が死んだ祖母のために行う演奏会なら、そこに新川は居なくてもいい。
「ちょっと自慢したかったんだよ。あれからも私は楽しくやっているんだよって。私の演奏を聞きに来てくれる友達もいるんだよって」
友達と言ってくれた宮下に、新川は少しだけ罪悪感を覚えた。やはり友達のことはよく知るべきだ。宮下がピアノを弾く理由すら知らなかった。それは果たして友と呼べるのか。
「なんか、ごめんね。私ったら何も知らなくて」
「どうしてのんちゃんが謝るの。聞いてもらえてよかったよ、ありがとう」
宮下は笑って答えた。なんだかちぐはぐだ。本当なら礼を言うのは、私の役目であるはずなのに。それなのに宮下は、それが当然というふうにいつも通りの笑顔でいる。
「私も、話を聞けてよかったよ。とてもすっきりした」
すべてを包み隠さず話してくれた宮下に対して、私も本心を伝えるべきなのだろう。しかし今の言葉にはちょっぴりの嘘が含まれている。確かに新川は知りたかったことを知ることができたし、それによって宮下美加という少女についてもより深く知ることができた。そのはずなのにまだ何かが胸につかえている感じがするのだ。だから新川は一つ提案を持ちかけた。
「ねえ、みーみ。今年のリサイタルに、私の友達をもう一人呼んでもいいかな」
あの探偵のような少年であれば、もしかしたら私の胸のつかえを綺麗に取り去ってくれるかもしれない。
*
リサイタルの当日、新川は自分の寮を出て男子寮へと向かった。そこで卯月悠斗と落ち合うことになっていた。この町に来て半年足らずの悠斗は駅までの道を覚えていないだろうと思って、迎えに行くことにしたのだ。
男子寮に到着すると、すでに門の前に悠斗の姿があった。
「おはよう」
「おはよう」
簡単なあいさつを交わして歩き出す。この町唯一の駅がある商業区は私たちが住む居住地区から少し離れた場所にある。悠長に立ち止まって話している時間がないことはお互いに理解していた。
歩き始めてしばらく経ってから、悠斗がおもむろに口を開く。
「それにしても、宮下がピアノを弾くなんて知らなかったよ」
「学校では弾いていないからね。実はとても上手なんだよ」
「それに何なんだ、その蝉の音リサイタルっていうのは。宮下はセミの声が嫌いなんじゃないのか?」
思わず足を止めてしまった。悠斗と宮下が二人で話している場面に遭遇したことはないし、そこまで親しいとは思えない。
「どうして知ってるの? みーみがセミの声嫌いだって」
「だって最近ずっとイヤホンをつけているじゃないか。ちょうどセミが鳴き始めたころから。登下校のときだけならまだしも、移動教室のたびにイヤホンをつけるなんてちょっと異常だろ? だから、よっぽど耳障りな音でもあるのかなって思ったんだよ」
どこにいても聞こえるような耳障りな音と言えば、この季節はセミの声くらいしか思いつかないから。悠斗の丁寧な説明は途中から聞いていなかった。胸のつかえが一気に取れた。
イヤホン。
そうだ。私が気になっていたのは、どうして夏になると宮下は一人で学校に行くのか、ということだった。これまでは気にも留めていなかったが、この前の夜にヒントを得て、それで気になってしまったのだ。
セミの声に憧れた宮下は、しかしセミの声が嫌いなことに変わりはないのだろう。それを聞かなくても済むようにイヤホンをつけて。しかしイヤホンは同時に隣を歩く人の声まで消してしまうから、だから気を遣って友達とは距離を置くようにしたのだ。
隣に立つ悠斗の方に目を向ける。本当に解決してくれた。しかも意図せずに、というのだから驚きだ。探偵ではなく魔法使いと言った方が近いのかもしれない。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
新川は大きく頭を振って歩き出す。揺れた髪の一本一本が、夏の日差しを受けて光り輝く。
これから私は、みーみと一緒に学校へ行こう。みーみが耳を塞いでいても、黙って肩を並べていよう。きっとそれが、本当の友達だと思うから。