第三話
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シャノン侯爵からの謝罪の文を一番に読んだのは、グラシアだった。政務にほとんど携わらないリモンシェラ子爵より優先的に貴族から届けられたものはグラシアに手渡されるためだ。見合いの依頼状についても同様で、受け取った際グラシアは文を手にしたまま固まってしまった。仕事、プライベート両者ともに、シャノン侯爵家との付き合いはなく、何事かと戦々恐々として封を切ったものである。今回は文が届けられることは想定通りであったため、不審に思うことなく、シャノン侯爵家の家紋が入った封筒の封を切り、文に目を通した。
「……うーん、どう返事をしたらいいのかしら」
リモンシェラ子爵邸の執務室でグラシアは足を組み、頬杖をつきながら唸っていた。目の前にはミリカが手ずから淹れてくれた湯気が立ち上る紅茶が用意されていたが手を付ける気にはならない。シャノン侯爵家からの文にはきっと、前回の見合いが中止になったことに対する謝罪と、結婚話はなかったことにしましょうという提案と、迷惑料としての決して少なくはない小切手が入っていると思っていたグラシア(真ん中と最後は自分にとって大変都合のよい願望)は、本物のシャノン侯爵家からの文をみて絶句した。初めと最後は想像通りであったが、できれば一番叶えてほしいと思っていた真ん中が、想像と違っていたのだ。何度読み返しても、『ご縁がなかったということで~』というような結婚話中止の言葉は書いておらず、あまつさえ『大変申し訳ないが、自治領のトラブルにより、しばらくの間お会いすることは叶わないが、今年の社交界の場で我が愚息ウィルフレッドとグラシア譲が仲良くなったら嬉しいと考えている。どうかグラシア譲によろしく言っておいてほしい』という言葉で締めくくられていた。どういう理由かわからないが、シャノン侯爵の文からは自分の息子とグラシアを結婚させたいという意図が非常に強く伝わってくる。おかしい、きっとこれは現実ではない、とグラシアは思うのだが、封筒と同時に届けられたグラシアへの贈り物(高級感溢れる桐の箱に入っている触ったら壊れてしまいそうなほどこった装飾のされている髪飾り)は確かに目の前にある。
「…………さて、気を取り直して、他の仕事から片付けようかしら」
「お嬢さま。今日中にシャノン侯爵からの文の返事を用意できないのであれば、旦那さまが代わりに考えて返事を書くとおっしゃっておりますよ。他のことにうつつを抜かしている暇はないかと」
「うつつって……わたしとしては大事なのはむしろティバーの前にある仕事のほうなのだけれど」
いま執務室には執事のティバーとグラシアの二人きり。ティバーはグラシアが生まれる前よりリモンシェラ子爵家に仕えており、リモンシェラ子爵があんな調子なものだから領地の管理、運営は基本的にずっと一人で担ってきている。正直、グラシアなんていなくったって執務を行う上で問題なんて一つもない。むしろ、邪魔者といったほうがいい。グラシアは心の中でそんなことを考えて、凹んだ。
「そうね。ちょっと外で考えてみる」
「お嬢様」
「なに?」
「あまり深く考えないことです。旦那さまではありませんが、一度ちゃんと会って話をして、それから考えてはどうですか?」
「……そうね、うん、ありがと」
見合い話の依頼状が届いてからグラシアはウィルフレッド・シャノンについて調査した。その結果わかったのは、ウィルフレッドというのは、非の打ち所のない青年だ、ということであった。すらりとした体躯、整った顔立ち、優しげな双眸、性格は非常に温厚だが、父親の政務の一部を任されるほどしっかりもので頭も切れる。少女が一度は憧れる王子さまという存在を体現したような存在、本物の王子さまよりも王子さまらしいという噂だ。女性関係も目立ったものではない、というか一度付き合った年上の女性からこっぴどく振られたかなにかで、現在浮いた噂というのはまったくきかない。悪い人話ではないのだ、とグラシアは思う。むしろ優良物件? シェイラが彼と清く正しいおつきあいをしているというなら、全力で応援しても良い、という人材だった(妹をとられる悔しさで少しは意地悪をしてしまう可能性は否定できないが)。だが、相手は自分である。見合いの席に行くまでにミリカが独り言で零していたように、グラシアにとっての結婚相手というのは目下、リモンシェラ子爵家の婿養子であった。しかも、リモンシェラ子爵領の管理、運営は行く行くはティバーからグラシアが引き継ぐ予定のため、夫はそれになにも口を出さない物静かな性格、というのも必須条件だった。シャノン侯爵の長男であるウィルフレッドはどう考えても条件にあわない。あわないからグラシアは困っているのだ。
シェイラを除いた全員はこの結婚話を進めることに賛成のようだ。父母は、シャノン侯爵からの文を読んでからというものにこにこと嬉しそうにしており、半年後の今年の社交界までにグラシアに貴族女性としての嗜み教育(上級)を行う家庭教師を捜す算段をつけているところを目撃していしまい、慌てて止めた。ミリカを筆頭とした侍女やメイドははっきりとは見合い話の行く末を聞いていないものの、上手く行きそうな空気を感じ取ったのかいっそうグラシアの美容に気を配り、その上、グラシア自身にも簡単な肌の手入れや化粧の仕方を練習するようにいう。もし、ほんとうにこのまま今年の社交界まで結論は保留、などとしてしまうと、女性としての自分磨きが自分の生活になってしまいそうで、その体験したことのない恐怖というものもグラシアは感じていた。
