糸ちゃんの様子が、なんか変。
「それじゃあ二人とも、仲良くするんだぞ。――リンちゃん、留守中糸のことをよろしく頼む」
正治さんに頼まれ、俺は戸惑いながら頷いた。
しかし大事な一人娘を、義理の息子とはいえ、思春期真っ只中の健全な男と二人きりで残して行っても、平気なんだろうか。
「糸ちゃん。口下手な子だけど、うちのリンちゃんのことをよろしくね」
母さんが糸ちゃんへとのほほんと言い添え、彼女は固い表情で頷いた。
継母に笑顔でそう頼まれたら、誰だって「うん」としか返せないだろう。
のんきに新婚旅行に行こうとする彼らを煩わせないために、我慢しているのかもしれないと思うとやるせない。
玄関のドアを開けた正治さんと母さんは、浮かれた顔で一度振り返る。
「楽しんで来てね」
糸ちゃんが健気に手を振り、二人を送り出した。
ドアが閉まり、初めに思ったのは、本当に行きやがった、だ。
なにかあっても、知らないからな?
母さんはまだ若い。だから半年後、お腹に兄弟が増えてる可能性もある。だけどこっちはもっと若い。まかり間違って同時に孫でもできたら、どうするんだ。
若い男女が一つ屋根の下とか……勘弁してよ。
俺はそっとため息をついた。
母さんが再婚すると言ったのは寝耳に水だったけど、反対することなく受け入れた。
再婚相手に娘がいるって聞かされたときは正直困惑した。でも会ってみたら嫌悪感が吹き飛ぶほど、素直で明るくていい子だった。
彼女はくせっ毛なのかふわふわした髪を耳の下に二つに結い、下ろし立ての服と靴で正治さんの隣でがちがちに緊張して座っていた。ナイフとフォークがカチャカチャと音を鳴らすたびに、どんどん羞恥で顔が赤くなる。
その様子がおかしかったが、鉄壁のポーカーフェイスで堪え忍んだ。
愛らしい糸ちゃんを観察しすぎて、正直な話、あの会食中の会話はほぼ聞き流していた。
あのときなにを食べたかは、あまり覚えていない。たぶん美味しかったんだとは思う。
回想していると、隣に並んだ糸ちゃんが肩を落とすような仕草をして、ふと我に返った。
「……糸ちゃん?」
「な、何かな!リンちゃん!」
糸ちゃんは慌てた様子で瞳をこちらへと向けた。
急に二人きりになったことで、たぶん動揺してる。
「部屋に……」
言いかけて、ふと気づいた。
いつまでも玄関にいても、と思って声をかけたが、もしかしてまだ部屋に戻りたくないかもしれない。
だけど一人だけ先に戻るのも感じ悪いよな……。
でも次の瞬間、糸ちゃんは俺の言いたいことを察したのか破顔して頷き、おかげで安堵とともに室内へと踵を返した。
彼女は子鴨のようにパタパタ後ろをついてきて、なんともいえない、庇護欲のようなものが沸き上がってきた。
妹って、こんなに可愛いものなのか?妹のいる友達に聞いてた話と、なんか違う。
俺と一緒に学校に通いたいから猛勉強してうちの高校に受かったらしいし、頭は悪くないはず。だけど、なんかほわほわしてて放っておけない。
せっかく同じ学校だし、糸ちゃんに悪い虫がつかないように目を光らせておかないとな……。正治さんのためにも。
一番危険なのが自分だけど、そこは無垢な少女を守る側に、なんとか徹しよう。……かなりの苦行だけど。
ソファにかけ、気合いを入れて背筋を伸ばした。
するとおどおどした糸ちゃんが、少し離れた場所に腰を下ろしかける。
え。まさか、避けられてる?妙な感情を鋭く感じ取った、とか?
その姿をじっと見入ってしまい、余計に怖がらせたかと反省しかけたとき、彼女は隣へと座ってきた。
避けられてたんじゃなくて、距離感が掴めなかっただけのようだ。
よかった……。だけど、間がもたない。
「……テレビ、観る?」
場が和みそうなバラエティーとか、やってるといいんだけどな……。
「あ、じゃあDVD観ない!?」
彼女はそう提案し、素早い動きでレンタルのDVDを再生した。
観たい映画でもあったのか?
