Scene 7 そして、新たな「日常」のはじまり
「おかえりー。遅かったじゃん」
大丈夫? と決まり文句で訊くと、彼はだいたい決まり文句でこう答える。
「あー、もうダメだぁ」
あ、いつもより「あー」分だけ多い。
ほんとに大丈夫だろうか。
顔色も悪い。
これはいけないかも。
ゆっくりケアしてやる必要がありそうだ。
ちなみに、時系列で言うと、今はまさに「現在」。リアルタイムです。
結局、なんだかんだ言って私、滝野浦邸に居ついてしまっているのです。
「居候」ではなく、「ルームメイト」ってところかな。
会社的には物議を醸すかもしれないなぁとお互い言いながら、私が引っ越しをし、嘘偽りのなくちゃんと住所変更の届出を行った。
さすがに、語り草になるかな、とは思っていた。
事実、裕子あたりからは冷やかされもしたし、直ちゃんからはちょっと羨ましがられた? けれど(本当にそうか?)、嫉妬とか羨望とかいうのではなく、ただ「ふーん、そうなったんだねー」という程度のノリだった。
正直何もなさすぎて驚いたくらいだった。
オトナなのです。みんな。
さて、少し時間は戻ります。
もうかれこれ九か月も前になるけれど、私がこのお家によんどころない事情からお邪魔することになり、一〇日余りが経った日。彼が異常なほどの激戦だったらしい名古屋から、戻ってきた日。
私は、柄にもなく手料理でもって彼を迎えてやろう、と思っていた。が、これがなかなか帰って来ない。
予定は聞いていたので、ご飯は食べて来ないだろう、と思っていたら、八時をすぎ、会社にでも寄っているのだろうと思っていたら九時をすぎ。
電話をかけても出ない。留守電になるだけ。
さすがに心配になった。
だんだん不安が大きくなり、入れ違いも覚悟で外へ。
エントランスから少し歩き、路地に入ったところで私が見たのものは――。
壁に肩から寄り掛かり、かろうじて立っている男性。下を向き、せきこんでいる、というか、吐くのを我慢しているというか。
急いで駆け寄る。
そこにあったのは、酷くやつれたような、土気色の顔色をした彼の姿だった。
だ、大丈夫なの? とこっちがテンパってしまうくらい。
だけど、次の彼の言葉が、私を酷く、冷静にした。
「いつものことだから。もうあと一〇分くらいで、動けるようになるから」
即座に察した。
吐きそうになっていたのではない。
吐くものもなかったのだ。
限界、だったのだ。
すごい人だ、化け物じみた有能さだ、と思っていたけれど。
あの事件の時の蒼白な顔は、事件のそれだけではなかったのだ。
とりあえず、肩を貸して彼の寝室へ。
結局私は好奇心に打ち勝ち、一〇日間、彼の部屋ともう一つの部屋に入ることはなかった。彼に対する背信だ、ということもあったけれど、それ以上に――怖かったのだ、と今は思う。
だからこのときが初めて。
酷い熱が出ているようだったが、顔面は蒼白である。
吐くものがなかった、ということは、単純に食べることができなかったか、食べる気力すらもなかったか。
救急車を呼ぼうかと思ったが、「いつものこと」という彼の言葉が引っ掛かり、とりあえずやめた。
彼をベッドに寝かしつける。
シングルベッドだな、と思ったのは後のことで、とにかくそのときは私も必死だった。
冷蔵庫は漁っていたから、アイスノンがあることは知っていた。すぐに用意する。
あとは――。
「ちょっと待ってて、すぐ戻ってくるから」
私は財布を持ち、ダッシュで外へと繰り出した。
栄養補助食品の液体版、ゼリー版、固形版と、水分補給用のスポーツドリンク二リットルを二本。重いなんて言っていられない。
必死だった。
いくら有能でも――。
私の頭の中はそんなことばっかりで、でも意外にも冷静さは失わなかった。
すぐに取って返し、彼の家へ。
すると、彼がベッドから起きようとしているところに遭遇。
さすがにちょっと頭にきた。
「何やってるのよっ!」
彼がビクっと反応。
いつもの彼からは考えられないような表情。いや、そろそろ起きれるかな、と思って――とおどおどと言う。
カチン。
「ダメ! 絶対ダメ! とにかく寝てなきゃ」
急いで台所へ行き、コップをとって寝室へ。
スポーツドリンクをつぎ、飲ませる。飲み始めるまでに多少の逡巡があったようだが、飲み始めると、驚くほどガブガブと。
息が上がっている。
これはいけない――。
やっぱり救急車を呼ぼう――そう思ってと訊いてみたが、訊き方が悪かったのだろう。必要ない、との答え。
いつものことだから――。
彼はまた、そう言った。
こんな――こんなのがいつものことって、いったい何よっ!?
