今、よく見る夢
-登場人物紹介-
古林:アセチルコリン。脳内で認知機能の維持役立つ物質。
倶留田:グルタミン酸。脳では興奮的に働くアミノ酸。
網呂井翔蔕:アミロイド・ベータ。アルツハイマー認知症の原因となる物質。
利根辺知:ドネペジル。アルツハイマー認知症の進行を遅らせる薬。
利羽久美:リバスチグミン。アルツハイマー認知症の進行を遅らせる薬。
花蘭民:ガランタミン。アルツハイマー認知症の進行を遅らせる薬。
女間椿:メマンチン。アルツハイマー認知症の進行を遅らせる薬。
有津はま(アルツ・ハマ):アルツハイマー認知症。
-本文-
澄んだ青空が広がる初秋。県道六号線沿いに新しくできた駐車場に雨垢でくすんだ白の軽自動車が入ってきた。四、五台しか停められない狭い駐車場だが、午前十一時というのに他に車は無かった。
運転席から降りてきたのは、二十代半ば位の青年だった。背が高く胸に山のロゴマークが入った緑色の半袖Tシャツに濃紺の半ズボン、黒色のレギンス姿をしていた。助手席からも同じ年頃の青年が降りてきたが、こちらは小柄でオレンジ色の長袖Tシャツにえんじ色の長ズボン姿だった。小柄な青年は直ぐに後ろの席のドアを開けた。そこから出てきたのは歳の頃、七十代後半の男性である。
頭にはよれよれになった薄緑色のチロル帽を被り、細身の体にはチェック柄の古びた長袖のシャツを着て、下はシンプルなベージュ色の長ズボンを穿き、靴だけは真新しいモンベルのトレッキングシューズを履いていた。
「さて、行きますかな。古林さんに、倶留田さん」老人は二人の青年が小さなディパックを背負うのを見て言った。
「行きましょう。ご隠居」と青年達は声を揃えた。二人の青年が並んで先頭になって歩き出す。そして、空身の老人は一本の登山用ストックを右手で突きながら、ゆっくりと歩き出した。
緩やかに舗装された登り道は人気のない村の中を抜けていく。間もなく人家は無くなり舗装も途切れて山に入る道になる頃には周囲の樹林は竹林に変わる。
「わしの若い頃は、ここから直接登れる道があったのだが」老人は立ち止まり竹林の間から見えるコンクリート製のダムを指差した。
背の高い古林が「そうだったんですか」と老人を振り返りながら相槌を打つ。背の低い倶留田は黙って老人が指差す方を見ていた。
「あのダムが出来たために昔の登山道が無くなり、おかげで廻り道を余儀なくさせられる」老人はそう言うとストックを突きながら、今度は先頭に立って歩き始めた。かろうじて車一台が通れそうな林道を二度ほど折り返し登ると竹林を抜けて視野の開けた場所に出て、右に行けば尖山登山口という道標が見える。
「ご隠居」寡黙な倶留田が声をかけた。
「右ですよ。お忘れですか?」
「そうだった。つい見落としてしまったな」老人は照れ臭そうな顔をした。
「最近、物忘れはするし、ぼんやりとはするし、年は取りたくないものだ。ほれ、見てごらん。道の両側にススキがこんなにも生えている。山はすっかり秋だな」
たくさんのススキの穂が初秋の風に揺れて太陽の下できらきらと輝く様に見えていた。前日の雨が作った水たまりをいくつか避けながら三人は尖山の登山口に着いた。
「こんにちは」登山口の標柱の傍にある石の上に座っていた一人の少年が三人に挨拶をしてきた。
「おや、こんにちは。君のような少年も尖山に登るのかね」老人は不思議そうな顔をして少年を見た。
少年の顔は夏の日焼けがまだ抜けきっておらず黒かった。ニューヨークヤンキースのロゴ入りの野球帽に黒い無地の半袖Tシャツ、同じく黒い半ズボン、そしてナイキ製オデッセィの濃紺スニーカーを身に着けていた。
この季節、標高五百五十九メートルの尖山に登るには少年の恰好がふさわしいかもしれなかった。老人達のグループの服装は大袈裟な印象を与えていた。
「僕、この山を初めて登るのが不安で、誰か来ないかなと思っている内に、丁度姿が見えたものだから。一緒に行ってもいいですか?」少年は屈託のない笑顔で話しかけてきた。