糸ちゃんの趣味だと……恋愛もの?とか考えていると、ホラー映画の宣伝が流れてきた。
……ホラー?
俺は嫌いじゃないけど、糸ちゃんは苦手そうなのに。意外な選択だった。
「……本編まで、飛ばしてもいいかな?」
宣伝って呆れるほど長いもんな、と同意して頷いた。
ついつい糸ちゃんばかり見てしまいそうになる自分を叱咤し、画面へと視線を集中させる。――が。
序盤から彼女がびくびくとしていることに気づいた。
かすかに触れ合った肩から、小刻みに震えているのが伝わってきて、たまらず問いかけた。
「……糸ちゃん」
「な、何かな?」
「もしかして、怖いの苦手?」
「そ、そそんなことはないよ!」
なんで強がるのかわからないけど、いわゆる度胸だめしとか怖いもの見たさ?
「怖かったら、その……手でも握ってる?」
どこまで踏み込んでいいか見極めるために、手のひらを見せると、
「えっ!?いいの……?」
嬉しそうにこちらを見上げてくる糸ちゃんに、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
どうしよう、可愛いんだけど。
「……いいよ」
照れ臭くて視線を外したとき、突然糸ちゃんが腕にしがみついてきた。
怖いシーンだったのはなんとなくわかる。だけど、二の腕に、かすかだけど柔らかいものが当たっている。
「……糸ちゃん、あの、もう少し……」
せめて胸が当たらない程度に離れて――。
「ぎゃぁぁぁー!出たぁぁぁーー!」
絶叫した糸ちゃんが、今度は腰に抱きついてきた。
思いきり胸が押し当てられて、硬直する。
だめだろう、それは。
着痩せするタイプ?……いや、その思考はもっとだめだ。
「い、糸ちゃん!」
「ひぃぃ……!」
全然聞こえてない!
「糸っ……!」
「ぎょえぇぇぇぇ!!」
どれだけ怖いのか、俺はソファに押し倒しされた。
その火事場の馬鹿力があれば、幽霊だって撃退できるんじゃないのか?
何度呼びかけても、返事はすべて悲鳴。
二時間。二時間だ。その柔らかな戒めを感じながら、意識を散らして呼びかけ続けた。
精神的に疲弊した俺とは対照的に、にこにこ昼食を食べている糸ちゃんに、一言もの申すべきかと箸を置いた。
「糸ちゃん。お願いだから、映画館でホラーだけは、絶対に観ないで」
「えっ」
「特に男とは」
なんとも思ってない相手でも、好意があると誤解されるに決まってる。
「男の子と映画館なんて行かないよ?」
「……今はそうでも、その内誘われたりするようになるよ」
可愛いんだから。
「あはは。ないよ〜」
糸ちゃんは、のんきに一笑に附した。
危機感がなさすぎる。
なんでこんなにのんきなんだ?
「男友達は?」
「いないよ?だって男の子って、意地悪でがさつで乱暴で、近寄りたくもないもん」
「……」
ということは、俺は男として見られていないのか?
だから平気でくっついてきた訳か……。
当然といえば当然だけど、なんか……もやっとするな。
「どうしたの?」
「……ううん。好きな人とかは?」
聞いてから、しまったと思った。
あからさまにしゅんとしてしまったからだ。
もしかして失恋したとか?
自分だってこのての話、得意じゃないのに。
「好きな人なんて……あ、そうだ。リンちゃんは?付き合ってる人とかいたりする?」
「いないけど……」
正直に答えると、ぱっと晴れやかな表情になった。
よくわからないが、気を持ち直してくれて助かった。
「わたし、リンちゃんとだったら映画館でも遊園地でも、散歩でも行きたいな〜」
え……?それはつまり、デート?
