Scene 2 仕切直し
「じゃあ、この件、よろしく頼むよ」
「了解しました」
右手を挙げて頼んでくる同僚の明るい声に、こちらも笑顔で軽く、軍隊式というか警察式というかの「敬礼」もどきで応じる。
この職場の雰囲気に呑まれ? なんとなく自然に出た行動だったが、これがなんか異様にウケて、私の一種のトレードマーク? になりつつある。
? が二つも出るとは何たること!
などという無用なツッコミはどうでもいいこと。彼は他部署で、階級も年齢も向こうの方がすごく上。でもフランクだ。そしてこちらも、本来の自分の職掌をやや超えた仕事なのに、快くそれに応じている。
あり得ないことだった。
前の職場だったら。
頼られている、戦力になりつつある――そんな実感がある。
今勤めているのは、創業一六年の比較的若い企業。総社員数九六名。埼玉県にある本社を含め、名古屋、福岡、札幌に拠点がある。東京都心にも、公式ではないが確保してある詰め所がある、そんな会社。
本社に四五名程度、他は一拠点が一五人前後、というベンチャー企業に、私は三か月前、転職した。もともと一人暮らしだったこともあり、あっさりと華やかなる東京大都会を離れ、職場の近くである郊外のベッドタウンへお引越し。都心へのアクセスは悪くなく、行こうと思えばいつでも行ける、そんなロケーション──であるにもかかわらず、早くも友人たちの多くとは疎遠になりつつあった。
他人の不幸は美味しいもの。
自分がいかに幸せか、不幸せでないか、あるいは単なる優越感を確認する、一つの機会にもなるものだ。「心配」した複数の「友人」からいろんなお誘いがあって、それを断っていたらそうなった。でも、そんな見方しかできないヤツは、本当に「友人」と呼んでよいものか。
被害妄想? あー、そうかもね。
……ああ、ダメだ。
そんな言葉あそびみたいのこそ無用。だから、あんなことになったっていうのに。
思い出し苦笑い。
砕かれた心は、再び前と同じ方向へ治ろうとする。それはきっと自然なこと。
でもそれじゃ進歩ない。
何とか──そう、殻を打ち破りたい――そう思ったのだ。
「人」として――。
仕事が楽しい、と感じたことは、前の会社時代はほとんどなかった。入社直後、集合研修が終わって各現場に配属され、そして落ち着いた頃。あの頃はそれなりに楽しかったけれど、それも日々のルーティンによってあっさりと終焉を迎えた。
ああこんなもんか――。
勝手にそう、決めつけた。
今もひょっとしたら、それと同じだけなのかも。ここでまた落ち着いたら、つまらないと感じるようになるのかも。
でもいいのだ。
今回のは、間違いなく自分の意思以外の何物も入らずに選んだ道。後悔なんて、別にしたっていいじゃないか。
仕事の関係で少し遅れてとった昼休み。そんな益体もないことを考えたあと、職場に戻ったとき、こんな会話が耳に飛び込んできた。
「そうか、もうすぐヤツがも戻って来るんだな」
「まあ、忙しくなりそうですねえ、一段と」
「ヤツの仕切りはとんでもないからな。心の準備心の準備、っと」
「前一回、一ヤマだけ組んだことがあるんスけど、いやぁ、ついていくのがやっとでしたよ」
「客だろうとなんだろうと容赦ねえしなあ。俺なんかあいつの先輩だからさぁ、まだいいけどよ」
「いや、田岡さん、それ、俺に対して何のフォローにもなってないんスけど」
「そりゃフォローしてねえし。次組む可能性が高いのって、内容的にオレの方が確率たけえじゃねえかよ。小野クンはいいねえ、気楽でよ」
「そんなことないですよ。俺、こないだ轟さんに『次はちょっとすごいのいくかも』って言われたんスから」
「なんだよそれ自慢かよ? って、なら、オレ可能性低いかも。やった! 毎日お家で晩酌の世界がオレを待っている!」
「……安心してっと足元すくわれますよ」
「……怖いことを冷めた口調で言うなや」
不満、愚痴の応酬の類かと思ったら、そうでもないらしい。二人は何の屈託もない笑顔を浮かべている。会話の言葉の字面だけではとても伝わらないほど。お見せできないのがほんと残念です。
ヤツ、と言ったのは三〇代後半の男性社員田岡さん、忙しくなりそう、と言ったのは二五歳だという自称「期待の若手」小野クン。
「ん? どうした?」
田岡さんが私に気づいた。ぽかーんとしていたのだろう。
やば、無防備やった。
……恥ずかし。
「いや、楽しげに話をしてるなぁと」
自然を装う。そう、この会社での私の立場は、おすましが似合う大企業の総合職で入社したインテリ系OLじゃない。ちょっとマヌケだけど、一応それなりに器用になんでもこなせる、ちょっと年齢はアレやけど新人女子社員なのだ。何を飾ることがあるんや。
……っていうか、さっきからなぜにちょっとだけ関西弁風味?
