八 ぶん殴って歓ばれ、褒められて腹が立つこと
趙将軍は、すこぶる機嫌が悪かった。
「貴様ら、何をたるんでおるか!そんな様で、この敦煌が護れると思うてか!」
部下のささいな落ち度をみつけては、容赦なく鞭がとぶ。
露天で商いをしていたという男が、なにひとつ口を割らないものだから、不機嫌はひとしおである。
そうでなくても張将軍は苛立っていた。
言うまでもなく、妻のことである。
武骨な彼にも、妻が男を引き入れて浮気を企んだことくらい、ちゃんとわかっていた。
この時代の、しかも武人の家のことだから、本来ならその場で手討ちにしてもおかしくはない。
家父長権が絶大だった古代の社会とは、そうしたものなのだが―――。
(できぬ)
趙将軍は苦々しく思った。
理由のひとつは、夫人の実家である。
彼を筆頭とする趙家よりは、よほど格のある家柄だった。
武人としては有能な趙将軍だが、世渡りはあまりうまくない。
そんな彼も敵は国外だけではなく、身内にもいることは理解していた。
そして、ライバルたちに睨みを効かせているのが、自分のささやかな武功ではなく、妻の実家のもつ威光であることは、不本意だが認めざるをえないのだった。
理由のもうひとつは、夫人そのものの存在である。
(できぬ―――)
将軍は、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
憎悪さえ覚えながら、決して離れることができない。
その煩悶を、夫人もまた見透かしていた。
政略結婚で夫となった男が、実は身も世もないほど自分に惚れ込んでいるのを、本能的に嗅ぎ取っていたのだ。
それがわかっているから、不貞の現場に踏み込まれてなお、見えすいた演技が通ると信じて疑わない。
事実、今度もまた許された。
それどころか闖入者から貞操を守った妻を、渋面ながら讃えるまでしたのだ。
(悪気はないのだ)
つまるところ、この哀れな武人は妻の演技を憎みながら、一方でその子供じみた浅はかさを愛さずにはいられないのだった。
(不甲斐ない―――何というざまだ)
その苛立ちは、部下への鞭となってあらわれてしまう。
「早う吐かさぬか。あの男は何者で、女はどこへ逃げたのだ。あれだけの荷をもって、ふたりということはあるまい。一味もろともにひっ捕えよ。よいな」
もちろん劉嬰のことだった。
軟弱そうにみえるが、いくら責め立てても口を割らない。
趙将軍みずからしばらく痛めつけてみたが、のらりくらりと名前さえも口にしないのだった。
「言わんか!お前の名は?どこから来た?」
「旦那、僕ら知らなかったんです。ほんとスイマセン。勘弁してください」
「一緒にいた女は何者だ」
「何者かというと―――結局のところ自分が何者かなんて、わかる人がいるんでしょうか」
「きさま、まだ痛めつけられたいとみえるな」
「苦痛に快感が伴う方もいるそうですが、僕はちょっと―――待てよ―――うん、これはこれで―――いいかも」
さっぱり埒があかない。
趙将軍にしてみれば、妻だけでなくこの男にも馬鹿にされているような気がして、腹立ち紛れに散々なぐりつけたのだが、
「明日はこうはいかんぞ。よいな」
痛めつけるほうの息が先にあがってしまう始末だった。
まさに憤懣やるかたない様子で、あまりの怒気に、側近ですら近づくのが躊躇われる。
だが、そんな雰囲気は気にもならない人間もいた。
「ご苦労のようですな、将軍」
帰途についてすぐ、男が近寄ってきた。
いけすかない奴が来た、と思わず舌打ちをする。
振り向けば、やはり陳俊がしきりと山羊髭をなでていた。
にやにやと目尻のさがった顔つきが、癇に障って仕方なかった。
「これは、陳俊どの」
それでも型通りの挨拶をかわして、さっさとその場を離れようとしたが、不愉快な予測があたって案の定、陳俊はつきまとってきた。
「どうですかな、例の男は。大手柄というではありませんか」
「なんの、鼠が一匹でござる」
「これはご謙遜を。して、何か喋りましたかな」
何を白々しい―――趙将軍はやっとのことで自制した。
いっそのこと斬り捨てれば、どんなに気が晴れることかと思うが、それは絶対にできなかった。
なにしろ、光武帝の下で抜きん出た働きを示し、数々の武功をたてたというふれこみを、敦煌太守の曹延は頭から信じ込み、全幅の信頼をおいている。
そのため武官の長である趙将軍も、衛尉(警護長官)である陳俊と、その配下のごろつきどもだけは管轄外なのだ。
いまや太守の番犬気取りというだけでも虫の居所が悪いのに、どうも自分の地位まで狙っているように思えてならない。
(そうはいくか―――)
何をおいてもこの男の前でだけは、ぼろを出すわけにいかないのだった。
「もとより、ゆるゆる締め上げよと命じておりまする」
「ほほう。さすがの余裕ですな」
「功を焦って死なせては元も子もありませぬ。じっくり吐かせれば一味もろともからめ取ることもできますれば、ここは急がず責めるが肝要かと」
「これは恐れ入りました。小生なら半日のやっつけ仕事で、太守どののお叱りを頂戴するところでしたな。この陳俊、ひとつ教えを賜りました」
ちくり、ちくりと入る皮肉を聞き逃す趙将軍ではない。
表情こそ変えないが、ますます機嫌が悪くなる相手を尻目に、
「それでは、小生は太守どのに報告があります故」
ようやく陳俊は踵を返した。
頭上に湯気が見えそうな趙将軍は、
「―――大魚を釣りあげるのは、手間のかかるものでござる」
そう背中に声をかけるのが精一杯だった。