お前の屁が欲しい
「ぷぅ」
という音が聞こえた気がした。
ざざぁん。
静かに寄せる波の音。それがもう少し早く打ち寄せてくれれば良かったのに。
真夏の太陽に焼かれて真っ黒に日焼けした女の子。その頭には少し大き過ぎる麦わら帽子と白い小さなワンピースが潮風に揺れている。
僕と女の子は夕暮れの海辺で砂の城を作っていた。
「ねぇ……」
僕は慎重に言葉を探る。潮の匂いとは違う、すん、とした刺激的な匂いが辺りに漂っていたからだ。
「ひょっとして……した?」
だが、言葉に出してしまったことが、そもそもの間違いだった。
「何か……聞こえた?」
女の子は夕日の中にいた。赤々と燃えるような夕日を背負っていたため、その表情は全く読み取れない。それでも、女の子の震えるようなその声色が、僕に自分の予感が的中したことを伝えていた。
知らず知らずのうちに頬が緩む。それは答えを当てた子供の無邪気な笑み。
大間違いなのに。
その反応は絶対にしちゃいけなかったのに。
だけど、子供ならみんなそうでしょう? 当たったら嬉しい、それだけのこと。
「うん」
聞こえた? という質問に、僕ははっきりと頷いた。嘘はついちゃいけない。嘘つきは泥棒の始まりだ。
「……嗅いだ?」
「うん。でも、そんなに嫌な臭いじゃなかったよ」
けれど、世の中には人を傷つけないように優しい嘘が必要な時もある。ただ、それを知るための経験が、この時の自分には無かった。
彼女のその匂いは、例えるならお日様をいっぱいに浴びた畑のような香りだった。とても清々しくて、健康的で……うまく表現できないけれど、とにかく……そう特別な香りだった。
だから、僕は褒めたつもりだった。お父さんのそれはいっつも鼻が曲がるほど臭いのに。でも彼女のものは全然違う。臭くない。
不意に少女の首が傾き、幻想的なオレンジの光の中にその表情が露わになった。
彼女は泣き出す寸前の幼子のような顔をしていた。
僕はいったい何を期待していたのだろう。あんな答えで、微笑んでくれるとでも思ったのだろうか。
口をへの字にして、それでも涙を堪えようと、一生懸命我慢して。
僕は何もできずにその顔を見続けた。ぷっくりと膨らんだ雫が、表面張力を打ち破り、彼女の頬を伝うまでに長い時間はかからなかった。
「うぇぇええん。聞かれたぁぁああ」
泣き声は潮騒を打ち消すほど大きかった。
「しかも嗅がれたぁああ。もうお嫁さんにいけない。うぁあああん」
女の子は浜辺に崩れ落ちた。
「え、ええ? どうしたの? 大丈夫?」
「うわぁぁぁぁん。もうお嫁さんに行けない。あぁぁぁん」
「え、なんで? 大丈夫だよ! 全然嫌な匂いじゃなかったしっ」
慌てて駆け寄り、必死にフォローする。
「嗅がれたぁあああ。臭いまでしっかり嗅がれたぁぁぁ。うわぁああん」
けれど、それは何故か逆効果で、僕はひたすらに焦った。
ざざぁん。
動転する僕を落ち着かせようと、波が静かに打ち寄せる。
女の子は顔を覆って大泣きしている。何がいけなかったのか、どうすれば泣き止んでくれるのか。僕は彼女の笑顔が見たかった。なんとかして泣き止んでもらいたかった。その一心で必死に頭を捻る。
そして僕は閃いた。
「だから大丈夫だってっ! ほら、僕も……ふんっ……んんん」
腹筋に力を込める。同じ恥じらいを共有すれば、ひょっとしたら仲良くなれるかもしれない。
さっき焼き芋を御馳走してくれた相国寺の和尚さんに、僕は心の中でありがとうと言った。
もし焼き芋を食べていなかったら、きっと何も出なかっただろう。
ぷぅ。
僕は、なんとかおならを絞り出すことに成功した。
「ね? これでおあいこ」
女の子は僕の奇行に驚き、顔を上げた。丸く見開いた大きな瞳には、得意げな顔をした僕自身が映っている。泣いたせいで桃色に染まった頬が、なんだかとても艶っぽくてどきどきした。
「うぁぁああん。うぁぁああん」
だけど……。
「なんで? なんで? もう、おあいこでしょう?」
女の子は、またすぐに泣きだした。これがおとめごころってやつか。僕は内心で舌を打つ。もうどうしたら良いかわからない。
だけどその時、再び僕の頭にアイデアが閃いたんだ。今度はもっとすごいやつだ。
女の子はなんでか、お嫁に行けなくなったと泣いている。
つまり、お嫁に行けなくなった事が悲しいんだ。
僕は、ごくんと固唾を呑んだ。
「もしお嫁さんに行けなかったら……」
僕は泣きじゃくる女の子の肩を掴み、真正面から目を見つめて言った。
「僕がお嫁さんに貰ってあげるからッ!」
それは、渾身のプロポーズだった。
決まった。
僕は真剣な表情を維持したまま、心の中で勝鬨を上げた。
ゆっくりと海に没していく太陽が、名残惜しげに橙色の条を彼女の横顔に投げかけている。オレンジに染まった彼女の顔は胸が苦しくなるほど美しく、見ているだけで幸せな気持ちになった。
そう、実を言えば、僕はずっと前から彼女が好きだった。だから、この告白も決して軽はずみなものなんかじゃない。
僕はずっと彼女が好きだったんだ。
好きな子のものなら、なんだって愛することができるでしょう? だからおならなんて気にするのは馬鹿げてる。いい匂いに感じたのだって、きっとそう。彼女のことが好きだから。僕の体全部が彼女を受け入れてるから。そうに違いなかった。
どっどっど。と心臓が鳴る。はぁはぁはぁ。走ったわけでもないのに息が切れる。
女の子は目を見開いて僕の顔を見詰めたまま、何も語らない。たった今まで泣きじゃくっていたのが嘘のように静かになった。
「……………………」
彼女の瞳は熱が出た時みたいに、ぼうっ、としていた。長い睫毛に宿った涙が夕陽を受けて宝石みたいに赤く輝いている。
そして、気を失いそうなほど長い一瞬の末、女の子は喘ぐようにゆっくりと唇を開いた。
「嫌ッ!」
ビシッと体に亀裂が入った気がした。
「私、自立した男の人じゃないと嫌なの。頭が良くて格好良くてスポーツマンで背の高い男の人じゃなきゃ嫌」
ビシリビシリ、と今度は風景にまでひびが入る。
先ほどまで子供のように泣いていた女の子の声とは思えない。氷のように冷静で、大人のように整然としていて、言葉に迷いというものがなかった。
え、ええ? なんでなんで、なんで?