そう叫びたい気持ちをぐっと抑え、彼の看病──というより監視――を続けた。
その甲斐あってか、しばらくして、彼が寝息を立て始めた。
呼吸は荒いけれど、何とか寝てくれたようだ。でも、油断はできない。
明日仕事だけど、これは仕方ない。
私は、夜を徹して彼の看病をすることに決めた。
案の定というか、彼は三時頃、一度起きた。
顔はまだ青いまま。
ただ、多少はマシになった感じだった。
まだボーっとしている彼に、栄養補助食品の液体版を二缶続けて渡す。簡単に飲み干す。あとで判ったことだが、疲労とともに水絶ちの状態だったのだ。これは倒れる。
再び寝かしつける。
まったく手のかかる――。
でも――。
そんな彼が、私にはより一層なんとなく――愛おしく、というと違う気がする。そう、「放っておけない」──そう思えたのだった。
私が例の暴漢に襲われた次の日とは逆さまに、彼がまだ寝ている状態のまま、私は彼の家を出、出勤の途へ。
彼とは違い、彼の寝室のドアの内側にでっかい貼り紙。
「絶対出勤・外出禁止! とにかく休みなさい!」
会社内の地位で言えばはるか上の人間に対する言葉ではないが、とりあえず年齢だけは私の方が上なのだからこのぐらいはいいだろう。
そしてリビングにも置き手紙。それとおかゆ──というか軽めの雑炊も用意しておいた。
前の会社では、過労死の具体的な話を聞いたのは、一度や二度ではなかった。もちろん、他社での事例を含めてだが、自社での事例もあった。
彼の場合、一般的な過労、という表現がそのままあてはまるとは限らないところが一筋縄ではいかない、と思った。残業時間は月百時間までは行ってないと思うし。
だが、長時間労働──によらないうつ病などの精神疾患による休職、退職についての事例も、私はそれなりの数、具体例を聞いた経験があった。顔見知りの社員にはそういう人はほとんどいなかったけれど、実際にそういうのが起きると、その人も大変だけれど、その所属部署や周囲にもいろんな意味でのダメージがいくのは、末端の私でもはっきり判るくらいだった。
彼は、少なくとも会社にとっては、絶対に履きつぶしてはいけない人だ。ここで倒れられては私も含めてみんな困る――。
そういう書き方の置き手紙を残しておいた。
彼の場合、こういう書き方の方が効果があると思ったから。
せめて「私も」という単語を入れるのが精一杯。
……ちょっとため息。
でも――とにかく、彼の体調は心配だった。
そこを何とかしなければ──。
このときは、もうそれしか考えていなかった。
彼が出勤して来ないことについて騒ぎになり始めたのは正午を回ってからだった。
これはちょっぴり、私には意外だった。
彼ほどの人間が無断欠勤しているのに――そう思ったのも束の間、ああそうか、と納得する事由発見。
取締役──役員なんだ、彼は。
改めて、彼の遠さを感じる。そもそも、なんとなく私が近くに感じ始めていただけ。ただそれだけなんだな――そう思うと、胸が少し締め付けられる。
……お前は少女か!?
まったく年甲斐もない。
しかし、それにしても。
まだ起きていないのだろうか?
