その匂いは永遠に
高い高い空のてっぺんを一筋の羊雲が緩やかに流れて行く。
吹きわたる風は肌に心地よく、うんざりするほど暑かった日差しもようやく鳴りを潜め、大気は涼やかに澄み切っている。赤や黄色に染まった山肌の暖色と空の涼やかな寒色の対比が美しい。天高く馬肥ゆる秋、というやつだ。
そんな……日本に生まれたことを感謝したくなる美しい景色の中。
俺と焔は並んで焼き芋を食べていた。
「……うまいな」
「……うん、美味しい……」
そう言ったきり沈黙が訪れる。
…………。
無心、かつ無言で焼き芋をほおばり続ける二人。何故だかひどく息苦しい気がするのは気のせいだろうか? まさか焚火の煙で一酸化炭素中毒に――などと言う事はあり得まい。
気詰まりのする沈黙の中で、俺は何か楽しい話題は無いかと模索した。
「……悠真に彼氏が出来たって話知ってるか?」
そしてようやく見つけた話題はひどく下世話なものだった。
「……ええ、知ってるわ。数学の鰐淵先生でしょ? 二人とも少し怪しいところがあったけれど……やっぱりそうだったってことよね。別に同性愛に偏見はないけれど……あの二人の組み合わせはちょっと……。それに年齢的にも大丈夫なのかしら? 一応私達まだ未成年だし……」
だが、焔は眉をしかめながらも会話に応じてくれた。彼女もまた会話のネタに苦慮していたのだろう。
「法的には真面目な恋愛なら良しとされているようだが……まぁ大丈夫じゃ……ないだろうな」
「だよね……」
俺がなんとか絞り出した話題は、そのままパチパチとはぜる焚火の中に吸い込まれて行った。再び焼き芋を頬張る。このままではあっという間に一本まるまる食い終わってしまいそうだった。
『結婚って――事を急ぎ過ぎでしょ』
病院での俺の決死のプロポーズ第二弾は、そんな言葉でまたも棚上げされた。
『でも、せっかくのプロポーズを無下に断るのもなんだから……』
だが、それにはそんな言葉が続き、結論として俺達は付き合う事になった。よくよく落ち着いて考えてみれば、現実問題として高校生である今の自分では年齢的にも立場的にも結婚は不可能である。だから交際できたというだけで本来ならば良しとすべきであった。
だが、俺は実を言えば少し落胆していた。本当は返事が欲しかった。イエスと言う返事が。
だから、あの場で冷静に現実的な判断を下した焔が少し憎らしくもあった。
「もう、体は大丈夫?」
「ああ。今のところはな」
心配そうな目でちらりと視線を寄こした焔に、俺は軽く笑ってそう答えた。
せっかく付き合い始めたと言うのに、俺は焔と一カ月近く会えなかった。再度の入院生活を余儀なくされたからだ。だが、まぁそれも仕方がないだろう。あの数日で二度も死にかけたのだ。万全を期すのも頷ける。むしろそうでなければ困るというものだ。
実際、検査入院していた一カ月の間、発作は一度も起こらなかった。それで研究心に富んだ医師達を落胆させてしまったのだが、そんなことは俺の知ったこっちゃない。心電図を二四時間ずっと付けていたが、些細な不整脈すら起こらなかった。
『完全寛解かもしれません』
その結果を受けて、顎の辺りを痛々しくガーゼで覆った橋本が言った。
『放屁体である焔さんの屁を吸引したことによって異常をきたしていた心筋受容体が、不可逆的に変異し、正常化した可能性が高いです』
相変わらず難解な言い回しで説明されたが、要は『おおよそ治った』という事らしい。おおよそという枕詞がつくのは症例数が皆無に等しく再発のリスクを規定できないからだ。
だが、仮に再発したとしても俺の理想とする放屁体は既に判明している。発作頻度を激減させる焔の屁があれば、ほぼ日常生活に支障は出ないだろうとのことだった。
ちなみに俺の病気は世界で類を見ない奇病という事もあり、今までの経緯と結果は今冬の学会で発表され、さらに内容を詳細に検討し論文として公表するらしい。
そうして発表されれば俺の病気に対する研究が進むかもしれないので、さしあたっては応援しておこうと思う。