目がチカチカして景色が歪む。手がしっとりと汗ばんできたと思ったら、足ががくがく震えて折れそうになった。気を抜いたらおしっこまで漏らしてしまいそうだ。
それくらい激しいショックだった。
泣いて嫌だと言われた方がまだマシだ。こんな風に表情を失った真顔で、真正面から目を見て否定されたら心が持たない。
「ええ……? 僕じゃ駄目なの……? 僕じゃ、君のお婿さんになれないの……?」
縋るような気持ちが、僕の唇を機械的に動かした。それが、心の傷をさらに抉ることになるとも知らずに。
「無理」
パキャーンとガラスが割れたような無機質な音がして僕の中で何かが壊れた。完璧に完全に徹底的に問答無用で非の打ちどころのない拒絶だった。
「……そう……そうか。そうなんだ……」
そうして壊れた傷跡から湧き出てきたのはタールのように真っ黒な血液で、
「僕だって、人前でおならするような女の子、大嫌いだよぉおおおっ、うわぁぁぁん」
僕は、その痛みに泣いた――。
「こら、我意。起きろ! 今は睡眠学習の時間じゃないぞ!」
頭をこんこんと何かで突かれた衝撃で、俺はぼんやりと目を覚ました。振り返ると、泡だて器を手にしたエプロン姿の大男が立っている。
「……ん、どうしたお前? 泣いてるのか? 目が赤いぞ」
それは家庭科指導教諭の鬼塚だった。家庭科を担当するのにどうしてそんなに筋肉が必要なのかと不思議なほど筋骨隆々としたこの教師は、その豪放磊落な容姿とは裏腹に細やかな神経と観察眼を持っている。目が赤いと言われて、俺は慌てて目元を擦った。……確かになんだか濡れているような気がする。そう言えばなんだか悲しい夢を見ていたような……。
「泣いてなどいません。眠っていただけです。すみません」
だが、もちろん悲しい夢を見て泣いてしまったなどとは言わない。知的なクールガイたる俺にはそんなセンチメンタルな感情は似合わない。
それに実を言えば、もうどんな夢を見ていたのかも覚えていないのだった。
俺は素直に眠っていた事を謝った。
「お前は受験に関係ない科目は徹底的に手を抜きやがるからな。あまり度が過ぎると生活指導室行きだぞ。分かったらさっさと作れ。だっはっはっは」
鬼塚はそう言って豪快に笑うと、腰が浮くほど強く俺の背中を叩いて去っていた。
これだから脳筋系の男は……と俺はため息を吐いて、仕方なく調理実習に取り掛かることにした。
木曜日の五、六時間目は家庭科の授業である。亭主関白が確定している俺にとって最も無意味な時間だが、履修要綱に必須とされている以上出席せざるを得ない。まぁ、鬼才たる俺が本気を出せば五ツ星ホテルのシェフになることも可能だろうが、とりあえずそちらに進路を取る予定は無いので調理作業もまたぞんざいだ。そもそも俺は食事などただの栄養補給だと考えている。バランスよく栄養を摂取できて、程良く空腹感を満たせれば割と味などどうでもいい。
そんなわけで、あらゆる作業を下僕たる悠真に押し付けて考え事をしているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたのだ。
……ん?
その時、ふと視線を感じて俺は顔を上げた。今の鬼塚とのやり取りを見ていたのか、隣の調理台で作業をしている焔と目が合った。焔はパン生地を練るその手を止めて、何故か俺をじっと見つめてくる。その視線が何故か俺を落ち着かない気持ちにさせた。
「あ、何するんですか! 我意君!」
俺は悠真が手にしていたボウルを泡だて器ごとぶん取った。
かしゃかしゃかしゃかしゃ。
落ち着かない気持ちを泡だて器を混ぜることで落ち着かせようとする。ボウルの中身と同じくらいに俺の心は千々に乱れていた。
「あーあぁ、そんなに激しく混ぜちゃだめですよう!」
悠真が何か言っているが俺の耳には入らない。
だが、泡だて器を回すうちに心が澄んできた。泡だて器は茶の湯に通じるものがあるのかもしれない。
焔の屁。
澄んだ頭の中にはそんな単語が浮かんでいた。
焔の屁。
俺はかき混ぜたボウルを荒々しくまな板の上に置き、焔に睨むような視線を送った。だが、既に焔はこちらを見ていない。三角巾にエプロン姿の焔は、こちらを背にして調理台へ力任せにパン生地を叩きつけている。その度に振動でスカートの後ろが危うい感じで捲れ上がる。
途端、ドキン、と俺の胸が鳴った。
俺が狙うべきは、あの尻なのか。あそこから放たれるガスこそ俺の特効薬となる可能性を秘めているのか……。
「ちょっと我意君。聞いてます? って何見てるんですか!」
なぜか怒っているような口調で悠真が俺の手を抓ってきた。その痛みが俺を妄想の世界から立ち返らせる。
「女の子のお尻を追っかけるなんて、我意君らしくないです!」
あの一件以来、悠真の馴れ馴れしさは度を超えている。何か勘違いしているのだろうか。大体、女の尻を追いかけなければ、誰の尻を追いかけろというのか?
「黙れ! そして軽々しく俺に触れるな。ほら、返してやる。さっさと仕事を続けろ!」
俺は取り上げたボウルを悠真に返すと、俺の分までの再度調理を命じて、どっかりと丸椅子に腰をかけた。
やはり、こんなことにかまけている場合ではない。
今は、焔への俺の気持ちを確認することが先決だった。
――俺は本当にあいつに惚れているのか?
それを確信するために昨夜から思考実験を繰り返している。
今までろくすっぽ女として見ていなかったその先入観を捨て、焔を一人の女性として捉え直してみる。性的対象として再配置してみる。焔の肢体を事細かく観察し、そのフォルムがどのような感情を惹起させるか詳しく分析してみる。
その結果分かったことは……確かに焔は俺にとって特別な存在であるということだった。
どうやら俺は敢えて焔を女として捉えないようにしていたらしい。焔をそういう対象として見ようとする事に対して己の中に強い抵抗があった。その理由は自分でもよく分からない。
俺と焔のとの付き合いは長い。忘れてしまった過去の内に、焔を異性として処理しないよう働きかける何らかの事件があったのかもしれないし、ただ単に興味がなかっただけなのかもしれない。
俺は頭を振った。
いや、興味がなかった、と言うのは嘘だろう。何故なら、焔を性の対象として位置付けることに成功してみると、あいつは……悔しい事に魅力的だった。どうしてその魅力に気付かなかったのか不思議なくらいあいつに惹かれている自分がいた。
それが『一目惚れ』に分類されるものなのかどうなのかは分からない。だが、魅力的と感じる以上、あいつの屁が俺の特効薬となる可能性は十分にあり得た。
そうなると、問題はそれをどうやって吸引するかに絞られてくる。
俺は悠真の目を盗み、再び焔の尻を凝視した。
焔は剣道部だ。良い姿勢を保つために尻を締めることが多いのだろう。ツンと上を向いた形の良いケツをしている。うん……見れば見る程いいケツをしている……。
「ねぇ、ちょっと……ひそひそひそ……」
――ハッ!