いや、俺は男として見られてなかったんだった。それならただの外出か。
だけど外を並んで歩きたいと思ってくれていることが素直に嬉しい。
にやけてしまいそうで、誤魔化すために顔を俯けてコップへと手を伸ばした。
「それでね、最終的にはリンちゃんと一緒にお風呂に入れるくらい仲良くなりたいな」
……は?
耳を疑った。
一緒にお風呂……?
つい想像してしまい、動揺しすぎて、コップを倒してしまった。
理解が追いつかずに固まっている間に、糸ちゃんがテーブルにこぼれたお茶をふきんで拭いてくれていた。
その顔に、やましさは一切ない。
自分の発言がとんでもないものだと、わかってない顔だ。
ああ……。だめだ。頭が痛くなってきた。
「リンちゃん、頭痛いの?薬出す?」
「なんか……ううん。なんでもない」
未だに正治さんと入浴してるはずは……ないよな。
だったらどう考えればいいんだよ。
そっちにその気がなくても、こっちの抑えがきかないから。
微妙な空気を紛らわせてくれたテレビに感謝しながら、俺はなんとか食事を終えた。
これまで糸ちゃんと二人きりになったことはなかった。
兄妹と言っても義理だし、もっとお互い適度に距離を置いて生活するものだと思っていた。
だけど……糸ちゃんの様子が、なんか変だ。
今はちらちらとこっちを見てくる。
なにか言いたいことでもあるのかとそちらを向くも、目が合うとお風呂の件を思い出して顔が紅潮してしまい、慌ててさっと逸らしてしまった。
ここにいたらまずい。……よし。一旦、逃げよう。
俺は着の身着のまま、財布とスマホだけもって家を抜け出した。
周辺を散歩として歩き回り、邪念を振り切り、そろそろ帰ろうとしたところで、ふと思い直す。
手ぶらで帰るより、なにか買って帰った方が自然なんじゃないか?
そういえば、少し足を伸ばしたところに、プリンの専門店があったはずだ。
正治さんいわく、糸ちゃんはプリンには目がないらしい。
買っていったら、喜ぶかも?
糸ちゃんの、ひだまりのようなあたたかい笑顔を想像して、その店へと直行した。
プリンを買おう。今すぐに。
だけど肝心の好みがわからない。
とりあえずショーケースに並んでいるものを一種類ずつ買っていけばいいかと、合計六つのプリンを箱に詰めてもらった。
なんか、浮気した夫が妻の機嫌のご機嫌取りをするみたいな行動だな……と思いながら袋をぶら下げ帰宅すると、糸ちゃんがなぜかしょげかえっていた。
「……リンちゃん、おかえり」
声に元気がない?
うん、と戸惑いながら返事をすると、糸ちゃんの視線がプリンの入った袋へと固定された。
次の瞬間、ソファから勢いよく立ち上がった。
袋だけでなにかわかったのか?
食いつき方がすさまじい。
「正治さんが、糸ちゃんはプリンが好きだって言ってたから……その、買ってきた」
ずいっと糸ちゃんに、袋を差し出す。
彼女は、ぱぁぁ……と花が咲いたように顔をほころばせて、
「リンちゃーん!ありがとう!大好きっ!」
大好きって……!
うわっ、すごい嬉しい。
毎日プリン買いそう……。
「あ、うん」
なんとも中途半端な俺の返しを気に止めることなく、糸ちゃんは箱を開けた。
そして六種のプリンを前に、こぼれ落ちそうなくらい目を見開く。
一つずつ、順に吟味し、選べなくて悩んでいる。
「……全部、食べる?」
初めから糸ちゃんのために買ったものだし、賞味期限内に食べきれるなら全部食べてくれても構わなかった。
虚を突かれた様子の彼女だったが、すぐにぶんぶん首を横に振った。
「わたしが全部食べたらリンちゃんの分がなくなっちゃう!……ちょっとずつ、交換しよう?」
潤んだ瞳で、上目遣い。……反則だろう。
なんでも許してしまいそうなその表情にこくこく頷き、慌てて「手を洗ってくる」と言って洗面所へと駆け込んだ。
蛇口をひねって、流水に手を浸しながら、翻弄されすぎだろうと自分に呆れる。
平常心を心がけてリビングへと戻ると、プリン選びを終えたのか、無難な黄色いプリンとスプーンを持つ糸ちゃんが尋ねてきた。
「リンちゃんはなにがいい?」
プリンにこだわりはないから、なんでもいいんだけどな……。
ぱっと目についた一番近い隅にあったチョコプリンを選択した。
透明な蓋をはがしたところで、糸ちゃんが自分のプリンを一口すくい、こちらへと向けてきた。
「リンちゃん、はい」
はい?はい、って、なに?