「うわやべ、聞かれちゃったか、今の会話」
「……全然ひそひそ話じゃなかったじゃないっスか」
そりゃ聞こえますよねえ──と小野クンは容赦なく田岡さんにツッコむ。
「まあ、どっちがヤツと組まされるかっていう重要議題についてだな――って」
「楽しそうだな」
うわっ、部長登場。
轟なんていうマンガみたいな名前の部長は、お酒が入ると超ハイテンションになって威厳が消し飛ぶことで有名らしいが、素面のときはそれなりに重厚感のある人物である。
「いや、はは……あいつ、帰ってくるんでしょう?」
田岡さんが切り返す。
「ああ、もう聞いたのか」
「公示しといてなに言ってんですか」
「まあ、そうなんだけどな。お前が掲示板なんか見てるとは」
「あーひでえ、ひでえっスよそれ。パワハラパワハラ」
「スなんて言う年でもないだろうが」
「あー! 聞いた、ねえ聞いた? これってセクハラよね?」
「…………(絶句する私です)…………」
チラッとこっちをほんの一瞬窺った部長。
「……ま、どうでもいいからそろそろ仕事に戻れや」
「ま!? 『どうでもいい』、なんて! ひどいわ! 昨日はあんなに燃えたのに!」
「……そっちの方がセクハラっぽいぞ。なあ、成川さん」
「はは……」
以上、四〇代半ばの取締役兼部長(男性)と、三〇代後半の男性社員の会話でした。
「ああ、彼ね」
先輩社員(というか、私が新人なだけなんだが)の辻本裕子は、こともなげに言った。
なんか、その人をめぐって、凄まじいやりとりを――と言ったら、裕子は次の瞬間大笑い。
「あはははっ、あーおっかしいっ! って、どうせ田岡さんでしょう? 今だと小野クンあたりもかな? あの人はいつもああなの。彼に対しては」
緩みっぱなしの顔で、裕子はいつものことだよー──と念を押した。
あの騒ぎの翌日の昼休みである。
裕子は、今私が所属する総務部門で、一番年が近い女性社員である。年は近いが二つ下で、結婚六年。すでに二人の子持ちだそうだ。
そういう意味でも、いい会社だな――。
話が逸れた。戻します。
「そんなに――その……インパクトのある人なの?」
おそるおそる尋ねる。今の私は、まだ結構現状に適応するのに頭を使ってて、野次馬根性を持っている余裕はない。
「んー、見た目フツーだよ。ちょっとまじめな感じかな? ちょっと髪は長めだけど」
……おいこら。
「え?」
やば、口から出ていたらしい。
先生っ! お澄まし鉄仮面はもはやあとかたもなく塵芥となったようです。
……いや、先生て誰やねん。
「誰もルックスのこと聞いてへんて!」
裕子の目がいつもよりもまん丸。
「琴乃さんて、関西人でしたっけ」
いや、違うけど!
また、裕子はコロコロと笑った。
「いやぁ、そうかぁ。会ったことないんだもんね。仕方ないか」
おいおい、そのリアクションはないっしょ。
「いや、別に、キャラが濃いとかそういうのはないし、誠実でいい人だし、お酒飲んでもちょっと明るくなるだけだし、普段も暗くはないよ。彼のジョークについていくのは高等技術が必要だけどね」
――は?