少なくとも、周りが騒ぎ出しつつある、ということは、休暇の連絡が未だ入っていないのだろう。
鼓動が速くなった。
何か悪いことが起きてなければいいけど――。
会社から彼の家まで、タクシーを使えば一〇分かからないはず。
仕事の状況も、今はとても落ち着いている。少なくとも、明日までに絶対やらなければならないことは、たぶん、ない。
私は、上野さんに体調がちょっと悪いので早退したい、と申し出た。仮病だったので後ろめたい気持ちもあったが、「いいよー。今日なんかやっとくことある?」とのありがたいお言葉。
ところが次に続いた言葉が、私には意外だった。
「今朝から顔色悪そうだな、と思ってたんだ。事件とかいろいろあったんだし、疲れてるんなら、こういう時期をうまく使って休むといいよ。みんな解っているから」
最後の囁きの一言が気になった。
嬉しい──はすなんだけど、なんか──。
でも今はそんな場合じゃない。
急いで彼の家へ。
不安からか、とにかく鼓動が速い。そのままオートロックを抜ける。
焦るな――。
自分にそう言い聞かせる。看病する、あるいは監視する者の方が慌てていてどうする。
深呼吸して、チャイムを押す。
返答は、ない。
背中を冷や汗が伝う。
鍵を開け、ドアを開ける。
……普通に開いた。
玄関に躍り込むと、彼の声が聞こえた。
よかった――。
心から、そう思った。
ゆっくりとリビングへ向かう。電話をしているようだ。
「じゃ、すみませんが、ちょっと明日も。ええ、よろしくお願いします。失礼します」
彼の姿──。
まだ顔は青いし、クマが消えていないけれど、昨夜にくらべれば幾分マシだった。
「あれ、どうしたの? こんな時間に」
どうしたの? じゃないよ!――。
なぜか、私の目には涙が溢れ、どうしてもそれを、止めることができなかった。
……で、再び現在です。
もともと4LDKの間取り。最初は書庫に泊まらせてもらっていたけど、そことは違う、もう一つの部屋に、今は住まわせてもらっています。
私が好奇心と不安? を抑え込んで見ることのなかったその部屋には――ほとんど、実に、なーんにもありませんでした。
私の妄想上では、例えば前カノの遺留品があったりとか、そういうのかと思っていたけれど、そこにあったのは、日用品物資のストックと古着ばかりが入った衣類用のケースと、使っていない組み立て式の机と折りたたみの椅子だけ。
捨てるのが面倒だったんだよ、と彼。
古着も男物ばかり。
これほどの人が、女っ気ゼロ。
この事実に、さすがに私は少なからず驚きました。
で、今、一緒に住んでいるのです。
さっきも言ったけれど、もう九か月。
立場は――正直よく判りません。
ただ、仕事上はただの同僚──というか部下のうちの一人にすぎません。二人きりで組むことは、彼との場合はありません。でもそれは、彼が常に規模の大きいプロジェクトに関わるからで、私に限ったことではありません。
じゃあ、プライベートは? というと、まあ、説明はし難いのだけれど、私自身は勝手にこう思っています。
『プライベート・マネージャー』
ちょっと無理をしすぎるきらいのある彼。
どちらかと言えば、肉体よりも精神的に負荷のくる仕事である。
組織の皮を被ると、あるいは虎の威を借りると、人は化けるものだ。
そうした有象無象を、いろいろな角度から相手にするのが彼の仕事だった。
私の見てきた範囲では、間違いなく、ウチの会社で最も過酷に働いている人──。
その彼を、食事面や家事面でフォローする。
疲れが見え始めたらそれを指摘し、仕事を抱え込みすぎないよう注意、警告し、ときには半ば強制的に休ませる。
最初はお互い遠慮していたけれど、ケンカになったこともある。そこで一歩も引かなかったら、翌日、彼のプロジェクトに一人、追加が入ることになったことも。
逆に、私の仕事が忙しい時は、彼の方が家事面でフォローしてくれたりもする。
彼の方も、元々長く一人暮らしなので、一通り何でもできたし──。
