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惚れた女……の屁

 誰が祝わずとも、俺だけは毎年この日を祝うことにしよう。

 九月の一日、金曜日。

 本年度からこの日を我が記念日とする。記念日の名称は――そうだな、ストレートに変態誕生日とでも名付けよう。史上稀にみる偉大で華麗な変態が誕生した日なのだから。

 できれば国を上げての祝日としたいところだが、残念ながら俺は皇室生まれではない。まぁ、俺のような変態野郎が日本国の象徴となっても国辱ものだろう。

 しかし、偉大なる変態として新たなる境地を開拓したことは事実だ。何故なら、俺の鞄の中には昨夜妹からもらった禁断のビニル袋が入っていたからだ。

 兄妹間における放屁プレイである。

「畜生めッ!」

 九月に入ったというのに日差しは一向に弱まる兆しを見せない。未だ真夏のような暑さが俺の神経を苛立たせる。

 俺の悲惨な夏休みは終わりを告げた。今日から二学期である。悲惨な学校生活の始まりだ。

 暗澹たる気持ちで通い慣れた通学路を走り抜ける。校門をくぐり、自転車を置き、久しぶりに出くわしたクラスメートへ挨拶もそこそこに、急ぎ足で教室へと向かう。

 だが、教室が近付くにつれ、徐々にその足が重くなってきた。

「……注目されるのはどう考えてもまずい……」

 教室の前に着いた所で、ついに足が止まってしまった。俺は茫然と戸口のところで立ちつくす。

 今日は夏休み明け、初の登校日。夏休みにどこどこへ行ったとか、なになにをしたとか、最も話に花が咲く日だ。だが、俺は例の持病で病院通いをしていたこともあって、ろくすっぽ夏の思い出がない。話を振られるのは避けたいところだ。

 幸いにして……と言うのは悲しいが、俺は友人が少なかった。何故なら……これは決して自己弁護ではなく客観的な事実だが、俺が成績優秀で眉目秀麗、運動神経抜群の完璧超人だからである。

 実際成績は常にトップ争いを演じているし、身長も百八十を超えている。見た目も母に似たのが幸いして中性的な醤油顔だ。イケメンと言って差し支えないと思う。運動も得意で球技から陸上まで何でも人並み以上にこなす――まさに超人である。

 それもそのはず、俺は超人――ツァラトゥストラを目指してきたのだから。その理由は……既に忘れた。とにかく、俺は超人を目指し、それに見合った努力を行ってきた。だから人より優れていて当然なのだ。

 だが、そんな人より優れていて当然という態度は鼻につく。同性の男子から見たらなおさらだ。だから女にはモテても男には好かれない。友人が少ない理由はそういう所にあると俺は自己分析している。

 だが、そんな完璧超人だった俺も今は昔。今の俺は放屁吸引鬼――ただの変態だ。

 俺はちらりと手にした学生鞄を見た。この中に、例のブツがしまってある。気体と言うその性質上非常にかさばる。そのため鞄を開ければすぐに妙なものがあると分かってしまう。

 俺は最悪の場合を想定した。

『わー我意君、なにそれー?』

 教室内では普通に夏休みに行った旅行等のおみやげ交換が行われている。俺は教室に入った途端女子どもに鞄をひったくられて勝手に開けられてしまう。その中には何か気体の詰まった袋があった。

『うん? これは妹の屁だよ』

 ……この展開はどう考えてもマズい。

 つつぅ、とこめかみの辺りを一滴の汗が流れて行った。

 つまり鞄の内部は絶対に人に見られてはならないという事だ。何しろ透明で何も入っていない袋だ。見られれば必ず不審に思われる。

 ……よし。

「おはよう」

 俺は人を刺激しない程度の声量で挨拶の言葉を口にすると、誰とも目を合わせないように気を付けながら教室へ侵入した。要は鞄さえ死守すれば問題ないのだ。

 幸いにして誰も俺の事など気に留めない。それはそれで少し悲しいが仕方がない。

 俺はすたすたと大股で自席へと突進する。そして近くに誰もいないことを確認してから手早く鞄を開けた。

 これさえ見られなければ……。

 くるみの屁は無事だった。鞄教科書を尻に敷くような形で安らかに眠っている。漏れ出した様子もない。朝入れた時のままだ。……できるならばこれが必要となる機会が永遠に訪れず、このままひたすら眠り続けてもらいたい。

 俺は袋が爆ぜないよう注意深く避けると、一気呵成に鞄から教科書を取り出そうとした。

「なにこそこそしてんのよ」

「ぬぁああああッ!」

 そこへ、突然背中から声をかけられた。悲鳴が口から迸る。狙ったとしか思えないタイミングだ。俺は目を剥いて振り返る。だが、視線の先には誰もいない。なんだ、魔物か? 俺は幻聴でも耳にしたのか?

「な、何よ……」

 そう錯覚しかけた途端、顎の下辺りから声がした。俺は俯いてそちらを見た。何の事は無い。振り向いた視線の位置が少しだけ高かったのだ。

 そこには天水(あまみず)(ほむら)が憮然とした顔で立っていた。

「急に悲鳴なんか上げて……びっくりするじゃない」

 百五十にも満たないだろう、高校二年生女子としては小柄な体。捻れば折れそうな細い首の上に小さな頭が乗っかっている。胸は微かに膨らんでいる程度で色香とは全く無縁。おそらく成長期ごと忘れ去られたのだろう。こましゃくれたその笑みもまるで小学生のように幼い。

「で、なにこそこそしてんの?」

 焔が夕焼けを閉じ込めたような髪を揺らして覗き込んできた。

「こそこそなどしていない!」

 俺は体で焔の視線を鞄から遮りながら、注意を削ぐために敢えて大きめの声で言った。

 焔はその声に気圧されたのか、少し距離を開け、そして頬を膨らませた。

 俺は改めて焔を見る。こうして距離を開けて全身を見てみると、相変わらずその容姿は日本人離れしていた。まず、髪の色が日本人ではない。もともとそういう色なのか、屋外で紫外線を浴びまくったからそうなったからなのか不明だが、ルビーのような赤毛だった。中学の頃はよくその髪の色について生活指導の先生とやり合っていたが、黒くなることもなく赤毛で押し通していた。やはりそれが地毛なのだろう。俺の知る限りこいつの髪はずっとこんな色だった。ついでに言うと髪形もいつも同じで、カジュアルと言えば聞こえは良いが、ただざっくり切ったに過ぎないショートカットである。

 注意深く観察してみれば瞳の色もまた黒ではない。くりくりとよく動くその虹彩は欧米人のように褐色だ。化粧っ気など皆無の女だからカラーコンタクトなどという洒落た物を付けるはずもない。ということは、やはり先天的に色素産生がどこかイかれているのだろう。ひょっとしたら先祖に外人がいるのかもしれなかったが、少なくとも俺はそのような事を聞いたことはなかった。

