十一 囚人が解放者を案じ、もののふが瞑想をやぶられること
媛と看守、ふたりはれっきとした同志だった。
おそらく太守の圧政に抵抗する地下組織、つまりレジスタンスのようなものだろう。
(危険ですね)
劉嬰は境遇を忘れ、不安を覚えていた。
圧政を敷くからには、敷けるだけの理由がある。
よほど用心してかからないと、市井の隅々にまで紛れている密偵によって、すぐ網にかけられてしまうだろう。
なのに、この人のよいレジスタンスは、昨日や今日あったばかりの、どこの馬の骨ともつかない男を、危険を犯して助け出そうとしている。
(そんなのは、うっちゃっておけばいいんです)
時として、抵抗者は権力者以上に冷酷でなければならないものだ。
こうした脱獄を企画できることじたい、それなりの組織が形成されているとみてよいが、だからこそ一時の感情などに流されず、破滅につながるような軽挙は謹むべきだろう。
(そう、だからこそ―――)
確かに、彼らのしていることは愚かだ。
(だからこそ、いやむしろ、なおのこと―――)
劉嬰はそんなことを、ぼんやり考えていた。
地下を抜けて、長い回廊に出た。
建物の一階にあたり、一定の間隔で灯籠が焚かれている。
劉嬰が、くんと鼻を鳴らして空気を嗅いだ。
「これはいい。ひと雨、来ますね」
「え?」
敦煌のある地方は、今でいう砂漠性気候で、夜は冷えるが雨は降らない。
「僕はね、もともと羊飼いでしたから」
不思議がるふたりに、劉嬰は説明した。
「僕は河北のもっと北、狄と呼ばれる民族が治める地で、山々を歩いて羊を追う牧童だったんです」
「そういえば、漢のご出身ではないということでしたね」
「ええ。でもね、おかげでちょっと得意なことがあるんです」
「それは、さっきの―――」
「そう。僕は空気の匂いで天候がわかります。太陽や星の動きで、自分がどこにいるのかもわかります―――そこ、左ですよね」
驚いて振り返る看守に劉嬰は、
「何となくわかるんです。ほら、馬って道に迷いませんよね。犬は引っ越した飼い主を捜しあてます。それと同じようなもんです」
同じようなもの、と言われても―――。
因みにこれより約二千年後の一九九五年、ダートマス大学のトービー博士はラットの脳内に〈方向細胞〉なるものを発見したという。
それによると、動物は体内器官によって方角を感知し、また移動を記憶して辿る能力があるそうだ。
また学説によれば、人間もその細胞をもっているという。ただ、きわめて少なく微弱なため、能力を発揮するのは稀とのことである。
「気味が悪いですか?でもこれ、遊牧の暮らしにはずいぶん役に立ちましたよ。人より動物に近いんですかね、はは―――」
こんな状況で劉嬰は饒舌だった。
「でもある日、僕は漢の都に連れていかれました。なんでも死んだ母の縁故だとか―――詳しいことはわかりませんし、今となってはどうでもいい話なんですが」
「いろいろあったって、麗華さんも仰ってました」
「彼女は―――可哀想なひとなんです。実は商家じゃなく、符術を代々つかう名門の出身なんですがね」
符とは竹や木を薄く剥いだもので、まだ紙がないこの時代の人々は、それに文字を書き付けていた。
符を並べて繋いだものが簡であり、書簡になると一般的な手紙や書物につかわれることが多く、東洋で最初に書かれた史書「春秋」なども原本はこれである。
その「符」に呪文を書き付けて行う呪術を「符術」という。
当時は呪術であると同時に医術でもあり、また原始宗教の側面をもあわせもっていた。
現代に生きる我々は、それを以外なところで目にする機会がある。
この符術が発展・体系化されたものが今日の道教であり、横浜の中華街にある関帝廟などは道教の宗教施設にあたる。
また道教における僧侶を道士といい、これは香港や台湾などで製作され、日本でもブームとなったキョンシー映画でその姿を垣間見ることができる。
その作中で道士は、呪文を書いた紙を貼り付けて中国版のゾンビであるキョンシーを鎮めるが、古代の道士にあたる「符術つかい」は、さらに多様な分野で活躍したそうだ。
それは紀元前四世紀に成立した木・火・土・金・水を万物の元素とする体系学―――すなわち五行説の影響を受け具現化させたものであったという。
劉嬰は続けた。
「代々、すぐれた符術者を出す家系でしたが、なかでも彼女の才能は並外れていたそうです。でも、それじゃ顔が立たないひともいます。おかげで彼女、みんなに疎まれ、とうとう厄介者だった僕のお嫁さんにされちゃったんですよ」
「でも、麗華さんは―――」
「最初は鼻にもひっかけてくれなかったんですけどね―――今はなんとかやってます、ははは」
「弓林さんや方望さんは―――」
「どこいってもあんなもんです。ひどいんですよ、あのふたりは」
弓林や方望がきけば、口々に異議を唱えるところだろう。
「けど、あのふたりがいなければ、僕なんかとっくに死んでます。本当に凄いんですよ、世が世なら大将軍と名宰相に―――」
その時、劉嬰の身体が、ふいに沈んでいった。
「!」
不意打ちの一撃を、首筋に見舞われたのだった。
「こんなこったろうと思ったぜ」
灯籠の陰から、ゆらりと出てきたのは陳俊である。
脱獄囚と新手ふたりを網にかけ、嬉しさを隠そうともしていない。
