Scene 5 やってきた非日常
緊急プロジェクトは、準備の約一か月にプラス本番二週間、それにプラスした事後処理もすっかり無事に終わり、滝野浦さんを中心としたチームは解散した。
そのあと私は二度、中規模のプロジェクトに関わった。
一度目はスポット的に、二度目は最初から最後まで約二か月。いずれも補助中心だったが、二度目の中盤以降では単独でクライアントと交渉するような場面、協力依頼のためドサ回りのように挨拶にまわりまくるような場面も経験した。
少しずつ失敗もしながら、だけど、周囲の協力も得ながら、なんとか致命的なことは起こさず、それなりに貢献することができてきていると、少し、思えるようになってきた。
そんな頃。
私は森川さんと組み、小規模の婦人団体の「お固い系」のイベントを担当することになった。
リーダーは形式上は私。明らかに年上だから。
でも、実力と経験は森川さんが上。私ははっきりとそう言って、上司になったつもりでいろいろ指示してくれ、と彼女に持ちかけた。
はぁ……と、ため息の森川さん。
「本当に『申し子』なんですねぇ、琴乃さんは」
そう言って、ちゃんと仕事ができて、他人の足を引っ張らなければ、ホント何でもありなんですよねこの会社――と彼女は笑った。
実力・成果主義。
しかしだからこそ、チームワークが良い。
アリエスクラフトでは、他人の足を引っ張ることは何の足しにもならないどころかマイナスになることを、みんな感情レベルから理解している。
人による歪みが非常に少ない会社――たぶんこの認識は正しい。
少人数なのに地力も体力もあるのは、これが原動力か――と改めて、そう思った。
心的プレッシャーは増えたけれど、すごく光栄。
「光栄だ、って思っちゃだめだ」
え?
突然、森川さんが低い声色の男性口調。
……どうも独り言をつぶやいていたらしい。自重自重。
「いつも滝野浦さんが言ってることなんですよ。それだけの人材だからそこにいて、だからそれだけの報酬を得ているんだ、って。それを当然だ、って思うか、もっとやれる、もっとやるんだって思うか、どっちかにしろ、って」
……なるほど。
一心不乱だったから、あまり意識はしていなかったが、確かに、かつて沢口さんが予告したとおり、今――ここ二、三か月の給料は、大手企業だった前の会社時代より多くなっていた。
ま、仕事の入り方によっては、実力関係なく「成果」がなくなるので下がるケースもある。保障給料はあるけれど、働いた分で振れ幅がはっきり出る。サラリーマンを雇っているというよりは、個人事業主を束ねている「ギルド」みたいな会社だ、と言えるかもしれない。けれどもそれは、少なくとも今の私には、ある種の「理想」と言える理念だった。
「仕事の対価」をダイレクトに数値化してくれる──。
正直言うと、それだけ貢献できている、という実感はまだ全然、ないのだけれど。
謙虚でなければ、イベント屋なんて勤まらない。それもまた「能力」。少なくともそう思ってくださいね――というのが、あのプロジェクトで私が滝野浦さんから教えられたことだった。
そしてそれは、人を採用するときから社員に求める、一貫した社のポリシーであるらしい。
入り方によっても若干違うのだろうが(私などは一応即戦力での採用だし)、少なくとも、この会社では、新人だろうと何だろうと指示らしい指示はない。全部見せてやるからそこで見て学べ――そういうことなのである。それについていける根性と、解らないことを認め、努力できる向上心(例え背景は不安にすぎなかったとしても)まで見て、それを超えられたら本当に同士として認められる。
万が一誤って採用してしまっても、このやり方について行けなければ必然的に辞めていく。それならそれでいい──とかなり振り切った考え方で、それで良しとしている。仮に辞めないでいても、仕事についていけないなら給料も上がらないどころか、簡単に下がっていくのだ。
仕事について行ける能力があって、いざとなれば現場にも入れるけれど、そうしたくない人は内勤――裕子などがそう――という構図がすぐに浮かぶ。だからこの会社に、単純に安住し、テキトーに働いている人は皆無。
考えてみれば、恐ろしいほどに好サイクルに嵌まっている。
……我ながら、とんでもない会社に来たものだ。
小規模のプロジェクトとはいえ、若手と新人だけのコンビは苦戦していた。
一つは、女性ならではの、女性に対するアレルギー。
女性向けのお固いイベントに似つかわしくない(と思われているように私には感じられる)主催者たちよりもかなり若い女性たちが担当、というその一点を突破するのからまず一苦労。
ただ、これはある意味解りやすかった。
前の会社での、自分たちや先輩たちの女性層と新卒新入女子社員への見方に置き換え、逆アプローチ。
気に入らない、鼻につくような行動は避け、必要以上におだてもしない。ビジネス的にもなりすぎず、さりげなく「目上」として立てる。決して張り合わず、退くときは退く。
こちらもあえて、微妙に外したようなファッションやメガネをときどき。
実際一所懸命なんだけど、さりげなく、でもことさらに、それをアピール。たまにはわざとらしくない程度に、十分に雰囲気も読んだ上で、ポカも見せる。
リーダー格の人を突き止め、その人を重点的に、故意さ加減をできるだけ消して手厚く当たる。
もちろん、森川さんにも自制を求めた。
少し時間が経ったら、狙い通り、次第に対応が柔らかくなってきた。
やった!