 俺はぎらぎらと憎しみをこめて、アンティーク人形のような焔の顔を睨みつけた。

「あっ!」

「ん?」

 不意に焔の視線が俺の後方に向けられ、背後の何かを見た。俺は反射的に振り向いてみる。

「……何よこれ」

「あ? ああっ!」

 まさかこんな古典的な手に引っかかってしまうとは……。

 それは引っかけだった。釣られて振り返った隙に鞄の中を検められてしまった。そして見つかってしまった。それどころか取り上げられてしまった。

 鞄の中で鎮座している妹の屁を……。

 俺は愕然として焔の手中に落ちた袋を凝視する。完全なる失策だ。気をつけようと思った矢先にこれだ。

 だらだらと、石油のような汗が背中から噴き出す。この数日で何度この汗をかいたことか。もしこれが本当に石油だったら石油王にだってなれそうだ。

「……空っぽね。その割にはなんかパンパンに気体が詰まってるけど……なんかヤバいもんでも入れてんの?」

 ぎくり、と体が固まった。やけに勘が鋭い所が恐ろしいし腹立たしい。

「うん? ……それは……だな……ヘリウムガスだ」

「……ヘリウムガス?」

 焔が怪訝な顔をした。俺も口にしてしまってから、苦しい言い訳だと内心で思った。

「ふーん……ヘリウムガスね……その割には重いわね」

「ヘリウム以外に酸素と窒素も入っているからな。知ってるか? 純度百パーセントのヘリウムは吸うと失神することもあるんだぞ?」

「ふーん……」

 案の定、焔は不審な顔をしている。当然だ。学校にヘリウムを持ってくるなど意味不明も極まれりである。

「まぁいいわ。それで……どうして学校にヘリウムを? しかもこんな袋に入れて……」

「止めろ! 押すなッ! 中身が出たらどうするッ」

 ぶにぶにと袋を弄り始めた焔に俺は悲鳴を上げた。中身が飛び出してしまったら、社会的にも薬効的にもおしまいだ。

 俺は焔を捕まえようとして腕を伸ばした。だが、焔は小さな体を俊敏にしならせて俺の手から逃れる。

「くッ! 猿かお前はッ!」

「こんなかわいい女の子を前に猿はないでしょう! ……ムキになられるとますます怪しいわねぇ」

「やめろ! 乱暴に扱うな!」

「何そんなに焦ってるの? ヘリウムなんでしょう? パーティとかで使うあれよね? 吸うと声が変な風になるやつ」

 焔は、俺との間に机を挟み、容易に袋を取られないようにしてからしげしげと手に入れた袋を眺めている。俺は慄然とした。

「そうだ、そうなんだ、放課後にパーティをやるんだよ……。それを吸うのを楽しみにしてたんだ。だからそれを返してくれ。俺の楽しみを奪わないでくれッ!」

 俺は、もはや縋るようにして焔に頼み込んだ。あまり乱暴に取り返して袋が破れたら元も子もない。焔は目を鋭く細め、じっと俺を見つめると、意地悪そうに微笑んで言った。

「あ、そうなんだぁ。実は私、ヘリウムガスって一回も買ってもらった事ないのよね。あんなもの子供だましだって両親に言われて……全くひどい親でしょう? 本当に子供だったんだから子供だましで十分なのに。だから昔から興味があったんだ」

「そうか……それは残念だな。また俺が祭りの夜店で買ってやるよ。だからとりあえずそれは返してくれ」

「ふぅん。私とお祭りに行ってくれるんだ」

 何故か焔の顔から表情が消えた。

「そうね。これから秋祭りのシーズンだものね。考えてあげてもいいけど……でも、あんな子供だましを高校生になってまで買う必要もないとも思うのよ」

「欲しいのか欲しくないのかどっちなんだッ!」

 にたりと底意地の悪そうな笑みを浮かべて俺を翻弄する焔。俺は悟った。こいつはただ楽しんでいるのだ。俺が動揺する様を。つまり動揺を晒し続けることは余計に状況が悪化させることになる。

 俺は一度深く息を吸い込んだ。

 落ち着け。落ち着いて対応すれば必ずイニシアチブを奪取できるはずだ。

 俺は五秒くらいかけてゆっくりと息を吐き出した。

 そうだッ!

 そして天啓が訪れた。俺はカッと目を見開き焔の双眸を捉える。始めからこう言えば良かったんだ。

「すまん焔。それはヘリウムガスなどでは無い。それは、食べ終わった弁当箱を詰めるのに使う袋で――」

「え? 何これ? くさっ」

「ぬあああああああッ!」

 俺の悲鳴が教室中に響き渡った。唐突に焔が袋をあけ放ったのだ。何事かとクラスメート達の目がこちらを向く。

「な、なんてことを……。お前、なんてことをしてくれたんだ……」

 まるで汚いものでも摘まむようにして焔は体から袋を遠ざけた。俺はその袋をひったくる。そして発作が起きたわけでもないのに反射的にその中身を吸引した。理由は分からない。せっかく集めてくれたくるみに申し訳ないとか、発作予防効果があるかもしれないとか、そんなことを思ったのかもしれない。

 だが既に匂いはほとんど無かった。すーはーすーはーとヤバイ人みたいに吸っても――事実ヤバイ人なのだが――あの特有の匂いは僅か。ほとんどビニル袋の匂いしかしない。

 駄目だ! 完全にくるみの屁は室内に霧散してしまった。

 なんてことだ!

 パニックが全身を襲った。

「なんてことをしてくれたんだ焔ァッ!」

 俺は怒声を響かせながら焔に詰め寄った。

「あんた……これ……ヘリウムガスじゃ……ないでしょ?」

「ああんッ!?」

 だが焔は焔で言葉を失っていた。その表情に我に返る。焔は間近でその匂いを嗅いでしまった。あの袋の中身は誰にとっても馴染み深いものだ。

 まずい、と思った。そしてどう答えたものかと迷った。焔は唇の端を震わせて、驚愕に満ちた目をこちらに向けている。その目には理解の色が浮かんでいた。袋の中に詰められていたモノが何であるか……焔は完全に察知している。

「これは……何?」

 その上で焔はそう尋ねてきた。声は怒りか恐怖か嫌悪か、はたまたその全てなのか――あらゆる感情を持て余しわなないていた。

 俺は覚悟を決めた。

「……お前の考えている通りのものだ……」

 そう答えた瞬間、焔の顔が凍りついた。だが、仕方がない。下手に嘘をつくからややこしくなるのだ。こういうときには正直に全てを話すのが一番である。それに、こいつとは長い付き合いだ。口が堅いという事も知っている。むやみに言いふらしたりはしないだろう。

「な、何でそんなものを……あ、あんた……」

「話せば長い。いいからとりあえずここでは静かにしろ。理由はおいおい話す」

 声を低めながら俺はそう答えた。だが、正直に話すと言ってもこの場は相応しくない。周りの目もあるし、それに順に追って話さなければ到底信じてはもらえないだろう。なにしろ、当事者である俺自身が半信半疑であるくらいなのだ。

「……これ、自前なの?」

「はぁ?」

 焔はいくらか険を緩めたが、それでも強く警戒しながらそんなことを聞いてきた。

「俺がそれを持っている理由よりも、それが自前のものかどうかの方が……お前にとって重要なのか?」

「そうよ」

 凛とした声でそう断言されて、俺はよく分からなくなった。こいつにとっては屁を袋に詰めて持っているという行為が問題ではなく、誰の屁か、という事の方が重要らしい。

 俺は焔の顔をじっと見つめその表情から何を考えているのか読み取ろうとした。

「……自前のものではないが……」

「……自前のもの……じゃ、ない?」

 焔の考えを読もうとするあまり、うっかりそう口を滑らせてしまって俺は息を呑んだ。

 しまった! 

 見れば焔の顔は蒼白だ。体がわなわなと細かく震えている。

「違う! 違うんだ!」

「違うって……何が! あんた一体誰のおな――も、もがぁ!」

 危険な単語を発しようとした焔の口を俺は右手で押さえた。そのまま腕を首に回して背後に回り込む。焔は腕の中で激しく抵抗している。このまま首を絞めて落としてやろうかと思ったが、さすがにそれはやりすぎだ。

 俺は必至で頭を巡らせた。自前の屁を持ち歩いていることでさえ変態的なのだ。他人の屁を後生大事に袋に詰めて持ち歩いているともなれば、これは変態的とさえ呼べない。真性の変態である!

 何とか言い繕わなければ――。

「決してお前が想像しているような、倒錯的な用途に用いるものじゃないんだ。これは実は治療用のもので――痛ッ」

 その時、掌を鋭い痛みが襲った。焔が噛んだのだ。俺は堪らず口を塞いでいた右手を離した。

「誰!」

 焔は俺から逃れるや否や怒気を孕んだ声を上げた。

「誰の……おな」

「みなまで言うな! くるみだ! くるみのモノだ!」

 大声で袋の中身を喧伝されるよりはマシだと判断し、俺は放屁者の名を告げた。

「くるみ……ちゃん、の?」

 焔の顔から血の気が引いて行った。

「お、おい。大丈夫か?」

 俺は、ぐらりと倒れ込みそうになった焔をとっさに抱えた。だが、焔は俺の腕を払い除け、弾かれたように距離を取る。

「あんた……妹に手を出したの……?」

「手を出したって……そんなわけ……」

 無いだろう、と否定しようとして俺は言葉に詰まってしまった。手を出したか否か……それは手を出すという言葉の定義によるのではないか、そんな問いが頭をよぎったからだ。

 もちろん、世間一般的な意味での手を出す、と言うようなことは断じてしていない。妹なのだから当たり前だ。何度も言うが俺は変態でも倒錯的な趣味を持つ者でも無く、ごく一般的な男なのだ。

