十二 顔役に追放され、無頼があらわれること
ところ変わって―――。
夜も更けた、媛の旅籠である。
二階のひと部屋にムシロが敷かれ、横たえられた劉嬰には、顔も見えないほど薬草が貼られていた。
周囲をぐるりと仲間が囲む。
弓林が難しい顔で沈黙をやぶった。
「なあ、姫さん」
「なによ」
「えんか?これで」
「―――とりあえず、こうしとくしかないでしょ」
「いや、もっとこう、符とか術とか―――いろいろ、使たほうがえんとちゃう?」
麗華は唇を噛んだ。
「それ系、苦手なのよ」
「それ系て―――」
「なんか文句―――」
静かな怒気に、さすがの弓林もたじたじだった。
先ほどまでの麗華は、気の毒なほど取り乱していた。
不安にかられた感情のバランスは、些細なことで均衡を失う。
「まあまあ。何事にも得手、不得手がございますよ」
方望がとりなしたが、不得手と言われた麗華はいよいよ鬼神の形相だ。
が、それも一瞬で、たちまち空気が抜けたように萎んでしまった。
「そうね―――あたし、無力だ」
「その、なんや。そういう意味とちゃうて」
もちろん悪気があったわけではない。
一行の用心棒を自負していただけに、弓林も責任を感じているのだ。
事態がこうなると、拳を振るうしか特技のない弓林には、現状を好転させるすべがない。
水が運ばれてきた。
「ご加減は、いかがかな」
数名の若者を引き連れて、入ってきた老人が言った。
身なりは質素だが、ただの老人ではないことはひと目でわかる。
長い白髭だけでも、手入れに相当な手間をかけているはずだ。
それは財力を示し、すなわち有力者であることを示す。
その他、杖、袷の着物、靴、それらに素早く目を走らせた方望が、手を組んで礼をとった。
「ほう」
老人は髭をさすった。
「話の早そうな御仁だ」
それなりの街になれば、政治的な統治者の他に、土地の住民を代表する顔役がいる。
かつての媛の父親がそうだった。
今の顔役は、目の前にいる老人らしい。
(とにかく、偉いお爺さんらしい―――)
麗華はともかく倣って頭を下げたが、弓林はふんと鼻を鳴らしただけだった。
「で、大人。どのような御用向きで私どもに―――」
「そのことよ」
老人は眉毛に隠れそうな目をしょぼつかせた。
「敦煌から、立ち去ってはもらえまいか」
単刀直入だった。
弓林があぐらをかいたまま、ぎょろりと目を剥いた。
麗華もなにか言いかけたが、方望がやんわりと制した。
「お尋ね者は、役人に突き出すのが本来では?」
「話そう」
あくまで話が早い。
「この敦煌は、いま曹延という太守に牛耳られておる。この男、儒者あがりでな。商業、とりわけ交易を卑賎の行いとして禁じ、そのくせ自分は交易品を安く買い上げ、ひとり財を蓄えている」
老人は抑揚のない声で語り続けた。
「早くに手を打てばよかったが、そもそも商人は諍いを好まず、つい後れをとった。気が付いた時には、財力を背景に武力も手にしておる始末よ。訴えようにも、漢朝廷はまだ内乱から立ち直っておらず、匈奴をはじめとする近隣の勢力も、貢物で懐柔されてはどうにもならん」
さすがというべきか、説明は要領を得て簡潔だった。
匈奴というのは古代中国の北にいた騎馬民族で、スキタイの流れを汲むとも、のちにヨーロッパを荒らしまわったフン族の祖先ともいわれている。
約百五十年前の武帝が討伐し、その影響もあってこの時期は東西に分裂していたが、それでも巧みに馬を乗りこなす彼らは、中華圏の人々にとって脅威であり続けた。
そんな騎馬民族の代表格が、のちにアジアからヨーロッパにかけて大暴れする蒙古である。
英雄チンギス・ハンに率いられた彼らは、中国はもとより中央アジア、中東、さらに東欧にまで駒を進めて、史上最大の大帝国をつくりあげてしまう。