これでまず一つ、乗り切った──。
経験値が低い二人。四苦八苦したけれど、それでも何とか無事、依頼されたイベントを成功させることができた。最後はクライアントのご婦人方が皆、笑顔で送り出してくれた。慰労の宴席に誘われたけれど、社に戻って次の仕事がある、と固辞。
名残惜しげに見送ってくれたことが、何よりも嬉しかった。
帰り道。
「琴乃さん、すごかったです! 最初があまりに悪かったんで、田岡さんとか沢口さんとかに泣きつこうかと思ってたのに――なんとかしちゃうんだもん」
今回の件で、すっかり森川さんとは打ち解けていた。こっちも直ちゃん、って呼んでたり。
「そんなことないよ。入社のときにね、上野さんに言われたことを思い出して、それを実践してみただけだしねえ」
「え? 何か言われたんですか?」
あたしは記憶にないなあ──と直ちゃん。上野さん、というのが意外だったようだ。
「困ったときは斜めに見てみろって」
「は? ……え? それだけ?」
「そう? 最高のアドバイスだと思うけど」
「……そうか、琴乃さんもやっぱり『あちら側』のひとだったんですねえ」
うーん、こりゃかなわないなぁ──と彼女は言った。
……何のこと?
ただ私は、前の会社での経験から、少し応用を利かせただけ。「斜めに見ろ」ということは、何でもかんでも真に受けることはせずに、一歩引いて見てみろ、ということだ。今回はたまたま上手く行ったけれど、それだけだよ──と素直に答えた。
「でも、そうは言っても、あのおばさま方の信頼を得るのはあたしじゃとても無理でした」
「ふふっ、これでも二昔前くらいなら、『お局サマ』とか呼ばれてる年だからねえ」
ちょうど彼女たちが現役の会社員だった頃くらいの時代である。
「え? あれ? 年上だという認識はありましたけど……おいくつでしたっけ?」
そうか、知らないんだ。
そりゃそうか。言ってなかったし、そういえば聞かれたこともなかった。
「三二。ちなみに今年三」
ええ~っ! と直ちゃん悲鳴。
……ちょっとびっくり。それわどっちの方向での驚きなの?
二つ三つ上、せいぜい三〇ってとこかと思ってましたぁ──と最大級? の賛辞。
ちょっとこっちもびっくり。
若く見せたい――若い子には負けない、負けてない負けるもんか──とか思っていた頃よりも、ずっと「その道」の努力なんてしてなかったのに。
新生活に対応するのに一所懸命だったし。
なのに、それがむしろ若く見えてるとは──ちょっとだけどね。
お世辞かもしれないけど、ちょっと不思議に、ちょっと驚き、ちょっと嬉しかった。
ちょっとだけ、か──。
なんだか苦笑いな感じ。
だってそれ以上に、直ちゃんに仕事で認められたこと。そのことの方が、はるかに嬉しかったんだもん。
会社に戻って無事、任務を終了した旨報告。あとは、内部的な手続を中心とした残務がちょっと残っているだけ。「お疲れさん」の合唱に涙線が緩む。
労われることが嬉しいことだということを、本当に、この会社に来て、人生で初めて感じた気がする。
ちょっとホロリ。
私って、こんなに感激屋だったかしら?
