十三 射手が叱られ、弓林が逃げ出すこと
東の空が青みがかって、朝が近いことを告げていた。
漆黒のなかにあった家家が、黒ずんだ影となって浮かび上がり、屋根や柱もそろそろ本来の色を取り戻しつつある。
太守邸を護る門番は、そんな暁の往来に異様な人影を認めて目をこすった。
まだ黒い影でしかないその男は、その巨躯もさることながら、それ以上に大きな巨木を担いでいたのだった。
男はまっすぐに門へと歩んで来る。
やがて表情がわかる程度の距離になったとき、そこに不気味な笑顔を見た門番は、好戦的な意志を隠そうともしない表情に恐怖を覚えた。
「だ、誰―――」
答えるかわりに、にっこり笑った―――いうまでもなく、弓林である。
救援が駆けつけるよりも早く、彼は巨木を担ぎなおして、
「いこかいな」
その態勢のまま、日頃は四人がかりで開閉する頑丈な門へと突進したのだった。
「う―――わあああっ!」
ちょうど四人いた門番は、ただ悲鳴をあげただけだった。
凄まじい音とともに門は文字通り木っ端みじんに砕け散り、今まさに駆けつけようとしていた衛兵たちの目を丸くさせた。
弓林は二つに折れた大木を投げ捨てると、悠然と邸内に踏み込んで行く。
「お、おい、賊だ!止めろ、止めろ!」
押っ取り刀で駆けつけた衛兵は、数を頼みに小山のような巨漢に飛びかかって行く。
だが、そこが実戦を経験していない彼らの悲しさだった。古兵なら、すぐに勘を働かせて逃げ出したに違いない。
まさに桁違い―――。
弓林が相手の胴ほどもある腕を振り回すたび、二、三人ほどまとめて宙を舞う。
勇敢にも槍を突き出した者は、次の瞬間、遠巻きにできた輪の向こうまで飛ばされた。
数人で呼吸を合わせ、一度に突き出しても結果は変わらず、無造作に槍を掴まれた不幸なひとりは見上げるほど高く舞い上がり、三回転してから地上に戻ってきた。
「ゆ、弓だ!」
ところが、これも無駄だった。
空気を切り裂く音がするや、どの方向から放たれた矢でもわずかに身体を動かし躱してしまう。
「―――ば、化け物だあっ」
もはや恐慌状態に陥った衛兵は狂ったように矢を放つが、どれここれもあてずっぽうで、わざわざよけるまでもない。
だが、そのうちの一本を、何を思ったか弓林は動物的な反射神経で掴み取ると、
「こら、危ないやないか!」
怒声に射手がすくみあがる。
「ワシの後ろにお前の味方がおったやろ。当たったらどないするつもりや。射線に味方がおったら、間違っても弦を引いたらあかん。基本中の基本やないかい」
喧々と説教を始めた弓林だったが、ふと相手の顔をみて顔中に笑みが広がった。
「なんや―――お前やったんか」
それは先日、酒場で賭け相撲をした相手だった。
「あ―――うう―――」
「あ、勘違いしたらあかんで。あれはもうええねん。お互い、酒も入っとったし。まあ、ようあるこっちゃ」
言いながら大股に近づいていく。
「それより、うちの大将がえらい世話になったらしいやんけ。そこ動くなや?礼がしたいねん。たっぷり、じっくり、礼したいねん」
そして頭上でポキポキと指を鳴らす―――それだけで相手は失禁した。
「待てい!」
野太い大音声は、恐怖に震える兵たちには福音だった。
鷹揚に弓林が振り向くと、目をいからせた趙将軍が、長矛を携え半身に構えている。
「ほう―――」
弓林が目を細めた。
「おるやないか、そこそこ面白そうなのが」
「貴様―――自分のしたことがわかっておろうな」
「見ての通りや」
「もはや名は聞かぬ。たったいまその首、叩き落としてくれようぞ」
弓林は凄味のある笑顔を返した。
その瞬間からふたりの間に、余人の立ち入れない結界が張られた。
あまりの緊張感に、周囲の衛兵たちは唾も飲み込めない。
じりと足半分、趙将軍が歩を詰めた―――間合いの奪い合いから、駆け引きは始まっている。
方望はまだ構えもせず、悠然と手を腰に当てたままだ。
しかし小さなきっかけがひとつあれば、たちまち激しい攻防となるだろう。
身動きひとつとれない衛兵のひとりが、冷たい汗を顎先から滴らせた。
「あ、せや」
不意に、弓林がぽんと手を打った。
「わし、用事があったんや。ほな」
そして、さっさと踵を返して走り去っていく。
趙将軍は唖然とし、すぐに頭から湯気を立て、こめかみに青筋を走らせた。
「貴様ァ!」
かつて味わったことのない愚弄だった。
ふんぞり返った太守の曹延も、鼻持ちならない陳俊も、誰もが趙将軍の武芸には一目を置いたのだ。
だが、白々しい嘘をついて立ち去る巨漢の顔には、まだ小馬鹿にしたような笑みが浮かんでいるばかりか、
「ついて来るなや。来たらあかんで」
などと、二度、三度振り返っては棒読みでそんなことを言う。
「よくも、よくも抜け抜けと!」
趙将軍は猛然と追いかけた。
その先をいく方望の、これまた人を馬鹿にした小走りも、烈火のような怒りに油を注いだ。
「待て!待たぬか!」
顔を見合わせた衛兵たちは、一瞬の自失から覚めると鬨の声をあげて将軍の背中を追った。
将軍の怒りが伝染した―――というより、極度の緊張と不意の解放によって、ある種の錯乱状態に陥ったのだろう。
先を争うように門からなだれ出て行く衛兵たちは、往来の隅でふらりと立ち上がり、散歩でもするかのように門に向かう人影には、まったく気付きもしなかった。