妹の屁
考える事と悩む事は似ているようで違う。
考える事には意義がある。それに対し悩む事には意義はない。
考えるとは、提起された問題の答えを導きだす過程の事である。
悩むとは、既に答えの出ている問題を複雑化し思考を堂々巡りさせる事である。
つまり、悩む事は時間の無駄、人生の浪費であるとも言える。
にも関わらず、どうして人は悩むのか? 答えが出ているのにどうして悩む必要があるのか?
それは簡単。
その答えを受け入れられないからである。
そう。答えを受け入れられない。それこそが悩みの本質なのである。
――そして俺は今、とても悩んでいた。
「我意、入るぞ?」
コンコン。
無粋なノックが俺の悩みを中断させる。父親の声だった。
「…………」
俺は親父の問いを黙殺した。今は誰とも話したい気分ではなかった。受け入れがたい悩みという名の海にもう少し浸りたかった。それくらいの権利はあるだろう。俺の置かれた状況はそれくらい深刻なものだ。
だが、そんな俺の思いとは裏腹に、きぃ、という蝶番の軋む音がした。次いで人の動く気配。
「我意……」
呼ばれても振り返らない。労わるようなその声が余計気に障った。手の甲に顎を乗せ、目を閉じ、交流を拒絶し続ける。
俺がそんな態度だったからか、親父はしばらく入口の所で立ち止まっているようだった。しばらくして、また空気の動く気配がした。どうしても俺と話がしたいらしい。気配はゆっくりと俺の傍へ近づいてきて、ぽんと肩に手が置かれた。
「仕方が……ないじゃないか……」
仕方が……ない、だと?
その言葉に目の前がカッと白く染まった。
「仕方がないじゃねぇだろうがよォッ!」
俺は勢いよく親父の手を払い除けると、振り返って親父を睨み上げた。だが、親父は怯まない。眉と眉の間に苦渋を表す皺を刻んで、悲しみを湛えた瞳で俺を見た。
「なんだ、その目はッ! 俺を憐れんでるのかッ!」
もちろん分かってはいた。親父に当たるのは間違っているし、そうしたところでどうにもなりやしない。しかし、頭で分かっていても抑えきれない時もある。
「仕方がないじゃないか……」
親父は再び同じ言葉を繰り返した。俺は親父から顔をそむけ、前を見る。
「そういう病気なんだ……受け入れるしか……ないだろう? 我意……」
そう。俺は病気だった。
精密検査の結果はそういう答えだった。
「心筋の受容体異常だと思われます」
主治医の橋本は回転椅子を回してこちらを振り向くとそう切り出した。
「正確な事はもう少し検査をしてみないと分かりませんが……神経伝達物質の受容体に変異が生じていることは確かです。そのせいでシグナル伝達がうまく行われず、高度徐脈を引き起こしたのでしょう」
橋本は顔面から表情を消し、感情の無い声でそう告げた。
俺達は病院の面談室にいた。医師用のデスクと使い込まれた感じのホワイトボード、そして患者とその家族が座るソファ以外には何も無いという簡素な狭い部屋だ。だが、プライバシーには配慮されているらしい。その部屋は病棟から少し離れた渡り廊下の脇にあり、周囲は意外にも静かで、話を落ち着いて聞くにはちょうど良かった。
そんな静かな部屋の中で俺達家族四人が橋本と顔を突き合わせるようにして座っていた。
「おっしゃっていることの意味がよく分からないのですが……」
母が心配顔でおずおずと口にした。確かに、今の話だけでは一般人である我々には何を言っているのか分からない。
橋本は脇に置いてあったA4の茶封筒から一枚の紙を取り出すとそれを机の上に広げた。俺は薄っぺらなその紙に視線を移す。そこには意味不明なアルファベット群とそれに対して(+)とか(-)とか、どちらであれば正常なのか分からない符号が並んでいた。
橋本はそんなアルファベットの一部を指さして口を開いた。
「記号が(+)になっているでしょう? これは、この受容体が変異を起こしているという事を意味しています」
分かりにくいので野球で例えましょうか、と言って橋本は左手の掌を右の拳で叩いた。