 だが、広義の意味での「手を出す」……つまり、その定義が「女としてキズモノにする」というものだったらどうだろうか。俺は、妹のキズモノにしたとは言えないか? 治療のためとはいえ、生娘に吸引の用途で屁を貯めさせたのだ。

 しかも、と俺は思う。

 俺は親父の屁を拒絶している。屁を単なる治療薬とみなすのであれば、誰の屁であっても差別すべきではない。それが父のモノであれ、妹のモノであれ、ありがたく頂戴し吸引するのが筋である。

 しかし、俺は父のモノを拒絶し、妹のモノを受け入れた。それは屁という治療薬を単なる治療薬として見ていないという事だ。噴出した人によって受容できるか否かを判断しているという事だ。

 俺はぐっと唇を噛んだ。妹のモノであるからこそ受け入れる事ができたという事実が、焔の質問を明確に否定できなくしていた。

 黙り込んだ俺を睨む焔の視線が槍のように鋭くなった。

「この……変態……」

 吐き捨てるように焔が呟く。その言葉に反論する余地はない。

「……仕方がないんだ……俺は……そういう病気なんだ。そんな病気に……なってしまったんだ!」

 そう言った途端、抉るように鋭かった焔の目が大きく見開いた。

「あんた、病気なの!?」

「ああ……。この間、発作で倒れてな。そう診断された……」

 焔は驚愕のあまり口を半開きにし、呆然としている。だが徐々にその表情が変わり、憂いに満ちた顔になった。

「ひょっとして……そんな病気にかかったのは私のせい?」

「はぁ?」

 意味が分からず俺は間延びした声を返した。

「だから、あんたのその病気は私のせいなんでしょう?」

「なんでお前のせいで俺が病気になるんだ? ……何を言ってる?」

 そう問いかけると、何故か焔は怒ったように頬を赤くした。

「……あんた……分かった上でそんなことを言ってるでしょう……?」

 そして今度は本当に怒り出した。俺は訳が分からない。

「お前……ひょっとして何か俺の病気について知ってるのか!? だったら教えてくれ! なんだこのふざけた病は。何か知ってるなら、頼む、教え――」

 バチーン。

 だが、俺の懇願はそんな清々しいほどの破裂音で遮られた。激しい衝撃が左頬を襲う。とっさに何が起きたのか分からなかった。だが、徐々に押し寄せた痛みが、頬を打たれたという事実を教えてくれた。

 何故だ。何故俺は打たれたのだ? 呆然とする俺を尻目に焔は踵を返した。俺はその後姿をただ見守る事しかできない。

 きーんこーんかーんこーん。

 その時、狙い澄ませたかのようにチャイムの音が鳴った。がらり、と扉が開いて担任の後藤が現れる。俺は無意識の内に張られた頬に当てていた手をゆっくりと下ろした。これ以上の追及は無理だ。俺はゆっくりと席に着くと深いため息をついて、授業の準備を始めた。


    ◆◆◆


「ん~。であるからして、このXの二乗を積分し……Yの値を代入すると」

 あっという間に時は過ぎ、既に授業は五限目。今は退屈極まりない数学の時間である。

 幸いにしてここに至るまで一度も発作は起きていない。吸入する屁がないことを考えるとそれは心から幸いなことであった。

 俺はシャープペンシルを指先でくるくる回しながら今日ここに至るまでの経緯を反省する。

 今朝、くるみの屁を失い気づいた事がある。

 ――それは、他人の屁を入手することがいかに大変かという事であった。

 妹の屁を失った俺は発作に備えてなんとか代替の屁を入手しようと試みた。購買でジッパー付きの小さなビニル袋を購入し、休憩時間が来るたびにトイレで張り込んで、同級生たちが放屁する瞬間を待ったのである。

 だが、意外な事に誰も屁をこかない。これは、予想外の事態であった。

 いや、もちろん放屁自体はするであろう。問題は人前ではしないという事である。だが、それもよくよく考えてみれば自明だった。例え男子とはいえ、羞恥心がピークに達する思春期のティーンエイジャーだ。おっさんではない。おいそれと人前で盛大な放屁をするはずがない。

 だが、俺は賭けた。例え思春期男子であっても個体差はある。例えば運動部の男子なんかは少しノリが違う。下品なことが大好きな彼らならば、排尿に伴い豪快な放屁をかましてくれるのではないか。そして、俺がそれを採取する事に協力してくれるのではないか。

 俺はそれに賭けたのだ。

 そして、昼食後の昼放課……ついにそれは起きた。

 トイレの手洗い場で髪を整えるふりをしながら、鏡でトイレに入って来る生徒たちを観察していたところ、丸坊主に刈り上げた野球部員と思しき学生が三人。連れ添って小便に――いわゆる連れションに来たのである。

 ポケットの中で袋を握りしめる俺の手がしっとりと汗ばんだ。これは千載一遇のチャンス。これで駄目なら恐らく学校で屁を入手することなど不可能に近い。俺はいつでもその尻に袋の口を押し当てられるよう身構えて――待った。

「でさぁ、マジであの監督。占いでスタメン決めてるみたいなんだよ。ったくふざけんなって話だよな」

 雑談に興じる坊主ども。開くのは上の口ではなく下の門にしろ、そんな考えが何度も頭の中に去来する。鏡越しに球児の尻を凝視する俺。視線の先にあるものが女子の尻だったならば犯罪類縁行為にもなったろうが、男だからセーフだと信じたい。

 そして、ついにその時が来た。

 ぶぅ!

「いっけねぇ。だははは」

 その音が聞こえると同時に、俺はダッと走り出していた。

 面白がるように笑うその声で、どいつがそれを発したのかすぐに分かった。俺は該当球児の肛門に突進しズボンの上から袋を押し当てる。

「だははは、は? おい、なんだお前」

 袋を押し当てると、そいつはすぐに俺に気づいた。

「お、おい、お前……何してんだ?」

 そいつは動揺しているようだったが、何分放尿中。尻をふりふりするくらいしか抵抗する術はない。他の二人も無論放尿中。俺を妨害できない。連れションが仇となった瞬間である。

「何してんだよぉッ!」

 坊主が悲鳴を上げたが無視である。相手をしている余裕はない。俺は坊主のズボンの尻のあたりをぐいぐいと押して、そいつの尻の周囲の空気を念入りに袋に詰めた。

「取った! 取ったぞぉおおッ!」

 成功だった。

 俺は袋を高々と掲げ歓声を上げる。嬉しかった。純粋に嬉しかったのだ。手に入れた屁に頬ずりをしたいくらいの気分だった。だって仕方がないだろう? それは命の妙薬。俺の命を救う唯一の希望だったのだから。

 そして、その結果がこれだった。

 俺はまだずきずきと痛む右頬をさすった。俺は顔面を殴られ、あげく蹴り飛ばされ、三人がかりでぼこぼこにされたあげく、せっかく捕まえた屁を失った。

「ホモ野郎が!」

 倒れ伏した俺に投げかれられた罵詈雑言。ペッと唾を吐きかけられなかっただけ僥倖か。そういえば、あの野球部員たちは俺を殴る時も決して右手を使わなかった。きっと球児の命ともいえる大事な右手を守ったのだろう。その心意気で俺の命も守ってくれれば良かったのに。

 俺は口内の傷口を舌でなぞりながら考える。だが、結果としてはこれぐらいで済んで良かった。

 俺は明らかに冷静さを失っていた。トイレでいきなり他人の屁を採取するなど、土台無理な話なのだ。

「ん~。こらこら、伊吹? 何をボーっとしている。窓の外に何か見えるのか? ん~?」

 顔を上げると、先ほどからクソつまらない数学の授業を続けている鰐淵教諭が顔面神経麻痺のようにアシンメトリーになった顔を俺に向けていた。

「すみません、少し考え事をしていました」

 俺は正直に答えた。この教師は教えるのは下手だが、数学者としては優秀という話を聞いたことがある。優秀な人には敬意を。愚かな者には報いを。それが俺の信条だった。

「ん~? そうか~。年頃の男子だからな~。色々と考え事をしても仕方ないな~。ところでこの問題の解答だが~」

「3です」

 間髪いれずに答えを告げる俺。おおお、と教室中にどよめきが起こった。

「うむぅ、正解」

 鰐淵がにやにやと顔面神経麻痺の顔で笑う。

「数学は常に答えが美しく収束する。それゆえ、正解を答えられたものが正義であーる。よ~し、我意。お前はボーっとしていてよろしい」

 そして、俺は教諭本人からボーっとする権利を得た。鰐淵のこういうところが俺は嫌いではなかった。むしろ好きと言って良かった。


 ――とくん。


 うん?