……いや、やっぱ言い直したい。
『パートナー』
やっぱりこうでありたいのです。
持ちつ持たれつ――というには、金銭的な意味も含めると私の方が得る物が多いような気はするのだけれど、それでもまあ、そんな関係なのです。
家賃払ってない代わりに、自炊の食費は二人分でも可能な限り私持ち。外食や弁当の場合は各々負担。……まあ、買ってきた方がそのまま払いっぱなしなだけ、ってだけなんだけどね。
せっかく二人なんだから――と、日々、出来るだけ自炊モードに、と努力しています。
実際には、彼の帰宅時間は遅くはなくて。
拘束時間は全体的に短めなのです。ウチの会社は。
しかもこの家の場合、三〇分以内で帰って来れるのだからまぁ、最初から割と恵まれてはいるのだが、平均すると八時前後には帰宅していることが多い。
もっとも、そこから仕事をしていることも少なくはなくて。
休日出勤も少なくはないけれど、それは結構二時間だけとか、限定的にできることが多いよう。
裁量が広く認められる役員なのだから、それ故の過重な労働がある一方で、遅刻や早退も思うがまま。
同居して初めに手をつけたのがここだった。
休む時は休め、と。
外観的にはそれほど多忙、というわけではなさそうだったが、同居して初めて、実情が判った。
「あのさあ、ちょっと提案があるんだけど、いいかな?」
彼は私の提案に目を丸くし、さすがに最初は戸惑いを隠さなかったけれど、最終的にはその日のうちに、承諾してくれた。
最初は「一か月様子を見ようよ」というところからのスタートだったけれど、彼にとっても必ずしも悪い条件ばっかりではないはず。そう信じて、少々強引に行ってみた。でも、そういう判断は、彼の方にもきっと働いたんだと思う。……それはそれで、なんだかそこはかとなくカナシイ感じも? ……いやいやそれは考えまい。
そして本格的に一緒に住んでみて、はっきり判ったこと。それは、彼の不調やその兆候が、意外と行動に出ること。
胃腸を壊したり、飲みものをがぶ飲みしたり、トイレが近くなったり、階段を手摺を使って上がったり――。
そんな彼をさりげなくケアするのが、私のもう一つの仕事――なわけ。
……随分と勝手な言い分なんだけれどね。
…………まあ、言い方によっては、「便利な女」状態でもあるのかもしれないけどね。
一緒に暮らしてて気づいたことがもう一つ。
生活必需品を除いて、この家には新しいものがほとんどなかった。
テレビは新しいもののようだったが、大画面を活かすべきブルーレイプレーヤーがなく、古いDVDプレーヤーが一台あっただけ。それどころか、この家にはテレビ欄がなかった。
新聞はおろか、テレビ雑誌もない。テレビ雑誌どころか、雑誌の類がそもそもない――いや、あるにはあったが、あったのは、何年も前のタイムスタンプのあるものだけ。
そして、お母さんの遺品の類も――ない。
彼の心の中に吹き荒れる嵐が、垣間見えた気がした。
話は変わるが、彼の持っているCDのラインナップを見ていたら、趣向が少し、判った。
例えば、榊未来さん。
彼女については、ファンだった友人がいたので、彼女を通じて名前と概略は知っていた。
その友人は非常に真面目で内気な女性だった。
女性アーティスト──じゃない、彼女の場合は「シンガーソングライター」あるいは「ミュージシャン」と呼ばなければならないらしい──だが、女性ファンの方が多いことで知られている人物で、確か三つ四つ年上のはずだが、デビュー当初からセルフプロデュースのシンガーソングライターとして活動しており、今でも――というよりはすでにベテランの域に入っている今の方が昔より名前を聞くような気がする、珍しいタイプだ。
改めてネットで調べてみると。
二〇歳のとき、大学在学中にメジャーデビュー。
つまり私たちが中高生ぐらいのとき。
彼の持つCDの中にはデビュー盤もある。しかも初期ロットのようだ。
つまりこれは、かなり早い段階から彼女のファンだった、ということである。