その時、俺は自分の背後の女どもが急に声をひそめて何か話し始めたことに気が付いた。
「……ねぇ、我意のやつ……さっきから焔ちゃんの尻、めっちゃ見てない? ゲイなのに……」
「見てた見てた、キモッ! 何? まさか悠真の尻と比べてんの? やっぱり男のケツの方がいいなぁって……うえっ。キモ過ぎて吐きそう」
女達はわざと聞こえるように言っているようだった。
「キモいだと?」
俺は世の中に蔓延る偏見を憂いながら振り返る。
「げッ! こっち見たよ」
女達は舌苔の着いた汚らしい舌を出すと、嫌悪感も露わな表情になって俺から顔をそむけた。
ゲイの屁フェチ呼ばわりされるようになって痛感したのだが、偏見はそれを受ける側にしてみればとても辛い事だ。
かつて俺は超絶天才イケメンとして愚民どもを忌み嫌ってきたが、あれは過ちであったと今ならば分かる。愚民には愚民にしか果たす事のできない役割があるのだ。それを軽蔑してはならない。それはそれで尊重しなければならない。
下卑た女達は、俺に偏見の哀しさを教えてくれた。俺に偏見の罪深さを気付かせてくれた。それだけの価値がお前達にはあった。
俺はニヤリと唇を曲げると女達に向けて合掌した。
逆に言えば、お前らにはそれだけの価値しかないがな――。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
人の風評など諸行無常。移ろいゆく事風林火山。死ねば仏。この恨み忘れてやろう。
「ふぅ……」
俺は自分にそう言い聞かせて怒りを鎮めると、再び焔の方へと向き直った。
実は……焔の屁を入手するための作戦は既に考えてある。だが、それは非常に危険で、それゆえに一度しか実行する事ができないものだった。
だが――。
俺はじっと焔の尻を見つめて覚悟を決める。いつかやらねばならぬのであれば、いまやるべきだ。時間が経てば経つほど発作のリスクは上がっていくのだ。決断は早ければ早いほど良い。
「あれ、我意君。どこへ行くんです?」
俺は動きの邪魔になるエプロンを外し、席を立った。問いかけてくる悠真はやはり完全に無視である。そして常に自分が焔の死角に入るよう気を付けながら調理台の向こう側へと移動していく。
……ここまではさほど難しい事ではない。人はそうそう他人の動きに気を留めるものでもないし、何かに真剣に打ち込んでいる時であればなおさらである。パン生地を叩きつけるのに夢中である焔は、俺が背後に回り込んだことに気付きもしない。その事に俺は安堵の息を吐いた。
だが、本番はここからだ。俺は目を見開いた。
目の前には焔の後ろ姿があった。ほのかに赤い後ろ髪の下には細く白い首筋が。そこにしなやかな背中が続き、さらにその下には――スカートに隠された尻がある――。
俺はごくりと唾を飲んだ。
ここからの行動は不審極まれる。速やかに――そして確実に一発で終わらせる必要がある。
神様……。
俺は心の中で神に祈りを捧げた。そして膝を折って、ちょうど目の前に焔の大腿が来るよう姿勢を整える。
俺は額をじっとりと濡らし始めた汗をエプロンの裾で拭うと、印を組むように両手を重ねた。そして、ピン、と両の人差し指だけを突き出した。
――優等生による(アナースチューデンツ)優美な浣腸。
今再びこの技を用いるしかなかった。
「……焔……」
俺は誰にも聞こえないように、口の中だけで彼女の名前を呟いた。この、禁じられた技を女性相手に使う罪深さに慄く。だが、仕方がない。背に腹は代えられない。
「……すまん」
セットイン。
右の人差し指と左の人差し指を互いに強く密着させ、秘穴を貫く一本の槍と化す。
俺は眼を閉じて深呼吸をした。
悠真の時とは訳が違う。異性で年頃、そして……美少女と言って良いであろう相手に対してこれをする事の重大さは十二分に承知している。
だが、やらねばならぬのだ。やらねば、俺の命が無い。
心臓がどくんどくんと暴れ始める。その力強さに俺は励まされる。ああ、今俺は生きているんだ、と生の実感が湧き上がってくる。この力強い拍動を今後も享受するためにはこれしか方法がないのだ。これしか、無いのだ。
許せ――焔ッ!
俺は今、屁を採取するためだけの鬼と化す。
眦を見開き、スカートによって遮られた秘密の暗闇を睨みつける。ビニル袋は無い。もはや必要ない。焔が放屁した瞬間にそれを余すところなく吸い込む。それだけだ。
指を腰に構え狙いを定める。目標は両大腿の付け根。当然その部位は暗闇に隠れて見えない。だが、尻の曲線にそって突き進めば必ずそこへたどり着く。全ての食餌が行き着く、神秘の穴へ。
「うぉおおおおおッ! 喰らえッ!」
俺は叫んだ。自らを鼓舞するために。もはや他人の目も気にならない。成すべきことを成す。それだけだ!