スプーンの上でふるふると揺れるプリンと、糸ちゃんのくったくない顔を交互に見遣る。
俺がなにもわかってないことにしびれを切らしたのか、彼女はとんでもないことを口にした。
「あーん」
スプーンが距離を詰めてきて、さすがに理解した。
学校でも、弁当でこれをやっているクラスメイトを見たことがある。そしてドン引きした覚えもある。なのにまさか、その『あーん』をする日が来ようとは。
だけど、安易に交換の約束してしまった以上、今さら引けない。
俺は意を決してそれを食べた。
「美味しい?」
小首を傾げる糸ちゃん。
もう可愛すぎて直視できない。
「リンちゃんのも、一口だけちょうだい?」
ああ、そうか。忘れるところだった。
雛鳥のように、あーん、と口を開けて待っている糸ちゃん。
綺麗なピンク色の口の中がよく見える。
親鳥の気持ちを心がけて、すくったチョコプリンを入れた。
にこにこしているので、おいしいんだろうな。
残念ながら俺は、味なんてわからなかった。
てっきりスプーンを取り替えるのかと思っていたのに、彼女はなんの躊躇もなく、そのまま自分のプリンをすくって口に入れる。
これって、間接キス……?
「どうかしたの?」
「……ううん。なんでもない」
なんとか平静を装った。
こっちばかり意識している気がする。
彼女を見習い、細かいことを気にしないようにしないと。
「春休みももう終わっちゃうね。学校、馴染めるかな……?」
「根拠はないんだけど、糸ちゃんならどこにいても大丈夫な気がする……」
危険地帯でこうも伸び伸び過ごされたら、そう思わざるを得ない。
「リンちゃんは誰かと一緒に登校する約束とかしてる?」
「まだこっちに越してきたばかりだから、特には」
「じゃあさ!一緒に登校しよう?」
糸ちゃんが身を乗り出してきた。
「いいよ。正直、電車は心配だったから」
糸ちゃんって、痴漢の標的にしかならなそうだしな。
せめて登校中くらいはそばでガードしていた方が、自分の精神安定上いい。
「痴漢とかいる?」
「いる。確実にいる。だから、気をつけてね」
いつもそばで見張っていれるわけじゃないんだから。
なのに糸ちゃんは至ってのんきそうに微笑む。
「大丈夫だよ〜」
だめだ。ここは心を鬼にして厳しく言い聞かせないと。
「その油断が隙を生むんだから」
人が真剣に伝えているのに、当の本人は真面目に聞くどころか、不憫そうな眼差しでこちらを見つめてきた。
「その憐れむような目は一体……?」
「だってリンちゃん、痴漢に遭うでしょ?」
な、なぜそれを!誰にも言ったことはなかったはずだというのに。
「任せてリンちゃん!わたしが痴漢を撃退するからね!」
糸ちゃんが張り切って胸をどんと叩いて宣言した。
「こら!危ないことはするな!」
なんで戦うことになってるんだ。
いや、悪いやつだし、捕まえるなとは言わないけど……。
もしや駅員につき出す過程で、相手が暴れたらってことなのか?