「旅は道連れがいた方が心強いと昔から言うから、良いでしょう」老人は笑みを浮かべて古林と倶留田の二人を振り返った。
しかし、二人の青年は何故か不安そうであった。特に古林は少年の屈託のない笑顔の裏に何か邪悪な物が潜んでいるような予感がした。少年は古林の心配そうな顔を横目でちらりと見やりながら老人に言った。
「ありがとうございます。僕の名前は網呂井翔蔕と言います」
「『とへいた』とは聞かない名前だ。最近の名前の付け方はわしには分からん」ホッホッと笑いながら老人は二人の青年を再び振り返る。
相変わらず不安げな顔をした二人は老人の笑いに愛想笑いで返すしかなかった。
「じゃあ、行きますぞ。お三方」老人が再び先頭をきって歩き始めた。その後を倶留田、古林、そして網呂井が続いた。
尖山の登山口からしばらくは高い杉林の中を歩く。斜度は少ないが右側に小さな流れを見ながら進む登山道は陰鬱な印象を与える。
道は前日の雨のせいでジュクジュクとしており老人の新品の登山靴があっという間に泥だらけになった。やがて少しずつ斜度がきつくなっていく。
老人の息使いが次第に荒くなってきた。老人は立ち止まり振り返った。そして、首に巻いていたタオルで顔の汗を拭った。
「おや、珍しいね。古林さんが遅れているよ」老人は直ぐ後ろにいる倶留田の更に十メートル以上後にいる古林を怪訝そうに見つめた。
老人が汗を拭う数分前の出来事だった。倶留田の後を息も切らさずに登っていた古林は背後から呼びかける小さな声で立ち止まり振り返った。古林は自分の眼を疑った。なんと網呂井と同じ顔、同じ体型、同じ服装をした少年が二人いたのであった。一人の網呂井が唇の前で人差し指を立てていた。『静かにして』と言うサインだ。もう一人の網呂井は黙って自分の右脚を指差した。半ズボンからむき出しになった右膝に白い包帯を巻きつけられ、更にそこには薄く赤黒い血の跡が浮き出ていた。
怪我をしていない網呂井が囁くような声で「僕の双子の兄弟なんだけど、背負ってくれない?ディパックは僕が代りに持つから」
「いつの間に現われた?登山口にいたのはどっちだ?それに怪我しているのに何故わざわざ登ってきた?」古林は少年に出会った時に感じた嫌な予感が的中したと確信した。
網呂井兄弟は古林の質問を無視して、黙ったまま古林の背中から強引にディパックを引きずり下ろし、更に膝に怪我をした網呂井をこれもまた強引に背負わせた。
「ご隠居に離されちゃうよ。古林さん」背中の網呂井が耳元で囁いた。古林はしぶしぶ老人と倶留田に追い付こうと歩き出した。
一歩、また一歩と進むうちに古林の顔から汗が一気に噴き出してきた。背負っている網呂井が次第に重くなり、結局、老人達と十メートル以上も離れた場所で立ち止まざるを得ない位の重さになったのだ。
「古林!大丈夫か?」ただならぬ雰囲気を感じた倶留田が下の方にいる相方に呼びかけた。
「倶留田さん、行ってお上げなさい。私は大丈夫だから」老人一人を残しておく事が心配でならないという表情をしている倶留田を老人は急き立てた。
一人残った老人は改めて周囲を見渡した。登山道の先が明るくなっており、もうすぐ陰鬱な森を抜けて太陽の当たる明るい場所に出そうな雰囲気があった。その時、老人は背後から腰をつつかれるのを感じた。振り返ると、そこには二人の網呂井少年が立っていた。
「おや、こんにちは。君達も尖山に登るのかね。途中、私の連れの二人の青年と会ったでしょう。彼らはどうしていました?」老人は二人の網呂井の頭越しに古林と倶留田が落ち合って何か話をしている光景を見ていた。
「ご隠居は僕と登山口で会ったのを忘れたの?名前は網呂井翔蔕と言うのだけど」
「はて、どうだったかな?近頃、物忘れがひどくてな。直ぐに紙に書いておかないとな」老人はゆったりとした調子で答えた。
「なんだか張り合いがないね」一人の網呂井がもう一人の網呂井に言った。
