六 試合に勝って勝負に負け、かつ身ぐるみ剥がれること
用心しながら、麗華は旅籠に戻った。
城外に繋いでいる駱駝と積み荷は、すでに押さえらたとみていいが、この旅籠に寄ったことは、まだ知られていないはずだ。
迷惑をかけるが、ここで落ち合うしかない。
もっとも昨夜の客に密告者がいれば、ここも安全とはいえないが―――。
細めに扉をあけた麗華は、油断なく視線を走らせた。
(大丈夫ね)
すべるように中に入ると、どこでくすねてきたのか、被っていた頭巾をはずして大きく息をついた。
緊張を保てたのは、そこまでだった。
頭巾を揉みしだく手の甲に、ぱたぱたと涙が落ちた。
麗華は突っ立ったまま、子供のように泣き出したのだ。
何事かと媛が走り出てきた。
「ど、どうしたんですか」
しゃくりあげる麗華をなだめになだめて、媛はことの次第を知った。
「そんなことが―――」
とは言ったものの、さほど意外というわけでもない。
垣間見た性格を考えれば、起こり得ることではあった。
(何故、とめてあげなかった)
麗華の背中をさすってやりながら、表情に何か決意が固まりつつあった。
このあたりの性格は、父親譲りであることに本人は気付いてない。
「わたし、何とかします」
麗華の耳に届かないよう呟いた。
その時だった。
「どないしたんや」
銅鑼声の巨漢が帰ってきた。
もちろん弓林だが、大股に入ってきた姿を見て驚いた。
「き、きゃ―――」
媛が悲鳴を発することもできずに顔を覆う。
弓林は太い二の腕はおろか樽のような腹もあらわに、下帯ひとつの半裸で恥じ入ることもなく、ふんぞり返ってのしのし歩いていたのだ。
よくもこれで、街中にいる兵士に誰何されなかったものだ。
「なにしてたのよ」
麗華が涙声で詰め寄った。
「なんや、ベソかいとったんか。なにがあったんや」
「こっちが聞いてんのよ」
「ああ、これか。たいしたこととちゃうねん。あのな―――」
弓林はことの顛末を語った。
* * * * *
弓林が出向いた先は、やはり軍隊の駐屯所に近い酒場だった。
そこで非番の兵士を相手に、金を賭けて腕相撲を持ちかけたのだという。
体格からして、そこらの兵士では勝負にもならないので、ふたりを同時に相手することにした。
ところが兵士ふたりが両手でかかっても、弓林は顔色も変えずにぱたりと倒してしまう。
「困ったやつらや。もっと腹に力いれんかい」
これでは賭けにならないということになった。
ふたりを三人に増やし、やがてそれを左右の腕で別々に相手することになり、それを一晩中やって、懐はだいぶ暖かくなった。
「どや」
もちろん弓林は上機嫌である。
だが故郷を離れた国境の兵士は、給金だけを慰めにしている。
酔った弓林は、それを忘れていた。
根こそぎ巻き上げた弓林は、勝負事とはいえ、彼らの恨みをかった。
ほどほどに勝つなら羨まれるだけだが、ひとたび勝負が始まれば、とことん勝ち負けをきわめないと、気の済まない性分が災いしたのだ。
空が白みはじめる頃、すべてを巻き上げられた兵士たちは、声をひそめて何か相談をはじめたらしい。
夜半からまた呑みはじめた弓林は、もう目の焦点が合わないほどに酔っている。
「んじゃ、そうすんべえ―――」
相談がまとまって、新兵のひとりが近所の娼館に走った。
弓林が諸肌脱ぎの肩に玉の汗を浮かべながら、並々と注がれた酒を煽っているところへ、新兵が娼婦を連れて帰ってきた。
「あら、なんて逞しい―――」
歯の浮くような棒読みだったが、もうそれと悟る判断力がなく、
「ん、そうか?」
たちまち、だらしなく目尻が下がってしまう。
湯気を立てている巨漢の猛々しさに引き気味の娼婦が、何かあれば必ず助けるという兵士の目配せを頼みにしながら、何とか弓林を外に連れ出した。
見え隠れに兵士が続く。
「おいおい、どこまでいくんや。人ッ気のない、暗ぁいところか、ははは―――」
