四 モノはあるのに金はなく、それぞれ金策にむかうこと
小国が興っては滅ぶ西域では、物々交換の商慣習が根強い。
古代の貨幣といえば金銀銅だが、また国家が衰退していくにつれ、その含有率も落ちていくのが、この時代の貨幣でもあった。
例えば同じ時代、地中海世界を席巻したローマのデナリウス銀貨も、後世の衰退期になるほど質が落ちている。
通貨への信頼は、国家への信用でもあるのだ。
そこへいくと塩や穀物は、人が営む限り一定の価値を持つ。
国が揺らげば鉄屑同然になっていく貨幣より、価値の損なわれない物品のほうが、信頼されるのも道理だった。
まして漢はついこのあいだ、一度滅んだばかりではないか。
だが―――。
「禁じられているんです。塩は―――太守公館で換金してください」
この交易都市・敦煌の旅籠で、若女将の媛はこんなことを言う。
しばし唖然とした麗華だったが、彼女は立ち直りの早さが身上でもあった。
「ああ、そっかそっか。ごめん、ごめん」
しきりと頭を掻きながら、
「敦煌だって漢の一部だもんね。あたしとしたことが、塩と鉄は国家専売だったの忘れてたよ、ははは―――」
たしかに、塩と鉄の国家専売法は紀元前百二十年、武帝の時代に制定されている。
「こりゃ、うっかりしてた。旅籠がお上に睨まれたら商売にならないよね。困らせちゃってごめん!じゃあ、こっちでどう?チベット産の明礬。すごく奇麗に染まるよ」
だが、媛の表情はかわらなかった。
「ごめんなさい。それも駄目なんです」
「あらら。じゃ、これは?ヤギの毛皮、カシミール産だよ。ふわふわ気持ちいい―――」
「本当にごめんなさい。この敦煌では、交易ができないんです」
曰く、国外産の物品を受け取るだけで、交易と見なされるのだという。
敦煌が仏教都市の性格を帯び、郊外に有名な莫高窟ができるのは、これより三百年後のことであり、この時代の敦煌は純粋な商業都市だった。
二千年後にはシルクロードと通称される、東西交易路の起点を中国とすれば、その道は敦煌まできて三本に分岐する。
すなわち、
タクラマカン砂漠の南部のオアシスを、飛び石で進む西域南道。
かの楼蘭で有名な、この時代におけるメインルートの天山南路。
そしてこの時代になってから開拓された、新ルートの天山北路。
人と物の流れを逆にみれば、三本の交易路を運ばれて集まる扇の要が敦煌であり、ゆえに商業都市としての重要度はかつての長安、今の洛陽にも劣らない。
そんな敦煌で、交易が禁じられているという。
「なんで?」「なんでや?」「なにゆえ?」
異口同音ならぬ、異口異音に返す旅人の疑問も、それがいかに奇異なことかを物語っていた。
「そういう決まりなんです、ごめんなさい」
消え入りそうな声だった。
「でも、今日は本当に楽しかった。皆さんと一緒にいると、悲しいことや辛いことを忘れます。今晩は、どうぞ二階にお泊りください。明日、換金したら―――お代を頂きますから」
こうまで言われては、さすがの麗華も自慢の口がまわらない。
「―――いやいや、どうにもわかりません」
寝転がっていた劉嬰が、ぼりぼりと頭を掻きながら起き上がった。
「なによ、起きてたの?」
麗華が下唇を突き出した。
「いや、いま起きたんですけど―――どうやら、こみ入った事情があるようじゃないですか」
劉嬰はのぞきこむように媛を見て、
「まあ、お代は明日まで待って頂くとして、取引ではなく換金―――僕にはどうもその言い回しが気になります」
「どうか、悪く取らないでください」
「それに、あなた知ってますね。僕らが換金―――とやらをしにいって、そこで何が起こるかを」
どう考えてもそれは、あまり好ましくない状況のようだった。
「いったい、この敦煌に、いったい何が起こっているんです?」
媛は黙って俯くばかりだった。
「おう、らしくないやないか」
熱血漢の弓林が喚いた。
「姉ちゃん困らして何するつもりや。要は現ナマがあったらええことやろ。違うか?」
「なにか名案でも?」
「ここは国境や」
弓林はにやりと笑った。
「国境には必ず軍が駐留しとる。けど、戦争してへん兵は暇なもんなんや。経験上、これは間違いないねん」
言いながら腕をぐるぐる回し始めた。
「ワシ、ちょっと稼いでくるわ」
「乱暴なことしちゃいけませんよ」
「するかいな。この店でやったのと同じことするだけや。実に紳士的やったやないか」
「僕は寝てたから、わかりませせんけど」
「まあ、待っとってや。鶏さんの鳴く頃には戻るわ。そしたら、明日はまた楽しく騒ごやないか」
要するに、チェックアウトまでに賭け腕相撲で、ひと稼ぎしてくるつもりらしい。
もう商人というより、ほとんどやくざ者―――。
そんな視線など、どこ吹く風で、
「ほな、言ってくるわ」
高笑いとともに、弓林は店を出ていった。
皆、呆気にとられて見送るしかなかった。
「では、私も金策に赴きましょう」
方望が悠然と笑みを浮かべ、扇子をゆらめかせて立ち上がった。
「方望先生も?腕相撲で儲けるんなら、はやく追っかけないと」
「いえいえ。賭博はあくまで娯楽。資金の調達は、より信頼性の高いものであるべきです。弓林どのでは心もとないので、私は別口で参ります」
にっこりと笑った口元から、輝く歯がこぼれていた。
「ツテがあるんですか?」
「より優雅に〈人脈〉と呼びましょう。これにまさる金策は皆無とさえいえます」
「そういえば、先生ずいぶん〈鳥〉を飛ばしてたね」
思い出した麗華が言った。
「誰かに渡りをつけたの?」
「実は太守どのの部下に不遇をかこっている古参武将がおります。まず金に困っていることはございますまい」
「不遇―――頼りになるの?そのひと」
「この将軍の奥方に連絡がついております。なかなか面白い話が聞けそうですよ。ついでに少々の金子を無心しても、まず断られることはないでしょう。では、しばしお待ちあれ」
弓林も扇子をふりふり出て行った。
またしても、人々は呆然と見送るしかない。
「先ほどはすいません」
劉嬰が頭を下げた。
「他所者には話しにくい事情もあるかと思います。僕はそのへん空気が読めなくて、いつも思ったことを言っちゃうんです」
「そうよ。あんた、いつも立ち入ったことを訊き過ぎるのだよ」
「いつもこうやって叱られるんです。あの、本当にすいません」
「そんな―――」
かえって媛はまごついていた。
「で―――かさねて厚かましいんですが、代金の支払いまでは、我々ふたりが担保ってことで」
劉嬰は恐縮しきりだった。