二 迷惑な客が帰り、またやって来ること
「婉ちゃん、ねえ媛ちゃんてばさあ」
山羊のような顎髭をさすりながら、男が娘の気をひこうとしていた。
敦煌にある小さな旅篭である。
他の多くがそうであるように、ここも一階は食堂を兼ねた居酒屋となっていた。
もっとも、宿のほうはこのところ客足が途絶え、部屋はすべて空いている。
居酒屋のほうには地元の連中がやって来るが、本業のほうが振るわなければ、やりくり苦しいのが現実だった。
「おおい、媛ちゃんてばさあ。こっち向いてよ、我輩にも酒をついでおくれよ」
さほど酔っているようにも見えないが、山羊髭はしつこかった。
しかし媛と呼ばれた娘はとりあわず、ただ注文された黙々と酒を運んでいる。
他の客は時折、顔を見合わせながら、それでも黙って酒を飲んでいた。
このところ、彼らの横暴は目に余るが、どだい文句を言える相手でもないのだ。
「おおおい、媛ちゃんてば」
山羊髭の男は名を陳俊という。
敦煌太守・曹延が雇った武人だが、かつては中原でならした将軍というふれこみが、どこまで信用できるか知れたものではない。
ただその態度は横柄、尊大、傍若無人で、少なくとも自意識は並み以上のものがあるようだ。
「おおいってばさあ―――」
陳俊は子分を連れていた。
ゴロツキに毛の生えたような連中だが、いでたちだけは立派に構えている。
その子分衆が親分の報われない様子を見て、ついに怒りはじめた。
「こら小娘よう。このお方が、どこの誰かわからねえなんて言わねえだろうな?」
どうにも柄がよくない。
「いいか、よく聞けよ。このお方はな、かつて光武帝陛下のもとで将軍をやっていらした陳俊サンだぜ。本当ならよ、お前らが、おいそれとお目にかかれるお方じゃねえんだよ」
こうして大声で弱者を威嚇するのが愉快で堪らない―――その程度の、いわゆる小者だった。
「確かに一時はよ、盗賊なんかに身をやつしてたけどよ。おまけに今じゃこんな辺ぴな田舎領主に雇われちゃいるけどよ―――」
「馬鹿野郎!余計なことを言うなっつの」
ガツン!
と、子分の脳天に拳骨が落ちた。
「痛た―――」
「俺は、べつに身をやつしてなんかねえだろ!」
「いや、でもお頭ァ」
「お頭と呼ぶなと、何度言やわかるんだ!いいか、今の俺は交易都市・敦煌の衛尉(警護長官)である。よって、我が使命は太守曹延どのと、民のつつがなき暮らしを護るにある」
陳俊は誇らしげに胸を張った。
ところが、それを聞いた媛の顔色がかわった。
「民を護る?」
黙ってた客たちが、
(まずい―――)
と身を固くする。
「どこが護ってるんですか!」
媛は、はじめて正面から陳俊と向き合った。
日頃は若い娘と思えないほど落ち着いている彼女だが、この件になると我を忘れてしまうのだ。
(無理もないけどさ―――ますいぜ)
自分のそれが危ういかのように、客たちは首をすくめた。
現に、頭の悪そうな陳俊の子分は、早くも剣の柄に手がかかっている。
そんな剣呑な雰囲気など気にもせず、
「傷ついちゃうなあ。吾輩だってほら、頑張ってるじゃない。ねえ、そんなに怒るなよ媛ちゃんでばさ―――」
「あなたが頑張ってるかどうかなんて、知りません。でも、誰も護ってなんかいないじゃないですか。罪のない人をたくさん捕まえて、牢屋に入れて、結局帰ってこない人ばかり―――うちのお父さんだって―――」
媛の父親は商人だった。
それも西域の楼蘭、大宛、果ては康国にまで足を伸ばした交易商である。
そんな男が、旅籠の娘を妻にして、しかもそこのあるじにおさまってしまったのだから、周囲はずいぶん驚いた。
やがて、娘がひとり生まれた。それが媛である。
難産で肥立ちも悪く、ほどなくして母親はこの世を去った。
その後、媛の父親は小さな旅籠の主人として、ひとり娘を育てたのである。
温厚だが気骨があり、人望も厚く、いつしか土地の顔役のような存在にもなっていた。
その父親が敦煌太守・曹延に捕らえられたのは、半年前のことだった。
「そりゃまあ、あいつが悪いんだよ」
悪びれもせず陳俊が言った。
この男には、心の機微が欠落しているらしい。
「曹延どのが太守なんだ。偉いひとに逆らっちゃいけないよ。なのにあいつ、直訴だか直談判だか知らねえけど、余計なことするもんだからさ」
「交易を禁じられた商人が、どうやって生きていくんですか」
声に嗚咽が混じりはじめている。
思わぬ剣幕にたじろく陳俊だが、
「難しいことはわかんねえけど―――まあ、どうやって生きてくも何も、死んじまったからなあ、あのおっさん」
やはりこの男、人格に大きな欠陥があった。
とうとう媛は顔を覆い、店の奥へ走りこんでしまった。
「ありゃ、泣かしちまったか」
さすがにバツが悪いのか、陳俊は山羊髭をさすりながら、
「なあお前ら、俺が直に殺ったんじゃねえって言っといてくれよ。捕まえたのは俺だけどよ、取り調べたのは俺じゃねえんだから、さ。じゃ、また出直すわ」
周囲にそう言い残して、そそくさと店を出て行った。
「勘定はツケとけよ。わかったな?」
子分衆もぞろぞろと席を立つ。
彼らがどやどや出て行くと、後には気まずい沈黙だけが残った。
客たちはしばらく互いに顔を見合わせていたが、やがて何人かが様子を見に立ち上がった。
「おい、大丈夫か―――?」
厨房の奥で、小さな背中が震えていた。
ひとり厨房を任されている料理人が、心配そうに手を揉んでいる。
感情を沈めていたのだろう。
しばらくして振り向いたときには、気丈にも笑顔をみせていた。
「ごめんなさい、もう大丈夫です」
「こっちこそすまねえな」
客のひとりが悔しそうに顔を歪めた。
「俺たちにもっと力があれば、あんなよそ者にでかい顔させねえのによ。そのうち俺達だって―――」
「駄目よ。無理をなさらないで、皆さん」
「いや、でもよ」
「わたしのことは気にしないで。それより、滅多なことを言ってあの人たちに睨まれたら大変ですから」
促されて、客はそれぞれ席に戻った。
だが会話もとぼしく、無理して媛が話題を振っても、すぐに会話が途切れてしまう。
といって席を立つでもなく、重苦しい雰囲気のまま、夜半まで酒を煽る―――それが、近頃の常だった。
だが―――今夜は違っていた。
「おう、飯や!違た、酒や!いや、どっちもや!」
ほとんど喚き散らすような大男を先頭に、実に騒々しい一団がなだれ込んできたのたった。