訪れたのは気に入りの庭。植えられているのは、バラやユリなどこのアルストロメリア国でもてはやされている花々とは少し違う、派手さがあまりなく、人の手で育てられている、というよりは野に咲いている印象が強いコスモスやマーガレットやスズランなど。グラシアはもちろん艶やかなバラも好きであったが、考え事をしたり気を鎮めたりしたい場合は好んでこの一帯へと足を運ぶ。ゆらゆらと薄い色合いの花が揺れているのをみると心が安らぐのだった。
『初恋は叶わない、というわね』澄んだ声が頭に響く。その残酷な言葉を発したのは誰だったか、グラシアは覚えていないけれども、その時に、決めたことが一つある。妹の初恋は絶対、なにがなんでも叶えてあげよう。不自由な恋愛なんて絶対させるものか。貴族の家に生まれた娘は基本的に自由な恋愛なんてできない。政略結婚が普通で大恋愛の末に駆け落ちまがいの結婚した夫婦の話なんて嘲りの対象になることはあれど、庶民向けの舞台のストーリーになることはあれど、貴族の世界でうっとりと羨ましがられることなんてない。でも、グラシアはそれが何だって思う。想い合っている相手と一緒になること以上に素敵なことがあるはずがない。シェイラは大変愛らしく器量も良い。シェイラが好きになった相手が、シェイラのことを好きにならないはずがない。だからグラシアはシェイラが政略結婚をする必要がないほどにリモンシェラ子爵領を栄えさせようと思ったし、グラシア自身は婿を取って、シェイラがその憂き目にあうことのないようにと思ってきたのだ。だが、人生というのは上手く行かないものだ。大きなため息をつき、抱え込んだ膝に頭をのせる。『仲良くなってほしい』ってなんだ、どうすればいいんだ、と思う。どうしようもないくらいに雁字搦めにして無理矢理結婚を迫られた方が幾ばくかましだ。グラシアがグラシアの意志で、ウィルフレッドの手を取るなんて、どうしてそんなことができようか。
「シェイラ、そこにいるんでしょう?」
「お姉さま……」
ただの勘だ。そのただの勘は大当たりだったようで、ゆっくりとシェイラが近づいてきて、グラシアの隣に座った。ふわりと優しい香りが漂ってくる。シェイラの愛用している香水。王都の流行の香水店で見立ててもらったというその香りは、シェイラによく似合っていた。グラシアにも同じ物を買ってきてくれたが、それをつけた自分が酷く滑稽な気がしてつけられないでいる。
「お姉さまがそれほどにお悩みになられるのであれば、お断りする旨のお返事をしたほうがよろしいとわたくしは思います」
「……そうね、わたしも、そう思う」
――シェイラはいつだってわたしの味方をしてくれる。わたしに心地よい言葉をくれる。ついうっかり頷きたくなる。だってそれは、わたしの本心だから。でも、今回は、二人が一緒なら、なんだって怖くないって言い切れるほど簡単なことじゃなくて、迷いは消えない。もしかすると、わたしの返事によって、シャノン侯爵家の怒りを買ってしまったら、ちっぽけな子爵家なんてどうなってしまうかわからない。
「わたくしの本音を言わせてもらえば、」
グラシアの気持ちが全然晴れていないことを見て取ったのか、シェイラが口を開いた。
「侯爵家という大きな虎の皮を被って求婚を迫ってくる殿方なんてそっぽ向いてやればいいと思います。お姉さまがそんなちっぽけな男に振り回されているなんて腹が立ちます。わたくしはほんとうに、そんな男のもとにお姉さまを嫁がせるなんて嫌です。なんとしてでも絶対、ウィルフレッド次期侯爵の弱みでもなんでも握って、お姉さまを守りますから。絶対、ぜったい。だから、お姉さま、困った顔は、やめてください」
「シェイラ……」
グラシアはシェイラを強く抱きしめた。小さな肩が壊れてしまわないように、そっと、でも強く。守らなければ、と思っていた相手に守ると言われたことは衝撃的で、でも、とても嬉しい。そして、負けられない、とも思った。
「シェイラ、シェイラ、そうね。侯爵家がなんだっていうの。我がリモンシェラ子爵領は、少しくらい圧力をかけられたってびくともしないくらいの強さがある。わたしが過去に栄えた街の政策を真似して領地を整えているし、シェイラがリモンシェラ子爵領の特産品を商人の手を介さずに近隣の領地に売りにいくことで金銭的にも潤っているわ。相手が侯爵家だって、潰すことはできないんだから」
「はい。お姉さま」
グラシアとシェイラは、こつんと額を付き合わせ、子どもの頃、些細な悪戯が成功したときのように笑顔で笑い合った。
グラシアは、『この度中止となってしまった見合いの相手はシェイラだという嘘の噂の訂正と、グラシアはウィルフレッド・シャノンとの顔合わせを願ってはいない』旨の内容の文の代筆をリモンシェラ子爵へ依頼した。リモンシェラ子爵は大変残念そうな顔をしたが、娘が決めたことであるならば、としぶしぶ文をしたためた。