蒙古もいきなり現れたわけではない。農耕民族にとって騎馬民族は、紀元前から悩みの種だったのだ。
「おわかりかな」
「それでも匈奴なら、味方につける手段もございましょう。宝物を受け取るより、太守にとってかわったほうが、得だと思わせればよいのです」
しかし、老人は首を振った。
「左様。だが、匈奴は統治をしない。踏み潰すだけだ」
「なるほど、遊牧民の彼らには、領土経営の概念はございませんな」
「匈奴にとって漢人は、治めるものではなく搾取するものでしかない。つまるところ今と変わりなく、しかも一度そうなれば漢への帰朝も容易ではない。今は辛抱するしかないのだ」
理にはかなっていた。
「は。情けない奴らや」
弓林が嘆息した。
「これ、弓林どの」
「そやないか。要するに泣き寝入りと違うんか」
ずけずけとした物言いだが、同じく勝ち気な麗華もこっそり頷いている。
「どう思われようと、何を言われようとも、わしらは今、太守とことを構えるわけにはいかん。そして、あんたがたはお尋ね者だ。やがてここにも捜索の手が伸びよう。いてもらっては困るのだ」
ふん、と弓林がまた鼻を鳴らした。
麗華も唇を突き出している。
「嘘ですね」
方望が扇子を揺らした。
老人の背後で、若者たちが気色ばむ。
「嘘などは、つかん」
「説明になっているようで、なっておりません。それなら何故、さっさと私どもを役人に突き出さないんでしょう。そのほうがよほど、手っ取り早いのではございませんか]
「我々の事情だ。出て行ってくれ」
「ところで、そこの若い方。腕の生傷は最近のものですね。どうなさったんです」
素早く近寄った方望が、若者の手をとった。
「マメが潰れて、さぞ痛いでことしょう。馴れない武器など握るからです。しかし生兵法の代償は、こんなものでは済みませんよ」
弓林が驚いて顔を上げた。
その目が大きく見開かれている。
「やる気やったんか―――」
「違う」
老人が打ち消したが、方望は構わず先を続けた。
「相手は軍隊です。いいですか、訓練された兵を侮ってはいけません。そのうえ相手方には、先の戦乱で各地を転戦した武将までいるのです。おそらく戦にもなりますまい。それにしても、何故です?」
弓林の疑問は、半ば自分に問いかけるようだった。
「何故、いまこの段階で決起などお考えになったのです。民衆が軍隊を相手にする戦術は唯ひとつ、地の利を活かした奇襲によるしかありませんが」
今風にいえば、ゲリラ戦だろう。
「ここ敦煌はあなた方の地元であると同時に、太守の本拠地でもある。城内に地の利があるとも思えず、さりとて城外は身を隠す木立もない荒野。となれば数を頼みにするしかありませんが、数的にもあなた方は太守の手勢とよくて互角、おそらく下回るのではありませんか」
「そんなこと、考えてはおらん」
「さらに。私どもの仲間が、こちらの旅籠の女将どのに救われております。それこそ下手に逃がして捕えられ、口でも割られようものなら一蓮托生、あなた方にも火の粉がかかるは明白です。ここは突き出すか、あくまで匿うかのいずれかしかないはずなのに、我々を逃がしてさらに決起するとは、どうもあべこべで解せません」
その時、劉嬰が跳ね起きた。
薬草がはらはらと舞い落ちる。
「あ」
麗華が駆け寄った。
「それです」
「え?」
「媛さんですよ」
「え?え?」
「媛さんは、どこです?」
「そうか―――しまった!」
叫んだのは方望だった。
「この、したり顔の痴れ者め。いったいどの口で、数が頼みと賢しくも道理を説くか!」
方望は自分を罵っているのだった。
「なんや。どないしたんや」