 その時、不意に心臓が小さく跳ねた。俺は手のひらでそっと胸を押さえる。

 ――なんだ、今の高鳴りは。

 それは、好きだの嫌いだの考えていた矢先の出来事だった。

 ……まさか俺の鰐淵に対する好意は、恋愛感情由来のものだとでも言うのか。

 俺は驚いて鰐淵を見る。顔面神経麻痺で三白眼の不気味な中年親父が一生懸命確率論を語っている。その姿を見つめながら、俺は自分の心音に注意を向けた。

 とくん、とくん。

 やはり、心臓はいつもよりも少し早い鼓動を刻んでいる。

 なんだ、どうした、まさか、そんな?

 とくん……とくん…………とくん。

 だが、落ち着いて呼吸を繰り返すと心臓の音は徐々にゆっくりになっていった。

 やはり気のせいだったらしい。俺はほっと胸を撫で下ろす。

 とくん………………とくん………………………………とくん。

 そして、心音はさらに間延びを始めた――。

 ………………………………とくん。

 そして静かに停止した。

 俺はにっこりと笑った。うん。やはり鰐淵に恋をしていたわけではなかった。

「うん?」

 だがその笑顔が凍りつく。

「……止まってる?」

 心音は完全に停止していた。

 俺は吠えた。

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおッ!」

 椅子を蹴り倒して立ち上がる。だが、立った瞬間に凄まじい立ちくらみが俺を襲った。原因はもちろん心臓だ。すでに血液が不足し始めている。頭に血が回っていない。

「んぉ~? どうした伊吹。大丈夫か?」

 鰐淵が俺の絶叫に驚いて、何事かとこちらへやってきた。そして、酸素不足で足をふらつかせていた俺は、事もあろうに鰐淵の胸の中へ倒れ込んでしまった。

「ななななな、なんだ伊吹っ、お前の考え事ってひょっとして、ワシの事なのか?」

「違うわぁあッ!」

 と、なんとか反論こそすることができたが、そのせいで目眩が余計にひどくなった。鰐淵を押しのけることもできない。地震でも起きたみたいに世界が揺れている。これはもはや立ちくらみというレベルでは無い。前失神状態だ。

 まずい、と俺は思った。

 事態はかなり進行しているッ!

「ほいほいほいほい、伊吹よ。こういう事は二人きりの時にゆっくりと……」

「うるせぇえええッ!」

 もともとゲイっぽいとは思っていたが、まさかこいつ本当にゲイなのか? 俺は鰐淵の寝ぼけた発言を一喝して黙らせる。だがその一喝で自分の体にもわずかに力が戻った。恐らく怒りがアドレナリンの分泌を促し血管を収縮させたのだろう。それで重要臓器への血流が増加したのだ。 

(ゆう)()ぁぁああッ!」

「はいですぅうッ!」

 俺は隣の席の男の名を呼んだ。

 そう、俺は友人が少ない。こんな性格だ。仕方が無い。だが、決していないとは言っていない。そんな俺の数少ない友人がこの男だった。

 小森(こもり)悠真。

 くりくりとした二重に幼児のような背丈とおかっぱ頭。家へ帰る代わりに山へ帰り、まさかりを担いで樹木を伐採、午後の暇つぶしに森の熊と相撲を取っていそうな雰囲気の男。

 こいつは俺を心酔している。俺の言う事なら何でも聞く。悠真が持っていないものを、俺がすべて兼ね備えているからだ。だが、その傾倒っぷりが鬱陶しくて普段はこいつを頼るなどという事はしないのだが――仕方がない!

 今はこいつに頼るしか術がない。

「屁を放てぇええッ」

「ええええ?」

 いきなり命じられたその指令に、奴隷たる悠真もさすがに疑義を呈した。

「問答無用ッ! すぐさま屁を放つんだ! 放てぇえええッ!」

 だが、奴隷は口応えなど許されないから奴隷なのだ。今こそ奴隷の職分を発揮するときであるッ! 

 俺は体を回転させて鰐淵の手から逃れると、悠真の体に倒れ掛かりながら再度命じた。悠真は俺に触れられて嬉しそうにしながらも、まだ困惑している。

「無理です、出ないです、何でですぅッ?」

 この――愚図がッ! 

 いつまでも命に従わない駄犬に、目の前が赤く染まった。

「その巨大な体は見せかけかぁああッ! 屁を放てぇええッ!」

 埒が明かないとはこの事だ。怒りにより一時的に燃え上がった命の炎も、再び消火されつつある。視界がチカチカと明滅を始め、死のカウントダウンが始まった。

 冗談ではない。こんなところで死んでたまるか。

 俺は、瀕死の体に鞭打って悠真の胸倉を掴んだ。

「屁を、」

 ガスンッ! その左下腹部に一発。

「放てぇええッ!」

 俺が殴打した場所は下行結腸の最奥部、S状結腸がある部位だ。肛門からの位置が近く、形状的にもガスが貯蔵されやすい部位である。ここを殴れば一発くらい屁が出るかもしれない。

「ほわぁぁああ、我意君っ。何するんですッ!」

「いいから、早く出せヨォオオオ!」

 ……いや、出るかもしれないでは困るのだ。出てもらわなければ俺は死ぬ!

 ガスンッ! もう一発。だが、明らかに先ほどよりも力が弱い。力が入らない。

「はぅうう」

 ガスンッ! さらに一発。

 だが出ない! それでも屁は出ないッ!

「頼む……屁をッ、」

 ガスンッ!

 くそう……こんなところで……こんなところで俺は死ぬのか。

「屁を……放てぇええあああああああああッ!」

「ああああぁああッ」

 ……だが、その時。悠真の反応が変わった。俺の突然の暴力から身を守ろうと、必死で腹を防御していたその腕が、突然臀部に回ったのだ。

 これは出るッ! 俺の直感がそう告げた。

 いや、ひょっとして――もう、出ている!?

「その腕をどけろぉおッ!」

 俺はなけなしの力を振り絞り、悠真の背部に回り込むと尻を隠そうとする悠真の腕を払いのけた。そして、そのでかいケツに顔をうずめて息を吸い込む。

 だが、駄目だった。

 臭わぬ! まだ何も臭わぬッ! 

 俺は顔を離し悠真のケツを睨みつけた。

 こいつ……我慢してやがるッ!

 普段従順なくせして肝心な時にこの反抗。使えないにもほどがある。だが、調教するのは後だ。今は、一刻も早くガスを噴出してもらわなければならない。

 そして俺には確信があった。ここでもう一発、適切な刺激を加えれば間違いなく屁は放たれる!

 俺は両手を組み合わせて両の人差し指を伸ばした。

「ちょっと、我意君っ! 何するつもりですか、はわわわわ」

 肩越しに後ろを振り返った悠真は、すらりと伸びた俺の二本の人差し指を見て驚いたような声を上げた。

「うるさい、黙れ! そして喰らえッ!」

 俺は標準を定める。何をするのか、など説明するまでも無かった。

 ぐさり。

 問答無用で突き刺す。

「ふぐあぁあああッ」

 悠真の苦痛とも恍惚ともつかぬ悲鳴が教室に響き渡った。

 指が肉と肉との間を押し広げながら、禁断の秘穴に向けてめり込んでいく。

 ――優等生による(アナースチューデンツ)優美な浣腸(アナルボンバー)

 後に、俺はこの秘技にそう名前を付けた。

 指先から伝わる感触が、生温くより柔らかいものへと変貌していく。高速で打ち出された人差し指が、ついに洞穴の内襞へと到達したのだ。

 その瞬間、悠真の太い体が弓のようにしなり硬直した!