そう思って退室。
廊下に出ると、会議室のドアが開いていて、声が聞こえてきた。滝野浦さんたちのグループ。かなり忙しそうだ。
少し立ち聞き。
ヘルプを申し出れるほどスタミナが残っているわけではないけれど、何となく興味があった。
彼の「仕切り」ってヤツに。
直ちゃんと二人で組んで仕事をしてみて、いかにリーダーのマネジメントが重要かを垣間見た気がした。それがなければ、能力があっても、人はそれを、十分に発揮することができないのだ。
その講義が目の前で行われているのだから、これを逃す手はない。
で、聞いてみて。
相変わらず見事な指揮ぶりだった。これぞまさに「鬼神の如く闘う男」な感じ。今なら田岡さんが裕子に言っていた、ということが理解できる。
『どうしてそうなるのかが解らないまま仕事してて、それで結果がついてくる、っていうのが嫌なんだって』
『だから、彼と組む時には、大マジで全部理解してやろうって気になるんだって。で、消化不良のまま終わって悔しい思いをするのが気に入らないんだってね』
…………。
ふと気づいた。
前の職場では、「男性」は「男性」としてしか見ていなかった気がする。「職業人」あるいは「人」として、きちんと見ていなかったかもしれない。
実際はそこまでのこともないのだろうけれど、過去の自分に、なぜかそんな印象。でも彼のことは、本音ベースで、それを超えて気になった。
「人」として興味を持ったのである。
もちろん「仕事そのもの」にも興味はあるのだけれども──。
滝野浦さんとチームの面々は、その後も何度か直球でキャッチボール。しばらくして、それが黙々とした、作業の音に変わった。
それから数日後。
今度は、末端メンバーとして大きなプロジェクトに関わることになった。
結論から言うと、日程に余裕があるため、ちょっとゆっくりできている。最近連続で張り詰めた案件ばっかりだったから、人材配置マネジメントの力が有効に働いているのかもしれない。
そう思ってちょっと韜晦していると――。
滝野浦さんたちのプロジェクトの終了の報が伝わって来た。
どうやら無事終わったようだ。
滝野浦さんの姿が見えた。
いつもどおりのポーカーフェイス。でも、心なしかホッとしたような感じ。少し疲れているようにも見える。
あの彼が、このたびばかりは(?)珍しく手こずっていたようだった。チーム内でミスした人がおり、それを別の人が必要以上に糾弾したことにより、ちょっとピリピリしたりとか。
それを長く引きずっていたらしいことは噂で聞いた。
――やっぱり、人間なんだよなぁ。
彼についても、この会社の他の同僚についても。
ビジネスライクなだけでは、すべてを乗り切れるワケではない。当たり前のことだけど、やっぱりちょっと、ショックだった。
昔と違って、早く帰ってもやりたいことがあるわけでもない。
かと言って、勉強とかをする気にもならない。
やっぱり疲れているようだ。
緊急の重要プロジェクトにいきなり加えられてから四本連続で現場に配置され、担当をこなした。緊張の連続だったし、特に最後の件は若手と組んだ担当者二人でしかも自分が初リーダーを務めるプロジェクトだったから、気の休まる時間帯は正直、ほとんどなかった。
ちなみに、現場に配置されても日常業務もあるのよ、一応。
今回の現場への連続投入の経験は、依存の楽さを、逆の意味で痛感させられた。
緊張が緩み、気分はもうへとへと──そのはずなのに、なんだか寝られそうな気がしない。
人間、疲れすぎるとかえって寝られないものだ、と聞いたことはあるけれど、今がまさにそんな感じだった。
こういうとき、無性に何かがしたくなる瞬間が訪れる。
このときは、どうしても、ポテトスティックが食べたくなった。
近くにコンビニがある。歩いて五分ほど。
まだ午前〇時。
行こう。
メイクも落としてしまっていたが、もともと飾りを抑えていたこともあって、眉毛がなかったりはしない。
いいや、すっぴんで。
家を出る。
しばらくして、ちょっと何か――よく判らないけれど、なぜか、不安を感じた。
コンビニには無事到着。
目的のものを購入。
まだ、気持ち悪さは続いていた。
何か、嫌な感じ。
店を出て周りを見渡す。特になにもない。
気のせいだろうと思い帰路につく。
自宅近くになった時点でちょっと違和感。
なんだ?
何か、あったものがすっと消えた。
不安感が消えたのではない。
もっと違う何かが、消えたのだ。
それがまた、不安を強いものにする。
ちょっと立ち止まる。得体のしれない不安は大きくなる一方。
でも、得体が知れなさすぎて、帰らない、という選択をとるようなマネはできない。
よし――。
悪い予感に苛まれながら、私は自宅1Kのマンションへと踏み出した。
玄関の前まで来た。
何もない。
試しにノブは――回らない。
ホッとし、鍵を取り出し、開けようとしたその瞬間、走り出す靴音。
一瞬ビクっとしたが、かなり遠い。
鍵はもう回っているし――そう思ったそのとき。
急速に近づいてきた足音とともに、見知らぬ男に組みつかれた。
一瞬のことに、声が出ない。
それでもなんとかもみ合いになる。
夢中だった。
何が起きているのか解らないけれど、でもやばいことが起きていることだけははっきりと判る。
「コラっ! そこ! 何やってる!」
男性の叫び声が聞こえた。
かけ足の音が急速に近づいてくる。
組みついてきた男が一瞬、たじろいだ。
チャンス!