「優等生による(アナースチューデンツ)……」「ねぇ、我意……」
だが、事件は起きた。
「ぬはぁあああッ!」
焔が前触れ無くこちらを振り向いたのだ。
急激な体勢変化によって射出角エラーが生じた。誤った秘穴への突入は焔の名誉と人権のため決して行ってはならない。
俺は上半身を捩じりなんとか射出角の修正を試みる。だが、一度ついた勢いは止められず、俺は前回り受け身する柔道部員のようにして、立ち並んだ丸椅子の群れへと突っ込んだ。
がらんがらんがしゃーんぐしゃぼちゃり。
調理実習中の楽しげなざわめきが激しい転倒音によって停止した。
…………。
世界が白い。べっとりとした白いものが俺の視界を塞いでいる。目頭を手の甲で拭うと、それは練り合わせたパン生地だった。
「……な、何してんの……あんた?」
焔が驚いたような顔で倒れた俺を見下ろした。
「……前回り受け身の練習だ……」
至極適当な嘘をついてみる。
「それより、良く俺が後ろにいる事に気がついたな……」
「え、ええ……普通に視界に入ってたから……」
そうか。普通に視界に入っていたか……。俺はすこし焔の観察眼を侮り過ぎていたようだった。焔は他にかけるべき言葉も見当たらないといった感じで口を噤む。何事かと冷ややかな視線を向けていたクラスメート達も、各々作業に戻っていった。また我意が何かやらかした、彼らの認識はその程度のものになっていた。鬼塚くらいやって来ても良さそうだったが、奴はパン生地の焼き具合を見ることに夢中だった。筋肉ダルマなくせに心から調理を愛しているようだ。
俺は顔にべっちゃりと付着したパン生地を拭い、空になったボウルを手に唖然とした表情のまま固まっている持ち主らしき女生徒にそれを返した。女性とは「ひっ」と歓喜の悲鳴を上げて飛び退る。きっと塩味が効いておいしくなったことを喜んでいるのだろう。
「それで? 俺に何か用か?」
俺は、ごく自然に焔に話しかけた。髪の毛や顔にパン生地の残りカスがへばりついているが、気にしてはならない。
「ん……」
焔はなぜか目を伏せて口ごもる。優等生による(アナースチューデンツ)優美な浣腸を放とうとした時、焔は何か言おうとしてこちらを振り向いたのだ。何も無いという事は無いはずだ。
「どうした。話があるんじゃないのか?」
でなければ、俺の決死の覚悟での浣腸が報われない。焔は手の甲を甘噛みしながら何かを考え込んでいる。いつもの焔らしくなかった。
「……放課後……小松屋で待っててくれる?」
小松屋? と、その単語がどこを指しているのか理解できなかったのは、それが遠い昔の記憶にあった場所だからだ。だがそれも一瞬の事。俺はすぐに思い出した。
「そう、その小松屋。よろしくね」
焔はそう言ってはにかんだような笑みを見せる。そして、くるりと完全に俺に背を向けると再び調理作業に戻っていった。どうやら話はそれで終わりのようだった。
「……さて、顔でも洗ってくるかな」
俺はゆっくりとした足取りで家庭科室を出た。内心の動揺を見破られないように、敢えてゆっくりと歩いた。
小松屋。
そこは俺達がまだ小学生だった頃、よく買い食いなどをして遊んだ近所の駄菓子屋だった。だが、中学に上がってからは訪れる事もほとんどなくなった、もはや思い出としてセピアに変色した場所である。
そんな場所を待ち合わせ場所に指定する理由は何だろうか。
「高校のクラスメイトには知られたくない話ってことか……」
その事実が俺に動揺を誘っていた。小松屋は高校とは方角が反対だ。方向が逆と言う事は、今現在の高校のクラスメイトとばったり出くわす可能性が低いという事である。
一体どんな話があるというのか――?
二人きりで、思い出の場所で、内密の話――。
ひょっとしたら、実力行使でなくとも焔の屁を入手することができるかもしれない。
洗い終えた頭と顔をハンカチで拭きながら、俺は自分の唇が何かを期待してニヤけている事に気が付いた。
◆◆◆
――放課後。
かつて小学校へ通っていた時の通学路を自転車で駆け抜けながら、俺は焔との待ち合わせの時間を決めていなかったことに気が付いた。
剣道部は今日も部活があるのだろうか? 剣道部はたいてい五時前後まで体育館で練習に励んでいる。もし部活があったとすればかなり遅くなる。しかし時間指定こそなかったものの焔が「待ってて」と言ったのだ。あまり遅くなるようであれば、何かもう少し言葉があったろう。
左手にはめた腕時計を見ると時間はまだ三時半だった。
「いらっしゃい……おや、がーくんじゃないか」
小松屋は昭和を髣髴とさせる古ぼけた駄菓子屋である。錆びたトタンで打ち付けた外壁の上の方に、触れたら手が真っ白になりそうなほど色あせた看板が掲げられている。そこにはたこ焼きとかお好み焼きとか、かつては営業していたのだろうが現在は行っていないサービスが未だに書いてあり、それがまた小松屋が経てきた長い年月を感じさせた。
俺は、開け放たれたままの引き戸から店に入った。店の中は時を止めてしまったかのように昔のままだ。木製の棚の上にはいくつも懐かしい駄菓子が消費税という概念を忘れたかのようにワンコインの値段で並んでいる。子供達が駄菓子を食べられるように空けられたちょっとしたフリースペースには朽ち果てたような机と椅子が置いてあった。
俺は、椅子が壊れないかどうか慎重に確かめてからそこに腰を掛けた。
「おお、久しぶり。トメ婆さん。よく俺が我意だって気づいたな」
気付かないもんかい、と入れ歯を見せてトメ婆さんが笑う。
俺を出迎えてくれたのは店主のトメ婆さんだった。
トメ婆さんは記憶にあるのとまったく同じ、紫色のもんぺに黄ばんだ前掛けを着けていた。生まれたときからそうだったんじゃないかと思わせる皺深い顔も当時のままである。ある程度年齢が行くと外見の変化が乏しくなるのか――なんにせよ、ここはまるで時の流れから切り離されているかのように当時のままだった。
俺は煙っぽい蚊取り線香の匂いを嗅ぎながら、どっかりと足を組む。
「元気にしてたかい? 寺高に行ったんだって? がーくんは頭が良かったからねぇ。凄いねぇ」
「ああ……別に大したことじゃない……」
酸敗が進んでいそうな脂っこいカツ、合成着色料満点の寒天、戦後の菓子かと突っ込みたくなるようなふ菓子。眺めるでもなくそんな駄菓子を眺めていると、ブタ麺でも食べるかい、とトメ婆さんが声を掛けてくれた。
「ああ、懐かしいな……。一つ頂こうかな? 百円でいいのか?」
「お金なんかいいわい。久々に来てくれたからね、ワシのおごりじゃ」
トメ婆さんはそう言って気前よくブタ麺を出してくれた。食べてみると懐かしい塩味が胸に染みた。いや、懐かしいだけではない。なんだか胸が疼く。悲しいような、苦しいような――何とも言えない郷愁が押し寄せて来る。
不意に押し寄せて来た感情を持て余し、俺はぱちぱちと瞬きをした。訳の分からない気持ちを落ち着けるようと、俺は扉の外に目を向ける。
九月に入り、夕暮れの時間は加速度的に早くなってきている。陽射しはとっくに赤色が優勢だった。そんな赤い景色を眺めていると、少しは気持ちが落ち着いてきた。
「トメ婆さん……」
「うん?」
「天水焔を、覚えているか?」
「ああ、もちろん。焔ちゃんね。可愛い子じゃった」
顔中を皺だらけにして、トメ婆さんはくしゃりと笑った。
「がー君と焔ちゃんは美男美女のお似合いアベックじゃったよぉ。ふぉっふぉっふぉ。どうじゃい、二人の仲は進展したのかい?」
「止めてくれ」
俺は気恥ずかしさを隠すために敢えてあらぬ方向を向いた。だが、俺のそんな仕草をトメ婆さんは違う意味に取ったらしい。急に何か納得したような顔をして妙な事を呟いた。
「ああ、そうか……。おんしたちは……喧嘩別れしたんじゃったね。……仲直りはまだできんのかね?」
「仲直り?」
俺は顔を上げてトメ婆さんを見た。
「うん? 覚えていないのかい?」
深い皺の中に半ば埋もれた瞳を見開いて、トメ婆さんは言った。
「いや……喧嘩なんかしょっちゅうしていた気がするから……仲直りも何も……」
そう答えると、トメさんはふぉふぉ、と笑って立ち上がった。戸口の傍へと歩み寄ると、そっと窓に手を置く。そこからは海岸線が良く見えた。
「そういう喧嘩とは違うさね……。言うなれば、男と女の諍い。性の目覚め。ラブロマンスじゃて……」
「…………」
俺は返事をしなかった。トメ婆さんの認知機能を心配したからだ。男と女の諍い? ラブロマンス? そもそも焔とこの駄菓子屋に通っていたのは小学生までだ。小学生にラブロマンスもへったくれも無いではないか。
「あの日も確かこんな感じで蒸し暑かったのう……。最初に大泣きして来たのはがー君じゃったかのう。焔ちゃんにプロポーズしたが断られたって、うふふ。可愛かったのぅ」
「ちょっと待った!」
俺はこめかみを押さえて席を立つ。
「俺が、焔にプロポーズしただと? しかも断られた? そんな事は無かっただろう! 事実無根だ」
だが、トメ婆さんは不思議そうな顔で俺を見上げた。そして枯れ木のような指で机の上に置いておいたブタ麺を指さす。
「あんまり泣くからあの時もブタ麺をおごってやったろう? 本当に覚えてないのかぇ? 好きじゃったんだろう? 焔ちゃんが」
好きだった?