 教室が水を打ったかのように静まり返る。突如として巻き起こった学年一の天才による奇行に皆が呆気にとられている。じじじじじ、と過ぎゆく夏を惜しむ蝉の声だけが凍結した教室に反響した。

 ……頼む……頼むぞ……悠真……。

 どくん、どくん、と心臓だけが鳴り響きそうなシチュエーションだが、口惜しい事に俺の心臓はほぼ止まっており静かなものだった。

 そして俺は、長く厳しい冬を乗り越えてようやく芽吹く事を許された若葉のように、ゆっくりと指を引きぬいた。

「ふ、ぐ……」

 自らを刺し貫いていたものが優しく抜けていくその感触に、悠真の巨体が震え、床に沈む。

 俺は全精力を使い果たしがっくりと膝を着いた。これで屁が出なければ万事休す。俺は死ぬ。四つん這いになって倒れた悠真の巨尻に恥も外聞もなく顔を埋めて、俺はその時を待った。


 …………………………くん……。


 こうして目を閉じていると、否が応にも心臓に意識が行く。既に停止していると思っていた心臓は、どうやらまだかすかに動いているようだった。

 尻に顔を埋めて閉眼している事もあり、視界は新月の夜のように暗い。

 すーはー。

 意識して呼吸だけは続行する。放たれた屁を逃さぬよう。俺の命を繋ぐその気体を漏らさぬよう――。

「だ、駄目です。我意君。そんな所に顔を埋めちゃあ……は、はぁッ!」

 その時、肉厚な大殿筋がいきなり俺の頬を痛いほどに締めつけてきた。続いて、痙攣のような収縮が鼻先をぶるんと走る。

 ……ついに来たか……。

 俺は来るべき衝撃に備えて、体勢を固めた。両手で尻を掴み、鼻を尻の割れ目の最も奥深い所に押し当て、覚悟を決める。

 その時だった。


 ――ぶぼっ。


「ふぅぅおおおおおッ!」

 満を持して、悠真の巨尻から屁が放たれた。

 俺はそれを貪るよう吸引する。

 ドグンッ!

 その瞬間、殴られたように心臓が拍動した。熱い、痛い、心臓が――燃えるようだ!

 その猛烈な臭気を吸引した瞬間、確かに心臓が強く羽ばたいた!

「おっほおぉぉおおおおッ! いいぞッいいぞッ、悠真ッ!」

 深く暗い湖の底からものすごい勢いで引き上げられたかのように、意識が明快になっていく。

 俺は歓喜の声を迸らせながらさらにケツの奥深くに鼻を突っ込み、一粒の粒子も残すまいとそれを吸引した。

 目の前が白く輝いた。そこに、神の放つ曙光があった。

 頭の中に清流が迸る。冷えて重くなっていた手足に清らかな水が行き渡る。それは体を巡る血潮。命の証。

 そうだ俺は生きている!

 俺はゆっくりと悠真の尻から顔を上げた。

「素晴らしいッ! よくやった、悠真ッ! お前は命の恩人だ、ありがとう、ありがとうッ!」

 俺は喜びのあまり悠真の尻を太鼓のように叩いた。パンパンパンと小気味よい音が鳴る。これは偉業。まさに偉業である。俺は満面の笑みで悠真を讃える。

「我意……君……」

 だが、悠真は俺の賞賛を喜んではいなかった。四つん這いになったままの姿勢で悠真がゆっくりと振り返る。

「ん?」

 悠真は巨大な図体をぷるぷると震わせて泣きそうな顔をしていた。金太郎のようなつぶらな瞳が涙で潤んでいる。

 俺はそこでようやく異変に気が付いた。教室に立ち込める空気がおかしい。周りを見渡すと、クラス中の視線が俺達二人に向けられていた。その視線が火矢のように熱く、そして痛い。

「…………」

 俺は膝に着いた埃を払うと、静かに立ち上がった。一難去ってまた一難。生命の危機とは似て非なる、社会的な生命の危機に今自分が直面しているのだとようやく気が付いた。

 俺は冷静な考察を試みる。こういう時にこそ冷静さが必要だ。ひょっとしたらこの事態を打破する方法があるかもしれない。

 まずは状況整理である。

 あるイケメン天才男子が授業中に不意に立ち上がったと思いきや、奇声を上げながら隣席の男子を暴行。その肛門に指を突きさし、捻じり上げるや否や屁の催促矢の如し。揚句放たれたガスをむしゃぶるように吸い上げた……。

 これがクラスメート達の目に映った光景だ。

「…………」

 俺は無言のままつかつかと教壇に向かい、クラスメート達に向き直る。そして、敢えて凛と胸を張ると生徒会演説のように朗々たる声で宣言した。

「……俺は、病気なんだ」

 …………。

 理解を得るためにはやはり真実を吐露するしかない。焔の時と同じだ。あの時は時間がなくて十分に釈明できなかったが、今ならば可能だ。いや、むしろ今しかない。いまきちんと釈明しておかなければ大変なことになる。

 だが、俺がこうして口火を切ったというのに、依然として教室は固化したままだった。

 仕方ない。もう一度説明しよう。

「俺は――」「変態ッ!」

 その時、教室の端から声がした。それがまた絶妙なタイミングで俺の言葉尻を接いだものだから、まるで俺が変態宣言をしたかのように聞こえた。

 その事に気付いた男子の何人かが含み笑いを漏らす。教室の空気が少しずつ変わり始めている。だが、この変化は俺の望む方向ではなかった。

「変態ですッ! 不潔ですッ! 何なんですかあなたはッ! 男の人が男の人の御屁を吸うなんてッ! しかも授業中に!」

 声のした方向を見ると、潔癖症で有名なクラス代表の女子が顔を真っ赤に染めて怒っていた。屁にまで敬意の『御』をつけるその感性に限りなき違和感を覚えるが、この際それは関係ない。

「違う……違うんだ。話を聞いてくれ!」

 だが、一度変わり始めた空気の流れは容易に元に戻す事は出来ない。教室にざわめきが蘇る。

 ……ざわ……ざわ……。

 ……変態だって? ……。

 ……ええ、そうよ、変態……。

 ……まさかあの我意君が? 

 ……いや、ありうる話だぞ……馬鹿と変態は紙一重っていうだろう? 

 ……それ……なんか違わない? ……だってあんた馬鹿で変態でしょう? 紙一重も何も完全に一致してるじゃない……。

 ……ざわ……ざわ……。

 芳しくない話があちこちで展開していた。このままでは俺が変態である流れで話が決着してしまう。

 俺は激しく首を振った。

 いいや、まだだ。まだ立て直せるはずだ。俺を誰だと思っている。伊吹、我意だぞ! この俺の知性をもってすれば必ず皆の信頼を取り戻せる!

 俺はこの流れを断ち切るために再び声を張り上げた。

「俺は変態ではないッ!」「ことはないッ!」

 誰だ!

 またしても俺の言葉尻が継がれた。しかも二重否定すなわち肯定という、高度な文法的技法をもって。

 再び教室に失笑が満ちる。先ほどよりも大きく、明快な侮蔑を含んだ笑い声だ。俺はぴくぴくとこめかみを痙攣させながら話の腰を折った男の顔を見た。

「……何も……恥じることはないんだよぉ……我意。自分をむやみに否定してはいけないよぉ……」

 それは――鰐淵教諭であった。

 俺はその人物の意外性に目を見張る。なぜ、教師たるお前が俺を変態だと断じるのか。お前はむしろ俺を守るべき立場にある男なのではないか。

 そんな疑問を視線に乗せて鰐淵を見ると、鰐淵はフッと微笑を浮かべ感じ入ったかのように何度も頷いた。

「……んふふぅ、人を愛するという事に何ら罪はない。自らを偽ることこそ罪なのだ。変態でもいい。それを恥じる事が恥なのだ。……そうだろ、我意……。抑えられなかったんだよねぇ? 彼に対する愛が……」

 非対称に歪んだ顔をとろけるように弛緩させながら、鰐淵は腕を差し伸ばした。俺はその腕の先にいる人物へと目を向ける。

「……なんで、お前……」

 そこには悠真がいた。薔薇色に上気した頬を両手で押さえ嬉しそうに微笑む悠真がいた! 悠真は乙女のようにもじもじと足をくねらせ身悶えている。

「今度からは……人目のない時にして下さいです……」

「おえぇええッ!」

 その言葉に胃が痙攣した。酸っぱいものが込み上げてくる。悪寒がする。背筋が震える。蒸し暑いはずの教室なのに――寒い。ひどく寒い。悪寒が、絶対的な悪寒が止まらない。

「何勘違いしてんだ、悠真!」

 だが、それを受けて答えたのは何故か鰐淵だった。

「確かにそうだな。時と場所は選ばんとな。ただ……それほど抑えられなかった欲望――それに先生は感嘆を隠せない。いやぁ、若いって素晴らしいな。んん~」

 と、したり顔で頷いている。

 マズい。マズすぎる展開ッ! 