彼女はライブ──というか、演奏技術というか、そうした一瞬の、そのときどきの「実力」で芸術を語れるアーティスト──であると、ネットの評論家氏は言っていた。しかし、自らを「アーティスト」と呼ぶことを許さず、「職人」として扱う、扱われることにこだわっているという、ちょっと気難しい感じの人物でもあるという。
その評価の中では、高名なフュージョンバンドのギタリストが、女性の六弦のギタリスト、特にエレキギター奏者としては、日本では、実力が頭一つ抜けてトップだろう、と評価しているとのこと。
実際、彼女のデビュー一〇周年時にリリースしたアルバムは、なんと歌唱のないフュージョン一色のアルバムで、ファンの間では物議を醸したそうだ。
が、そのアルバムは、彼の部屋にはなかった。というか、彼女のアルバムはちょうど一年に一枚のペースで、これまでに通算一七枚出ているのだが、この家には、ファーストから順に八枚しかなかった。つまり九年間分、空白になっているのだ。
これは――と思い、新しめの作品をネットで探すと、一五周年記念ライブブルーレイ&DVDが出ていた。
これだ――。
来月、彼の誕生日がある。ブルーレイプレーヤーなら、私が持ち込んだものがある。
これをぶつけてやろう──そう思って、実際にぶつけてみたら、これが思いのほか喜んでくれた。
ちょっと嫉妬するぐらい。
榊さん、え? これが年上? なんとまあ――。
……いやいや、そんなことはいい。
彼の喜びようは本当にすごくて、こっちが戸惑うほどだったが、繰り返し何度も見た。
一緒に──見た。
そのあとも、適当に見繕っては、いろいろな動画を見た。
主に世界遺産や海、山野などを撮影したヒーリング系のビデオが好評だった。
ドラマや映画はあまり趣味じゃないらしい。
でも──そう。
何でもいい。
何でもいいのだ。
彼の時間が、少しでも前に、動き出すのなら──。
最近は、いつのまにかブルーレイディスクが増え、マイナーだけれども雰囲気重視な邦画なんかも見たりもするようになってたり。そういうときは、当然のように、ソファの彼の隣りに座ることにしています。
でもそれだけ。
以前、勇気を出して彼の肩に頭を載せてみたことがある。
当然、腕と腕とが密着。
彼から、緊張が伝わってきて。
それによってこちらも一瞬、緊張。
でも、すぐに自然に。
甘えたくてこうしたいんじゃない。ただ寄り添っていたい――それだけなのだ。
その心が通じたのか、割とすぐに、彼の体から緊張が抜ける。
以後、私は、安心して彼に、体を預けるようになって──。
そして――。
そして。
……そして?
──。
────
………………。
……別に。何にもありません。
そりゃあもうええ。
『パートナー』、ですから?
……なぜに疑問系? とのツッコミはなしにして、仕事に慣れたせいもあってかそうでもないのか(いつか直ちゃんに何か言われた気がするのだが……)、私の方も忙しくなることが増えてきてて、出張も結構あるのです。当初とは逆に、彼にサポートされる機会も増えてきたのが実態です。
うわー、役に立たねえ女。
さすがに申し訳ないと、そんなふうに思ったこともありますが。
でも、そんな心中を読んだのか、彼は先んじて、私にこう言ってくれましたとさ。
「キミがいなかったら、俺はたぶん、とうに倒れてたと思う。それがさ、最近すごく調子がいいんだ。だからキミは、俺にとっては大恩人なんだぜ」
なんか負担が軽くなってる気もするしな──と彼は笑ってくれました。
その言葉に、私はどれだけ救われただろう。
私にとっては、彼は間違いなく恩人だ。
実際、あの事件のときに彼が助けてくれなかったら、そもそもどうなっていたか。
その後も、居候を許してくれたし。
……いや、そういうのじゃない。
そう。
ただそう──楽しいのだ。
仕事も、プライベートも。
ただひたすら、毎日が。
それも割と、純粋に。
いやぁそれはもう嬉しいのです。
ただひたすらに、毎日が──。
言い方軽い?