「右手がボール。左手がグローブです。そしてボールが神経伝達物質、グローブが受容体です。我意君は受容体が変異している。つまりグローブが壊れています。この状態でボールを受けようとすると、さてどうなるでしょうか」
そう言って橋本は言葉を切った。
「試合に負けちゃうね?」
親父の答えに橋本は苦笑する。どうやら求めていた答えと違うらしい。
「まぁ、最終的にはそうなるかもしれませんね。でもまぁ、今はそういう大局的な例えではなく……」
「ボールを落とす?」
「そうです!」
どうやらくるみの答えの方が正解だったようだ。親父が恥ずかしそうに頭を掻く。その仕草に俺はイライラした。
「そうなんです。我意君はボールを受け取れない。心臓は基本自動で動くのですが、少なからず自律神経による調節を受けています。我意君は自律神経が投げたボールを受け取れない……つまり自律神経による調節が効かない……それであのような致死的な不整脈を起こしてしまったのです」
致死的、という言葉がぐさりと胸を刺す。俺は長いため息を吐いた。
「それじゃ親父の言う通りすぐ試合に負けちまうな。ゲームセットだ。ははは」
自虐的に笑うと、橋本は困ったような顔をして唇をへの字に曲げた。そして例えが悪かったと頭を下げた。面談室に何とも言えない重苦しい沈黙が立ち込める。
だが、こんな重すぎる話は笑い飛ばす以外どうしようもないだろう? 大声で泣けば良かったのか? それともその理不尽さに怒れば良かったか?
だが、いくらこの宣告を笑い飛ばしたところで、事実は事実。変わらない。そして俺はその事実に内心ではかなりの衝撃を受けていた。直接的にそうと言われたわけではないが、今の話は死の宣告以外の何物でもない。壊れたグローブしか持たない俺は、いずれまた致死的な不整脈を起こすという事なのだ。
「今後は……どのような経過をたどるんですか?」
そんな死の宣告に、なんとか希望を見出そうとして母が尋ねた。
「そうですね……ほとんど報告の無い症例なので正確な事は言えないのですが……」
橋本は苦しげな表情をして目を閉じた。医者も大変だ。患者の家族に囲まれて、こんな嫌な事を言わなければならないのだから――と、俺はまるで他人事のようにその様子を眺めていた。
「無治療で経過を見た場合、持って一・二年だと思います」
ああ、と母が顔を覆って呻いた。俺は眉間を押さえて俯いた。希望は打ち砕かれた。希望を求めて発せられた問いが致命的な一打となる。橋本は目を細め、まるで自分が余命を告げられた患者であるかのように沈痛な面持ちを浮かべている。
急に世界が遠くなった。やけに世界が眩しく感じられた。ブラインド越しに斜めに差し込んでくる光が目に刺さって痛いほどに眩しい。
その瞬間俺は悟った。
世界は生きている者のためにあるのだ。光は生を祝福するためのものなのだ。
だからなのか――。
俺は天井を見上げた。元は綺麗な白だったらしいそれも、今は黄ばんで埃が付着し薄汚れて見えた。
だから、死が目前に迫った俺には眩しすぎるんだ。
猛烈な倦怠感と虚無感が全身を襲った。俺は体を支えられなくなって、背もたれに体を預けた。重すぎる真実は事実質量を伴うものである事を、俺は初めて知った。
「しかし――」
だが、橋本の話には続きがあった。それは一縷の希望を導く逆説の接続詞だった。
「我意君の病気は治せる可能性があります」
「「「ほんとですかっ?」」」「ぶすぅッ」
恋い焦がれたその答えに家族四人が、歓声を上げた。
……?
……いや、ちょっと待て。
俺は聞き洩らさなかった。何か違う声……いや、音があの歓声の中に紛れていた。窮屈な場所から気体が噴出されたような破裂音。俺は首を巡らして周りを見渡したがそんな音を立てそうなものはどこにもない。
……いや、違う。まただ。俺の命がかかった重要な告知の最中で。違う口を……いや、この場合門を。こんな時に、こんな状況で、またあの門を……。肛の……門をあいつが、解き放ったのだ!