そう指摘された途端、胸をぐさりと鋭利な痛みが襲った。次いで、ずきん、ずきんと、頭が疼き始める。妙に塩辛いブタ麺の味……。喧嘩別れ……。
俺は頭を抱えた。確かに。何か……何か忘れている気がする……。
『嫌ッ!』
その時、遠くから女の子の声が聞こえた気がした。その途端ズキンとひときわ強く頭が痛んだ。それとともに今まで考えもしなかった疑問が頭に浮かぶ。
そう言えばいつ頃からだ? 俺が焔と遊ばなくなったのは。小学生のころはしょっちゅう遊んでいたくせに。あんなに仲良かったくせに。
「まさか……」
俺はよろめいて机に手を着いた。
「何か……思い出したのかい?」
深い……何もかも見通す透徹とした眼差しでトメ婆さんが俺を見る。
「ああ……。どうして忘れていたのか不思議なくらいだ。そうだ。……俺は、焔を……」
「初恋とはそういうもんじゃてぇ」
人生の酸いも甘いも知り尽くした女のみが可能とする老熟した表情でトメ婆さんが頷いた。
堰を切ったかのように当時の光景が奔流となって頭の中から溢れ出す。あの日の出来事を思い出す。
ぷぅ。
あの日の、夕方の海岸に鳴り響いた音が鼓膜を鳴らした。
そうだ。俺は焔に告白した。
好きだった。
好きだったんだ。
『嫌ッ!』
だが拒絶。
『私、自立した男の人じゃないと嫌なの。頭が良くて格好良くてスポーツマンで背の高い男の人じゃなきゃ嫌』
圧倒的な拒絶。
『無理』
その拒絶を前に、それまで抱いていた恋心など一片も残らなかった。
ようやく全てに納得がいった。どうして俺が焔を恋愛対象として見られなかったか。どうしてあいつを煩く感じていたのか。それでも……どうしてあいつを気にしてしまうのか。
あの告白で、好きという気持ちを過去形にした。あの告白以来、俺は焔に何も感じないように心がけた。恋心どころか、友情さえも。
そのうち、そんな焔に嫌悪を感じるようになった。
当たり前だ。
自分を嫌っている相手を好きになる道理が無い。
俺はあいつを見返してやりたくなった。
お前は愚かだと。こんなにも良い男を振ったのだと。
そのために俺は努力した。
取り憑かれたかのように勉学に励んだ。スポーツに打ち込んだ。焔を見返してやる、その一心だった。結果文武両道の秀才になった。
格好良くなったかは分からない。そこにはどうしても主観が入る。だが幸い平均身長は超えた。ブサメンではないと信じたい。
俺は焔が求めた男になった。
どうだ! お前はそんな男を振ったんだ。ざまぁ見ろ! そう言ってやりたかった。
そう言ってやりたいがための努力だったのに。だが、当初の目的は長い年月の間に失われ、いつの間にか努力することが目的になっていた。努力し良い男になる事が、俺の目的になっていた。
「本当は……諦めてなんかいないんだろう?」
その言葉に俺はハッと現実へと立ち返った。
そして、ビクッと体が震えた。見ればそこにはハッとするほど鋭い眼光でこちらを睨んでいるトメ婆さんがいた。つい先ほどまで身にまとっていたボケ老人然とした雰囲気はもはやどこにもない。
そうだ。
見返してやる。その幼い動機の底にあるものは、どうしようもないほどの未練。
俺はただ焔に振り向いてほしかったのだ。ただ、それだけのことだったのだ。
言葉もない。
俺は愕然として項垂れる。
「ほっほっほ、そんなに悩むでない。ワシはいつだってがー君の味方じゃと言うたろう?」
ポンと肩に手を置かれて顔を上げれば、いつもの柔和なトメ婆さんの顔がすぐそばにあった。
「そんな悩める若人にこれをあげませう……」
そう言ってトメ婆さんが手のひらを差し出した。乾いたその上には何かが乗っている。
「これは……?」
薄黄色の錠剤が三つ。
駄菓子屋なのだからきっとラムネか何かだろうと最初は思った。手に取ってしげしげと眺めてみる。
うん? だがラムネにしては光沢が強い。きちんとコーティングされているようだ。しかも何やら数字が識別記号のように刻印されてる。まるで本物の薬のようだ。
「……糖尿病の薬じゃ……」
「本物じゃねぇかッ!」
俺は咄嗟に手にしたそれを投げ捨てようとした。
「ならぬッ!」
だが、腕を掴まれ止められる。
「聞いておるよ……。がー君。おんし、女人の屁が好きなんじゃろう……?」
俺は目を見張った。
「……どうして、それを……」
それは決して真実ではない。だが、俺は俺が屁を求めているということをトメ婆さんが知っていることに驚いたのだった。
「ふぉっふぉっふぉ。駄菓子屋の情報網を甘く見てはならん。ワシとがー君の仲じゃないか……一肌脱ごう。それを、ラムネだと言って焔ちゃんに飲ませなさい」
「傷害事件じゃねぇかッ!」
「ならぬッ!」
再び薬を投げ捨てようとした俺をトメ婆さんが制した。まるで茶番のような繰り返しである。
「ワシはがー君の恋路を応援しようとしているんじゃぞ。安心せよ。その薬に危険性はほとんどない。糖の吸収を穏やかにする……よくコマーシャルでやっておるじゃろう? あれの医薬品版じゃ」
「それがどうして俺の恋路を応援することになるんだよ!」
「その薬には特有の副作用がある……」
そう言ってトメ婆さんは、くるりとこちらに背を向けた。腰が曲がっているせいで、まるで俺に尻を突き出しているようだ。
「もっとちこう寄れ」
言われた通り俺はトメ婆さんの方へと近づく。
「もっと、ちこう。そうそう、そしてそこで座れ」
俺はトメ婆さんの指示に従った。目の前にはトメ婆さんの尻がある。こんな状況でいったい何をしようと言うのか。
……待てよ。そこで俺ははたと思い至った。こんな状況ですることと言えば一つしかない。
……まさか……これは……。
「ちょ、ちょっと待っ……!」
「ふんぬっ!」
だが、察するタイミングが少し遅かった。
ぶふぉぉおおおッ!