 俺は絶句した。

 この決着は俺が最も避けたかったもの……。断じて結論をそこに帰着させてはならない!

「違うッ! 俺は決してそういう趣味の人間じゃ!」

 俺は必死に叫んだが、その叫び声は鰐淵の分かってるぞ、と言わんばかりのウィンクで完全にいなされた。絶望が目の前を真っ暗に覆う。

 教室のざわめきが徐々に収束していく。俺が変態という流れで決着しようとしているのだ。茫然と立ちすくむ俺の元へ鰐淵が、まるで聖職者が献花台に昇るかのごとき足取りで近づいてきた。シミの浮いた手がうなだれた俺の肩にポンと置かれる。

「小森君と我意君に幸あれッ!」

 そして、鰐淵はそんな言葉で締めくくった。もはや何も考えられない。鰐淵の声に教室が沈黙した。

 ぱち、ぱち、ぱち……。

 そして、動きが起こった。

「そん、な……馬鹿な……」

 俺は目と耳を疑った。

 静まり返った教室に湧き起こり始めたのは、なんと――厳かな拍手!

「おめでとう!」

「おめでとう!」

 そして、いつしか拍手に祝福が加わった。その音声は次第に大きくなり、窓を震わせるほどになっていった。

 違う違う、違うんだみんな。誤解だ。おめでとうじゃない。

 心の中でそう否定の声を上げる自分がいたが、それが実際に発せられる事はもはや無かった。

 ――無駄。

 俺の直感がそう告げていた。

 人は己の理解を越える現象に直面した時、そこに何らかの説明が加えられれば、それが明らかにおかしな論理であろうとも納得してしまうものなのだ。

 これが、そうなのだ……。

 もはや受け入れるしかなった。

 変態と言う名の烙印を。

 俺はよろよろと右手を上げて、クラス中の歓声を受け入れた。

 ワッとまた一つ拍手が大きくなる。

 それはまるでカルト教団のようだった。

『おめでとう!』

 パチパチパチパチッ!

 凄まじい歓声が吹き荒れる教室で、俺は孤独に立ち尽くすのであった。


    ◆◆◆


 ブルブル、ブルブル。

「ん?」

 これ以上ないほどブルーな気分に浸りながら帰宅していると、太腿から微細な振動が伝わってきた。

 電話である。

 一体誰だろう。出ようか出まいか迷ったが、めでたく変態の栄冠を手にした俺に電話をかけてくる奴がどんな奴か気になった。自転車を漕ぐ足を止めズボンのポケットから携帯を取り出す。

「うん?」

 取り出した携帯の画面には見慣れぬ十桁数字が並んでいた。名前が表示されない。どうやら連絡先に登録されていない番号からの電話らしい。しかも携帯ではない。市内の固定電話のようだ。

「もしもし……」

 不審電話かもしれないと、俺はややぶっきらぼうに応じる。

「あ、すみません。こちらは我意君の携帯で良かったですか?」

「……誰だ?」

「ああ、私です。医師の橋本です。大津橋大学病院の……」

「ああ、あんたか」

 一瞬なぜ彼がこの電話番号を知っているのか不審に思ったが、よく考えれば彼らにはカルテがある。カルテには住所、電話番号はおろか既往歴、家族歴まで記載されているはずだ。つまり個人情報は筒抜けと言っていいはず。

「で、どういったご要件ですかね? 画期的な治療法でも見つかりましたかね?」

 俺は皮肉っぽく言った。

「まぁ、そんな感じです」

「そうですよね。そう簡単に画期的な治療法なんか……うぇえッ?」

 予想外の返答に俺は上ずった変な声を上げてしまう。電話口の向こうで橋本が笑った。

「何か新しい治療法が分かったのか!」 

「はっはっは。そういう素敵なリアクションを取っていただけると、こちらとしても話し甲斐があるというものです。……実はですね、我意君の心筋受容体の遺伝子解析を進めた結果、興味深い事実が分かってきたのですよ」

 橋本は勿体ぶった言い回しでそんなことを告げた。俺は勢い込んで尋ねる。

「それで?」

「我意君の病気は心筋の受容体異常が原因である事は以前お話ししましたよね? その異常が、放屁吸入で一時的に改善されることも」

「ああ。それで?」

「それでですね。今回の検査で、新たに放屁の種類によって効果に差がある事が判明したのです!」

 ……放屁の種類だと?

「屁に種類なんかあるのか?」

 俺は疑問をそのままぶつける。

「ええ……世の中に誰ひとりとして同じ人間がいないように、全く同じ成分の屁もまたないのですよ」

 橋本はしみじみと言った。他人が聞いたら何馬鹿なことを言っているのかという感じだが、俺達は至って大まじめだった。

「食ったものによって変わるという事か?」

「違います。食ったもの、ではなく放つ人によって効果に差異があるようなのです。おそらく個々人の腸内細菌叢の違いが影響していると思うのですが具体的な機序は不明です」

「そうか……」

 俺は深く息を吐いた。だが、決して落胆してのものではない。むしろ興奮を落ち着けるための深呼吸だった。こんなに早く病気の実態が分かって来るとは思っていなかった。やはりこの医師は存外に優秀なのかもしれない。

「それで、どういった人物の放屁が我意君の心筋に効果的かを検証したのですが、遺伝的に相似した人の放屁より、乖離の大きい人の放屁の方が優れていると分かりました」

 俺は徐々に気持ちが急いてくるのを感じた。

「それは具体的にはどういう人間なんだ?」

「血縁から遠い人間です。家族や親族の放屁でもある程度の効果が得られますが、持続時間が短いのです。一時的に寛解が得られてもすぐに発作が再発してしまいます」

 それでか、と俺は嘆息した。前回の発作を救ったのは親父の屁だった。あれから今日の発作が起こるまで二週間も経っていない。それは放屁の効果持続時間が短かったからなのだ。

 では、と俺の脳裏に閃くものがあった。今回の発作を救ったのは悠真の屁である。血縁から遠い悠真の屁であれば長らく発作を免れることができるのではないか?

 だがその事を橋本に告げると、橋本は残念ながら、と悲しげな声を出した。

「残念ながら、同性の放屁も効果が薄いということが確認されました。異性の放屁の方がチャネルの開存時間が長いのです。ひょっとしたらこの受容体異常は生殖活動と関連があるのかもしれません」

 ……なんてことだ。俺は口元を押さえて言葉を失う。

「さらに言えば放屁は同種でなければなりません。犬や猫と言った種の違う動物の放屁は無効です」

 犬や猫の屁など全く想定していなかったから良しとして、俺にとって問題なのは親族の屁も同性の屁も駄目だという事だ。放屁の入手先として最も簡便で容易なのは何と言っても同居している親族……もしくは悠真のような同性の友人である。それが駄目となると入手の難易度は途端に跳ね上がる。

「じゃあ、どうすればいいんだ!」

 そう吠えてはみたが、俺の鋭敏な頭はもう答えを導き出していた。

 親族は駄目、同性は駄目、となれば答えはもう一つしかない。

 血の繋がらない――異性の……屁!

「……その通りです。我意君の発作頻度を劇的に減らすおならを放つ人……言わば放屁体(ほうひたい)ですね。その人を見つけてください」

「放屁体だと……? お前……ふざけてるのか?」

 ぎりっ、と奥歯が軋みを上げた。

「いいえ、ふざけてなどいません。そしてこれはできる、できないの問題でもありません。我意君が平穏な日常生活を送れるようになるためには、それしか方法がないのです。やるしかないのですっ!」

「ふざけんなッ!」

 その言葉に、俺はついに大声を上げた。道を行くサラリーマンが何事かと振り返った。

「そんなこと、思春期の高校生にできるかッ! そんな、恥ずかしい事――」

「もちろん私達もできる限りのお手伝いをさせていただきます。既にこちらの看護師や女医にもボランティアを募っているところです。しかし何分モノがモノだけに集まりが悪く、しかもどうやら屁の効力は時間が経てば経つほど減衰するようで――」