「親父ぃッ!」
俺はだんっと床を踏みつけて勢いよく立ち上がると、親父の襟首をひねり上げながら絶叫した。
「こんな状況でまた屁ぇぶっこいてんじゃねぇぞぉッ! ああぁんッ!?」
「おお、我意。お前聞こえていたのか? ナイス聴力ッ!」
ぎぎぎ、と歯が鳴った。思わず拳を握り締めた。そして振り上げた。では振り上げた拳はどうするか? 決まってる。振り下ろす。振り下ろすに決まってる!
「ヒッ!」
「ちょ! ちょっと待って下さい! 我意君! それでいいんです! それがいいんですよッ!」
だが、拳を振り下ろす直前、橋本が俺と親父の間に体ごと割って入ってきた。俺は橋本の体に押されて掴んでいた親父の襟首を放す。どすん、と親父がソファの上に尻もちをついた。
「さすがお父様です」
橋本は何故か父を擁護した。俺は意味が分からない。それでいい? それがいい? さすがお父様?
困惑が全面に出ていたのだろう。橋本は幼児を諭す母親のような微笑を浮かべると、ゆっくりと口を開いた。
「我意君にはね。屁が必要なんですよ」
「…………はぁ?」
俺は絶句した。橋本はもう一度繰り返した。
「我意君にはね、本当に屁が必要だったんですよ」
「何言ってんだあんた……」
忘我自失とはこのようなことを言うのだろう。俺は呆然と訳の分らぬ戯言を垂れ流し始めた医師を見た。それとともに、ずず……と腹の底で何かが蠕動を始める。それは苛立ちという名の蛇の身動ぎ。俺は再びこの医者に不信を感じ始めていた。俺に屁が必要だと? 何を言っているのだ。こいつは馬鹿か?
「どうしても、お父様の放屁と我意君の寛解に因果関係があるような気が致しましてね……。実は私、皆さまのご期待に応えるべく……ふふ、これを見てください。遺伝子検査を進めさせていただいたのですよ!」
その言葉で疑惑は確信に変わった。こいつはヤバイ医者だ。とっておきの手品を見せるかのごとくニヤニヤと笑いながら検査結果を披露するなど普通じゃない。しかもこいつは外注で遺伝子検査を依頼したらしい。立派な封筒から取り出した紙は今までの薄っぺらなものとは違って、しっかりした厚みと光沢のある高級紙だった。
「……同意は?」
俺は美しいフォントとカラフルなグラフで描かれた検査結果を見ながら震える声で尋ねた。遺伝子とはつまり俺の究極の個人情報だ。それを同意も無く勝手に検査するとは、たとえ医師でも許されることではない。
「遺伝子検査には同意が必要だろう? 俺はそんな屁がどうのこうのなんてふざけた理由で検査を頼んだ覚えは――」
「うん、お父さんがしておいたよ、我意」
「うぉおおおおおおお!」
俺はガンガンと頭を壁に打ち付けた。この時ほど未成年である自分を恨んだ事はない。この怒りをどこにぶつけたらいいのか。さしあたってその矛先は目の前の壁だった。
「落ち着いてください、我意君。ですがちゃんと収穫はありました。ここを見て下さいよ。ほら」
「何がほらだ! このヤブ医者がッ!」
「こら、我意! 先生に向かってなんて口をきくんだ! 大人げないぞ」
ぶつん。
その一言で俺はついに切れた。脊髄反射に近い勢いで体が反応する。きっと暴力事件の一部はこういう心理状態で起こるのだろう。俺は親父の顎先を針を通す正確さで打ち抜き、チンパンジー並みに小さなその脳を撹拌させた。
ぱっかーんと軽やかな音が響き、親父が白目を剥く。
「おやおや……これはこれは……」
そして親父はばったりと地面に倒れ伏した。何度失神すればこの男は学ぶのか? いや、学ばないからこうなのだろう。俺は怒りと情けなさがごちゃ混ぜになり泣きたい気分だった。