真夏の扇風機のような生ぬるい風が俺に降りかかる。しかもそれは猛烈な悪臭を伴っていた。
「ぐわッ! 目、目がぁぁああ。目に染みるうッ!」
俺は榴弾を喰らった兵士のようにその場にもんどりうった。
「な……なにしやがるんだッ! このクソババァッ!」
「これがその薬の副作用じゃ……ふぉっふぉっふぉ」
静かな微笑とともに告げられたその言葉に、俺は動きを止めた。
「放屁が……この薬の……副作用だと?」
トメ婆さんの放屁を涙で押し流し、俺は問いかける。
「そうじゃ。屁フェチのおんしには垂涎の代物じゃろうて……」
トメ婆さんはしたり顔で頷いた。俺は呻き声を上げる。放屁が副作用の薬だと? 本当にそんなものがあるのか? だが、もしも……もしもそんなものがあれば、それは願ってもない福音だ。放屁が促進さればその分だけ放屁吸引の機会が増える。
「だが、トメ婆さん。どうして……俺に協力してくれるんだ? もし俺が本当に屁フェチだとしたら、俺はとんでもない変態野郎だ。そんな変態野郎に肩入れするなんて……普通じゃない」
医療用の薬を譲渡しそれを他人にこっそりと飲ませるよう促すなど、これはもうれっきとした犯罪教唆だ。トメ婆さんがそこまで俺にしてくれる理由が分からない。それとも焔に恨みでもあるのだろうか。
「昭和の時代はもっと凄かった……」
すると、いきなりトメ婆さんがしみじみと語り始めた。
「……今の子は可哀そうじゃ。あれもダメ、これもダメ。何かあればすぐ規制、規制、規制の嵐じゃ。お上は何も分かっとらん。規制するからガスが溜まる。ガスが溜まるから、暴発してしまう。もう少し自分のフェティシズムに素直になっても良いと思わんかね……? すかしっ屁くらいがちょうどよいとは思わんかね……?」
「トメ婆さん……」
分かったような分からないような、なんとも奇妙な論理だが、ここは一つトメ婆さんの善意に甘えることにした。俺は、ありがとうと感謝の気持ちを述べ錠剤をポケットにしまう。
と、そこへ、キキーッという鋭い自転車のブレーキ音が響いた。俺達は音の聞こえた入り口側を振り向いた。
「あら、我意。もういたの。早かったわね。そして久しぶり、トメ婆ちゃん。私が誰だかわかる?」
それは焔だった。狙いすましたかのようなタイミングである。焔はピンク色のタオルを首に巻き、その両端を胸元へと差し入れていた。額もうっすらと汗が滲んでいる。
「もちろん。焔ちゃんじゃろう? 懐かしいカップルの再会じゃねえ」
先程までのドス黒い会話を感じさせない無邪気さで、トメ婆さんが笑った。
「止めてよ、トメ婆ちゃん。私達は、そんなんじゃ……」
困ったような顔をしながら、焔がこちらへ歩いてくる。トメ婆さんがにんまりと笑う。
「若い二人の邪魔しちゃ悪いで……年寄りは上がっとくの。誰か来たら呼んどくれ」
そう言ってトメ婆さんは立ち上がり、店の奥へと上がろうとする。
「おい」
その背中に思わず声をかけると、トメ婆さんは俺だけに見えるようにしれっとウインクを投げてよこした。……くッ。この女、想像以上に邪悪である。
「おお、そうじゃ。せっかく久しぶりに来てくれたんじゃ。これくらいサービスせんとの」
だが、トメ婆さんは何か思い出したように足を止めると、一度カウンターの向こう側に引っこみ、ホレ、とサイダーの瓶を二つ取り出してきた。
「ありがとう、トメ婆ちゃん! ちょうど喉が乾いてて、何か買おうと思ってたところなの。いくら?」
焔はサイダーを見ると、顔を輝かせた。
「もちろんおごりじゃよ……ふぉっふぉっふぉ」
トメ婆さんは慣れた手つきで瓶の中へビー玉を押し込むと、ちょいちょいと俺をカウンターの手前に呼んだ。取りに来いという意味だろう。
「……入れるんじゃ」
だが、トメ婆さんの口から出た言葉はそんな生易しいものではなかった。俺は唖然として固まる。
「……マジで言ってんのか?」
「ぬしは玉無しか? おんしの欲求はその程度のもんなんか?」
カウンターの陰になってサイダーは焔からは見えない。確かに薬を入れるなら絶好のタイミングと場所である。
トメ婆さんは言った。
「必要なんじゃろう? 彼女の屁が……。己に正直になれ。ここでやらねば一生後悔するぞ」
その言葉に全身の硬直が強まる。右手が勝手にズボンのポケットを上からなぞった。そこにはポツンと固い塊が三つ、確かにある。
「大丈夫じゃ。誰にも言わん。ワシとがーくんだけの秘密じゃ。誰も知らなければ、無かったことと同じ……。ただ、焔ちゃんがいつもより多めにおならをするだけじゃ。さぁ……」
誰も知らなければ、無かったことと同じ――。その言葉に、今度も勝手に右手が動いた。無意識のうちに俺はポケットから錠剤を取り出していた。
「……これはすぐに溶けるのか?」
俺は自分の発した問いかけに驚いた。何か考えて発した質問ではない。脊髄反射。まさにそんな感じだった。
その問いかけにトメ婆さんは笑みを深くした。
「大丈夫。口腔内崩壊錠とかいうやつじゃ。数秒で溶ける」
溶けるかどうか……その問いを発した時点でこの結末は決まっていたのだ。
俺は実行した。
しゅわわわわ、と炭酸ガスの泡を纏わりつかせながら溶けていく錠剤を眺めながら、俺は罪悪感に押しつぶされそうだった。良いのか、これで良いのか、人として超えてはならない一線を越えてしまったのではないか――。
「良いんじゃよ……それで」
ねっとりとトメ婆さんに肩を撫でられる。
「愉しみなされよ」
トメ婆さんはぽんと俺の背中を叩くと、淫靡な微笑と共に今度こそ去って行った。
「ほんと、暑いわねぇ。あら、おいしそう!」