「でも、やろうよ」と言いながら、網呂井の一人がいきなり老人の背中に乗った。登り坂の途中でバランスを失った老人は、ゆっくりと体が倒れ始めた。急な傾斜ではないものの高齢者の転倒は骨折につながりかねない危険がある。その時だった。倒れかけた老人を横から支える者があった。
「あなたは?」老人は支えてくれた男性を見つめた。
「危なかったですね。低い山とは言え、ここで転んでは危険ですよ。特にご高齢のようだから」そう言った男性は四十代と思われた。サングラスをしているので目の表情は掴みきれなかったが、口髭付近の笑みが印象的であった。彼もまた登山の正装をしていた。ダークブラウンのチロル帽に薄い水色の長袖のTシャツ、そして薄いグリーン系統の山用の長ズボン姿であった。
「私は利根辺知と言います」そう言った直後に老人の近くにいる二人の網呂井に向かって「ご隠居の邪魔をするのではない。転んだらどう責任をとるつもりだ。さっさと消えなさい」とかなりきつい口調で叱りつけたのである。二人の網呂井はびっくりして今来た坂道を転がるようにして引き返して行った。
「そこ迄きつく言わなくても良かろうに。可哀そうに」老人は非難の目を利根に向けた。
利根は苦笑いをした。「彼らはこの山に棲む悪い妖精達です。同じような姿をしたのがウヨウヨいます。元々は大人の姿でしたが、長い年月を重ねて行く内に少年のような小さな姿になってしまいました。そして集団で悪さをしてきます」
老人は利根の話をぼうとしながら聞いていたが、心の中では『一体、この人物は何を言っているのだろう。山の妖精だって、そんなものがいるはずがないじゃないか。この利根という男こそ怪しい』と思っていた。
一方、古林は倶留田が来た時には網呂井は背中から下りていたので「とんでもない目にあった。この少年がすごく重くてな」と言いながら辺りを見回した。しかし、二人の網呂井は見当たらなかった。倶留田も不思議に思い老人がいる高見に目をやるといつの間にか老人に追い付いた網呂井達が老人と何やらやっている。二人は急いで老人のいる場所へ向かったが、途中、慌てて逃げるように下って来る二人の網呂井とすれ違う。
「ご隠居、転びかけたように見えましたが」古林は少し息を切らして老人に話しかけた。
「危ない所を利根さんに助けてもらったのだ。二人からもお礼を言って下さい」
古林と倶留田は顔を見合わせた。利根という人物がどこにも見えないのである。
「何をしておる。ここにおられるだろう」老人は目の前にいる利根辺知に何の挨拶もしようとしない二人の青年達に苛立った。
「ご隠居、興奮されませんように。私の姿はこの二人には見えません。私は陰ながらご隠居をお救いする良き山の妖精です。私が来た時、少年達は持っていたスウェットシーザーと呼ぶ武器で古林さんの体力を奪っていました。それで、私は彼らの武器を破壊して古林さんの背中と傍にいた少年を森の中に放り込んだのですが、少年達は直ぐにご隠居に憑り付き始めたのです。で、急遽こちらにも来た次第です」利根は経緯を説明した。
老人は利根の話に一々頷いていたが、利根の姿が見えない古林と倶留田は気味悪がった。倶留田がまず古林に話しかけた。「せん妄かな」、「いや、まだ、その症状が出るのは早いだろう」、「何故か急に興奮したりするし」、「登り始めから記憶も曖昧だったからな」二人の間で何やらこそこそ話が続いた。
「ご両人、何をブツクサ言っておる。先を急ぎますぞ」老人は突然、一人で登り始めた。
「あ、ご隠居、お待ち下さい」二人の青年は慌てて老人の後を追った。
利根は一人残った。周りを見渡したが、今の所、網呂井達の姿は見えない。利根は今の出来事で老人に付き従う二人の青年が網呂井自身は見えるが、網呂井が持つ武器は見えないという事を理解した。「さてと」利根は一声かけて老人の後をゆっくりとした歩調で追った。
「陽の射す場所に出てきましたな」老人は残暑とも言える秋の陽射しの中で、眩しそうな顔をして空を見上げた。この場所は右側には小さな流れを挟んで高い樹木の森があるが、左側には高い木もなく開けた状態になっている。これまでの登山道を山陰道とするなら、ここからの登山道は山陽道となる。