そんな紆余曲折を得てようやく本日のデートに至った訳である。
だが、焔は心ここにあらずと言った感じで遠くを眺めながら、焼き芋を頬張っているだけだった。
ここは近所の仏閣。相国寺という寺だった。相国寺は旅行ガイドの片隅に紅葉スポットとして掲載される程度には、優美な場所だ。だからちょっとした散歩や紅葉を楽しむ程度ならばとてもいい所である。
この場所を初デートの場所として選んだのは焔だった。
ここは小松屋と並んで、幼少時によく焔と遊んだ場所だった。おそらく最初のデートとして昔を懐かしみながら初心を顧みようと思ったのだろう。実際その狙いは大当たりで、早速、当時よく焼き芋を御馳走してくれた和尚さんと邂逅を果たす事ができた。その結果、今再び焼き芋のご相伴に預かっているという始末である。
ちなみに和尚さんは火の始末を俺達に頼んでどこか法事に出かけてしまった。とっくに還暦を越えているはずだが、忙しい人なのだ。
「もう少し早く言ってくれればよかったのに――」
その時、不意に焔が何かを口にした。
「うん?」
俺は咄嗟に聞き返す。
「あんた……本当におならを嗅がないと死ぬ病気だったんでしょう? もっと早く言ってくれれば……いや……どうかな」
焔は少し口ごもり、次いでへへっと恥ずかしそうに笑った。気恥ずかしさを隠そうとするかのように、食べ終わった焼き芋の皮を焚火の中へと放り投げる。
そんな柔らかな焔の笑顔を見たのはいつ振りだろう。俺は吸い込まれるように焔の横顔を見つめた。
どうかな、なんて言葉を濁したが、俺が誠心誠意説明をすれば多分こいつは実行してくれたはずだ。実際、俺が運び込まれたあの病院の処置室で、こいつは多感な女子高生にはまず不可能な難行を、それで俺が治るという確証すらないのに、人目のある中で行ってくれたのだ。
その事を考えるだけで俺は胸が熱くなった。感謝してもしきれなかった。
「ありがとう」
自然とそんな言葉が口を衝いて出た。
「何よ、突然」
「お前のおかげで今の俺がある。生きてこうして話ができるのも全部お前のおかげだ。感謝する」
唇を尖らせぷいと横を向いた焔の耳が、焚き火に当たり過ぎたせいなのか、やけに赤い。
「……そんなに改まらなくたっていいわよ。人助けなんだから……当然でしょ?」
俺は笑う。
「ねぇ」
不意に焔が固い声を出した。
「なんだ?」
「あの時の言葉は本気? それとも必要に迫られて?」
振り向いた焔の顔は打って変わって真剣だった。
――あの時? 俺はその時に覚えがなかった。
しかめっ面をして該当する場面を思い起こしていると、焦れた焔が言葉を継いだ。
「……私の……その……おならが必要だったから……心にもないことを言ったんじゃないでしょうね?」
なるべく自然な口調を心がけていたようだが、声の震えを隠しきれてはいなかった。
その顔に、ああ、と俺は得心する。ようやく焔が何を言わんとしているのか分かった。そしてそれが分かった途端に、どこかくすぐったいような微笑が自分の顔に浮かぶのが分かった。
「あれは……俺の本心だ」
そんな事を心配していたのか。俺は焔がいじらしくてたまらなくなった。だがそうと言葉に出して告げるのは気恥ずかしい。だから俺もなるべく平坦な口調を心がけて言ったつもりだった。だが、緊張で声が低く、固くなってしまった感は否めない。
「あ、ああ。そ、そう。そうよね」
それで焔はさらに動揺してしまったようだ。足をぴったりと閉じ、恥ずかしげに俯く。
焔は俺のプロポーズの言葉がでまかせではないかと、そう心配していたのだ。再発を恐れた俺が、焔の屁を恒久的に手に入れる環境に身を置くため、致し方なく焔に求婚したのだと。
だが、そんなはずもない。そもそも、好きな女の屁でなければ効かないのだから、でまかせで求婚するはずがない。
そんな事聞かなくても分かりそうなものなのに――。それでも聞かずにはいられないのが女という生き物なのか。
それとも別の理由でもあるのだろうか。
……ん?
そこまで考えて俺はヒヤリと背筋が冷えるのを感じた。
……別の理由?