サイダーを両手に持ってカウンター脇から出ると、焔は暑そうに体を弛緩させ、手をうちわのようにして頬を扇いでいた。
焔は運んできたサイダーを見て無邪気な笑顔を見せている。その晴れやかな顔に俺の胸が重苦しく沈む。
「それ……貰っても?」
「お、おう」
どうやら俺は呆然と立ち尽くしていたらしい。促されて、俺は片方のサイダーを焔に渡した。……薬物入りのサイダーを。
焔はありがとう、と言ってごくごくと喉を鳴らしながら一気に半分ほどそれを飲んだ。
「何見てんのよ? 欲しいの? あんた、自分のがあるじゃない」
「い、いや」
これで俺は後に引けなくなった。動揺を隠すかのように俺は手にした自分のサイダーを一気に飲み干そうとして……。
「ごほ、ごはぁッ!」
噎せた。口に含んでいたサイダーが床に飛び散る。
「ちょっと、汚いじゃない。何やってんのよ……」
焔は身を引きながら呆れたように俺を見ている。
「床が汚れちゃったじゃない……。仕方ないわね。私が拭いておいてあげるわ。……あんたは邪魔だから外にでも行ってて。涼しいし」
そう言って焔は道路を挟んで向こう側にある木製のベンチを指差した。ベンチは海辺を向いて置かれており、海岸線を一望できて景色が良かった。側に背の高い並木も立っており良い感じの木陰になっている。小松屋で駄菓子を買い、あのベンチに腰を掛けてそれを食べるというのがこの辺りに住んでいる小学生の定番だった。
「す、すまん」
俺は言われた通り外に出る。途端にびょうと爽やかな風が吹いて、火照った体を冷やしてくれた。これは確かに外の方が気持ちが良い。
俺はそのまま道路を渡り向かいのベンチへと向かう。端に腰をかけてぼんやり波打ち際を眺めていると、すぐに焔がやってきた。そのまますっと、俺のすぐ隣に腰をかける。うっかりしたら腕と腕が触れ合いそうな距離だ。俺は少し緊張した。
と、沖の方から潮風が吹いてきた。その時、俺はその風の中にレモンのように爽やかな香りが混じっている事に気が付いた。それは焔の匂いだった。その香りを意識した途端、俺は余計に落ち着かなくなった。
俺は汗臭くないだろうか? 息は臭わないだろうか? そもそも何故女は汗をかいてもこんなにいい匂いがするのだろう? 焔はここにやって来た時汗を拭いていた。あんなに汗をかいたのに、どうして臭くならないのか?
『遺伝的な乖離の大きい者』
その時、橋本の言葉が稲光のように頭に浮かんだ。
いや、女性だから良い匂いがするという訳ではないのだ。実際、女でも肌に合わない香りというものがある。いい匂いなのに好きではない。いい匂いなのに惹かれない。往々にしてそういうことがある。
眦を見開いて隣に座る焔の顔を見る。焔は水平線へと落ちていく夕日を眺めていた。健康的に日に焼けたその顔が、夕日に照り映えてひどく美しかった。
俺はごくりと唾を飲み込む。
多様性を求める遺伝子は、自分と乖離が大きい者の匂いを好ましく覚えるはずだ。見た目にしろ、体臭にしろ、屁にしろ――自分と遺伝的に相違している人間を好きになるように本能的にできている。
そして俺は焔の匂いに惹かれている。焔の容姿に惹かれている。さらに言えば、俺は昔焔が好きだった。焔にプロポーズをしさえした。
やはりそうなのか。
俺は両手で顔を覆った。
もはや結論は一つしかない。
やはり焔が――焔が、俺の求める放屁体なのだ。
「……どうしたの? なんかあんたさっきから変よ?」
「うえッ?」
焔の咎めるような声に俺は我に返った。
「顔なんか覆って……あ、ひょっとして私、何か臭う? ごめん、急いできたからちょっと汗臭いかも」
「い、いやいやいや、別にそんなことはない! 俺が感じているのはお前の匂いではなく、秋の匂いだ!」
再び訳の分からない返答を返す俺。先ほどからの体たらくに我ながら呆れる。
だが、焔はそんな俺の答えにほのかな微笑を浮かべた。
「ふふっ。相変わらず変な奴ね、あんたって。……確かに。もう蝉もつくつくぼうしの声ばっかりだし。夏も終わりね」
そう言って再び前を向いた。ざざぁん、と海が鳴く。夏の終わりを惜しむかのように。
俺は軽く咳き込み喉の調子を整えた。焔がしみじみ浸っているこの間に作戦を考えねばならない。焔が俺の放屁体である以上、こいつの屁を吸引することが至上命題である。そのためにこの機会を逃すわけにはいかなかった。順を追って話し合意を得たうえで屁を頂戴すべきか、それともあの薬が効いてくるのを待ち不意打ち的に吸引するか……。
俺は判断に迷った。
「私ね……思ったんだ」
だが、俺が思案している内に焔の方から話を切り出してきた。そういえば、と俺は思い出す。今日は話があると言って焔の方から呼び出されたのだった。トメ婆さんの件といい衝撃的なことがありすぎてすっかり忘れていた。
俺は焔の横顔を見る。焔は真剣な顔をしていた。こんな顔で語られる話とは一体何だろう? 俺は静かに焔の話を聞くことにした。
「あんたがくるみちゃんのおならを学校に持ってきたのを見た時……私、思ったんだ。ひょっとしたら、私がのせいであんたがおかしくなっちゃたんじゃないかなって」
「……ちょっと待て」
だが、そんな話の成り行きに、俺はいきなり口を挟むことになった。
そう、あの時も不思議に思ったが、『私のせい』とはどういう意味なのだろうか?
「あんた……また! ふざけるのは止めて!」
だが、それを問い質すと再び焔は怒り始めた。どうやらそこには触れて欲しくないらしい。
その時、俺ははたと思い至る事があった。
先ほどのトメ婆さんとの語らいで思い出したことがある。そう言えば俺は小学生の頃、一度こいつの放屁の瞬間に居合わせたのだ!