だが、橋本はそんな暴力事件を目にしても落ち着いたものだった。本格的に頭がおかしいのかもしれない。それともこういうやりとりに慣れているのか――どちらにしてもろくなものではない。
唯一幸いだったのは、母と妹が俺の味方であった事だ。妹はこれ幸いと部屋の窓を開けに走り、母は倒れた父を助け起こすでもなく冷然と見降ろし続けている。そんな二人の態度に俺は救われた感じがした。
「それでは気を取り直して……続きを話しても良いですか?」
橋本は倒れた父の傍らに跪き一通り脈拍などを確認した後、にこやかにそう言った。俺はもはや怒りを通り越して呆れてしまった。
「要点だけ頼む」
ここまで度を超していると、これはこれで大物なのかもしれないという気がしてくる。俺は先を促した。それに、勝手に調べられたとはいえ、それで何か分かったのであれば、やはり判明した事実が気になる。
「遺伝子検査の結果、我意君の発作が屁で治まるということの裏付けが取れました!」
「……は?」
「いえ、屁です」
びくびくびく。こめかみの血管がのたうち始めた。このままでは心停止より以前に脳出血で死んでしまう。それでも俺は努めて冷静に、もう一度橋本に尋ねた。
「……屁で………治るだと?」
「そうです。どうやら放屁に含まれる成分が、壊れた我意君の受容体機能を賦活するようなのです。つまり屁を吸引すれば発作は治まります」
「お前はケツから出る屁のことを言っているんだよな?」
「そうです、屁です」
「屁、なんだよな?」
「そうです。お尻から出るやつです」
「セデスではないのか?」
「いいえ、屁です」
橋本は王侯貴族のような豪奢な笑みを浮かべた。ホワイトニングも完璧なやけに白い歯がきらんと輝いている。俺はというと憤怒で失禁寸前だった。俺の体を破って地獄に住まう鬼が姿を現してもおかしくはないほどだった。
「いい加減にしなさいよ……」
だが、地獄の蓋が開く前に母の低い声が流れた。今まで聞いた事もない母の声色に振り返り、俺はゾッとした。
そこには鬼ではなく、般若がいた。
「さっきからいけしゃあしゃあとふざけた事ばかり……いい加減にしないと………あんた……締め殺すわよ……」
「ふざけてなどいません。これは医学的見地から見た事実です」
だが橋本はこの母に対峙し、かつ締め殺すとまで言われても全く動じていなかった。それで俺はこいつを見直した。この泰然とした態度は人知を超えている。
「詳しく述べるならば、我意君の心筋は腸内偏在性嫌気性細菌が産生するガスを吸入することで、正常に回帰するのです。データをお見せしましょうか?」
橋本が母の前に例の高級紙を広げたが、即座に母がその紙をくしゃくしゃに丸めてしまった。橋本が悲しげな顔をする。
「もちろん私も初めは目を疑いました。そんな馬鹿な話はないと繰り返し委託業者に確認しました。手元にある検体で追試まで行ったのです。その結果がこれなのです。スカトールやインドールを一定の割合で含んだ窒素主体のガス――つまり、屁によって我意君の心筋は回復したのです」
「……本当なの……?」
科学的根拠を前に素人の反論は難しい。母は徐々に勢いを失い、絞り出すようにしてそう呟くと、最後には脱力してソファに身を沈めた。
「お気の毒です……」
まるで俺が死んだかのようなやり取りだ。橋本のその言葉に母は顔を覆って泣き出してしまった。その傍らで妹のくるみは不思議そうな顔をしている。確かに小学生には難しすぎる話だ。
「お兄ぃ……」
と、これまでじっと事の成り行きを静かに見守ってきたくるみが、初めて口を開いた。
「なんだ、くるみ?」
くるみは首を傾げて俺を見た。
「つまりお兄ぃは屁フェチってことで良いんだよね?」