右側の小さな流れのある方向から数人の少年達が青さの残る草をかき分けながら登ってきた。彼らは皆、夏の日焼けが残った顔に、ニューヨークヤンキースの野球帽、黒い無地の半袖Tシャツ、黒い半ズボン、そしてナイキ製オデッセィの濃紺スニーカー姿の網呂井翔蔕と名乗っていた少年であった。
今度は同じ顔と姿の網呂井少年が六人いた。
「こんにちは。僕達、この山を初めて登るのが不安で、誰か来ないかなあと途中で待っていたのです。そしたら、丁度あなた達の姿が見えたものだから、一緒に行ってもいいですか?」一番前に出てきた少年は屈託のない笑顔で老人に話しかけてきた。
「おう、少年達。こんにちは。まあ、旅は道連れ世は情けと昔から言うからな。しかし、少年でも尖山に登るのか」老人は親しげな表情で少年達を見渡した。
「ご隠居。彼らには先ほども会いましたよ。そして、我々にひどい仕打ちをしました」透かさず後ろから古林が注意を促す。
「何を言っておるか。初めて会う人に対して、それもまだいたいけな少年達だ」老人の古林を見つめる顔は意固地な迄に真剣だ。
網呂井達は半分に分かれた。三人の網呂井は老人の後ろに、残りの三人は古林に近づいてきた。「さあ、出発だ。ここから間もなく急勾配になってくるぞ」老人の声は楽し気だ。
網呂井達に束縛されていない倶留田は仕方が無い様子で老人の後を追った。
古林は傍に来た三人の網呂井の内の一人が膝に白い包帯を巻いているのに気が付いた。
「だめだぞ。背負わない。さっきの奴も奇妙な奴だったからな」古林は機先を制した。
「ねえ、お兄さん。あんなに痛がっているよ」包帯を巻いていない網呂井が駄々をこねるように古林に詰め寄った。包帯の網呂井は膝に手を当てながら盛んに「痛いよ、痛いよ」と叫び出した。その声が次第に大きくなる。
先に登りかけていた老人が何事かと近くにいた網呂井に問いかける。事情を察した老人は離れている古林に向かって大きな声で「古林さん。可哀そうだから背負ってあげなさい」と声をかけた。それでも中々背負おうとしない古林を見て老人は痺れを切らした。
「年を取ると、どうも気が短くなります。古林さん、背負いなさい」いらいらと興奮した命令調の声で老人が叫ぶ。
「ねえ、ねえ、あのご隠居も背負えと言ってるんだからさ」古林の傍にいる網呂井が古林をなおも急かせる。それでも古林は拒んでいたが、包帯をしていない網呂井達が古林のディパックを強引に引きずり下ろし、包帯をした網呂井を背負わせたのだった。
その光景を確認した老人は満足したように再び登り始めた。倶留田は何がどうなっているのか分からないまま老人の後に付いていく。
利根辺知は少し離れた場所でこのやり取りを見ていた。「これはまずいかもしれない。彼らには見えてないのだろうが、網呂井の連中、今度はスウェットシーザーの他にブチリルカッターまで持ち込んでいる。私一人では無理かもしれない」そうつぶやいた後、利根は登山道からフッと消えてしまった。
尖山は最初の杉林を抜けて暫くすると急勾配の登山道に変わる。その急勾配の登山道が始まる辺りまで老人達は辿りついた。老人は急にそわそわし始めた。
「小便ですか?」すかさず倶留田が聞いた。
「ああ、どこかいい場所は無いか」
「丁度、右手の木立の下に少し広くなった所があります。あそこならどこでも」そう答えたのは網呂井の一人だった。
「おう、少年よ。ありがとう」老人は木立の中へ移動した。
「お供しますが」倶留田が言うと「僕達がサポートしますから大丈夫です。倶留田さんは休んでいて下さい」二人の網呂井少年が老人の後を追った。残った網呂井少年は倶留田の監視役のようだった。
『周囲が藪になっている場所でご隠居が迷う訳はないな』倶留田は少し安心しながら老人の用足しを待つ事にした。ふと後にいる古林を見た。古林は先程と同じように離れた場所にいて動けないようだった。尋常ではない汗が古林の顔から噴き出していた。倶留田は用を足している老人も気になったが古林の所へと急いだ。