 なんて、ことだ。

 俺は耳元から携帯を離し、だらんとそれを持つ手を脱力させた。

 そして、天を見上げる。

 涙が……零れ……ないよう……に。

 携帯からはなおも橋本の声が聞こえてくる。

「いいですか? なるべく遺伝的な相違の大きい放屁体を探してください。その人が我意君の特効薬を生み出す人物です」

 俺は半ば諦め、半ば達観しながらスピーカーから漏れ出る橋本の話を聞く。

「遺伝的な相違……そんなものどうやって調べればいいんだ……」

 無意識にそんな疑問を発していた。生きようとする本能が勝手に唇を動かしたとしか思えなかった。

「生命は遺伝的な相違が大きい異性に惹かれると言います。遺伝子の多様性を確保するためです。これを利用すれば、我意君にとって理想的な放屁体を見つけだすことができます」

 橋本の言葉に俺の優れた頭脳が自動回転を始める。その結果、またも先んじてその答えを導き出してしまう。

 遺伝的に相違している異性ほど惹かれるというのならば――。

「惚れた、女の屁を――吸えばいいんだな?」

「……そうです」

 残酷な事実が突き付けられる。

「理解が早くて助かります。あくまで直感的に好きだと思う女性を狙ってください。一目惚れかそれに近い、本能的に好ましく感じる女性です。そういう女性は遺伝的に我意君と乖離しています。その女性の屁を直接、時間を空けずに吸引してください」

 橋本は苦いものでも含んだような口調で言った。それがいかに難しい話か分かっているのだろう。だが、医師である以上彼は告げなければならない。だから告げる。念を押すように。俺は聞く。自らの命を救うために。

「我意君が一目惚れした女性のおならこそが、この病気の特効薬なのですッ!」


◆◆◆


 そして俺は自室の机の上で頭を抱えていた。

 ……一目惚れした女の屁を嗅げ、だと?

 落ち着いて考えてみればみるほどに、そのミッションの困難さが頭をもたげてくる。

 そもそも、俺は妹以外の女性が屁をこいている現場に居合わせた事が無い。母の屁すら聞いたことがない。

 女は屁を秘匿する生き物――それが、この世に生を受けて以来俺が感じてきた女性の放屁行動に対する感想だった。そんな女性に対して、屁をこいてもらい直に吸わせてもらう……これは明らかに無理ゲーだ。ダイハードである。ジェームズボンドでもクリアできまい。

「ああッ! もうッ!」

 俺はぐしゃぐしゃと髪を掻き毟った。しかもそれには『俺の惚れた女性』という条件まで付随する。これもまた厄介な問題だった。

 何故なら俺には一目惚れした経験が無い。……おそらく。

 ビビビっと来ただの、雷が落ちただの、異性を見ただけでそんな現象が生じるなど信じられないし、実際生じたこともない。……おそらく。

 つまり俺にとって一目惚れとは少女コミックに出てくるだけの都市伝説なのだ。

 ――だが、俺は今回、そんな運命の女を探さなければならない。探さなければ、俺の日常は戻ってこない。

「はぁ……」

 俺は、もはや何回目かも忘れてしまった深いため息を漏らした。

 だが。まぁ待て。少し落ち着こう。

「一つずつだ」

 俺は呟いた。そう、何事も一つずつ。それが俺の問題解決法だった。

 大きな問題は一気に片付けることが困難だから大きな問題なのだ。大きな問題をたくさんの小さな問題に分割してしまえば、それら一つずつの解決は容易になる。そして分割した細かな問題を少しずつ解決していけば、最終的に大きな問題も解決する。

「そうだ……」

 では困難を分割し、最初に解決すべき問題に焦点を絞ろう。

 そう、最初に問題になるのは誰の屁を入手すべきかという点だ。そのためには、自分が誰に惚れているかを考えなければならない。自分では気づいていないだけで、ひょっとしたら既に惚れた女の一人や二人いるのかもしれない。

 そうだ。まずは、落ち着いて自分の心と対話してみよう。

「よし……」

 俺はゆっくりと目を閉じた。

 そして夜の海のような自分の心の奥底へ、静かに降りて行く。

 恋愛とは情動だ。動物と言う頸木にとらわれた人間の如何ともしがたい本能である。

 そしてそれは、理性的である事を理想とする俺にとって、制御すべき一面だ。

 だから、そこは常に鏡のような壁で隔てられている。

 それは俺が作り上げた理性と本能を隔てる壁。

 だが、もう見て見ぬふりは出来ない。

 俺はこの壁の向こう側にいる自分と会話をしなければならない。

 俺は意を決して、すぅ、とその壁を通り抜けた。

 ……そしてその先にあった光景に愕然とした。

『屁を放てぇええッ』

 ……それは、あの悪夢の再現だった。

『おっほおぉぉおおおおッ! いいぞいいぞー悠真ッ!』

 狂喜に顔を歪めて俺自身が叫んでいる。

 ……こ、これは一体どうしたことか? 俺はその光景に唖然とした。

 俺は、確か『惚れた女』を探して自らの心の奥底を目指したはずだ。それがどうして、この場面の再現へと行き着くのか。

 ま、まさか……俺は……。

 そして俺は一つの可能性に行き当たる。

 俺はハードゲイなのかッ!

 悠真のケツに顔を埋めて屁を吸引する俺自身。

 俺は森林浴ならぬ屁浴(へよく)を愉しむ自分を第三者視点で眺めながら絶望した。

 言い逃れできない……鰐淵が祝福したのも頷ける……これは完全にダイハードならぬ大ハードゲイッ! なるほど、これでは女たらしのジェームズボンドではクリアできないはずだ……。

「いやいやッ!」

 俺は激しく首を振って否定した。

 ゲイであればさすがに自覚はあるはず。そして、俺は同性をそのような目で見た事は一度たりともない。

 俺は壮絶な悪寒に襲われながら自問自答を続ける。

 絶対に無い。無いだろう。無いはずだ。

 そう、自分に強く言い聞かせる。だが、強く言い聞かせれば言い聞かせる程、それとは逆の想いもまた強くなる。

 ――だが、もしも。

 そして、その想いがついに言葉になって頭に浮かんだ。

 ――もしも自分がゲイだったのならばどうすれば良いのか?

 俺は再び首を振る。だが一度浮かんだ想いは止まらない。勝手に思考が進んでいく。

 ――もしも、俺がゲイならば……俺が入手すべき屁は、男の屁と言うことになりやしないか。 実際に俺は悠真の屁を吸引している。しかも無我夢中で――。

 俺は冷静に振り返る。

 あれは確かに至福の瞬間だった。だが、その至福が自らの救命に端を発したものではなく、愛する男の屁を吸引する喜びから来ていたのだったら――。

 冷や汗がつつっと背筋を伝った。絶対に無いと思いたいところだが、今は吟味が必要な時だった。何故なら、これには俺の命がかかっているのだから。

「シミュレートだ……シミュレートが必要だ……」

 擬似的に悠真を惚れた相手としてイメージし、それに対して俺の本能がどう反応するのか確かめてみればいいのだ。

 俺の優れた想像力をもってすればできる。

 俺は目を閉じて深呼吸を繰り返した。

『我意君……』

 すると、すぐにそいつが現れた。目を潤ませてもじもじと恥じらう悠真。頭の中の悠真は太い体をひとしきりくねらせると、不意に目を閉じた。そして、ゆっくりと肉厚な唇を突きだしてくる。

『……ス……キ……』

 カッ――。

 俺は双眸を見開き思考を中断させた。現実世界へと立ち帰る。

「おげぁあああああッ!」

 そして、食道に競り上がってきた胃液を、手近に控えたゴミ箱にぶちまけた。

「ッ……ハァ……ハァ……」

 晩飯を固辞したのが幸いし、吐き出されたのは少量の胃液だけで済んだ。

「……無い、な……やはり、これは、無い……」

 生理的反射で嘔吐するほどなのだから、この線は無いと言って良いだろう。

 俺は安堵の息を吐く。

 そもそも落ち着いて考えれば、橋本の検査結果から俺の心筋細胞は異性の屁の方が効果的である事が明らかになっている。同性の屁ではない。

「どうかしてるぜ……」

 やはり、気が動転しているようだった。喜び勇んで悠真の屁を吸引したのは、命拾いをした嬉しさ由来であると結論付けられる。

 どうやら女性だけに的を絞って考察を続ければ良さそうだ。

 口の中が苦い。

 世の中の腐女子は男×男の妄想で楽しむと聞くが、彼女達の頭の中は一体どうなっているのだろう? リアルに想像してみればすぐに分かるではないか? あれはありえない。全くあり得ない光景だ。

