五 すげなくされて啖呵を切り、やがてすたこら逃げること
「ちょっとあんた、人を見てものを言いなさいよ」
表情こそ笑顔だが、麗華は声を低くして凄んでいた。
朝になっても、弓林と方望はは帰ってこなかったので、仕方なく公館が開くのを待って物品を「換金」しに来たのである。
「女だからってなめないでね。商売どころじゃない、そんな値段じゃ仕入れの半分にもならないから」
「そうはいいましてもね―――」
公館の役人はとりあわなかった。
「塩、銀食器、絨毯、胡麻、干し葡萄―――フムフム―――ありきたりですな」
「どこに目ェつけてんの。ほら例えばこれ銀食器。光沢、曲線の出し方、全体に溢れる気品―――ギリシャの名匠ポポンデウスの、それも円熟期の作とみて間違いないでしょ」
麗華は銀の皿をかざしながら何度もひっくり返し、ホウと溜息をついた。
「惚れ惚れしちゃうね。けど、二度とつくられることはないんだよ。数々の傑作を生んだ工房はローマの大火で灰となり、失意のポポンデウスはアテネに帰って寂しい晩年を送った。栄光につつまれた天才の、あまりに哀しい最期だったな」
「まるで見てきたかのような―――」
「常識だから。で、これにいくらの値をつけるわけ?」
「銀食器は銀食器です。絨毯は絨毯。壺は壺。それぞれ買値がきまってます」
「算盤も弾かずに買値ってどういうことよ」
「買値が決まっていますから、算盤は必要ありません」
「あんた、芸術ってもんがわからないの?そこらの品とはわけが違うのよ?デデンポウスの傑作なのよ?」
「ポポンデウスでは?」
「―――素人はこれだから」
麗華は大きく嘆息し、肩をすくめて首を振り、ついでに二、三歩よろめいてみせた。
「ガイウス・ユリウス・デデンポウス・オクタヴィアヌス・ポポンデウス。それが本名よ。大秦(ローマ帝国)の人はいっぱい名前があるの。常識でしょ?どれも同じ人」
「はあ―――」
「で、どうなのよ。この芸術にいくらの値をつけるの?」
役人は表情をかえなかった。
「銀食器は銀食器です。買値はきまってます」
* * * * *
「なってない!」
麗華はまくしたてた。
粘りに粘った結果は、交渉の決裂だった。
いや、交渉にすらなっていない。
「買値が決まってます」
役人はこの一点張りだった。
おかしな話ではある。
麗華の売り口上―――アテネの名匠が云々―――が本当かどうかはともかくとして、出来や希少価値を評価額に加算するのは常識とえる。
ふっかけておいて落としどころをさぐるのも、そう珍しくはない。
それがまるで通じなかった。
役所仕事といえばそれまでだが、そもそも商売相手が公館に限定されるのもおかしな話だ。
麗華が粘りに粘っている最中、劉嬰は隣り合わせた商人にそっと取引を持ちかけてみた。
「どうです?」
碧眼に高い鼻、おそらくは西域のさらに西の出身であろうその男は、返答の代わりに諦めた様子で首をふった。
商品が被るためかとも思い、漢の内地から来たとおぼしき商人にもあたってみたが、結果は同じだった。
誰も彼もが、役人の言い値で苦労して運んだ商品を手放しているのだ。
それは商取引ではなく、もはや、
(ただの換金だ―――)
そう表現していた意味が、ようやく理解できたのだった。
「なにをぼんやりしてんのよ!」
麗華が腹立ち紛れに、劉嬰の尻を蹴り上げた。
「痛た―――」
「わかってんの?あんなんじゃ、手元に何も残らないじゃない」
「いや、ちょっと考えごとをしてまして」
「考えるまでもないから」
「変だと思いませんか?」
「変なのはあいつよ」
「いや、それも変なんですけど―――」
劉嬰は声をひそめた。
「その変なのを相手にしてる商人も変ですよ。仮にここで商売できないなら、よそでやればいいじゃないですか。なんなら素通りして中原に入ったっていい。なんで皆がみんな、不利な取引を渋々やってんでしょう」
「―――が、ついてないんじゃないの?」
気が立っている麗華は、劉嬰が顔を赤らめるようなことを言う。
「天下に聞こえた砂漠の都も落ちたもんね。商人の気概ってもんがまるでないんだよ。だから役人なんかにつけこまれるんだ」
思わず言葉に力が入る。
そして劉嬰が何か言う前に、麗華は決心を固めてしまっていた。