古林は背負っている網呂井少年の漸増する体重に耐えきれず次第に体を低くせざる得なくなっていた。おまけに二人の網呂井が古林の両腕にぶら下がり、古林が地面にへばり付くようにしていた。傍に来た倶留田が網呂井達を引き剥そうとするが全く動かない。網呂井達は古林への力を緩める事なく倶留田の顔を無言のまま虚ろな笑顔で見つめていた。それを見た倶留田の背筋にはすーと冷たい物が走った。
突然、網呂井達が「ギャー」という叫びと共に古林の体から剝れ、三方へ吹き飛ばされ、五メートルほど離れた場所にドスンと落ちた。
いつの間にか古林の直ぐ横には、赤いロゴ入りの白い半袖Tシャツに紫色の山スカート、薄いえんじ色と濃いえんじ色の縞模様になったレギンスを着用した今時の山ガール姿の若い女性が立っていた。
「お待たせしました・・と言った方が良かったかしら。遅れてしまってごめんなさい。急な利根さんからの呼び出しで、それにこの陽射しでしょう。日焼け止めの化粧もしなくちゃいけないものだから」そう話す時にできるエクボも魅力的だと若い二人の青年は思った。
「私は利羽久美と言います。よろしくね」そう言いながら古林を引き起こそうとする。その時の利羽久美の手は古林の肌に吸い付くような感触を与えた。おまけに立ち上がった後も古林の腕に纏わり付くようにぴったりと寄り添っている。
「なんだか古林だけ良い思いしているな」倶留田はぼやくが、利羽久美はお構いなしに古林と腕を組んだまま「ご隠居を助けに行かないといけないわ」と先を促す。右腕は古林と腕組みをしているが、左手には石突がピカピカに輝き尖っているピッケルを手にしていた。
用を足していた木立の下で老人は右往左往していた。三人の網呂井少年は周囲で囃し立てながら、老人の徘徊するような動きを面白がっていた。老人は自分が今どこにいるのかも分かっていない様子で放心状態の様にも見えた。利羽久美はするりと古林の腕から離れ、ピッケルを右手に持ち替えて老人のいる木立に向かって走り出した。
「あの二人、若い女性の妖精だと目に見えるのか」あきれ顔でつぶやいたのは利根辺知だった。利根の目には老人の周囲にいる網呂井達がスウェットシーザーの他にブチリルカッターを持っているのが見えた。これらの武器は特に古林の働きを抑えてしまう能力を持っていた。古林の動きは、直接老人の動きに反映してしまう。古林の動きが抑えられると、老人は網呂井達の思うがままに操られ、まるで認知症を患ったかのように振る舞ってしまうのだ。
利根には網呂井少年達が持つ武器が見えているが、古林と倶留田には見えていない。これから利羽久美が始める行為を彼らはまともに見ていられるだろうかと利根は心配になった。老人のいる木立に突進した利羽久美はピッケルの鋭い石突で網呂井達が持っている武器をことごとく打ち壊した。そして、最後の仕上げとしてピッケルのブレード部分を利用して、網呂井達をゴルフ打ちよろしくすくい上げるようにして遠くへ飛ばしてしまった。
離れた場所でこの光景を見ていた古林と倶留田は利羽久美が網呂井達をピッケルで突き刺したと思い込んだ。そして、彼女が凶暴な女性という印象を持った。一方で利羽久美は一仕事を終えると満面の笑顔で古林の元に駆け寄り恋人のように腕を組んだ。
「僕はもう大丈夫だから、少し腕を放してくれるかな」古林は次第に高まる恐怖心の中で、やっとの思いでそう言った。腕を組んだ所も何やら赤く腫れてきている。
老人は漸く正気を取り戻し始めていた。倶留田が今、自分達が尖山を登ろうとしている途中である事を必死に説明していたが、既に記憶の一部が欠落している老人は納得した振りをしているに過ぎなかった。
「私、誰かに貼りついていないとだめなのよ」利羽久美は仲間の妖精の利根辺知に不満をぶつけた。古林が久美に拒否的な態度をとっている以上、久美を連れて行くのは無理だった。利根は利羽久美を帰す事にした。