思わぬハプニングに対するハプニングに、却って冷静になれた。
男を払いのけ、男性の声のした方へ。
一瞬、左腕がチクっとした。
新たに現れた男性は、私を背に回してくれた。
その背中は――。
まさか!
そこには、刃物と粘着テープを持った男と対峙する、滝野浦雅史の姿があった。
滝野浦さんは、折りたたみ傘の柄を伸ばした状態で構えていた。
剣道の竹刀のように。
逃げろ――。
彼は私にそう言うと、「警察はもう呼んである。それでもここに留まるか?」と冷静に、不敵な態度で叫んだ。
周囲の家の廊下側の電気がいくつか点灯し始める。
なにごと? っていう感じ。
犯人の男は、滝野浦さんの余裕そうな態度にただでさえ焦りが感じられたが、私の家の隣人宅の窓に電気が灯るや否や、逃げ出した。
助かった――そう思ったそのとき、左腕に痛み。
「ふう。大丈夫――じゃなさそうだね」
その彼の顔は――蒼白だった。
流血している自分のことより、彼の顔色の方が、私には気になった。
彼は本当に、すでに警察を呼んでいた。
暴行目的、または強盗目的と見られる、立派な傷害事件である。
刃物による傷で出血もしていたが、見るからに軽傷だったので、いったん自宅に戻り救急セットで応急手当をし、再び「現場」へ(自宅から一歩出たところだが)。
そこで早々に、警察官三名と出くわした。
室内で事情聴取して良いか、という。
いいも悪いもないではないか。
即了承して事情聴取へ。
最初は二人一緒。ためらいがちに入ってきた彼が、ちょっとおかしかった。
ものはそう多くないが、二〇平米そこそこの部屋に大人五人はツライ。
警官が一人、外に待機し、事情聴取が始まった。
事情聴取に、まず彼が、澱みなく答えていく。
私がコンビニから出、自宅へ向かおうと歩き出したそのとき、彼は、私から見ると、かなり後ろになる位置――にいたらしい。
彼も取締役である。私の履歴書や採用試験の内容には、一応目を通していたらしい。ああ、自分の家の近所だな、ということくらいは頭にあった、という。
だからこそ、なのだろう。
彼自身も同じコンビニに行こうと歩いていたところ、たまたまその視線の先、遠目に「あれ、成川さんかも」と思ったらしいのだが、それ以上に、その様子を窺うようにしていた挙動不審な男に目が行ったのだ、と。
万が一そういうのだったら――そう思ったら、コンビニには入らず後を尾けていた、という。
そしたらまあ、「万が一」だったワケなんだこれが。
犯人の顔は二人ともはっきり見ていた。
刃物を持った状態の犯人と、マンションの廊下、というシチュエーションで対峙していたのだから当然だ。
揃って(彼の方は当たり前だが)面識のない男だった。
だからそう答えた。
いろんな角度から、本当に知り合いじゃないのか? とか私と滝野浦さんの関係は? とか、独身か? とか子どもは? とか――。
……おいおい。
簡単な事情聴取を終えると、一応傷害事件で流血沙汰ではあったワケで、すぐに病院へ。
パトカーは二台。彼と私を別々に乗せ、走り出した。
そこでも改めて、犯人は本当に知り合いじゃないのか? とか私と滝野浦さんの関係は? とか、独身か? とか子どもは? とか同じ質問。
……勘弁してほしい。
しかし、犯人の人相風体については、ここで初めて聴かれた。
自分の頭の中に残る像をうまく表現できたかどうか自信はないが、とりあえず言うだけは言った。服装や髪形、体型――心当たりのない一見の人物を的確に表現・描写するのは難しかった。
病院に着くと、すぐに医師の下へ。
彼とは顔を合わせることなく診察室へ直行。止血はしていたが、刃物で切られていたため、結局、少しだけれど縫う羽目になった。
ただ、言い方はヘンだけど綺麗に切れているので、跡はほとんど残らないだろう、とお医者さんは言ってくれた。
ホッとした、というより、逆に背筋が寒くなった。
これって、マジでやばかったんだ──ということを、その時になって初めて、まざまざと見せつけられた思いだった。
彼が来てくれなかったら――そう思うと、心底ゾッとした。
診察・治療が終わると、今度は制服でない男が警察手帳を拡げて見せた。
署の方へ来てくれませんか――刑事を名乗る男は言った。