「いけねえよ、勝手に逃げ出しちゃあ。まあ、わかっちゃいたけどな。こうまでダンマリ決め込む奴は、本当に何も知らねえか、仲間が助けに来ることになってるかのどっちかだわな―――お?」
驚いたことに、気絶するはずの相手が、ふらつきながらも立ち上がろうとしている。
「おやおや、案外しぶといね。なるほど、あのおっさんが手を焼くわけだぜ」
言いながら剣を振りかぶった。
もちろん、今度は死なない程度の一撃を打ち込むつもりだろう。
腕を飛ばすか足を落とすか―――あとは、
「担いでいって一丁上がり。こいつらに泥を吐かせりゃ、張のおっさんもお役御免、いよいよ将軍の座が転がり込んでくるってこった。思えば長い道程だったぜ。腕一本で西へ東へ、乱世をあちこち彷徨ったが、とうとうツキがまわってきやがった」
そんな皮算用に油断があったのか、
「お逃げください!」
先導の看守が陳俊に組みついた。
「お、何だてめえ、やるか?」
「早く!」
「でも」
「誰も逃がすわけねえだろ、この馬鹿」
陳俊が剣の柄を振り下ろすと、看守は呻いてその場に崩れ落ちた。
「お前らにも聞きたいことがあんだからよ」
言いながら、立っているふたりを睨みつけて、
「あれ―――?」
暗がりの中、目をこらした。
媛があわてて顔をそむけたが、どうやら知った顔がそこにあると気づいた様子だった。
次の瞬間、その媛が決意を固めて劉嬰の手をとった。
「ごめんなさい!」
まだ意識が朦朧としているらしい劉嬰も、おぼつかない足取りながら走りだす。
陳俊は追わなかった。
足元にうずくまる看守に目もくれず、逃げたふたりが消えていった闇の一点を凝視して、そのまま身じろぎもしない。
やがてぽつぽつと、この地方にしては珍しい雨が降り始めたが、陳俊はそのまま立ちつくすだけだった。汗か雨だれか、わからないものが首筋を流れ、
「あいつは―――」
しばらくして、ようやく口にしたのがそれだった。
* * * * *
ほどなくして、脱獄が発覚した。
「な、な、な―――」
跳ね起きた趙将軍は怒りのあまり、うまく舌がまわらなかったという。
「何をしておるかッ!」
雷もかくやという大喝が、直立不動で居並ぶ配下を硬直させた。
「捜せ!草の根わけても引っ捕らえるのだ!」
通路に倒れていた看守は、何度も水をかけら目を覚ましたものの、よほど強く頭を打ったとみえて、ただ一言、
「陳俊どのに―――やられました―――」
と言ったのみで、後はなかなか言葉が出てこないという。
「意識がはっきりするまでには、まず半日はかかろうかと」
「陳俊めにやられたと、そう言ったのだな?」
「はい。それだけはこの耳で、はっきり聞きましてございます」
「うぬ―――奴め、なんのつもりか」
この看守は媛の仲間であり、脱獄を手引きしたはずが、幸か不幸か意識が朦朧として証言できない為、違う受け取り方をされていたのだった。
「問いただしてくれる。事と次第によっては―――」
物騒な顔で立ちあがった趙将軍だったが、
「それが―――おりませぬ」
「何?」
「おらんのです。陳俊の役宅はおろか、衛尉兵の駐屯地からも、配下の兵が消えておりまして」
「―――まことか」
将軍はぎりりと奥歯を噛んだ。
「読めたわ。奴は口先ばかりで諸国を渡る詐欺師の類、言葉巧みに太守どのに取り入って旨々と利を得たが、頃合いとみて時ならぬ雨に乗じ、姿をくらましおったのよ」
さして根拠のない推論だったが、結果的には当たっていなくもない。
「そういえば、思いあたることがございます」
と配下のひとりが、酒場での顛末を報告した。
「まさに小山のような大男でございまして、武芸はともかく腕の力じゃあ、とてもかなうものではございません。あ、もちろん将軍は別ですが―――」
ここでひとつ咳払いをして、
「とにかく、だらしなく酔って油断したところを、懲らしめてやったのでございますですが、思えばあれほどの巨躯、この敦煌の人間とも思えませんし、ただの行商にも見えませんでした。もしかしたら、奴らの一味ではありませんでしょうか」
ところどころ都合よく誤魔化しているが、もちろん弓林のことだ。
ほとんど毛が逆立ちそうな張将軍は、鬼の形相でこれを聞いていたが、やがて得心がいったとみえて、
「これで繋がった。まさしく、奴めらの一味に違いあるまい」
趙将軍は瞳をぎょろつかせ、
「奴めら、もはや城内にはおるまい。脱獄した男、露天をしておった女、我が邸から逃げおった男―――」
ここで将軍も咳をひとついれて、
「さらに今、報告のあった大男、そして陳俊。こいつらは皆、一つ穴の狐であろう。今ごろは城外を逃げているだろうが、そうはさせん。早馬を八方に散らし、探索にあたらせよ。お見つかり次第、わしも追う」
途中から少しずつ間違って、結論はかなりずれているが、こういう迷いのなさも武人の美徳ではあった。
「―――長矛の準備をしておけい」
おお―――と、どよめきが起こった。
これこそ敦煌きっての武人がここぞの時に携える、とっておきの得物である。
大事な一戦にはこの長矛を傍らに、しばし瞑想にふけってから戦場に臨む将軍だった。
気に食わない男だが、陳俊はそれなりに腕は立つとみている。
これも理由はなく、ただ武人としての勘に従い、
(配下のものでは討ち取れまい)
そう踏んでいた。
だが―――。
「将軍!一味の女が、出頭して参りました!」
飛び込んできた配下の兵が、入ったばかりの瞑想を破ってしまったのだった。