そうだ。焔は『無下に断るのもなんだから』付き合ってあげる、と言ったのだ。さらに言えば俺に屁を与えてくれたことでさえ『人助けなんだから当然』と表現している。それは聞き様によっては、誰であっても人助けのためならば放屁するとも取れる。
気温は涼やかなのに、どっと全身から汗が噴き出し始めた。
俺のために放屁してくれた、付き合う事を受諾してくれた、それだけで焔も俺を好いてくれているものだと思っていたが――。
俺は焔の顔を見た。
意外にお人好しのこいつならありうる。ノーと言えないからずるずると付き合う事を了承してしまったが、実は俺の事は好きでもなんでもないのではないか。
俺はその可能性に思い至り愕然とする。
まさか、こいつ――今日ここで俺を振るつもりか!
それならば頷ける。二人でいるのにこんなに気詰まりなのも。会話が無いのも。焔の態度がやけに神妙なのも!
「ねぇ、我意。あの時のプロポーズの事なんだけどね……」
「ちょっと待った!」
「へ?」
思わず俺は焔の言葉を遮っていた。
「ちょっと……待ってくれ。……その前に……ちょっと確認させてくれ。お前は……その……俺の事が……好きなんだよな?」
「はぁっ?」
焔の頬がぱぁっと赤く染まり、目が見開かれる。
「ば、ばっかじゃないの!? いきなり、な、何言ってんのよ。そんなの……返答に困るじゃない!」
「返答に困るだと!? 何故だ! 何故困るんだ!」
俺は焦った。
「好きならば好きと言えば良いじゃないか!」
俺の詰問に焔は唖然として口を開けた。だが、その口がゆっくり閉じられると、俯きがちになり、次第にぷるぷると全身を震わせ始めた。
「ああ、そう言えばそうだったわね。あんたがそういう男だっていうこと……私、すっかり忘れていたわ……」
「どういう意味だ!」
俺は半分パニックに陥っていた。まさか、本当に振られる? それは命の危機に直結する。俺は心も体ももはや焔なしでは生きられない。
「ねぇ、我意。棚上げしてたけど、あんたのプロポーズの返事、今ここでしてあげようか? あんた私の答えが聞きたいのよね」
「そうだ! 俺の命がかかってるんだ。やはり交際だけでは心許ない! 婚約……いや、せめて結婚を前提とした付き合いにしてもらいたい! そのためにはお前の俺に対する好意の確認が不可欠だ!」
焔のこめかみがぴくぴくと痙攣したのが見えた。何か言い方を間違えたか? いや、俺は事実を端的に述べたに過ぎない。
「そうよね。命がかかってるんですものね……」
焔は立ち上がり、腕組みをした。顎を逸らし、俺を上から下へ見下ろして意味ありげに笑う。
「そうね……じゃあ、こうしましょう。答えてあげるから……もう一度ちゃんとプロポーズしてくれる? もっと気持ちを込めて」
「なにッ!」
俺は思わず立ち上がった。そしてそのハードルの高さに言葉を失う。あれは復活直後のハイテンションという高跳び用の棒があったからこそ飛び越えることができたのだ。今、この状態で言えと言われてもやすやすと言う事などできない。
「うん? 何? 言えないの? やっぱりあれは私のおならを手に入れるために、仕方なく言った言葉なのね。う~ん、そうかぁ。君はそういう男なのかぁ。妥協して選ばれるなんてなんか嫌だわ。そういう男の所に嫁いで、私幸せになれるのかしら……」
「ぐぬぬ」
俺は苦悶した。焔は腕組みをしたままニヤついている。
おならを恒常的に入手できる状況にする――確かにその目的もある。だが、プロポーズまでした第一の目的は……そんな理由ではない。
「もう言っただろ! あれでいいじゃないか。俺の気持ちなんか言わなくても分かっているだろう!」
「良くないわ! 全然良くない! ……ちゃんと言ってくれなきゃ分からないこともあるでしょう?」
焔が腕を解き、ずい、と詰め寄ってきた。
「……それとも……本当に言えないの?」
ニヤついていた焔の顔に不安が混じった。勢いのよかった焔の声も、その言葉尻は消え入りそうに小さくなる。
つまり……これは本気なのだ。返答如何では本当に振られる。そう直感した。
俺は焔の両肩を掴んだ。
「え?」
そして、ぐいと引いて真正面に向き直らせる。