「よっしゃ、見てなよ。なんにもわかってない役人風情に、叩き上げ商人の根性ってのを見せてやろうじゃない」
喧嘩を売る気、満々である。
「まさか―――」
嫌な予感がして、思わず劉嬰はどきりとした。
そのまさかだった。
* * * * *
「さあ、らっしゃい、らっしゃい!」
よく通る甲高い声が往来に響き渡った。
「さあ見て、見て、見て、見て」
どこかで聞いたようなことを言う。
止める間もなく麗華は、ふたりで担いで来た荷物をそこらじゅうに広げて、
「損はさせない見てって頂戴、遠く河南は南陽の、音に聞こえた陰家とくれば、百代続く大豪商。何を隠そうその末裔、女だてらに西へ東へ、誰が呼んだか旅する大店、血は争えぬ南陽生まれ、いまは嫁いで劉家の麗華、どうぞ皆様お見知りおきを」
とばかり、いきなり威勢よく啖呵売りをはじめたのだった。
「いえいえ嘘は申しません。論より証拠がこの干し葡萄、見ればうっとり色も鮮やか、それもそのはずトルファンの、滋味にあふれる土と水、たっぷり吸い上げ溜め込んで、燦々輝くお日様に、照らされること八十八日。口に含めばまったりと、広がる気高い甘味と酸味、ひとつ食べれば疲れが吹っ飛び、ふたつ食べれば元気百倍、みっつ食べれば後は病みつき、それがきっかり千と百粒。大きな声じゃ言えないが、遠く都は長安の、恐れ多くも王莽陛下が、ご所望された至極の一品、さればと万難乗り越えて、探し求めて献上すれば、一獲千金間違いなしと、はるばる行った西の果て、やっとのことで買い付けて、戻ってきた日にゃ新帝は、いくさに敗れてあの世へおなり、またまた中華は漢家の天下。さればさればと漢朝の、威光あらたか今上陛下に、捧げて金子にかえようと、抱えて来たがそれが浅はか、なぜなら陛下は甘味がお嫌い、さてさて困った干し葡萄。それならこちとら自棄のやんぱち、日頃我々行商が、お世話になってる敦煌の、皆々様にご奉仕だ、もはやこちとら路銀で結構、但しお代は金子でお願い、五十粒づつ二十二名様、早い者勝ち持ってけ泥棒!」
まさに立て板に水。
(よくもまあ、そんな―――大嘘を)
あきれる劉嬰をよそに、往来をゆく人々はしだいに足を止め、やがてまばらな人垣ができ、その輪が幾重にもなっていくうちに奪い合いとなり、瞬く間に売り切れてしまった。
「どもども、毎度ありィ!」
たちまち麗華は上機嫌だった。
干し葡萄が売り切れても、まだ取り巻く人々の熱はさめていない。
これを見送る麗華ではなかった。
「さてさて皆様、御立ち会い。これで帰るは気が早い、次なる珍奇はこの剣だ。見てよこのツヤ目も眩む。それもそのはずこの剣は、砂漠を越えたカーブルの、近頃流行りのクシャナ朝、希代の英雄カドフィセス、彼が帯びたるこの剣の、いわくを聞いて驚くな。実はこの剣またの名を、皆様先刻ご承知の、かの有名な霊金内府。今を去ること二百余年、漢を起こした初代の帝、みんなの英雄・劉邦が、ある日歩けばその先に、大きな白蛇が横たわる。さてもと英雄・劉邦は、従者を制して剣を抜き、牙むく白蛇を一刀両断。しかして後に現れた、白蛇の母という老婆、さめざめ泣くはかかる訳あり、曰く白蛇は当時の天下を、チカラで牛耳る秦の象徴、それを斬りたる我らが劉邦、まさにこの時劉邦の、天下を取ったは約束された。以来これこそ漢朝の、まごうかたなき伝家の宝剣、それが此度の戦乱で、どさくさのなか流出し、流れ流れて砂漠越え、流れ着いたはクシャナ朝。ここが腕の見せどこと、買い戻したる中華の至宝、これを大事に保管して、ゆくゆく新たな漢の首都、洛陽に届けてくれりゃそれが本望。望みは託した儲けは抜きだ、またまたお代は金子でお願い、早い者勝ち持ってけ泥棒!」
悪乗りが乗りに乗りまくってまくっている。
(いいのかな―――そんなこと言っちゃって)
カドフィセスとは、古代インドにおいてクシャーナ朝の礎を築いたクジュラ・カドフィセスのことだろう。
後漢書・西域伝にも登場するこの英雄は、現在はアフガニスタンの首都にあたるカーブルの周辺から、パキスタン北部にかけてを支配したといわれている。
その後、彼の子孫がさらに勢力を拡大し、クシャーナ朝はササン朝ペルシアに敗れる三世紀まで、中央アジアの大国として君臨した。
