十五 砂塵を巻き上げて逃げ、扇子を見逃すこと
夜が明け始めた敦煌の郊外―――。
オアシスの緑も尽きた荒野に、もうもうと砂塵を巻き上げて疾駆する騎馬の一団があった。
敦煌衛尉の陳俊と彼の手勢、およそ三十騎。
しきりと鞭をいれ、暴徒侵入の急報を受け敦煌に急行―――しているわけではない。
その逆に、全速力で遠ざかっているのであった。
「隊長ォ―――」
警備兵とは名ばかりの、風体の悪いごろつきが陳俊を呼んだ。
「ねえ、隊長ってば」
その顔に馬用の鞭が飛んで、彼はあやうく落馬するところだった。
「痛て、な、なにするっすか隊長ォ!」
「その呼び方はやめろ!」
「え?だって隊長がそう呼べって―――わっとと」
二度目の鞭はあやうくかわした。
「ど、どうしたんすか、その―――親分」
「どうもこうもねえよ」
「どうもこうもねえって―――ねえ、いいんすか?敦煌にいかなくっても。誰か暴れてやがんでしょ。なんか方向、逆っすけど」
「いいんだよ、これで」
「あ、いいんすか」
血の巡りが悪いので、会話にいちいち時間がかかる。
「あのう―――俺ら今、なにしてるんすかね」
「逃げてんだよ」
「え?」
「だから逃げてんだよ、馬鹿野郎」
「あ、逃げてんすか」
どうにもテンポが悪い。
「なんで?」
「俺ぁな、見ちまったんだよ。忘れたくても忘れらんねえ、あのいまいましい糞餓鬼のツラをよ」
思い出したかのように、陳俊はぶるっと身体を震わせた。
「ずいぶん腫れてやがったが―――確かにあいつだ。そこへ、あのデカブツだろ。間違いねえ、奴らが来たんだ」
「へえ―――奴らって、誰なんです?」
「糞餓鬼とデカブツがいた。てことは小娘と優男も必ずいるわな―――畜生、なんで今頃あいつらが出てくんだよ」
「へえ―――どんな奴らなんです?」
陳俊はしばらく黙っていたが、
「いいか。いま城内で暴れてる弓林ていうデカブツはな、大秦の拳闘奴隷あがりって話なんだが、あんまり強いんで買い手が奪い合った揚げ句、東へ、東へと流れるうちに成り上がって、最後は元帝ん時に漢の将軍になったって奴だ。虎だの熊だのを締め上げたなんて噂がゴロゴロしてやがら」
と、説明をはじめた。
「んで方望ってキザな優男は、どうもサータヴァーハナとかいう王朝の宦官あがりらしいが、帷幕の中から千里を見通すとかいう噂でよ、張子房の再来とか呼ばれてやがった。実際、鳥だか何だかをあっちこちに飛ばして何でも知っちまうし、あいつ自身も後ろに目がついてるみてえな薄ッ気味悪い野郎だよ。
あと麗華って小娘はな、符術だかまじないだかをやってる辛気臭え一族の娘なんだが、小せえ頃から空中に火ィつけたり、それを飛ばしてみたり―――考えてもみな。年端もいかねえガキが仙人みたいな真似しちまうんだ。親もおっかながって、ていよく厄介者に妻合わせて追っ払っちまった。符術士というより、俺に言わせりゃ、あれは魔女だね」
「へえ―――強そうっすねえ」
「そういうんじゃねえ。あいつらはな、そういうんじゃねえんだ。お前ら、昆陽の戦いって知ってるか?」
「昆陽の戦いッすか?そうですねえ―――知らないっす」
「だから馬鹿なんだよてめえらは。いいか、昆陽城に立て篭もる劉秀軍を、百万の王莽軍が囲んだ天下分け目の大いくさだよ」
その戦いで大逆転負けを喫した王莽の新王朝は、見る間に衰え、その年のうちに滅亡してしまう。
一方、勝利をおさめた劉秀はその後、河北地方を転戦して勢力を伸ばし、二年後に即位して漢王朝を再興した―――と、史書にはある。
「実はな。そん時、王莽軍を蹴散らしたっての、あいつらなんだ」
「へえ。その人たち、軍を率いてたんですか」
「違う」
手綱を握る陳俊の手が震えはじめていた。
「あいつら四人だけだ」
「え?」
「嘘じゃねえ。尾鰭のついた噂でもねえ。俺はそん時、従軍してたんだ―――この目で見た。百万が四人に蹴散らされる“戦争”を、俺はこの目で見たんだ」
「そんな、まさかあ」
信じないのも無理はない。
しかし凍りついたような陳俊の表情が、その時の恐怖を雄弁に物語っていた。
「で、その―――劉嬰ってのは」
「物ごころついた時分は羊飼いをしてたらしいが、俺が初めて会った頃は、麗華の後ろで震えてるだけのチビだったよ。だが、いつからか得体の知れねえ感じがするようになって―――理由なんかわかんねえ。他の三人を束にしたよりもっと強えんだが、それだけじゃねえんだ、あいつは。とにかく、おっかねえ。ツラも見たくもねえくらいな」
「それじゃ―――」
「ああ。儒者かぶれの曹延なんざ、ひとたまりもねえさ。朝までには終わっちまわ。だから今、俺ぁこうして逃げてんだよ」
このあたりの引き際のよさ、義理にも地位にも執着しない「軽さ」を武器に陳俊は生き延びてきたといえる。
しかも、転んでもただでは起きない抜け目のなさも持ち合わせていた。
今、彼が向かっているのは敦煌郊外にある岩山の岩窟である。
商人たちから買い叩き、場合によっては力づくで巻き上げた物品を、太守曹延にそのまま献上するほど、陳俊は正直な男ではない。
ばれない程度に、かつ決して少なくない量を、横領して隠しておいたのだった。
「何があるか、わかんねえからな」
常にこうして保険をかけているからこその、身の軽さでもあった。
道徳心は薬にしたくてもないが、それなりに頭は切れるのだ。
しかし、さすがの陳俊も、一団の最後尾で馬を駆る男が、帯に不釣り合いなほど大きな扇子を手挟んでいることにまでは、気付かなかった。