「俺の目を見ろ!」
「は、はい!」
目を逸らされそうになったので、俺はそれを制した。視線と視線が至近距離で重なる。焔の瞳の中に間抜け面した自分の顔が映っていた。
大きく息を吸って、吸った時間よりも倍の時間をかけて吐き出す。それを二回ほど繰り返して俺はゆっくりと口を開く。
「確かに俺はお前の屁が必要だ。お前が傍にいてくれればもし再発したとしても安心だ。けれど、お前は忘れている。どうしてお前の屁が必要なのか、どうしてお前の屁じゃなければ駄目なのか、その理由を」
握りしめた焔の肩が手の中でわずかに身じろぎした。だが、俺はそれを押さえつける。逃がさない。俺はこの女を逃がさない。
何故なら――。
焔が頬を桜色に染めて俺を見上ている。俺はごくん、と唾を飲み込んだ。
「お前の事が好きだから、だ」
怯えた小動物のように縮こまっていた焔の表情が、ゆっくりと解れていく。目の前で……焔が微笑む。花が綻ぶように。本当に嬉しそうに。
その幸せそうな顔を前に、俺は告げる決心をする。もう一度、聞かせて欲しいと言われたあの言葉を。三度目の正直。焔はじっと俺の目を見つめたまま動かない。期待にその瞳が輝いている。息を深く吸い、俺は腹の底に力を込めた。
「焔……俺と――けっ」
……ぷぅ。
その時。どんな神の悪戯か。
「あ、え……え?」
唖然とした目線のやり取りが行われる。
どっち? と思ったが俺であるはずがない。確かに腹に力を込めたが、そう言う意味ではない。そちらの方はきちんと締まっている。
そうなると犯人は消去法で――。
「お、おい……お前……まさか……」
忘我の面持ちで焔を見た。
「え、っと。あの……だ、だって、あの今さっき、お芋なんて食べちゃったから」
恥ずかしそうにもじもじと呟く焔。発作が起きた訳でもないのに、この大盤振る舞い。
「ぷっ」
俺は込み上げてくる可笑しさを抑えきれなかった。
「ははは。あはははは」
笑っちゃ悪いとは思ったが、笑わずにはいられない。
今だけは、この奇っ怪な病気にかかった不運を嘆くのではなく、感謝した。
俺と焔をこのような分かち難い絆で繋ぎ合せてくれたのだから。
「し、仕方がないでしょう!」
焔が俺の手を振りほどこうと暴れたが、俺はむしろ力を込めて抱き寄せた。腕の中にすっぽりと焔が収まる。
「だ、駄目! 放して! こんなに近くにいたら、絶対――」
「気にするな」
胸の中でもじもじと恥じらいを見せる焔が愛おしい。
こうした日々を焔とこれからも過ごせるのであれば――俺の発作も二度と起こるまい。
「だ、駄目だったら! 息、息を止めて! そして二度としないで! 永遠に!」
「無理だ」
俺は深く息を吸い込んだ。興奮に上気した焔の汗と、ぱちぱち爆ぜる薪の香り、そしてその匂いが混然一体となり、実りの秋に相応しい大地の如き薫香となって俺の鼻孔を愛で上げる。
「あーっ!」
「おならを聞かれた、のみならず嗅がれてしまったらもうお嫁には行けないんだっけか?」
ニヤけそうになる顔を何とか真顔に作り替え、俺は子犬のように暴れる焔に告げる。
「だが安心しろ。……嫁の貰い手なら……ここにいる」
俺の言葉に焔はピタリと動きを止める。
「プロポーズの言葉はこれで許してくれないか?」
焔はしばらく固まっていた。
だが、やがて……。
「……あの時とほとんど同じじゃない……」
俺はドキリとした。嫌と断られた『あの時』の悪夢が脳裏をかすめる。
「……嫌……か?」
「……嫌だと思う?」
だが、そう答えた焔の顔には悪戯っ子のような微笑が浮かんでいた。
「なら、私の答えも……これでいいでしょう?」
俺は頷いた。確かに、その微笑が焔の答えだった。
「でも、覚悟してよね」
焔はするりと俺の腕を抜け出して、振り返る。心地よい風を受けて、焔のほのかに赤い髪が柔らかくはためいた。
「もしあんたが浮気なんかしたら……んむっ」
俺は焔に最後まで言わせなかった。
賢明な男は保身の術も心得ているものだ。
下手な約束なんかするべきではない。
そして、できる男は口の塞ぎ方も心得ている。
その方法は、初めて試してみた割にはうまくできたような気がした。
了