「さあ、これから本格的な登りですよ。古林さん、倶留田さん。行きますよ」老人は今まで何事も無かったかのようにストックを突きながら急登を登り始めるのだった。
尖山は遠くから見ると円錐形をしている。角度にもよるが若い女性の張りのある乳房を横から見た形にも似ている。従って山頂に近づくにつれて傾斜は急になる。しばらくつづら折になった道を登る。周囲にアカマツやコナラの木々はあるが、日中の太陽の光を一身に浴びるので、初秋とは言え低山ゆえに歩くと暑い。一番後ろを歩いていた古林の歩みが再び遅くなっていた。暑さのためか汗が飛び散っていた。次第に老人達との距離も開く。
「待ってくれ」と声に出そうにも声が出ない。既に背中にかなりの荷重が掛かっていた。今回は何の前触れもなく網呂井少年が古林の背負うディパックの上に乗ってきたのだ。三、四人の網呂井少年も出てきて古林の手足を抑えに掛かる。利根辺知は宣言しては挫折する禁煙の約束を今回もこの山で破ってしまい、今、一服していた所であった。そのため古林の異変に気付くのが遅れてしまった。
「これは私とした事が失敗した」そう言うと利根は再び登山道から消え、程無く七十歳代半ば程の老婆と共に現われた。その老婆の名前は花蘭民と言った。
「何も儂まで呼び出す事は無かろうに」花蘭民はいかにも面倒臭そうな表情をした。
「奴らのスウェットシーザーなんぞ、お前さんの能力で十分に対応できるはずじゃ」
「今回のはちょっと厄介でね。婆さんの特殊能力で効率よくあいつ等を退治して欲しい訳さ」そう言いながら利根は古林に憑り付いている網呂井を指差した。
「なるほどね。ディパックの上から覆い被さっておるわ」花蘭民は納得した様子だった。
利根にはディパックの上に乗っている網呂井を取り除く能力が無く花蘭の能力に頼るしか無かった。花蘭は上下とも青色の登山用のシャツとズボンを身に着けていたが、小柄なために周囲の緑の低木の中に溶け込み、まるで擬態をしている昆虫の様にも見えた。花蘭はいつの間に手にしたのか二メートル近くもある長い錫杖をぐいっと古林が背負っているディパックに突き出した。遊環の部分がディパックのショルダーベルトに触れると、不思議な事にシャクという音と共にベルトが切れ、ディパックが網呂井と共に地面に落ちた。次に錫杖を大きくぐるりと回し、その石突部分で網呂井を登山道から突き落とした。更に花蘭は残った網呂井達を登山道から全て突き落としてしまった。古林はゆっくりと立ち上がった。
「これは不思議だ。いつの間にかショルダーベルトが切れている。しかし、これで荷が軽くなった」古林は誰もいない周囲を不思議そうに見渡したが、直ぐにベルトの切れたディパックを抱えて老人の元へと急ぐのだった。
「同じ妖精でも、古林は若い女性の妖精は見えても婆さんの妖精は見えないみたいだな」利根は花蘭を見て笑った。
「それは久美の事か。ふん、外見を若くしているだけで妖精は所詮、人間より遥かに年増じゃ。真の姿を見たら、そのおぞましさに卒倒してしまうじゃろう」花蘭は皮肉を込めた目で利根を見返した。「さてと儂は戻るよ」花蘭民はそう言うと登山道から消えてしまった。後に残った利根は再び登り始めた。
「倶留田さんや」老人が後を振り向いた。
「何でしょう。ご隠居」
「わしは今、何をしているのだろう」老人の顔は真剣だった。「それに、ここはどこだ?」
「ご隠居、今、私達はご隠居の提案で尖山の山頂に向かっております。もうすぐ山頂ですぞ。この坂を登りきればよいのです」
老人の前には焦げ茶色の小さな丸太に似せた人工の棒が階段状に山頂へと並べてあった。
「すまん、すまん。また遅れてしまったよ。例の少年達が、また俺を襲ってきた」古林は先ほどの顛末を二人に話して聞かせた。
突然、老人が古林を見つめ尋ねた。「おや、あんたさんは、どなたさんやったかな?」
「僕ですよ。ご隠居、古林です。ここにいる倶留田と今日、ご隠居と一緒に山登りをしている古林ですよ」古林は老人に分かりやすいようにゆっくりと大きめの声で説明した。老人は何かじっくりと考えているようだったが、直ぐにそれを止めて、遠く眼下に見える富山平野を眺め出した。そして、「下界は、よおく晴れているな」と静かに呟いた。