たとえそんな事態になっても、無茶なことだけはさせないようにしないと。
静かになったなと思ったら、糸ちゃんが黙り込んでしまっていた。
そういえば軽くとはいえ、彼女に怒ったのはこれが初めてだった。
「怒ってごめん。……怖かった?」
「怖くはないけど……。リンちゃんがそう言うなら、よけいなことはしない。……だけど一緒に登校してね?他人のふりとか、しないでね?」
「他人のふり?なんでそんなことを?」
「だって家族……というか、わたしのことを恥ずかしいと思うときがあると思うし」
ああ、そうか。
俺も授業参観とかで母さんが年甲斐もなくふわふわの服を着てきたとき、恥ずかしくて死にそうだったもんな。
だけど糸ちゃんは、制服改造とか変なことはしないだろうし。
「いや、糸ちゃんみたいな妹ができて、嬉しいよ……?」
……この台詞、恥ずかしすぎる。
というか、なんか糸ちゃんがにじり寄ってきたんだけど。目、怖っ!
反射的に後ずさった。
糸ちゃんは不服そうに元の位置へと戻る。
ろくなことを考えていなさそうな糸ちゃんが、横目でじっと凝視してくるから、ぞくっとした。
夜は母さん特製のあまめのカレーをあたためて食べ、お風呂に交代で入ることになってほっとした。
まだ一緒に入りたそうな眼差しが理解不能。
糸ちゃんの将来に不安しかない。
やっと浴室に行ってくれたときには、ソファに背中を預けて大きく息をついたほどだ。
つけっぱなしだったテレビでドラマが始まり、なんとなくそちらを向いた。
シェアハウスの恋愛模様に、ドキドキするどころか正直ハラハラした。
これは物語だから、一つ屋根の下の男女間にハプニングがあって当たり前だ。実際はそんなお約束展開、どこにもない。
むしろ糸ちゃんとのこれからの生活には、嫌な予感しかしない……。
「リンちゃん。お風呂空いたよ〜」
いつの間にお風呂からあがったのか、そばで声をかけられた。
あ、うん、と振り返った先にいたのは、ほかほかと湯気を立てるパジャマ姿の糸ちゃん。
頬は上気し、髪は湿っていて、しかもパジャマのぼたんの一番上が開いていてほんのり色づいた首筋から鎖骨までが控えめに覗いている。
一瞬でかぁっと赤くなった顔を背けた。
直視したらまずい。誘惑しているわけじゃなくて、素なところが、糸ちゃんのたちが悪いところだ。
「リンちゃん?」
「な、なんでもない」
決して目を合わさないように、俺はお風呂へと逃げ出した。
脱衣場でほっと息をつき、一人での入浴に心から安堵して浴室へと入ったのだが――。
糸ちゃんのシャンプーの香りが浴室内に充満している。
しかもよく考えたら彼女の浸かったあとのお湯に入らないといけないわけで……。
つまり、どこにいても落ち着けない。
こんな状態でやっていけるのか、俺……。
鏡に映るやたら母さんに似た自分の顔は、どうしようもなく困り果てていた。
お風呂から出て、母さんが用意していた糸ちゃんとおそろいのパジャマを無視して、いつものTシャツにジャージ姿でリビングへ行くと、ソファで糸ちゃんがすやすやと寝息をたてていた。
「嘘だろ……」
ここで寝るか、普通。
しかも湯上がりで、無防備。パジャマの胸元からささやかな谷間まで覗かせている。
おい。誰だ、この子をここまで無警戒に育てたのは。……正治さんか。
糸ちゃんの母親は小さい頃に亡くなったと聞いていたので、間違いなく父親である正治さんが犯人だ。
だけど、今さらそんなこと知っても仕方ない。
まずは風邪を引かない内に、部屋まで運ばないとな。
お姫様抱っこで階段を上がるのは、さすがに骨が折れた。
「う、重っ……」
思わず呟くと、急に足をばたつかせてきた。
「勘弁してよ……」
せめて部屋につくまで大人しく寝てて。
切実に祈りながら糸ちゃんの部屋のドアを肘で開けて、足で閉めた。
ベッドにそっと下ろして、大仕事を終えて気を抜いたとき、か細い声がもれ聞こえた。
「お、か……さん」
母親の夢でも見ているのだろうか?