警察署へ着くと、再び本格的な事情聴取。
犯人の人相について主に聴かれた。
後ろで女性が似顔絵を作成しているようだが、その様子はこちらには見えない。
腕時計をしていないので、今が何時くらいか判らない。ケガのこともそうだが、明日の仕事に差し支えるなぁ、などという思考が入り込んできたり。
そういえば、彼はもう帰されたのだろうか。
「うーん、こんな感じでしょうかね?」
後ろで絵を描いていた女性が、絵をこちらに向ける。
「っ――!」
驚くほど、似ている――気がする。写真を見ながらでも私には描けないくらい。
呆然としていると、質問担当だった刑事が言った。
「ほんとに知り合いじゃないのかぁ? この男」
何度も頷く。
「だとしたらすごい人ですなぁ、あのカレシは」
やっぱり職業柄でしょうかな? などと、刑事はさらりと言った。
そのあとまた、約二〇分くらいだろうか。同じようなことをまた、何度も何度も聴かれた。周囲を見ても忙しそうな印象はない。暇だったのかな? 深夜なのにね。
暇つぶしに付き合わされたのなら、結構な迷惑なのだが。
まぁ、今日の場合は仕方ないか――などと私は、この日の出来事を、まるで他人事のように感じ始めていた。
そんなとき。
「じゃあ、これでおしまいですな。必要があれば連絡しますんで、連絡先を」
自宅、ケータイ、会社、会社のケータイとすべて答える。
早く犯人を捕まえてもらわないと、おちおち家に帰ることもできない――そう思って、ふと気がつく。
……今日これから――どうしよう?
さすがに怖くて、家に帰れないじゃん。
「じゃあこれから、お家の方までお送りしますんで」
またさらっと一言。
……護衛でもつけてくれるのだろうか。
まさか――あの程度(と言っても、大きく間違えば、殺されていたかもしれないのだが)で、そこまでしてくれるとは思えないのだが。
刑事は何も言わず、外へと私を誘導していく。
確かに、警察署に泊まる、というのもちょっとどうかと思うけれど。
だとしたらホテル?
時間を見る。何だかんだで、もう午前三時をだいぶ回っていた。
どうしよう? お金、あんまり持ってないけど。
それ以前に、今の時間からホテルを探すのは困難だ――そんな現実的な問題点に考えが及び始めながら、刑事に連れられて外に出ると、普通乗用車が二台。これが覆面パトカーというヤツなのかと改めてそんなことを思った刹那、一台目の車輌に、滝野浦さんの姿を見つけた。
まだ、残ってくれてたんだ。
大変な迷惑をかけてしまった。
それに、彼にはものすごい恩を受けたことになる。
一生頭が上がらないかも――なんてちょっと思い、そもそも上司と部下の関係である以上、それは普通に続くんだよな、とくだらないことに思いを馳せ、一瞬にやついてしまった。
「とりあえず、お家までお送りします。一応先に我々が部屋の方に入って安全を確認します。そのあとも女性を一人配置しますんで、その間にお着替えとか、当面必要なものを準備いただいて、そのあとまた出てきてください」
……あれ?
当面必要なものを準備しろ?
* *
手を抜けない。
これだけの給料をもらっている以上、そんなことはできない。
重くなる責任。
やりがいはある。
仕事も面白い。
でも、それだけではなかった。
そうなっていくに従って、彼は、お母さんの人生を否定しているような気分になった、と言った。
あんなに頑張って仕事をして、母親としての責任も果たして――そんなお母さんを、少なくとも金銭面では段違いのレベルで、彼にとってはいとも簡単に、凌駕してしまったから──。
それが彼の、現実だった。
これはいけない――。
そう、思った。
この人はすでに「支え」を失っている。
彼のために頑張り抜いたお母さんとは違い、彼にはもう、彼自身しかいない。
それなのにこの考え方では――。
決めた。
「あのさあ、ちょっと提案があるんだけど、いいかな?」
* *
【登場人物】
森川 直:20代半ばの女性社員。調査能力に長け、キレ者ではあるが、まだまだ社会経験が浅いところも。琴乃にとって「初現場」の「仲間」の1人であり、その後も2人きりのチームで一緒にプロジェクトをこなすなど、何かと縁がある。