「お前、ひょっとして――あの時の屁のせいで俺が……あぶっ」
言いかけて腹を殴られた。
「これ以上その事に触れたら殺す!」
俺は黙って話を聞くことにした。だが、今のリアクションで確信する。
おそらくこいつは誤解しているのだ。自分の放屁が俺の性的嗜好の原因だと。自分の屁がトラウマとなって、俺が性的に倒錯してしまったのだと。
俺はふふ、と鼻で笑った。事実は全く違うのだが。
すると、再び殴られた。
「笑っても……殺す!」
「分かった……」
それで、この話はこれで終わった。抗弁する余地がない以上仕方がない。また機を見て説明するとしよう。
「まぁいい。……それで?」
「妹のおならを持ってくる……それは理解しがたい趣味だけど……頑張れば理解できないこともないわ……。くるみちゃんは可愛いし、女の子だし――それに世の中には色んな趣味の男の人がいる。だから、まだ理解できる……」
私にも原因があるしね……。そう言って、焔は言葉を切った。
俺は突っ込みたい衝動を抑えるのに必死だった。
……シリアスな顔でこいつは何を言っているのだろうか。妹の屁を持参する男など前代未聞、空前絶後の変態である。自分で言っていて悲しくなるが、到底理解・許容してはならない危険人物だ。それを『理解できる』とは……。
俺は焔の顔をまじまじと見つめた。焔は相変わらず真剣そのものといった顔をしている。しかもまたそんな真剣な顔が様になっている。日本人離れした赤毛と相まって何もかも規格外に思われた。
つまり……その包容力も規格外という事か。
俺は小さく首を振った。そんなに包容力のある女だとは知らなかった。
焔は続ける。
「でも――悠真君に対する行動は理解できなかった」
そこで、急に語気が強くなった。
「どうして、なんで悠真君の……その……おならをあんな風に狂喜乱舞して吸い込んだのか……私にはどうしても理解できなかった!」
焔は憎い仇が水平線に隠れているとでもいうかのように、キッと大海原の彼方を睨みつけて言った。
俺は頷いた。
さすがの焔も、同性の屁を狂喜乱舞して吸引する人間は許容できなかったということだろう。だが、それも当然である。俺は病気なのだから。ようやく説明する機会が来たと思い、俺は口を開く。
「それは――」
「もう終わるから、最後まで聞いて」
だが、開いた口が焔の手のひらで塞がれた。温かく、柔らかい手のひらだ。俺は驚いて焔を見る。初めて焔と目が合う。焔の潤んだような瞳が夕日を宿して紅に揺れている。
「それで……私は至ったの――結論に」
焔は真剣な面持ちで俺を見上げてくる。心臓の拍動が早くなる。その秀麗な顔に息が上がる。口が押えられているのでふんふんと鼻息だけが強くなる。
反対に焔は先ほどまで興奮していたのが嘘のように落ち着いていた。焔の唇がゆっくりと開いていく。その様子が妙に艶めかしい。だが、そこから放たれた言葉はそら恐ろしいものだった。
焔は言った。
「我意……あなた……両刀使い(バイセクシュアル)なのね?」
空気が凍る。時間が止まる。世界が灰色に染まる。
俺は何を言われたのか分からなかった。だが、焔は愕然として凍りついた俺を見てそれが正解だと確信したようだった。
「やっぱり……おかしいと思っていたのよ。そうでなければあんなに喜び勇んで悠真君のおならを吸い込むなんてできないもの……」
焔の端正な顔が悲嘆と同情とに揺れ……そこに理解の色が混じり始める。
……待て。と俺は思った。
理解だと?
「この手を除けいッ!」
俺はいつまでも俺の口を封じ続ける焔の手を払い除けると、勢いよく立ち上がった。
「違うわッ! 何をどう勘違いしたのか知らないがなぁ、俺は両刀じゃないッ! れっきとしたヘテロセクシュアルッ! 大の女好きだッ!」
いいや違う。こいつは何も理解していない。本当に何から何まで間違っている!
「あなたのした行為から冷静に考察しただけよ」
だが、焔は揺るがない。
「大丈夫。恥ずかしい事じゃない。愛の形は人の数だけあっていいの。私とあなたの仲でしょう。せめて私にだけは素のあなたを見せて頂戴……」
「ふざけんなッ!」
何てことだ。俺は怒りが沸々と湧きあがるのと感じた。
「俺の事情も知らないで勝手な事ばかり言いやがってッ! 大体お前と俺の間には腐れ縁以外の何も無い。友人ですらない。赤の他人よりも隔たる間柄だろうがッ!」
今まで抑えていた分、言葉が勝手に吐き出されていく。焔が悲しそうに唇を引き結んだが、それを見ても口が勝手に動いて止められない。
「それなのに、お前はなんでそう俺に突っかかってきやがるんだ! どうだっていいだろう! どうしてそんなお前に素の俺を見せなきゃいけない? はッ! 笑わせんな! 俺になんて興味ないくせに! 俺を嗤いたいだけのくせに!」
どうしてこんな罵倒が口から出るのか。俺はこんなに焔を意識していたのか。どこか冷静な自分が爆発している自分自身に驚いていた。
「好きなだけ蔑むがいいさ。ああ、お前の言うとおりだったよ。結局俺はこんな変な男止まりだ。好きなだけ他を当たればいい! 頭が良くて格好良くてスポーツマンで背の高い男をな!」
焔のガラス細工のように美しい瞳が大きく見開かれた。
ざざぁん。
打ち寄せる波の音が、遠い夏の海のそれと重なる。
『僕がお嫁さんに貰ってあげるからッ!』
『無理』
そう。無理だと。
無理だと言われたのだ。
「ちょっと……我意? どうしたの?」
急に眩暈を感じて、俺はベンチに手を着いた。そのまま崩れるように座り込む。
「ねぇ、あんた、大丈夫?」
無理だと言ったのだ。お前は。
ありのままの自分の気持ちを伝えた時――お前は――。
どっ…………どっ…………どっ。
その時、俺は自分の心拍がひどく間延びしていることに気が付いた。
「我意ッ!」
発作だった。
俺は嗤った。
もうどうでもよかった。欲しい女は手に入らない。こんなアホみたいな病も抱えてしまった。
「トメ婆ちゃんッ!」
目の前が暗くなってきたのは日が沈んだからではないだろう。切羽詰まったような焔の絶叫がとても遠くに聞こえる。
そして、世界から色が失われていった。
焔が何かを叫んでいる。耳がその音を捉えるが、脳の方がもはや働かない。何を言っているのか分からない。
「屁……」
「え?」
最後に、それだけを伝えてやろうと思った。
「俺は……お前の……屁が……」
「え、何? なんて言ったの、我意ッ!」
だが、結局止めることにした。
伝えて何になるというのか。この発作を治せるのはお前の屁だと。屁だけだと。そう伝えて、焔に放屁を促すのか?
俺はゆっくりと目を閉じた。
――いや、もういい。
本気で伝えようとすればまだ間に合うかもしれない。だが、義務感から放たれた屁で生きながらえるのは嫌だった。救われるのであれば、自分を好いてくれている女の手によって……いや屁によって救われたかった。
だが、それは決して叶う事のない願いだ。
だったら――。
……とくん。心臓が儚げに鳴った。今度は、もう……助からないだろうな、と俺は思う。
だったら――潔い死を。
そして、その音を最後に、俺の意識は闇に溶けた。