「媛どのですよ。今になって彼らが動かねばならない理由―――何故、この場に彼女はいないんです。役人に捕えられたに違いありません」
「いや」
苦悩に満ちた表情で、劉嬰がそれを否定した。
「彼女は、出頭したんでしょう。顔を見られたから、皆に迷惑をかけないよう、ひとりで行ったんですよ。そうですね、ご老人」
方望は頭を抱えている。
まるで人が変わったように、愛用の扇子すら取り落として、いつもの飄々とした優男の面影がまるでなかった。
「すいません!」
劉嬰が身体を床に投げ出した。
「―――これ。顔をあげなさい」
「謝って済むことじゃないけど、本当にすみません。事情も知らない僕らがあちこちで騒ぎを起こして、危ないところを助けてまでもらったのに、こんなことになってしまって―――」
ほとんど額を床にこすりつけんばかりだった。
あぐらをかいていた弓林も、背筋を伸ばして膝に手をつき、
「わしもや。悪かった。言葉も過ぎた。この通りや。堪忍してくれ」
と、頭を下げれば、
「お詫びの言葉もございません」
すっかり青ざめた方望も、震える手を組んで深々と腰を折った。
決まりが悪そうに手を揉み合わせていた麗華も、
「ごめんなさい」
老人は何も言わないが、背後に控える若者たちは、何やらひそひそと話し合っていた。
「そんなことをしても、どうもならん」
と諌めたのは、やはり役人に引き渡す相談だったのろうか。
「すでに、あれは罪を犯したのだ」
「だからそれは、わしらのせいや」
「今さら、あんたがたを役人に引き渡しても、どうにもならんと言っておる」
老人は毅然として、
「だが、あれの父親には恩があってな。おそらく無事にはすまんだろうが、媛だけは何としても―――」
悲壮な決意を口にした。
勝算は度外視で、とにかく捕まった媛を助け出そうというのだろう。
利に聡い商人たちに、ここまでの決心をさせたのは、よくよくのことだ。
それは媛の人柄かもしれないし、父親の徳かもしれない。
おそらくは、その双方だろう。
その時だった。
「いや、そいつは無理だ―――やめときな」
耳慣れない―――地の底から湧いて胆に響くような、ある種の畏怖を感じずにはいられない声だった。
誰だ―――?いや、それは言葉にならない。
ただただ、耳を疑った。
いまのは本当にこの男の声なのか?
一方の仲間達は、
「やだ。怒ってる」
と戸惑う麗華をはじめ、それぞれ互いの目を見かわしている。
「方望の言う通りさ。勝てないと知れた戦くらい、馬鹿なもんはないぜ」
立ち上がる劉嬰の、表情までが別人になっていた。
「出ちゃった―――」
と麗華が天を仰ぎ、弓林は嬉しそうに屈伸を始めた。
「まあ、なんや。これはこれで、面白いことになったやんけ」
「方望」
「は」
扇子を拾い上げた彼も、どうやら落ち着きを取り戻している。
「策だ」
「七通りございますが、媛どのの安否を考えますと―――」
「今すぐかかって、朝までにカタをつける」
「お耳を」
敦煌の住民たちは、それらを呆然と見つめていた。
長年、世の中を見て来た顔役の老人ですら、あまりのことに一言も出ない。
「すまねえな」
先程とはまったく違う調子で、劉嬰はまた詫びた。
「けどよ、こいつは俺達が蒔いた種だ。自分でケツ拭くのがスジだろうさ。だから俺ら四人でいってくら。あと、間違っても手を出さねえって若い連中に約束させてくれ。理由は―――さっき言ったよな」
劉嬰は唖然としたままの若者たちを見回した。
「おさまらねえ気持ちはわかるが、ここはひとつ朝んなるまで待っててくんな。あんまり偉そうなことが言えた義理じゃねえが、俺もちっとばかし頭にきてんのさ。太守の糞野郎―――曹なんとか言ったっけな俺らが。必ず引きずり出して、落とし前つけてくるからよ」