そもそもクシャーナ朝の皇室は、中国東北部にいた騎馬民族〈月氏〉が起源であるとされる。
とはいえ、他の騎馬民族に圧迫されて流れ着いた中央アジアは、文化的にギリシア・ローマの影響も色濃い。
現代でもカーブルからガンダーラにかけて、カドフィセスの肖像が刻まれたコインが出土するという。
もちろん、一世紀初頭を生きる劉嬰は、そんなことは知る由もない。
(怒るだろうなあ―――あの人)
そんな心配をしていた。
気を揉む劉嬰をよそに、暴走気味の勢いにまかせて、その日のうちにすべての商品を売り切ってしまうつもりの麗華だった。
しかし―――。
「こら、貴様らァ!」
やっぱりというか、二人連れの兵士である。
「あっ―――」
人々はそう短く叫んで、あっと言う間に散ってしまった。
「なんのつもりだ。誰に許しを得て、この敦煌で不浄の商いをしている」
麗華は胡座をかいたまま、兵士を見上げていた。
ふてぶてしいとさえ言える態度で、もちろんのこと恐れる様子は微塵もない。
「なんとか言わんかッ!」
「あの、旦那方」
かわりに答えたのは、ほとんど縮み上がっている劉嬰だった。
「手前どもは昨晩、敦煌に着いたばかりでしてございまして。なにぶんにも不
案内なもので、城内での露店がご法度とは露知らず―――」
「知ってたよ」
麗華がそう言い放ち、
「また、そんな―――」
劉嬰が困った顔になる。
「ここは知らなかった、でお目こぼしをもらいましょうよ。ええ、手前どもはちっとも存じ上げませんでしたよ、旦那方」
「知ってたね。知っててわざと大通りでかましてやったんだよ」
「いいえ、存じ上げませんでした」
「知ってたっつの!」
そんなふたりのやりとりを聞いていた兵士が、
「嘗めとるのか、貴様ら!」
と槍を構えた、その時―――。
劉嬰と麗華、ふたりが同時に動いた。
素早く間を詰めた劉嬰が兵士ふたりにしがみつき、
「旦那方、聞いてください旦那方ぁ!」
どこまでが真面目なのか、とにかく懇願しながら動きを封じる間に、麗華がくるくると荷物をまとめ、
「もういいよ!」
劉嬰もまた兵士を離して走り出したが、
「あ、これはいけない」
思わずそう呟いたのは、人垣の向こうに新手の兵士が見えたからだった。
振り返るとこちら側にも、最初のふたりの後ろに三人ばかり増えている。
続いてまたふたり。あれよあれよという間にまた三人、いったい何人が巡回しているのやら―――。
「これは、ただ巡回してたってわけじゃなさそうですね」
「密告られた?」
「たぶん」
「あのくそ役人―――」
それにしても連携の早さには、敵ながら天晴れというほかなかった。
麗華が素早く懐に手を走らせる。
何を出そうとしたのか、目ざとく見つけた劉嬰が、
「駄目ですよ。ここは人が多すぎます」
「けど、このままじゃ―――」
「荷物は諦めましょう」
なにか言い返しかけた麗華も、さすがにこの状況では諦めるしかない。
まさに断腸の面持ちで、風呂敷に包んだ商品を捨てた。
劉嬰は両手を組んで中腰になった。
「そんな―――」
麗華の表情に、ありありと不安が浮かんだ。
「さすがにこの状況じゃ、ふたりは逃げ切れません。でも、麗華さんだけでも逃げ切れば、ふたりに事態を伝えられますから」
背後にはどこの屋敷のものか、高い塀がそびえている。
「でも」
「僕は大丈夫。行ってください」
「いやだよ、だって―――あたし、二度と―――」
「これしかありません」
それでも麗華はまだ躊躇していたが、
「はやく」
促されて渋々、助走に入った。
組み合わせた両手を踏み台に、呼吸を合わせて跳躍すると次の瞬間、重力から解き放たれた麗華がふわりと宙に舞う。
その高さたるや―――。
兵士や見守る見物人も、ぽかんと見上げるしかない。
「馬鹿な」
心細げな表情のまま、高々と宙に舞ったその身体が、五メートルはゆうにあろうかという城壁を軽々と越えていった。
その向こうは、誰の屋敷の邸内なのかは知らない。
だが一旦、身を隠せばおいそれを敵に見つかる彼女ではないことを、劉嬰はよく知っていた。
「はい、もう逃げません。逃げませんから」
数十本の槍の中で、劉嬰はホールドアップした。