 俺はすーはーと深い呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着ける。そして再び思索を開始した。

 性別を女に絞って考える。

 だが、よくよく考えれば女と言っても一括りにできるものではない。熟女、お姉、タメ、年下、ロリコン。そして…………二次元。

「二次元……二次元ねぇ……」

 俺の病を治すのに当たって、二次元の女性が関与する余地は全くない。何故なら、彼女達の屁は吸引することが不可能だからだ。

 だが、だからと言って彼女達を切り捨ててしまうのはいかがなものだろう……。

 極度にデフォルメされた彼女達は、俺の好みを絞り込むのに一役買ってくれる可能性がある。

「ふむ……試してみる価値はあるな」

 俺は自己の精神世界だけに埋没するのを中止し、机上のノートパソコンの電源を入れた。二次元女を考察するのであれば具体的に視覚から攻めた方が分かりやすいだろう。

 ぶぅん、と音を立ててデルのモニタが起動する。カタカタとハードディスクが鳴った。しばらくすると見慣れたデスクトップが表示された。俺はカチカチとマウスをクリックしてお気に入りに登録してあるグーグルを開く。そして画像検索画面に切り替え検索ワードを入力した。

「『二次元』『萌え』『屁』……と」

 入力しながら苦笑いが浮かんだ。何とも背徳的なキーワードである。こんな文字を入力して検索にかける日が来るとは思わなかった。

 だが、そんな背徳的検索ワードでもパソコンは従順に結果を返してくる。

 ぱぱぱっと画面を覆い尽くすように現れる小さなサムネイル画像。意図不明のどうでもいい画像も多いが、その中にはあられもない二次元女性達の絵も散見される。

「う……む……」

 俺はそんな二次元の美女たちにカーソルを合わせて適当にクリックした。もちろん、これは致し方なくだ。決して好きでやっている訳ではない。

「……これはなかなかにけしからん」

 次々に表示されるはしたない姿をした少女達。カチ、カチ、カチとクリックを刻む音の間隔が徐々に短くなっていく気がするのは気のせいだ。

「ほっほぉおお。けしからんけしからん。実にけしからん。女僧侶? んーっ、けしからんッ! まったくもってけしからんッ! ふぅぅぅはぁぁあ」

 ……ハッ! 

 半ば無意識のうちに本棚の上にあったティッシュペーパーに手を伸ばしたところで、俺は我に返った。

 ――まさか……。

 そして俺は心底ゾッとした。

 ……これが俺の本性なのか。下品な事が嫌いだとか言っておきながら、アニメチックな二次元美少女を視姦するような、そんな不様な姿が俺のあるべき形なのか。

 俺は自分の俗物っぷりに驚愕した。あまりの忌まわしさにまたしても胃が痙攣し始める。

 嘘だ。信じたくない。こんなものに興奮なんてしていない。これは義務で、治療の一環で、致し方なくやってるだけで――。

 自己弁護が頭の中に吹き荒れ始める。

 だが、その時。

「『女賢者』という単語をググッちゃ駄目よ☆」

 見るともなく見たモニターの上部に、けしからんスタイルでそう挑発する猫耳少女の姿があった。

 駄目と言われればしたくなる。それも人間の本能である。

 そして自分の本能がいかなるものかを模索している最中の俺にとって、投げかけられた挑戦は受けざるを得ない。

「受けて立とうではないか」

 タタン、パンとテンポ良くキーボードを叩く俺。

「……『女賢者』、と……」

 カリカリカリという無機質な機械音がそれに続き、パッと画面が切り替わった。

 俺は淫靡なる女賢者を期待して刮目する。

 すると――。

「おげぁあああああッ!」

 俺は反芻する牛のように再び胃液をゴミ箱に吐き出した。

「……なんというブービートラップッ!」

 そこに表示されたのは壮絶なグロ画像だった。何がどうグロいのかは敢えて描写しない。描写することで記憶の定着を図ってはならない。俺はウィンドウの×ボタンを連打してすぐさま画面を閉じる。

「これだから二次元は……」

 俺はそう呟いて、口元をティッシュで拭った。手元に置いておいて正解だった。もちろんこういう場合を想定して引き寄せておいたのであるが。

「やはり、屁の採取が不可能な二次元女など見る必要はなかったのだ……」

 俺は分かり切っていた事実を呟きながら確認する。そして椅子の背もたれに体を預けて天井を見上げた。

 本当は分かっている。全て分かっていて、こんな余計なことにかまけているのだ。

 落ちてきた前髪を掻き揚げて、ゆっくりと息を吐いた。

 そう、これはただの逃避だ。

 自分がゲイである事を想定してみたり、治療に関係の無い二次元の女について考察してみたりしたのは、現実に向き合うのが怖かったからだ。

 それは逆説的に向き合う事が怖い事実がある事を意味している。

 つまり俺は――好きな女について考える事を拒絶している。

 だが、決してわざとそうしていたわけではない。

 それについて考えようとする度に、嫌な感じがするのだ。不安に駆られる、と言えば良いのか……胸が脈打ち、冷や汗で掌が湿り始める。

 結果、考えが横滑りして行く。

 好きな女について考えたくない。脳がそれについて触れる事を拒否している。

 一体……何故?

「お兄ぃ」

 と、その時、コンコン。部屋を叩くノックの音が響いた。と同時に、ドアの向こうから妹の声が聞こえた。

「……くるみか」

「んっ。入っていい?」

 そのしおれたような声に、何故だか胸騒ぎがした。

「ああ……」

 きぃ、と音を鳴らしてドアが開く。そして、目に映ったその光景に俺は予感が的中した事を知った。

「それ、は……」

 くるみの手にはまたしても中身が空の――いや、あれが空なわけがない。ふっくらと例のガスが詰められたビニル袋を手にしていた。

「……また、必要だろうと思って……」

 俺は椅子の上からゆっくりと立ち上がった。

「……お前の屁は……あまり、効果が無いと分かったんだ……。だから……そう無理しなくていい」

 俺は諭すようなゆっくりとした口調で妹に告げる。

「でも、もしもの時のために必要でしょ? あんまり効かなかったとしても、何も無いよりはいいんでしょう?」

 愁いを帯びた瞳で見上げてくる妹に、俺の中で何かが切れてしまった。俺は床を蹴って立ち上がる。

「もう止めてくれ!」

 びくっとくるみの体が揺れた。

「俺はお前に……人に屁を嗅がせるような女になってもらいたくないんだよッ!」

 激情に駆られて怒鳴りつけてしまった。だが、くるみも負けてはいなかった。一瞬たじろいだものの、すぐに大声で叫び返してきた。

「でも、だって――そんな事言ったって、それじゃあお兄ぃが死んじゃうじゃない!」

「俺のことはもう放っておいてくれッ! 妹の屁を吸わなければならない俺の気持ちも考えてみろッ!」

「だったら……お兄ぃは……私の気持ちを……考えたことはあるの?」

 打って変って静かになったその声に俺はハッとくるみの顔を見た。

「……私が……どんな気持ちで、おならを集めているか……お兄ぃに渡しているか……」

「…………く」

 ――俺は最低の兄貴だ。

 くるくるとした大きな妹の瞳から涙が零れる。

「だったらもう勝手にすれば! 私なんかじゃなく、お兄ぃが好きな人からおならを貰えばいいのよ! どうせ……おならなんか誰もくれるはずないんだからっ……」

 誰もくれない……? 好きな人……? おならを……?

 パァン! その言葉を聞いた途端、目の前で一人の女の顔が弾けた。ありありと脳裏にその人物の顔が浮かぶ。

 ……まさか、そんな……。

 呆然とする俺を尻目に、くるみは手にしたビニル袋を破り捨てて部屋から駈け出して行く。

 だが、俺は羞恥心を押してまで屁をくれようとした妹を追いかけることができない。

 なぜなら、突如として目の前に浮かんだその女の衝撃から立ち直れなかったからだ。

「お前……なのか……?」

 俺は激しく閉められた扉に向かって呟いた。

 くるみの言葉とともに、反射的に想起された人物。

 それは――。

「焔……」

 それは天水焔だった。

「焔……まさか……お前が……」

 どくん、どくんと鼓動が速くなる。

 それが、不安からなのか、興奮からなのか、緊張からなのか。

 それとも。

 ――彼女に恋をしているからなのか。

 もう自分の感情すら分からない。

 部屋に立ち込め始めたくるみの放屁を鼻孔に感じながら、俺は呆然と立ち尽くすのであった。


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