俺は長々と息を吐いて、目を閉じる。そして目がしらを押さえながら言った。
「そういう病気では無いんだよ……くるみ……」
――それが今朝の出来事だった。
もうしばらく検査入院を、と止める橋本を無視して強引に退院した俺はそのまま日が暮れるまでこうして自室に引き籠っていた。そして、そんな風にしていつまでも部屋から出てこない俺を心配して(?)父が俺の部屋を訪ねてきたという訳だ。
「起きてしまったことは変えられない……。その現実を受け入れ、対処するしか生きていく術は無いんだよ、我意……」
もっともらしいことを先程から話し続けているが、全く重みがない。当たり前だ。ところ構わず場所も弁えず屁をまき散らすスカンク男の言葉がどうして俺に届こうか。
俺は無言のまま振り返り、父を睨んだ。その俺の視界に妙なものが飛び込んできた。
「……それは……なんだ?」
父が何か手にしている。
「これか?」
思わず問いかけると、親父は手にしたものを持ち上げた。
それは食べ物を保管するときなどに用いるジッパー付きのビニル袋だった。それ自体は妙でも何でもない。ただ、不思議なのは袋の中身が空っぽであることだ。ただ透明な空気だけがパンパンに詰まって――。
ハッ。
俺は目を見開いた。何かに気がつきそうになったが、本能がそれを拒絶した。気づくことを拒絶する何か恐ろしいものがその袋には詰まっている――そんな気がした。
だが、狼狽する俺に向けて、求めていない答えを父が言い放った。
「これは、俺の屁だ」
……俺の……屁? ……俺の……屁? ……俺の……屁?
がらんどうになった頭の中でその言葉が反響した。
「そうだ。お前の父、伊吹豊の屁だ」
がくんと顎が落ちた。開いた口が塞がらないという言葉は比喩だと思っていた。だが、そういう事態が本当に生じるのだ。まさに、今。開いた口が塞がらない。
「こぉぉぉぉおお、はぁああああああ、こぉぉぉぉおお、はぁああああああ」
ダース○イダーのような呼吸音が聞こえる。俺の気管が鳴っている。噴水のようにあふれだしたアドレナリンが気道を広げ、体に大量の酸素を取り込んでいるのだ。血管が収束し皮膚が冷たくなる。体が戦闘よる出血に備えている。
ああ、この時の気分をなんといって表現したら良いだろう。怒りとか殺意とかそういう安易な感情表現では到底言い表す事が出来ない。そういうものを超越した何かだった。
俺は攻撃を命令された自動人形のように机の上にあった分厚い国語辞書を父に向けて投擲した。
「おわぁッ!」
それほど力を込めたつもりもないのに、凄まじい勢いで辞書が飛んだ。理性の制御が外れた筋肉の力とは恐ろしい。父の頭蓋を粉砕すべく一直線に眉間を目指して飛んでいく。
だが、親父はケモノの直感か……迫りくる重量級の凶器に野性的な勘を発揮し、間一髪のところでそれを避けた。だが、さすがに姿勢を保つことは困難だったらしい。
ぱすん。
手にした袋を尻に敷くようにして、親父は床の上に転がった。その衝撃でパンドラの箱が開いてしまった。
「何するんだ、我意ッ! せっかく集めた俺の屁が。屁がぁあああッ!」
もわんと漂いだす臭気。勉強と寝るためだけにあるような狭い俺の部屋に、そのガスは濃厚すぎた。あっという間に部屋は網膜と鼻腔を刺激する毒ガス部屋へと成り果てた。
「屁がぁあああッ!」
父は空っぽになってしまった袋に縋り、嘆きの声を上げている。バキリ、と奥歯が激しい音を立てた。噛みしめ過ぎて歯が欠けたかもしれない。強烈に臭い始めた放屁の香りが俺の怒りに油を注ぐ。こいつは本当に俺を心配しているのか? それともこの状況を楽しんでいるのか?