「何とかならないかな。どんどんと症状が悪くなっているようだ」古林は倶留田を見つめた。これまでずっと老人の傍を離れず冷静さを保っていた倶留田だったが、苦渋の表情を浮かべていた。その時、十数名の網呂井少年達が周辺の低木の間から湧き出すように現れた。直ぐ近くにある夏椿峠へと繋がる狭い登山道からも続々と登ってきていた。
「こんにちは」最初の少年が老人に声をかけた。「おう、少年よ。君達もこの山に登るのか」老人は初めて少年達と出会ったかのように会話を始めていた。
一方、これまで古林にしか憑り付いてこなかった網呂井達だが、今回は倶留田に群がり始めていた。
「君達、止めてくれ」倶留田は追い払っても直ぐに憑り付いてくる網呂井達にいい加減腹が立ってきた。この山行でも終始、冷静さを保っていた倶留田も顔を紅潮させ、憤怒の表情で怒鳴り散らし始めるのだった。
「倶留田さん、もっと冷静にならないと。ご隠居を放置してはいけない」古林は老人に群がり始めた網呂井達に近づいた。
その時、倶留田の肩に優しく手を置く者がいた。細身の体型の若い女性で緑色のハットの下に浮かぶ笑顔が倶留田の心を心地よく揺さぶった。そして、シルバー系の半袖Tシャツに身を包み深緑色の山用スカートをはいた彼女の姿がまぶしく倶留田の目に映った。
「落ち着いて下さい。倶留田さん。あなたが落ち着くだけで、皆さんも落ち着いた行動をとれるのです」彼女は薄手の緑色の手袋をはめた両手を再び倶留田の両肩に触れた。倶留田はまるで母親の胸に抱かれている感覚になった。倶留田が普段の冷静さを取り戻すにつれて、老人を取り囲んでいた網呂井少年達の数も減りだした。すると、老人は何事も無かったように「ご両人、最後の一登りですよ」と二人の青年に声をかけて階段状の登りをストックを突きながら一歩ずつ確実に登り始めた。
「まだまだ元気そうね。寝た切りになるのはもっと先ね」倶留田を落ち着かせた女性は二人の青年に微笑みかけた。
「君は一体誰?」倶留田が尋ねた。
「私は女間椿と言います。この山の妖精なのよ。今日は無事にあなた達が山頂まで登られるように私の仲間達と一緒に見守っていたのです」
女間椿を含む四人は直ぐに尖山の山頂にたどり着いた。低山ながら山頂からは遮るものが無い三百六十度の風景が広がる。来し方を振り返ると富山湾から富山平野が、山側を見ると遠く大日岳、剱岳、立山が一望できる。
「良い景色だ。尖山に来た甲斐があった」老人は恍惚とした幸せそうな表情を浮かべる。
「そうだ。そろそろ食事にしましょうよ。畦内さん!」老人は自分の名前が呼ばれたと思い、声のした方にゆっくりと体を向けた。そこには花柄模様のエプロンをした女間椿が笑顔で立っていた。
『おや?』
老人は明るい陽射しが入る部屋の中でまどろんでいた。部屋では丸いテーブルを囲んで男女数人の老人達が静かに座っている。
「畦内さん、目が覚めた?。昔は良く登山してたんでしょう。山の夢でも見てたのかな」花柄模様のエプロンをした椿美真はスプーンを無表情のままでいる畦内老人の口元に運びながら尋ねた。畦内老人は自ら進んで食べようとはしない。既に食欲という欲が消失して条件反射的に口を開き、与えられた物を飲み込むだけのようだった。
「この近くに尖山という低い山があるけど登った事はあるのかしら?」椿は普段から無反応の畦内老人が何か反応しないかしらと思い尋ねた。その時、意識的な反応かどうかは分からないが畦内老人がにんまりと笑った。
「そう、きっと登った事があるのね。又、登れたら良いわね」椿もにっこりと笑った。
「椿さん。皆さんのお薬をここに置くから間違えないでね」主任の有津はま(アルツ・ハマ)は入所者の氏名が書かれた薬ケースを机に並べた。ケースの中にはドネペジル、リバスチグミン、ガランタミン、メマンチンという刻印のある薬が静かに収まっていた。
―おわり―