邪魔しないように、そっと布団をかけようとしていたそのとき、腕を掴まれ布団の中へと引きずり込まれた。
「え」
完全に油断していた。糸ちゃんの力は結構強いことも、すっかりと失念していた。
その間に、腕と足が身体に巻きついてくる。
「抱きつかないで、ちょ、ほんとっ、やめて……!」
「うぅーん……」
「うぅーん、じゃなくて!起きろ、糸ちゃん!――こら、糸!」
信じられない。
なんなんだ、この拷問は。
いたずらしても文句を言えないからな?
と思いつつも、糸ちゃんの無垢な寝顔を眺めながらそんな非道な行いができるはずなく……。
母さん……早く帰ってきて。
生まれて初めて母さんを恋しいと思った。
「うー……ん、……あれ?リンちゃん?」
寝ぼけ眼の糸ちゃんがようやく起きてくれたようで、不思議そうにこちら見た。
だけどこの状況はまずい。早く説明しないと。
「違っ、違うからね!?運んできただけで、やましいことはなにもしてないから!」
首を何度も横に振る。
糸ちゃんがあっさりわかってくれたことにほっとした。
「じゃ、じゃあ、おやすみ……」
そう告げそそくさと出ていきかけたところを、抱きつかれて阻止された。
なんなんだこの子は!そんなに襲われたいのか!
勢いに任せて彼女へと手を触れかけたところで、ぽつりとした呟きが聞こえた。
「細いね……」
「!?」
衝撃だった。どれだけ鍛えても筋肉がつかない身体が地味にコンプレックスだっただけに、糸ちゃんの気遣いのなさに絶句した。
「ご、ごめんね?まだこれからだし、牛乳飲んだり……ね?」
「……」
牛乳飲んでどうにかなるなら、もうなってるんだよ。
どうせ女顔で身体の薄い、貧相な男だよ。
「大丈夫だよ!わたしはそんなリンちゃんも好きだよ!」
「……本当に?ただの慰めじゃなく?」
「慰めじゃなく」
本気で告白されてる気分になるんだけど。……違うよな?
「それは……態度で表すなら、どのくらい?」
「態度で?」
糸ちゃんのやわらかい頰を手でくすぐり、少しだけ顔を寄せた。
いい加減、この子の危機感を矯正しておかないと。
「たとえば、……キス、できる?」
突然迫られればさすがにすぐ無理だと突き放してくると思ったのに、信じられないことにキスしてきた。
なにこれ。ラブコメ?期待するよ?
「ご、ごめんね?責任取るから!」
ぽかんとしていると、糸ちゃんがなぜか、しでかしてしまった男みたいな発言をする。
やっぱりこの子、なんか変だよな。
女の子に責任取らせるのは違うと思いつつも、
「……うん。責任取って」
俺の我慢強さを崩壊させた、責任を。
たぶん意味をわかっていないだろう糸ちゃんは、簡単に安請け合いした。
今は無体なことはしないけど。
ここは長期戦だ。
というわけで今日のところは撤退しよう。
「じゃあ、……おやすみ」
「おやすみ〜」
もう半分ほど寝入る体勢の糸ちゃんの、手だけおかしい行動を取っている。
俺のジャージのポケットを、掴んで離そうとしない。
「……いや、離してくれないと、部屋に戻れないんだけど……」
「すぅ……」
寝た!早っ!
ジャージを脱ぐわけにもいかないし、もうここで寝るしか、選択肢はないのか?
「糸ちゃん!」
「すぅ、すぅ……」
何度も呼んでも、起きる気配はない。
なんなんだ、この生殺しは。
毎日これでは身がもたない。
結局俺は叫び疲れ、いつの間にか眠ってしまっていた……。
翌朝すっきりとした笑顔の糸ちゃんと一緒に目覚めることになる。
そのときの俺は、まだ、気づいていない。
糸ちゃんの様子がなんか変だったことの、理由を――。
気づくのはもう少し先、糸ちゃんが制服姿の俺に驚愕の表情で絶叫するときになりそうなのだが……、それはまた別のお話――――。
最後までお読みいただきありがとうございます!
本編に出す機会はなかったですが、リンちゃんの名前は琳太郎といいます。
続くみたいな終わり方ですが、今のところ続きはない予定です。