「一応尋ねてやる……親父は俺を心配してくれてるんだよな……?」
「もちろんだ!」
親父はたった今まで慟哭していたのが嘘のようにケロリと立ち上がって胸を張る。
「俺は……本当にお前を心配して……ぷぷッ!」
「殺す」
しまったとばかりに口元を押さえるがもう遅い。
笑った。今こいつは確かに笑った。実の子の、命の危機に対して、こいつは笑ったのだ。俺は机の上にあったシャープペンシルを手に取って、ゆらり、と立ち上がる。
「ま、待て、我意ッ! そのシャーペンをどうするつもりだ? 何か間違った使用法で用いようとしていないか!?」
「くっくっく……いいや、間違ってはいないさ。シャーペンとは本来こめかみに突き刺すために用いるものだろう?」
「ち、違うぞ我意! それは違う! 早まるな! 俺はお前のためを思って……そうだ! 屁を吸えば発作は治まるんだぞッ! だからだ! だから集めただけなんだ! 屁を、屁を吸いさえすれば……ぷぷッ!」
――また笑った。
判決は死刑。
足の運びに従って、親父が後ずさりをする。ずでん。その親父が滑稽に尻もちをついた。先ほど投げた辞書に躓いたのだ。
「いやぁああああっ!」
腕を前に掲げ、恐怖による金切り声を上げながら制止を試みているが、俺は止まらない。自分の体が自分のものでないかのようだ。動かしているというより動いている。命じているというより命じられている。誰に? 天に。この男を――抹殺するように。
「待ってお兄ぃッ!」
だが、シャープペンシルが親父のこめかみに突き立つよりも先に、バタンと扉があいて小さな人影が部屋に飛び込んできた。
「く……る……み?」
それは妹のくるみだった。こっそり事の成り行きを見守っていたのだ!
くるみに続いてゆっくりと母さんも部屋に入ってきた。
「ごめんね、我意。あなたを苦しめてしまって……」
母さんは見ているこちらの胸が痛くなるような、悲壮な表情を浮かべて俺に謝った。
「そんなになってしまったあなたを笑うなんて……お父さんは確かにクズの極みよ……。でもね。本当に全部が全部、ふざけてたわけじゃないのよ。だって、あなたは……実際におならが必要なのよ」
ぐさり、と胸に刺さる言葉だった。そう、俺は屁を吸わなければ死ぬ。だが、そんな屈辱的な行為は到底受け入れられない。そのジレンマが俺を苛み、苦しめ続けているのだ。
母さんが顔を上げる。
「だったら、悲しいけど、こうするしかないのよっ! こうしないとあなたは死んでしまうのだから!」
「そうだよお兄ぃ! 私、お兄ぃに死んでもらいたくない! 屁フェチでもいいから、生きて……生きていて欲しいっ!」
二人の、懸命な言葉が俺に人間の心を呼び戻した。からん、と手にしていたシャープペンシルが床に転がる。
「……屁フェチではないと言っただろう、くるみ……」
「分かってくれたんだね、お兄ぃ!」
目が覚めた気がした。
そうだ。
苦悩する事に意味などない。答えは既に出ており、そして俺自身の努力でどうこうなるものでない。
もはや受け入れるしかないのだ。まずは受け入れること。そうしなければ進めない。受け入れてそれに克つ。それしか俺の道はない。
涙が頬を伝っていく。口に入ったその雫は気のせいか鉄の味がした。
「俺は他人の屁を吸わなければ生きていけないッ!」
俺は歯を食いしばって、その現実に真っ向から向き合った。そしてその事実を宣誓した。己自身に認めさせるために。それが事実であると刻み付けるために。
涙が滂沱として流れて行く。
「俺は……俺は屁を吸わなければ生きてゆけないッ!」
もう一度叫ぶ。すると、今度は笑いが込み上げてきた。人生とは何て愉快なゲームなんだろう。思いもよらない出来事がよくもまあこれだけ次々と。このゲームにおいて、さながら俺はヴァンパイア。血液ならぬ、屁を吸う吸血鬼。いや吸尻鬼か。夜な夜な屁を求めて徘徊し、ぷぅという音を聞くや否やケツにかぶりつく怪異!