「さっき言ったとおり、見た目もフツーだしねぇ。ああ、そうそう。まだ独身ですよ、彼。それでいてマンション持ってたりして。しかも結構でかい家」
郊外だからねぇ、ああ、うらやましいわ――と彼女は言った。
……全然判らん。
まあ確かに、共稼ぎだけど二人もお子さんのいるご家庭には切実なことなのかも、家って。ちなみに彼女は、ダンナさんの方の都合を優先して都心に住んでいる。おかげで逆方向なため、通勤自体は辛くはないようだが。
ほぼ着の身着のまま引っ越した私には、そんな観点飛んじゃってたけど。
「いくつくらいの人なの? 田岡さんがヤツ呼ばわりしてたけど」
「お? 関心あり? 琴乃さん。でもねえ、アレは手ごわい相手だよぅ」
えーとねぇ、あたしより一つ上だったから、今年、ってか今年度三一になるはずよ。確か二月生まれだったから――と、いやもうスラスラと。
三一か。ひとつ下だな。しかも早生まれか。
……別に関係ないけど。
で、まだ田岡さんが騒ぐ理由が聞けてない。
「あ、そうでした。すまんすまん。えーとねぇ、なんていうか、その」
私もチームを組んだことはないから──と前置きした上で、彼女は言った。
「不可能を可能にする男、かな。一言で言えば。彼の指揮下に入ると、何でそれをしなければならないかを理解してなくても、最短距離を走っているってハナシ。彼自身もすごい仕事人でね。ほんと何でもできる人みたい」
…………。
「田岡さんもさあ、お調子者に見えるけど、っていうか実際お調子者なんだけどさ。どうしてそうなるのかが解らないまま仕事してて、それで結果がついてくる、っていうのが嫌なんだって言ってた」
…………。
「だから、彼と組む時には、大マジで全部理解してやろうって気になるんだって。で、消化不良のまま終わって悔しい思いをするのが気に入らないんだ、ってね。実際、彼のペースについていける人ってウチの会社でも多くないし。そういう意味では田岡さんも、あれで結構なホネのある切れ者なのよ」
ただのお調子者なのも本当だけどねー、っておどけて見せた裕子の表情は、その直前までのものとまるで違う朗らかなものだった。
へぇ、そんな人もいるんだねぇと、私はこのとき、まったくの他人事だと思っていた。
そう。
…………。
………………。
……………………。
思ってたのよ~~っ!
* *
裕福でない育ち。
母子家庭──。
可能な限り母親の足手まといにならないように――彼は幼い頃、そればかり考えていた。
成績がふるわなくて「塾へ行かないとね」と言われないよう、黙々と勉強に励んだ。
小中は公立で、成績は良かったから、高校は県立高校一校だけを受験。
滑り止めがない、ということから大変なプレッシャーの中、模試から数えて最低の点数だったけど、それでも合格した。
彼の高校の進学率は毎年九九.九%超。その流れに乗らないという選択肢はなかった。
しかし高校では成績はそれほど奮わず。
彼が選んだのは地元土着の公立大学。ここも一校受験だったが、幸いにして、何とか滑り込んだ。
大学では、バイトと学業を両立。お金を稼ぐことの大変さを、身をもって痛感させられた。
ところが――。
就職難の時代だった。
超氷河期は、彼のそんな真面目さ、実直さを評価しなかった。
公務員試験は、お役所がリストラ要求への対応策として、定員を絞り込んだ。そもそも、予備校とのダブルスクール組との訓練レベルの差は歴然。歴代最狭の門は、彼に通過出来るものではなかった。
民間も、中小企業はもとより、誰もが名前を知る大企業でさえも、一部では、新卒の採用自体を見送っていた、そんな時代。
辿り着いたのは、操業してまだ一〇年に満たなかった、今の会社だった──。
* *
【作中(架空)の企業】
アリエスクラフト株式会社:
創業16年、総社員数96名のイベント企画・管理運営・サポート会社。資本金は15千万円。本社は埼玉県南部で、名古屋、福岡、札幌に支社がある。
作中では触れられていないが、「春のように穏やかに、しかしこだわりをもって、サービスを、形にではなく心に残る『工芸品』に仕上げてみせよう」という志を理念にした、個人事業主の集合体のような企業。株式会社であり、一般社団法人ではない。羊毛関係の工芸品を扱ってもいない。
長引く不況の中、大企業がリストラした部門の業務の受け皿的な位置からスタートして現在に至っているが、一部では、大手の広告代理店などのシェアをおびやかし始めている、活気と活力のある上り調子の会社。基本的に成果主義をとっている。