表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/16

十五 砂塵を巻き上げて逃げ、扇子を見逃すこと

 夜が明け始めた敦煌の郊外―――。

 オアシスの緑も尽きた荒野に、もうもうと砂塵を巻き上げて疾駆する騎馬の一団があった。

 敦煌衛尉の陳俊と彼の手勢、およそ三十騎。

 しきりと鞭をいれ、暴徒侵入の急報を受け敦煌に急行―――しているわけではない。

 その逆に、全速力で遠ざかっているのであった。


「隊長ォ―――」


 警備兵とは名ばかりの、風体の悪いごろつきが陳俊を呼んだ。


「ねえ、隊長ってば」


 その顔に馬用の鞭が飛んで、彼はあやうく落馬するところだった。


「痛て、な、なにするっすか隊長ォ!」

「その呼び方はやめろ!」

「え?だって隊長がそう呼べって―――わっとと」


 二度目の鞭はあやうくかわした。


「ど、どうしたんすか、その―――親分」

「どうもこうもねえよ」

「どうもこうもねえって―――ねえ、いいんすか?敦煌にいかなくっても。誰か暴れてやがんでしょ。なんか方向、逆っすけど」

「いいんだよ、これで」

「あ、いいんすか」


 血の巡りが悪いので、会話にいちいち時間がかかる。


「あのう―――俺ら今、なにしてるんすかね」

「逃げてんだよ」

「え?」

「だから逃げてんだよ、馬鹿野郎」

「あ、逃げてんすか」


 どうにもテンポが悪い。


「なんで?」

「俺ぁな、見ちまったんだよ。忘れたくても忘れらんねえ、あのいまいましい糞餓鬼のツラをよ」


 思い出したかのように、陳俊はぶるっと身体を震わせた。


「ずいぶん腫れてやがったが―――確かにあいつだ。そこへ、あのデカブツだろ。間違いねえ、奴らが来たんだ」

「へえ―――奴らって、誰なんです?」

「糞餓鬼とデカブツがいた。てことは小娘と優男も必ずいるわな―――畜生、なんで今頃あいつらが出てくんだよ」

「へえ―――どんな奴らなんです?」


 陳俊はしばらく黙っていたが、


「いいか。いま城内で暴れてる弓林ていうデカブツはな、大秦ローマの拳闘奴隷あがりって話なんだが、あんまり強いんで買い手が奪い合った揚げ句、東へ、東へと流れるうちに成り上がって、最後は元帝ん時に漢の将軍になったって奴だ。虎だの熊だのを締め上げたなんて噂がゴロゴロしてやがら」


 と、説明をはじめた。


「んで方望ってキザな優男は、どうもサータヴァーハナとかいう王朝の宦官あがりらしいが、帷幕の中から千里を見通すとかいう噂でよ、張子房の再来とか呼ばれてやがった。実際、鳥だか何だかをあっちこちに飛ばして何でも知っちまうし、あいつ自身も後ろに目がついてるみてえな薄ッ気味悪い野郎だよ。

 あと麗華って小娘はな、符術だかまじないだかをやってる辛気臭え一族の娘なんだが、小せえ頃から空中に火ィつけたり、それを飛ばしてみたり―――考えてもみな。年端もいかねえガキが仙人みたいな真似しちまうんだ。親もおっかながって、ていよく厄介者に妻合わせて追っ払っちまった。符術士というより、俺に言わせりゃ、あれは魔女だね」

「へえ―――強そうっすねえ」

「そういうんじゃねえ。あいつらはな、そういうんじゃねえんだ。お前ら、昆陽の戦いって知ってるか?」

「昆陽の戦いッすか?そうですねえ―――知らないっす」

「だから馬鹿なんだよてめえらは。いいか、昆陽城に立て篭もる劉秀軍を、百万の王莽軍が囲んだ天下分け目の大いくさだよ」


 その戦いで大逆転負けを喫した王莽の新王朝は、見る間に衰え、その年のうちに滅亡してしまう。

 一方、勝利をおさめた劉秀はその後、河北地方を転戦して勢力を伸ばし、二年後に即位して漢王朝を再興した―――と、史書にはある。


「実はな。そん時、王莽軍を蹴散らしたっての、あいつらなんだ」

「へえ。その人たち、軍を率いてたんですか」

「違う」


 手綱を握る陳俊の手が震えはじめていた。


「あいつら四人だけだ」

「え?」

「嘘じゃねえ。尾鰭のついた噂でもねえ。俺はそん時、従軍してたんだ―――この目で見た。百万が四人に蹴散らされる“戦争”を、俺はこの目で見たんだ」

「そんな、まさかあ」


 信じないのも無理はない。

 しかし凍りついたような陳俊の表情が、その時の恐怖を雄弁に物語っていた。


「で、その―――劉嬰ってのは」

「物ごころついた時分は羊飼いをしてたらしいが、俺が初めて会った頃は、麗華の後ろで震えてるだけのチビだったよ。だが、いつからか得体の知れねえ感じがするようになって―――理由なんかわかんねえ。他の三人を束にしたよりもっと強えんだが、それだけじゃねえんだ、あいつは。とにかく、おっかねえ。ツラも見たくもねえくらいな」

「それじゃ―――」

「ああ。儒者かぶれの曹延なんざ、ひとたまりもねえさ。朝までには終わっちまわ。だから今、俺ぁこうして逃げてんだよ」


 このあたりの引き際のよさ、義理にも地位にも執着しない「軽さ」を武器に陳俊は生き延びてきたといえる。

 しかも、転んでもただでは起きない抜け目のなさも持ち合わせていた。

 今、彼が向かっているのは敦煌郊外にある岩山の岩窟である。

 商人たちから買い叩き、場合によっては力づくで巻き上げた物品を、太守曹延にそのまま献上するほど、陳俊は正直な男ではない。

 ばれない程度に、かつ決して少なくない量を、横領して隠しておいたのだった。


「何があるか、わかんねえからな」


 常にこうして保険をかけているからこその、身の軽さでもあった。

 道徳心は薬にしたくてもないが、それなりに頭は切れるのだ。

 しかし、さすがの陳俊も、一団の最後尾で馬を駆る男が、帯に不釣り合いなほど大きな扇子を手挟んでいることにまでは、気付かなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