「お兄ぃ……」
そんな馬鹿げた妄想に囚われていると、おずおずとくるみが声をかけてきた。
「……あのね? ……あのね?」
俺はくるみを見た。何か言い辛い事でもあるのだろうか? くるみは尿意を我慢するかのようにもじもじと内腿を擦り付けている。
「なんだ?」
俺が促すと、くるみは目を閉じて後ろ手に持っていた何かを突き出してきた。
「んっ!」
俺は目を細めてくるみが出したものを見る。
「な……何のつもりだ、それは……」
これは……デジャブなのか? 俺はぐらり、と激しい眩暈に襲われた。
「んっ!」
「お前……それでいいのか……?」
くるみの小さな手のひらには、ジッパー付きビニル袋が乗っていた。そして戸惑う俺の元へぐいぐいとそれを突き出してくる。
「んっ!」
妹は決して俺と目を合わそうとしない。さらりとした前髪が瞳にかかり、くるみの心情を押し隠している。
俺は全てを悟った。
間違いない。
――これは妹の……くるみの……屁だッ!
「頑張って集めてくれたのよ……」
母が何とも言えない哀しげな声で言った。
俺は己の罪深さを呪う。頭がどうにかなりそうだった。
くるみは小学五年生。思春期に差し掛かった少女だ。子供は子供だが……もう子供ではない。ほっそりとした子供特有の体から、徐々に女性らしい丸みを帯び始めた――女だ。
そういえば、と俺は思い出す。くるみの屁などそう言えばここ数年聞いたことが無い。俺が気付かなかっただけで、くるみの、女としての萌芽はこんなところにも表れていたのだ。
「お父さんのだから……嫌なんでしょう?」
そん……な。
俺はくるみの薄桃色の口唇から紡がれた言葉に言葉を失う。確かに、親父の屁なんか願い下げだった。どうせ、さっき持ってきた屁だってゲハゲハ笑いながら、袋片手に居間辺りでブホッ、と出したのだろう。「いけねぇいけねぇ、漏れちまう」なんて言いながら慌ててジッパーを閉じたに違いない。
だが――妹は……くるみは。
その時、俺は部屋の中に甘い柑橘類のような香りが漂っている事に気が付いた。それは母の香りではない。台所にいる事が多い母さんは、むしろ食べ物の香りがする。
……それは妹の匂いだった。妹の、くるみの体臭。昔は乳臭い子供の匂いしかしなかったのに、いつから妹はこんな香りを漂わせるようになったのか。
女の色香――そんな言葉が脳裏に浮かんだ。そして、そんな色香がまた俺の眩暈を憎悪させた。
『こんなものは――要らんッ!』
と、言ってビニル袋を突き返すのは容易だ。
一方で、それで良いのか? と考える自分がいる。年頃の少女が屁を溜める――そこにどれほどの勇気と決意が必要だろう。その覚悟を考えると、軽々しく突き返す事などできない。
ああ、と俺はついに床に膝をついた。閉じた瞼の裏に浮かぶのは、一年ほど前に炊かれた赤飯の晩餐。その意味が俺の背中に重く圧し掛かる。女としての踏み出したばかりの妹の純潔を、兄である俺が穢してしまっていいのか?
「もうっ。早くしてよっ」
だが、そうしていつまでも固まっている俺に妹は業を煮やしたようだった。いちごのように真っ赤に染まった顔で無理やりにビニル袋を俺の胸に押し入れる。
「あ、ああ……」
受け取ってしまった。俺はふくふくとしたその袋を赤ん坊でも抱くかのようにそっと手に取った。風船のように軽いはずのそれが、俺の手のひらにずっしりと重く感じられた。
妹は俺が受け取った事を確認すると。逃げるようにドア脇まで距離を開けた。そして、俯いていた顔を上げた。くるみと一直線に視線が交わる。熱っぽく濡れた瞳だった。
「……お兄ぃに死んでほしくないから……」
くるみは母の背に半分隠れてそう呟いた。
「うあ、あぁ」
俺はそんな間抜けな返事しかできなかった。
「それじゃあね、我意。くるみの気持ちをしっかり酌んであげてね」
「また俺の屁が必要な時はいつでも言ってくれよな」
バタン。
そうして三人は去って行った。
俺の手元には袋に詰められた妹の屁が残された。