でも、この気持ち、誰にでも伝わるような言葉には、きっと出来ないのだよ、ワトソン君。
まさに、「筆舌に尽くしがたい」。
後ろを安心して任せられるし、後ろを自然に守ろうと思える――お互いがそう思っている──そんな関係になれたらと、私はそう思っています。
支えてあげたい、そして支えてもらいたい。
そんな関係に──。
◇ ◆
非凡なことを求めていた。
普通じゃないことを求めていた。
普通じゃ飽き足らない。そんなふうに、私は自分を高く見積もって生きてきた。
それがいつの間にか、こんなふうに実現してた。
友人に会うと、一様に首を傾げられる。
外形的には「同棲」だもんね。そりゃそうか。
でも、実態は公私にわたる「パートナー」であり、仲間であるだけ。
同志、戦友……言い方はきっといろいろあるけれど、長年連れ添った夫婦のようでもある。
ただ、一緒に生活しているだけ。
一応寄り添ってはいるから、それはそれでそれなりに。
たま~に、いろいろなことがあったりなかったり。
些細なことが、あったりなかったりすることが、なぜか心から、嬉しいと感じる。
仕事は大変なこともあるけれど面白いし、自分も前にちゃんと進めている気がする。
私生活の方も充実していて、毎日が楽しいと感じている。
以前の自分に比べると、明らかに頭がクリアになっていて、ちょっとしたことでも笑うことができる。
集中力が増し、一日に処理できる情報量が上がっている気がする。
集中していると、時間が経つのが遅く感じ、短時間でいろいろなことをできる反面、一日があっという間にすぎる、という感覚もしっかりあって。
何事にも頑張れるし、逆に意識して手を抜くこともできて。
あまり何も考えていなかったと今にしては思える中学生や高校生のときに、部分的に戻っているかのよう──。
「友達離婚」だとか、「セックスレス夫婦」だとかが珍しいこととして語られなくなってきたこのご時世。
まだ若い中小企業で、目に見える形で仕事の成果突きつけられる会社員生活。
起業する、っていうのも面白いかも、とさえ思うようになってたり。
新鮮なこと、新しい発見が多すぎて、本当にいいのかな? なんてふと思うことがあるくらい。
それでも、まあ、何でもアリで、いいんじゃない? と思う私が今、ここに、います。
いいの? それで――。
友人のそんな疑問に、私、なんて答えたっけか?
確か、「いいんじゃないの?」って疑問形で答えたような気がする。
あんまり、そういう評価とかはどうでもいい。
何か超越してしまった感じ。
それがさらに、友人の怪訝な表情を呼び出した――のだけれども。
でももし――。
友人が「幸せ?」と訊いてくれていたら、答えはきっと簡単だった。
「うん」
「Yes」でも「Oui」でもOK。
この一言だけ。
あ、もう一つあるな。
もし「彼のことをどう思ってる?」と訊いてきたら――「パートナー」だな、これは。
ううむ、イマイチな感じ。
じゃあもし、「彼のことを愛してる?」と訊いてきたら――。
答えは、出てる。
単純なこと。
私は彼に、「幸せになってほしい」と、そう心から思っています。
彼がもし、誰か素敵な女性を見つけて――一応、私以上の、という条件は付けたいけれど、それが何においてか、って言われると表現のしようもないな――私の「居候」が不可になったとしても、何だろう、素直に祝福できそうな気が、確かにするのです。
嘘みたいだけれど、でもそんな気が――するのです。
親子のそれなのか、兄弟姉妹のそれなのか。
恋人のそれなのか、夫婦のそれなのか――。
この世には、一般的に広く認識されているものだけでもたくさんの感情を、まとめてしまう乱暴な言葉があります。
でも、その言葉の意味の範疇に入るであろう感情を、私も彼に、たぶん抱きつつあると思います。すっかり情が──ごにょごにょごにょ。
でも、友人に、そんなふうに答える自分が、割と容易に想像できます。
そして、そんな私を、今の私は――とても誇らしく思います。
寄りかかりたい。
寄りかかられたい。
……ううん、ちょっと違う。
見守っていたい。
見守られていたい。
「愛」なんて、きっと、そんなものなんだと思います。
人それぞれ。
私の場合は、自分が自分であればいい。