よろめきながら、よたよたと女についていく先に、一軒の空き家があった。
そこまで誘導して、いい加減に酔い潰れたところで、事を起こすつもりの計画だったが、
(はん、仕掛けてきよったな)
実は弓林、ついてくる兵士に気づいてはいた。
が、おぼろげながら記憶があるのもまた、ここまでだった。
泥酔した弓林は、目的の場所まで行きつくことなく、路地裏で寝入ってしまったのである。
大いびきをかく巨漢の衣服をあらためるだけでも、大変な重労働だっただろう。
「やりよったで、あいつら」
こういうとき、怒るより笑い出してしまうのが、弓林という男だった。
見回すと自分は下帯ひとつ、あられも色気もない姿で、道端に寝転がっていたのだ。
もちろん一晩の稼ぎは水の泡、どころか本当の無一文だった。
とにかくも、仲間のところへ帰らなければならない。
とはいえこんな男でも、この姿はさすがにどうかと思われたので、ひとまず駱駝を繋いである城外に戻ろうとした。
ところが、城門から出られなくなっている。
「どうしたんや。あやしい奴でもおったんか」
暢気に門番に尋ねたが、
(あぶない奴だ。関わらないほうがいい)
程度に思われる程度で済んで、かわりに「事件」のあらましを聞いたのだった。
* * * * *
「てなわけや。わし、すぐにピンときたで。ああ、こりゃウチの大将と姫さんやな―――またなんぞ、やらはったんやな、てな」
自分を棚に上げて、こんなことを言ってのける。
麗華の眉がきりきりと吊り上がった。
「あんたこそ、兵士相手に悶着なんか起こしたりして」
「けど、ワシのはもうカタついとんねん。あいつらワシの顔みたら逃げよるやろうけど、ワシのほうは逃げる理由ないで」
「結局、負けたわけじゃない」
「せや。試合に勝って勝負に負けた、はこのことやな。けど姫さん、酔っててもワシ、あいつらの顔ようおぼえてんで。勝負っちゅうのは最後に勝ったらええねん。今度、見つけたら―――」
そううそぶく弓林に、何か言いかけた麗華は次の瞬間、絶句した。
視界に、ぺた、ぺたと足音まで緊張感なく、またしても半裸の男が入ってきたのだ。
―――方望である。
弓林と同じく下帯ひとつ、そのくせ顔はさも涼しげに、相変わらず扇子だけは顎の先でゆらめかせている。
「き、きやああぁっ」
今度こそ媛が悲鳴をあげた。
「おやおや、どうなさいました?」
正視できない媛にかわって麗華が、
「そっちがどうしたんだ!」
「どうとおっしゃいましても、ご覧の通りございまして」
「なんで、あんたまで裸なんだっつの!」
「裸とは心外ですな。ここにこうして下帯を―――」
「いちいち取るなッ!もう、どいつもこいつも!」
ついに麗華がキレた。
手近なものを手当たり次第に投げ付け、弓林は扇子でそれを打ち落とす。
弓林は喜び、しきりに手を打ちながら大声で囃し立てた。
顔を真っ赤にした媛が、悲鳴をあげて狭い店内を逃げ回る。
料理人まで出てきて、皿や椀が飛び交う度に、素っ頓狂な悲鳴をあげて手足をばたつかせている。
騒ぎが収拾されるまでに、小一時間もかかった。
「あのう、姫どの」
「―――なによ」
「そろそろ申し開きをしても、よろしいでしょうか」
息のあがった麗華は、
(勝手にしなさい)
と、手を振った。
媛と料理人も、迷惑な客の傍らに立ちつくしている。
見れば、あれほど飛び交った皿も椀も、一枚たりとも割れていない。
これは麗華の正確なコントロールを証明すると同時に、それをことごとく受け切った方望の、神業ともいえる扇子さばきを示していた。
おそらくは互いの技量を把握したうえでの大立ち回り、いわばストレス発散をかねたレクリエーションなのだが、傍から見ていた媛などは、
(このひとたちは―――)
と、笑顔を顔に張り付かせたまま、卒倒しそうだったという。