彼の場合も、きちんと彼であれば、それでいい。
自分が納得していて、「パートナー」も納得しているのなら、他人の目なんて気にする必要なんてない。
いいじゃん、それで。
なんちゃって。
一度は砕けて、目の前が真っ暗になるほど失った自信を、元々持っていたのとは別の形で復活させることができた。
もちろん私の、自分なりの必死の努力でつかみ取ったものでもあるし、環境のおかげもあったが、双方の意味で彼のおかげで手に入ったものでもある。
自分がこんなに世話を焼くのが好きな人間だったとはまったく思っていなかったし、人に寄りかかるのがこんなに心地良いことであることも知らなかった。
知らないことが思いのほかたくさんあることを知ったし、いろいろな人生があるんだ、ということも、いろいろな仕事があるんだ、っていうことも、今の仕事と彼との生活の中で認知することができた。
毎日こなさなければならない家事ですら楽しいし、自分がつくった料理も彼がつくった料理も美味しい。外食でいろいろなお店に行っても、今までにないくらい得るものがある。
自分の視野が、圧倒的に広がったことを、今、はっきりと感じてる。
そして感じる、本当の「私」──。
「あー、残しちゃだめだよー。ちゃんと計算して作ってるからさ、全部食べなさい」
朝は食事をとらないことも多かったらしい、苦笑いの彼。でも、優しい笑み。
ちゃんと、しっかりした朝ご飯を食べるようになってくれた。
きちんとした食事に、できるだけ規則正しい生活。彼の職責上完全な達成は難しいが、できるだけそれに近づける。それが今の私の大きな目標だ。
まだ今も手探りの段階だけれど、仕事一辺倒じゃなくて、いろいろなことにチャレンジして、彼も今の生活を、まあ概ね楽しんでいる──と思う。休日はちゃんと休むようになったし。
前はよくやっていた、土日の短時間だけでも会社に顔を出す──ということも極力しなくなり、オン・オフのメリハリを付けられるようになってきたし。
それが仕事にも良い影響として出ていて、「厳しさ」と「成果」による「結果」だけでゴリ押ししていた感じから抜け出して、これまでとは質の違う柔和さを手に入れ、お客さんからの評価が目に見えて上がっているし。
これまでもすごい人ではあったのだけれど、安定的かつソフトに、堅実に成果を上げることができ、また、後輩たちに成果を上げさせることが、より一層できるようになりつつあるし。
ピンと張り詰めた感じは、局面によってはさすがに出ることがあるけれど──普段は基本的になりを潜め、上司としても、同僚、戦友としても頼もしく、尊敬できる人物──と胸を張って言える。
彼の方も、前に進んでいる。
そんな手応えを感じて、内心ガッツポーズをとりまくっている、最近のワタクシです。
これも一つの、「愛」のカタチかな? ――なんて思う、今日この頃。
成川琴乃、今日も元気です!
─ 了 ─
拙著「こういうこともあるんだって、思った」を、ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作は、終始一貫、主人公の成川琴乃の一人称視点で進みます。ですので、Scene 1には名前も出てこないし、琴乃本人の容姿──背格好や髪型についても言及がありません。どんな人なのか、作者も野次馬的に興味があります(笑)。
皆さんにとって、琴乃はどんな人物だったでしょうか?
お母さんみたいだった?
それとも、世話焼きな姉御肌?
やっぱりなんだかんだ言いながら、エリートっぽかったでしょうか?
私はなんだか、不完全だからこそのカッコ良さを持った人かなぁ、と感じました。
作者がそんなことを言ってどうする? って思いますか?
別にいいじゃないですか(笑)。
先行していた「ふたつ、ください」と「ハイタッチ」も絡めた真の「あとがき」は、もし万が一ご興味がありましたら、こちらのブログをご覧いただければ幸いです。
http://studiomic.blog.fc2.com/blog-entry-442.html
それでもちょっと長いあとがきになってしまいましたが、お付き合いいただき、誠にありがとうございました。
また機会がありましたらば、お会いくださると嬉しいです。。。
笹木道耶